第二話 分捕り
応永二十六年(一四一九)十月 周防国 大島の東・鵜の子の入江
夜が明けると、船団は動き出した。
八艘のうち、五艘が沖から入江の口を塞ぐように進み、残る三艘が浜へ直に向かう。手筈は、前の晩のうちに決められていた。わたしはその手筈のどこにも入っていない。船倉で荷を数える他に、この日のわたしにできることは何もなかった。
甲板に出ると、朝の光の中で、手下たちが黙々と支度をしていた。刃を確かめる者、矢を束ねる者、革の胴当てを締める者。誰も口を利かない。昨日までの、故郷を懐かしむ顔は、もうどこにもなかった。あるのは、ただ道具を確かめる手つきだけだった。
松吉が、わたしの前を通りかかった。
「船倉から出ないでくださいよ。今日ばかりは」
それだけ言って、また持ち場に戻っていった。心配なのか、邪魔にされたくないだけなのか、その声の底までは読み取れなかった。
弥九郎が、船縁に立って浜を見ていた。背筋は真っ直ぐで、昨日までの疲れは、微塵も見えなかった。
「頭。まだ、話す間はございますか」
わたしが訊くと、弥九郎は振り向きもせずに答えた。
「話すことは、もう昨日で終わった。あとは、あちらが退くか、退かぬかだけだ」
その声に、迷いはなかった。だが、迷いがないことと、平気でいることは、同じではない気がした。わたしにはまだ、その違いを言葉にする術がない。
朝の風が、潮の匂いに混じって、どこか焦げたような匂いを運んできた。浜の側で、既に何かを燃やしているのかもしれない。わたしは、その匂いを吸い込みながら、船縁の木の手すりを強く握った。木目が手のひらに食い込む感触が、やけにはっきりと感じられた。
昨夜、眠れないまま何度も考えた。彦次を退かせる、もっと別の道があったのではないか。だが、考えるたびに、答えは同じところへ戻ってきた。他に当てのない男に、退けと言っても退かない。それが分かっていながら、他に打つ手を思いつけなかった自分に、苛立ちに似たものが残った。数の上では正しい策のはずが、なぜかそう思い切れない。その落ち着かなさの理由を、わたしはまだ言葉にできずにいた。
弓を担いだ若い水手が、わたしの横を足早に通り過ぎていった。頬がこわばっていた。声をかけようとして、やめた。かける言葉を、わたしは一つも持っていなかった。
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船が近づくと、浜の側にも動きが見えた。人影が慌ただしく走り、木の柵の陰に隠れる者、槍を手に浜へ出てくる者。彦次の陣も、夜のうちに支度を整えていたのだろう。柵の向こうに、弓を構える者の姿もあった。
「退け」
弥九郎の声が、遠くまで届くように張られた。
「湊は返してもらう。手下を退かせれば、命までは取らぬ」
返答はなかった。代わりに、浜の一角から、矢が一本放たれた。狙いは大きく外れて、海に落ちた。しぶきが上がる小さな音が、やけに大きく聞こえた。だが、その一本が、すべてを決めた。
弥九郎が、片手を挙げた。それだけの合図で、船団の動きが変わった。
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決裂した。
わたしは、船縁に伏せるようにして、その光景を見ていた。目をそらせば負ける。これまで、ずっとそう思ってきた。だから今度も、目をそらさなかった。
小舟が次々に浜へ寄せられ、手下たちが飛び降りていく。剣戟の音が、思っていたよりも早く始まった。金属の触れ合う甲高い音、怒号、悲鳴、木の柵が倒れる音。土埃と、血の匂いが混じった風が、船の上まで届いた。喉の奥に、鉄の味に似た苦みが残った。
こちらの手下も、無傷では済まなかった。矢を受けてよろめく者、柵の陰から突き出された槍に薙がれて倒れる者。数で勝っていても、追い詰められた側の抵抗は、思っていたより鋭かった。倒れた誰かを、二人がかりで小舟まで運んでいく姿が、遠目にも見えた。
柵の向こうで、大きな声で味方に指図している男がいた。彦次だろう。弩を構えた水手の一人が、それを見て狙いを定めた。
短い唸りのあと、男の体が、大きく傾いだ。倒れはしなかった。だが、肩のあたりを押さえてよろめき、その場に膝をついた。
指図の声が、ふっと途切れた。周りにいた男たちが、慌てて彼を庇うように群がる。その一角だけ、攻めの手が緩んだ。
だが、崩れたのは、そこだけだった。他の場所では、なおも激しい斬り合いが続いていた。あの男一人が、この陣のすべてを動かしていたわけではない。それでも、指図する声が一つ消えたことで、浜のあちこちで、束ねる手を失った小さな乱れが重なりはじめた。
抵抗する者が、斬られていく。慈悲を求める声に、誰も応じない。老いた男が、両手を挙げて何か叫んでいたが、その声はすぐに途切れた。女の悲鳴が、遠くから聞こえた。それがどうなったのか、わたしの位置からは見えなかった。見えなかったことに、安堵している自分がいた。その安堵の形を、うまく捉えられなかった。
数えろ、と自分に言い聞かせた。
