幕間 荒瀬弥九郎 飯
応永二十六年(一四一九)秋 東シナ海 洋上
二百と十七人だ。
八艘に割って、一艘あたり二十七、八になる。日に二度、飯を食わせる。米が尽きれば雑穀を混ぜる。それも尽きれば粥にして薄める。
そう考えて、俺は毎日、頭の中で口の数を数えておる。
数えるのは得手ではない。字も読めん。
それでも、口の数だけは、いつも数えておる。
数え違えると、誰かが食えん。
---
俺が十四のとき、飢饉があった。
親が死んだ。父も、母も、同じ月に死んだ。
残されたのは、俺と、弟が一人だ。
弟は六つだった。
あの年のことを、女には話した。二年前だ。甚助が死んだ夜のあと、俺は、なぜかあの晩、しばらく黙って座っておって、それから話しはじめた。
親が死んだこと。弟を食わせるために盗みを働いたこと。それでも足りなんだこと。
「弟殿は」
女がそう訊いた。
「死んだ。俺の目の前で」
そこまで話した。
その先は、話さなんだ。
---
その先は、誰にも言うておらん。
一人で船縁に座っておると、こういうことを考える。
弟が死んだ日、俺は、干した魚を一切れ持っておった。
盗んだものだ。三日ぶりに手に入れた。
弟に半分やって、残りを懐に入れた。
明日のぶんだと思った。今日全部食えば、明日また盗みに行かねばならん。盗みは、行くたびに危うい。前の月に、盗んで捕まった男が、湊で殴り殺されておるのを見た。
だから、残した。
弟は、その夜に死んだ。
半分では、足りなんだ。
残した半分は、翌朝、まだ懐にあった。
俺は、それを食った。
泣きながら食ったか、黙って食ったかは、覚えておらん。ただ、食ったことだけは覚えておる。腹が減っておったからだ。
弟が死んだ翌朝に、俺は、弟の食えなんだ半分を食った。
そのことを、誰にも言うたことがない。
古い連中も知らん。甚助も知らなんだ。
---
だから、俺は、飯の話しかせん。
手下が付いてくるのは、俺が強いからではない。頭が回るからでもない。
飯を食わせるからだ。
食わせられなんだら、誰も付いてこん。それでよい。それが正しい。
情で付いてこられても困る。情は、飢えたら消える。腹は、情では膨れん。
俺は、それを十四で覚えた。
覚えたが、時々、順番が分からんようになる。
飯を食わせるために頭に立ったのか。頭に立ったから飯を食わせておるのか。
どちらでもよいことだ。
どちらでもよいのだが、夜になると、たまに考える。
---
女のことを言う。
初めて見たのは、陳の家の庭先だ。荷を運ばせておったら、日本の言葉で小娘が話しかけてきた。
船足が落ちておる、と言うた。
積み方が悪い、とも言うた。
俺は、それで、俺に何の得があると訊いた。
いつも訊くことだ。誰にでも訊く。たいていの者は、そこで言葉に詰まる。詰まらん者は、嘘をつく。
あの女は、どちらでもなかった。
半日くれと言うた。証を見せると言うた。
見せた。
そこまでは、まあ、驚くほどのことではない。目端の利く者は、どこにでもおる。
驚いたのは、そのあとだ。
荷役どもに指図するとき、あの女は、声が震えておらなんだ。
十五かそこらの、しかも荷の身分だ。日本の言葉も、こちらの言葉も、どちらも半端にしか通じん。それで、二十からいる男どもに、荷を積み替えろと言うておる。
震えるのが当たり前だ。
震えておらなんだ。
——ああ、これは、震えん術を覚えた者だ。
そう思うた。
震えんのではない。震えを出さん術を、どこかで覚えたのだ。
そういう者を、俺は幾人か知っておる。たいてい、一度ひどい目に遭うておる。
---
甚助が死んだ夜のことを言う。
段取りは、あの女が組んだ。四半刻で退く、間に合わぬ者は置いていく。
正しい段取りだ。
俺が承知した。俺の口から、皆に伝えた。
そのあと、松吉が挟まった。二人が残った。俺は、潮を承知で船を出した。
あとで、あの女は、段取りが至らなんだと詫びた。
段取りは正しかった、と俺は言うた。
それも本当だ。
言わなんだのは、こうだ。
——俺は、あの段取りが守られんことを、初めから承知しておった。
うちの連中は、置いていかん。二十年、一度も置いていったことがない。
置いていかんから、時々、余計に死ぬ。
それを分かった上で、俺は、あの段取りを承知した。
承知したのは、あの女に、一度その形をやらせてみたかったからだ。
正しい段取りが、正しいまま通らんことを、あれは知らんかった。知らんままでは、この先、使いものにならん。
だから、やらせた。
甚助が死ぬとまでは、思うておらなんだ。
それだけは、本当だ。
だが、誰かが余計に危うい目に遭うことは、初めから見えておった。
見えておって、やらせた。
あの女は、自分の落ち度だと思うておる。
そう思うておればよい。
俺が「お前の落ち度ではない」と言うたのは、慰めだ。慰めであって、真ではない。
真は、俺の落ち度だ。
---
なぜあの晩、弟の話をしたのか。
いまだに、よう分からん。
二十年、誰にも話さなんだことだ。古い連中は飢饉のことは知っておるが、弟のことは知らん。
あの女に話したのは、たぶん、あれが訊いたからだ。
「弥九郎殿御自身は、誰かに、その重さを、預けとうはならぬのでござりますか」
そう訊いてきた。
