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潮を編む――滅んだ小領主の娘、唐土に売られ、海賊の妻となる  作者: ハタ星人


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三部 一話 鵜の子

応永二十六年(一四一九)十月 筑前沖から周防国・鵜の子の入江へ


潮の匂いが変わった。


壱岐と対馬のあいだを抜け、いつのまにか玄界灘に入っていたらしい。明の海は濁って重い。泥と、大きな川の水が混じった匂いがした。ここの潮は違う。透き通っていて、どこか冷たい。鼻の奥に、松と潮の混じった、覚えのある匂いが立つ。


わたしは船縁に手をかけて、その匂いを吸い込んだ。


四年前、この匂いを最後に嗅いだときは、荷のあいだに座り込んでいた。縄で縛られてはいなかったが、縛られているのと変わらなかった。行き先も、値も、何一つ自分では決められなかった。揺れの間隔を数えながら、恐ろしさに飲まれないようにするのが、そのときのわたしにできる、ただ一つのことだった。



いまは違う。八艘の船団の、荷の中身をすべて、わたしが割り振った。誰をどの船に乗せ、水をどれだけ積み、何を先に降ろすか、それを決めたのは、わたしだ。船倉に積んだ薬種と磁器の目録も、わたしの手で書いた。数えれば、四年前には一つもなかったことが、いくつも数えられる。


思ってから、すぐに思い直す。決めたのはわたしでも、この船団を動かしているのは弥九郎だ。行く先を選んだのも、この人だ。わたしは、割り振る側に上がっただけで、乗る船を選ぶ側には、まだいない。


甲板では、誰もが裸足で立ち働く。濡れた板の上で滑らぬための、船乗りの習いだった。朝露で湿った板は冷たく、裸足で立つと、足の裏から冷えが這い上がってくる。その冷たさに、四年前の甲板の記憶が重なった。あのときも、こうして裸足だった。違うのは、いまは誰にも咎められずに、この場に立っていられることだ。


---


その日の昼過ぎ、船団は博多の沖、志賀島の陰に錨を下ろした。


「水と、干し飯を足す。半日で済ませる」


弥九郎が、そう言って、小舟を三艘出させた。湊の内には入らない。志賀島の裏手から小舟だけを回し、顔の利く商人から水と米を買い付けるのだという。船体ごと博多の湊へ寄せれば、大内の目に留まる。それを避けての遠回りだった。



わたしは、船縁から、遠く霞む博多の湊を見ていた。


四年前、唐房と呼ばれる一帯に、確かにいた。陳文興に手を検められ、荷として船に積まれたのも、あの一帯のどこかだったはずだ。だが、いまは沖から眺めるだけで、正確にどのあたりだったかは、判じきれない。それでも、この潮の匂いだけは、あのときと同じだった。胸の奥が、小さく疼いた。



「あそこから、東へ半日も歩けば、遠賀の郡に出る」


弥九郎が、隣に立って、そう言った。


わたしは、その横顔を見た。


「……存じております」


「寄っていくか」


さりげない声だった。さりげなさすぎて、かえって拵えたものだと分かった。


わたしは、少しのあいだ黙った。黙って、この問いの形を検めた。


寄るか、とだけ訊く。それだけの言葉に見えて、答え方一つで、こちらの何かが検められる。焼け跡に未練があるか。宗家や、盛久叔父への恨みを、まだ腹に据えているか。それとも、既に何もかも捨てて、この船に乗っているのか。この人は、いつもこうして、遠回しに検める。


「寄りませぬ」


わたしは、はっきりとそう答えた。


「見たところで、何も戻りませぬ。焼け跡は、焼け跡のままにござります。半日を使うなら、水の一杯でも余分に汲んだほうが、よほど得にござります」


弥九郎は、しばらくわたしを見ていた。それから、短く「そうか」とだけ言って、目を沖へ戻した。


それ以上、何も訊かれなかった。


わたしは、その素っ気なさを、試しが済んだ証だと受け取った。この人は、無駄なことを二度は訊かない。答えが得心のいくものであれば、それで話は終わる。そう思い、わたしは自分の見立てに、静かに頷いた。


だが、弥九郎の目が、沖を見ながら、ほんの一瞬だけ揺れたことに、わたしは気づかなかった。試したのではなく、ただ、行きたいなら連れていってやろうと思っただけだったのかもしれない。その目算を、わたしは思いつきすらしなかった。