屋の数。まだ燃えていない小屋が、いくつ残っているか。俵の数。積まれた米俵のうち、いくつが無事に残るか。船の数。浜に引き上げられたままの船が、いくつ奪えるか。そして、人の数。斬られていく者の数を、わたしは数えていた。数えることでしか、その光景を見続けられなかった。指の先で、見えない算木を弾くように、数だけを追いかけた。
弥九郎は、浜の中ほどに立って、大きな声で命じていた。
「降った者は殺すな! 縄を打って、こっちへ寄せろ!」
その声を聞いて、わたしは奇妙な安堵を覚えた。だが、すぐにその安堵の裏側に気づいた。降った者を殺さないのは、慈悲からではない。手下は資本だ。殺せば、こちらの取り分が減るだけだ。損得で決まっている命令が、なぜかこの場では、誰よりも恐ろしく響いた。慈悲でないものが、慈悲と同じ形をして、目の前で人の命を救っている。その食い違いを、どう飲み込めばいいのか、わたしには分からなかった。
戦いは、それほど長くはかからなかった。数で押し切られた浜の側は、半刻もしないうちに崩れた。武具を投げ出す者、逃げようとして捕らえられる者、地に伏して動かなくなった者。潮騒の合間に、まだ呻き声がいくつも混じっていた。
船の上から見ているだけのわたしにも、風向きが変わったことは分かった。怒号の質が変わる。攻める側の声から、追い立てる側の声に変わる。それだけで、勝敗の行方が読めた。数を数えることに慣れた耳は、剣戟の響きの中からでも、そうした変化を拾い上げてしまう。
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わたしが浜に降りたのは、戦いが収まってからだった。
土は血を吸って黒ずんでいた。焼け残った小屋の柱から、まだ煙が上がっている。木と、藁と、何か別のものが焦げる匂いが、鼻の奥にこびりついた。縄を打たれた者たちが、地面に並んで座らされていた。その数を、わたしはすぐに数えはじめた。それしか、できることがなかった。
一人の女が、地面に膝をついて、動かなくなった男の体に取りすがっていた。わたしがそばを通ると、女は顔を上げて、こちらを見た。何かを言おうとして、言葉にならなかったのか、ただ手を伸ばしてきた。わたしの裾を、震える指がかすめた。
わたしは、その場に立ち尽くした。何をすればいいのか、分からなかった。銭を渡せばいいのか。何か言葉をかければいいのか。どれも違う気がして、結局、何もできなかった。女は、それ以上何も言わず、また男の体に顔を伏せた。肩が小さく震えているのが見えた。
あとになって、あの女がなぜ自分に縋ったのだろうと考えた。女子だから、話が通じると思ったのだろうか。それとも、他に縋る先がなかっただけなのだろうか。答えは出なかった。出ないまま、わたしはその問いを、脇へ置いた。置くしかなかった。
松吉が、縄を打たれた者たちの数を数えていた。わたしがそばへ寄ると、松吉は帳面を持たないまま、指を折って数を確かめていた。
「三十と、四人。あとは、逃げたか死んだか」
「船は」
「浜にあるだけで、六艘。使えそうなのは、そのうち四艘といったところで」
「こちらは」
わたしは、訊かずにいられなかった。
松吉の表情が、初めて曇った。
「死んだのが、三人。手傷を負うたのが、十一人。……六郎太が、深手を負いました。膝から下を、やられて」
みぞおちの奥が、重くなった。数では大きく勝っていたはずの戦だった。それでも、三人は帰らず、十一人が傷を負った。楽に獲れる湊など、どこにもないということを、わたしはその数字で思い知らされた。
わたしは、その数を胸のうちで書き留めた。松吉の見立ては、いつも大きく外れない。この男の勘定は、帳面がなくても頼りになる。
「島門でも、こういう朝がありました」
松吉が、ふとそう言った。わたしは驚いて顔を上げた。この男が、こちらの生まれを口にしたのは初めてだった。
「……見ておられたのですか」
「見てはおりません。噂で聞いただけです。焼け跡から荷として運ばれた娘の話は、あの頃、湊でずいぶん囁かれておりましたから」
それだけ言うと、松吉は目を伏せて、また数を数えはじめた。それ以上、何も訊いてはこなかった。わたしも、それ以上は語らなかった。焼け跡の記憶を、いま、この浜の光景と重ねる余裕は、まだなかった。
湊で囁かれていた噂が、どんな形をしていたのか。荷として運ばれた娘、というだけの一行に、どれほどの尾ひれがついていたのか。それを想像すると、腹の底が少し冷えた。だが、いまはその冷えを確かめている暇もなかった。噂の中のわたしと、いまここに立っているわたしは、もう別の生きもののように遠かった。
弥九郎が、こちらへ歩いてきた。刃には、まだ乾ききらない赤いものがこびりついていた。それを見ても、わたしは目をそらさなかった。そらせば、負ける気がした。
「怖じ気づいたか」
弥九郎が言った。詰問ではなく、ただ確かめる声だった。
「……いいえ」
答えてから、それが半分は嘘だと自分でも分かった。だが、残りの半分は、確かに本当だった。怯えてはいる。だが、怖じ気づいて逃げ出したい、というのとは違う。この光景を、目に焼きつけておかねばならないという思いのほうが、いまは勝っていた。