そんなことを訊いた者は、二十年で初めてだった。
手下は訊かん。訊く筋合いがない。頭が重さを負うのは当たり前で、当たり前のことを訊く者はおらん。
あの女は、訊いた。
訊いて、こちらの答えを待っておった。
待たれると、喋ってしまうものらしい。
そのことを、俺はあの晩、初めて知った。
預けられる相手がおらなんだ、と答えた。
答えてから、しばらく、妙な心持ちだった。
軽うなったのではない。
見られた、という心持ちだ。
---
陳の家が潰れたと聞いたのは、競りの三日前だ。
抜け荷の筋から報せが来た。荷も人も、役所が競りに掛けると。
俺は、その日のうちに船を出した。
泉州まで、風が悪くて二日半かかった。着いたのが競りの朝だ。
——間に合うた。
そう思うたのを覚えておる。
競りの場で、あの女に「陳の家が潰れたと聞いて、来てみれば」と言うた。
通りすがりのような言い方をした。
そのほうが、値の話がしやすい。欲しいと思うておる者が買いに来たと知れれば、値が上がる。
商いの理屈だ。
嘘ではない。嘘ではないが、二日半、風の悪い海を走ってきたことは、言わなんだ。
言う必要がない。
言う必要が、なかった。
そういうことにしておる。
---
三つの策を持ってきた夜のことを言う。
一つ目は、既に出た銭は取り戻せておるという話だった。数を並べられた。合うておった。
二つ目は、この先の話だった。公の船がいずれ戻る、そのとき賊は狩られる、だから十年かけて狩る側に回れ、と。
その話をされたとき、俺は立ち上がった。小屋の中を二度往復した。
落ち着かなんだからだ。
二十年、俺は、その先のことを考えたことがなかった。
考えても仕方がない。明日の飯と、来月の稼ぎと、それだけで手一杯だ。十年先など、生きておるかも分からん。
その十年先を、あの女は、当たり前のように喋った。
——この女は、俺が見ておらん場所を見ておる。
そう思うた。
面白いとも思うたし、薄気味悪いとも思うた。
なぜそんなことが分かるのか、とは訊かなんだ。
訊いても、答えられんだろうと思うた。あの女は、時々、そういう顔をする。答えを持っておるのに、なぜ持っておるかは言えん、という顔だ。
そういう顔をする者に、根を訊くのは野暮だ。
野暮だし——訊いて、答えられんと分かってしまうのが、こちらも面倒だった。
---
三つ目は、己を娶れという話だった。
情はないのか、と訊いた。
ござりませぬ、と答えた。
即答だ。
そのあと、こう言うた。
「情のある女子は、あなた様を慰めまする。されど、わたくしは、あなた様を儲けさせまする」
そう言うて、笑った。
あの笑い方は、初めて見た。娘の笑い方ではなかった。
こちらは、喉が鳴った。
年上の男が、十八の女に喉を鳴らされたのだから、情けない話だ。
情けないが、そういうものだろう。
---
一つ、訊いた。
「お前は、それでいいのか」
よろしゅうござります、と答えた。荷でおるよりは、はるかに、と。
そこで、俺は、もう一つ何か言おうとした。
言おうとして、やめた。
何を言おうとしたのかは、いまも分からん。
分からんまま、口が開いて、閉じた。
たまにある。二十年に一度か二度、そういうことがある。分からんまま閉じた口の中に、何か入っておったのだろうと、あとで思う。
思うが、開けてみたところで、もう何もない。
だから、考えんことにしておる。
---
船が揺れておる。
夜だ。東北東へ走っておる。
明日か明後日には、五島のあたりが見えるだろう。そこから瀬戸内までは、まだ幾日かかかる。
あの女は、艫のほうで寝ておる。昼のうちに、八艘ぶんの荷の割り振りを、また書き直しておった。
紙を見せられたが、俺には読めん。
字は読めん。数の並びだけは追える。並びを見れば、揃うておるかどうかは分かる。揃うておった。
読めんものを渡されて、揃うておると分かる。
妙な話だ。
俺は、あの紙を信じておる。
信じる以外に、やりようがない。読めんのだから。
---
行き先の島も、まだ定まっておらん。前の根城を検めてから、その先は追い追い決める、としか俺は言うておらん。
それでも、あの女に、着いた先でどう構えるつもりか、と訊いてみた。
訊いたら、まだ何も見ておらぬから案という案はないと言うた。
嘘だ。
あの顔は、もう幾つも考えておる顔だった。土地の名も、家の名も、まだ何一つ知らんはずなのに、頭の中では、もう何かが動きはじめておる。
考えておって、言わん。
言わんのは、たぶん、俺の口から出させるつもりだからだ。
それでよい。
俺は棟梁だ。棟梁の口から出た策でなければ、二百と十七人は動かん。
あの女は、そのことを分かっておる。
分かっておって、黙っておる。
たいした女だ。
---
飯のことを考える。
どこの島へ入るにせよ、また口の数が増える。島の者を食わせることになるかもしれん。水の乏しい土地なら、飲む水から先に考えねばならん。
あの女は、そういうことを数えるのが得手だ。
俺は、数えるのは得手ではない。
だが、食わせるのは、俺の役だ。
数える者と、食わせる者が、一つ船に乗っておる。
悪くない。
そう思うことにしておる。
甲板の板が冷えてきた。
そろそろ、下へ降りる。
明日も、二百と十七人だ。
減らさんように、やる。