小舟が、水と米の俵を積んで戻ってきた。船団は、日が傾く前に、錨を上げた。


---


博多を離れ、響灘を抜けるとき、遠くに白い帆が一つ見えた。波を三つ重ねた印。目を凝らさなくても分かる。白水衆の船だ。


手が届く距離ではない。向こうもこちらに用はないらしく、針路を変えることもなく、水平線の際を横切っていった。


わたしは何も言わなかった。言う理由がない。あの帆印を見て動く感情の名を、わたし自身、まだ持っていない。胸の奥が、ほんの少し重くなる。それだけだった。重さの正体を確かめるには、まだ早い気がした。


---


関門を抜けると、海の色がまた変わった。


狭い水道を、潮が唸りを上げて流れていく。両岸の陸が近く迫って、山の緑がはっきり見える。船が水道を抜けきると、ふいに視界が開けて、周防灘の広い海が広がった。


「瀬戸内だ」


誰かが呟くのが聞こえた。声に、安堵とも緊張とも取れる響きがあった。



甲板では、古参の水手たちが、めいめい違う顔をしていた。ある者は懐かしそうに岸を見ている。ある者は、寡黙なまま帆縄を締め直している。四年、あるいはもっと長く離れていた海だ。彼らにとってここは、ただの通り道ではない。


一人の水手が、帆柱に凭れて、じっと東の空を見ていた。歳のいった男で、頬が削げている。その目に、光るものがあった気がして、わたしは一度だけ振り返った。


わたしは、その違いを、疲れの度合いの差だとしか読まなかった。長旅の果て、気の抜ける者と、気を張ったままの者がいる。それだけのことだと思い、帳面へ目を戻した。数えるべきものは、まだいくつも残っている。水の残量、干し飯の目減り具合、修繕を要する帆布の枚数。


あとになって分かることだが、それは間違っていた。彼らが見ていたのは、故郷の海だった。生きて帰れるとは思っていなかった場所に、いま実際に帰ってきているのだという実感が、あの光るものの正体だったのだろう。わたしには、まだこの海が故郷ではない。だから、その重みが、そのときのわたしには量れなかった。



弥九郎が、舳先近くに立って、東の空を見ていた。


「大島の向こうだ。あと半日で、鵜の子に着く」


低い声だった。船団の頭領としての声。手下たちの前では、いつもこの声で喋る。


「鵜の子、というのが、あなたの根城でございますか」


「俺の生まれた入江だ。四年、留守にした」


それだけ言うと、また海を見た。長く留守にした土地への感情を、この人は言葉にしない。言葉にしないことが、この人の言葉だ。


わたしは、その横顔を見ながら、四年ぶんの留守を、どんな顔で迎えるつもりなのだろうと考えた。だが、訊いたところで、答えは返らないだろう。この人は、訊かれて答える種類の重みと、訊かれても答えない種類の重みを、はっきり分けている。


陣屋で暮らすようになってからも、この人の噂は、幾度か耳にした。損得でしか動かぬ男だと、誰もが言う。情では動かぬ、理でしか動かぬ男だと。噂の中の弥九郎は、いつも数の話をする男として語られていた。だが、こうして間近で見ていると、噂には書かれていなかったものが、ときおり顔を出す。留守にした土地を前にした、この一瞬の沈黙のようなものが。噂は、人の全部を書ききれない。数えることを生業にしてきたわたしが、誰よりもそれを知っている。



その日は一日、静かに過ぎた。手下たちは、めいめいの持ち場で、いつもどおりに立ち働いていた。だが、笑い声は少なかった。近づく土地の分だけ、口数が減っていくようだった。


夜になって、わたしは船倉で帳面を広げた。積んできた荷の目録を、もう一度、端から数え直す。数えることには、いつも心が落ち着く効用がある。数の外側にあるものを、しばらく考えずに済むからだ。


灯りを吹き消す前に、甲板から低い声が聞こえた。誰かが、故郷の歌の一節を口ずさんでいた。すぐに止んだ。誰かに咎められたわけでもないのに、途中でやめる声だった。


---


鵜の子の入江が見えてきたのは、翌朝だった。


湾の形は、弥九郎が語ったとおりだった。両側から山が張り出して、内海のように穏やかな水面ができている。船を隠すにも、風を避けるにも良い形をしている。冬の北風を山が防ぎ、夏は東からの風だけを受け流す。地形を見ただけで、それくらいのことは読み取れた。ただ、山はどこも水際近くまで迫っていて、なだらかな裾野というものが、ほとんど見当たらなかった。田を拓けるほどの平地は、浜のわずかな幅を除けば、目に入らない。