弥九郎は、それ以上何も言わず、また指図に戻っていった。その背中を見送りながら、わたしは、あの一言の裏に、何があったのだろうと考えた。心配していたのか、それとも、荷が使い物になるかを確かめただけなのか。読み切れないまま、わたしはまた帳の数字に目を戻した。
小屋の間を歩きながら、わたしは頭の中で帳を組んでいた。米俵、干し魚、船の数、使える網。奪ったものと、これから修繕せねばならないもの。数字にすれば、この光景も、ただの勘定に収まる。収めなければ、立っていられなかった。
弥九郎が、縄を打たれた者たちの前を歩いていくのが見えた。一人ひとりの顔を検めるようにして、何かを松吉に指図している。その背中に、疲れの色は見えなかった。ただ、いつもより口数が少ないことにだけ、わたしは気づいた。
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その夜、船に戻ってから、わたしは一人になった。
灯りを消した船倉で、膝を抱えて座り込んだ。昼間、あれほど平静に数を数えていたのに、いま、手が震えている。震えを止めようと拳を握ったが、震えはかえって強くなった。喉の奥がひどく渇いて、水を飲んでも渇きは取れなかった。
胃の底からせり上がってくるものを、我慢しきれずに吐いた。吐いたあとも、しばらく体の震えは止まらなかった。額に浮いた汗が、冷たく肌に張りついた。
耳の奥に、まだ剣戟の音が残っていた。金属が触れ合う甲高い響き、地に伏す重い音、途切れる声。目を閉じても、消えてくれなかった。強く閉じれば閉じるほど、はっきりと蘇ってくるような気さえした。
わたしは、自分の両手を見た。血はついていない。誰も斬らなかった。人一人にも触れていない。それなのに、手のひらは、まだ小刻みに震え続けていた。触れていないから、これは自分のものではない痛みのはずだった。だが、震えは、そんな理屈にはお構いなしだった。
——彦次にも、冬を越す理があった。
その理を、わたしは今日、断ち切った側に立っていた。断ち切られた側の理は、もう誰にも語られない。数にも入らない。ただ、地面に血として染み込んだだけだ。
わたしは膝を抱えたまま、長いあいだ、闇の中で震えていた。誰も見ていない場所でしか、この震えを見せられなかった。公の場では、この震えを見せてはならないと、頭のどこかが冷たく告げていた。
やがて、震えが少しずつ収まってきた。落ち着いてくると、頭の芯が、また勝手に動きはじめた。彦次は、得で動く男だと踏んだ。だのに、退かなかった。あの見立ては、外れたのだ。
——では、あれは、戦の好きな側だったのか。
そう考えて、自分の中で、その問いに片をつけた。得で動く者と、戦を好む者。二つに分ければ、今日の彦次は後者だったということになる。そう結論して、わたしはそれ以上、深くは考えなかった。
だが、その結論は、たぶん間違っていた。数で劣っていても、彦次には彦次の冬があった。得で動く者どうしでも、得と得がぶつかれば、戦いにしかならないことがある。わたしはまだ、そのことに気づいていなかった。気づかないまま、この物差しを、これから先も使い続けることになる。
翌朝、目が覚めると、わたしはもう帳面を広げていた。昨夜の震えが嘘だったかのように、指はしっかりと筆を握っていた。取り返した湊の値打ちを、数え直す。屋の数、船の数、俵の数。
四年で取られたということは、また取られるということでもある。次に取られないための算段を、いまから立てておかねばならない。そう考えながら、わたしは筆を動かし続けた。昨夜の震えのことは、一行も書かなかった。
浜のほうから、朝の作業の音が聞こえてくる。焼け残った小屋を片づける音、荷を運ぶ声。昨日まで彦次のものだった湊が、今日にはもう、弥九郎の湊として動きはじめていた。その速さに、わたしは少しだけ、寒気に似たものを覚えた。
弥九郎が、船倉の入り口から顔を覗かせた。
「今日から、ここが根城だ。腹を据えてかかれ」
それだけ言って、また出ていった。わたしは、その背に向かって「はい」とだけ答えた。声が、思いのほか掠れていた。喉の奥に、まだ昨夜の渇きが少し残っていた。
帳面の余白に、小さく彦次という名を書きつけた。二度と口にすることのない名かもしれない。それでも、書いておかねば、この一日がなかったことになる気がした。筆先が、わずかに震えたまま止まらなかった。書き終えると、その紙を静かに閉じた。
四年前、荷として運ばれたときも、こうして一人で震える夜があった。あのときは、恐ろしさの正体が分からなかった。いまは、その正体の輪郭だけは、うっすらと分かる気がする。だが、正体が分かったところで、震えが軽くなるわけではなかった。むしろ、分かってしまった分だけ、重くなるものもある。分かることは、必ずしも救いにはならない。
窓のない船倉の暗闇の中で、わたしは長いあいだ、そのことを考えていた。潮の音だけが、変わらずに聞こえていた。