だが、様子がおかしかった。



浜に、見慣れぬ船が何艘も引き上げられている。小屋の数が、思っていたより多い。煙が幾筋も立っている。人の姿が、思っていたより多い。子供の声らしいものまで、風に乗って微かに届いた。


弥九郎の顔つきが変わった。


「……居着いておるな」


古参の一人が、舷側から目を凝らして言った。


「頭。あれは、この辺りの衆じゃありません。見たことのない帆印です」


わたしは船縁から、遠目にその陣容を数えた。小屋の数、船の数、立ち上る煙の筋。おおよその人数が読める。百は下らないが、百五十には届くまい。こちらの半分ほどの数だ。女子供の姿もあることから、根を張るつもりで居着いているのだと分かった。一夜の宿を借りているだけの様子ではない。



「四年、留守にした間に、縄張りが動いておりましたか」


わたしが言うと、弥九郎は短く舌を打った。


「あり得る話だ。この年の初め、対馬と玄界灘が荒れたと聞いた」


応永の外寇。今年の六月、朝鮮の軍船が対馬を襲ったという話は、泉州にいたときにも風の噂で聞いた。あのとき、玄界灘一帯の海の衆が大きく揺れたという。押し出された者たちが、行き場を求めて瀬戸内へ流れ込んでいたとしても、おかしくはない。


「四年は、長うございました」


「長い、で済む話じゃねえ。二百と少しが、冬を越す場所を失ったかもしれん、という話だ」


弥九郎は、それきり黙って、しばらく浜を睨んでいた。その目は、恨みとも焦りとも違う色をしていた。あるとすれば、値踏みの色だ。この人は、腹の底の怒りすら、勘定の外には出さない。


わたしは、その横顔を見ながら、内心で数を組んでいた。こちらの兵は二百と少し、船八艘。向こうは、目に映る限りでは百五十に届くかどうか。数の上では、負けようのない戦だ。だが、勝った後にどれだけ残るかは、目算だけでは出ない数だ。


手下たちのあいだにも、ざわめきが広がっていた。四年ぶりに帰り着いた場所が、既に他人のものになっている。誰の顔にも、疲れと苛立ちが同時に浮かんでいた。中には、拳を握って何も言わずにいる者もいた。


わたしは、その拳を見て、これも数のうちに入れねばならないと思った。怒りは腹の足しにはならない。だが、怒った者は、無茶をする。無茶は、こちらの算段を狂わせる。手下の心の向きまで、勘定に含めておかねば、数はいつか外れる。


そう考えたところで、ふと、四年前の自分を思い出した。焼け跡に立って、何も持たずに、ただ数を数えることで、恐ろしさをやり過ごしていた娘。あのときのわたしには、失う場所も、守るべき者もなかった。いまここに立つ者たちには、ある。守るべき冬があり、帰る場所がある。その差が、この浜を挟んだ両側に、同じ重さで載っているのだと思うと、胸の底が、重く沈んだ。


---


弥九郎は、いきなり船を寄せさせなかった。


沖に錨を下ろし、小舟を一艘出させて、使いを送った。松吉ともう一人、若い水手が漕いでいく。


「話す、と仰るのですか」


わたしが訊くと、弥九郎は当然だという顔をした。


「いきなり斬り込んで、こっちの手下が何人死ぬと思ってる。まず、退け、と言ってやる。それで退くなら、それでいい」


損得で動く男だと、これまで幾度も見てきた。だが、いきなり刃を交えないという判断も、突き詰めれば同じ根から出ている。手下の命は、この人にとって唯一の資本だ。無駄に使わない。



小舟が浜に着くのを、わたしたちは船の上から見ていた。使いが上がっていき、しばらくして、向こうの一人と何か言葉を交わしているのが遠目に分かった。長くはかからなかった。松吉たちは、また小舟に乗って戻ってくる。


その間、船の上では誰も口を利かなかった。帆が風にはためく音と、舷側に当たる波の音だけが、やけに大きく聞こえた。手のひらに汗が滲むのを、わたしは初めて自覚した。潮風で乾いているはずなのに、拭っても拭っても、また滲んでくる。



戻ってきた松吉の顔は、渋かった。


「頭の名は彦次と申すそうです。……退かぬ、と」


弥九郎は、片方の眉だけを上げた。


「理由は言ったか」


「向こうにも、冬を越す理があると。ここを出れば、次の当てがないと」


弥九郎は、それきり黙り込んだ。


「向こうにも、冬を越す理がある、か」


低く、独り言のように繰り返す。


わたしは、その一言に、思いのほか長く引っかかった。


奪う側にも、理がある。頭では分かっていたつもりだった。誰だって、飯を食わねば死ぬ。だが、それを実際の言葉として、相手の口から、正確には松吉の口を通してだが、聞くのは初めてだった。彦次という男を、これまで一度も見たことがない。それでも、その男が抱えている冬の重さだけは、数字にせずとも、ありありと想像がついた。


——戦をする者には、二通りある。戦が好きな者と、戦をすれば得があると思っている者だ。


前の生で、どこかから拾ってきた考え方が、頭の中を過ぎった。


前者は動かせない。だが後者は、戦わぬほうが得だと分かれば、考えを変える。


彦次が退かぬのは、戦うことそのものが好きだからではないだろう。冬を越す当てがないから、退けないだけだ。ならば、話し方さえ間違えなければ、まだ動かせる余地があると思い、わたしは弥九郎の方を向いた。


「彦次という頭、得で動く男でございましょう。ここより他に当てがないと言うなら、他の当てを示してやれば、あるいは……」


言いかけたところで、弥九郎が首を振った。


「それも、松吉に言わせた。近くの入江を教えてやると。だが、聞かなかったそうだ」


わたしは黙った。


彦次の胸の内までは、松吉の伝聞ひとつでは分からない。得か、意地か、それとも別の何かか。今日のところは、それ以上の判じようがなかった。だが、腹の底では、まだ自分の見立てを疑っていなかった。得で動く男なら、いずれ折れる。そう思い込んでいた。



「よかろう」


弥九郎が、はじめて低い声を出した。手下たちの間に、ぴりりとした緊張が走るのが分かった。船板を踏む足音が、あちこちで慌ただしくなる。誰かが刃の目釘を確かめる音、誰かが革紐を締め直す音。松吉が、腰の物を一度抜いて、また鞘に納める。その仕草に、迷いはなかった。


「使いはもう出した。それで退かぬというなら、こっちの言い分は立つ。支度をさせろ」


わたしは、その声の低さに、これまで聞いたことのない色を聞き取った気がした。損得を語るときの、乾いた声とは違う。だが、それが何の色なのか、言葉にするだけの間は、まだなかった。


甲板の隅で、若い水手が二人、見慣れない道具に紐を掛けていた。木の台に弦を張った、弓とは違う形の武具。明で図面を引き、船大工に作らせた弩だった。まだ五挺しかない。船倉に積んだきり、実戦で使ったことは一度もなかった。今日が、初めての試しになる。


甲板の空気が、静かに張り詰めていく。誰も彼もが、口数少なく動いていた。



弥九郎は、もう一度、遠く煙の立つ浜へ目を向けた。


「二百と少しが、冬を越さねばならん」


それだけ呟いて、踵を返した。


わたしは、その背を見ながら、帳面に数字を書きつけた。二百と少し。船八艘。彦次の側のおおよその人数。書きながら、指先が冷えているのに気づいた。潮風のせいだと、そのときは思った。


日が傾きはじめていた。浜の煙は、まだ何本も立ち昇っている。あの煙の下に、女や子供もいる。数えた数字の中に、まだ名も知らぬ誰かが、確かに含まれていた。


その事実を、わたしは書き留めなかった。数えるべきものの列に、まだ名も知らぬ誰かの命を並べる術を、わたしは持っていなかった。


風が少し強くなった。船が、わずかに軋んだ。誰かが小さく咳をした。その音の他には、何も聞こえなかった。


夜が来れば、明日には決着がつく。二百と少しの冬か、あの浜の煙の下にいる誰かの冬か。どちらも失われずに済む道を、わたしはまだ見つけられずにいた。数を組めば組むほど、そのことだけがはっきりしてくる。



弥九郎の背が、船倉の入り口に消えていくのを、わたしは最後まで見ていた。低く落とした声の色を、もう一度、頭の中でなぞってみる。損得だけでは説けない何かが、あの声には混じっていた気がした。だが、それを言葉にする術を、わたしはまだ持っていなかった。


帳面を閉じた。指先の冷えは、いつまでも取れなかった。

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