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潮を編む――滅んだ小領主の娘、唐土に売られ、海賊の妻となる  作者: ハタ星人


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幕間 老いた船乗り 盤

応永二十六年(一四一九) 明国 福建 泉州 造船場



婆さんが、粥を食わんようになった。


三日になる。


匙を口元へ持っていくと、首を振る。首を振る力はまだあるらしい。あるうちは、まだよい。


夜中に一度、目を覚まして、わしの名を呼んだ。


三十年連れ添うて、あれがわしの名を呼ぶのは、めったにないことだ。たいてい「おまえさん」で済ます。名を呼ぶのは、よほどのときだ。


返事をしたら、また眠った。


朝になって訊いたら、覚えておらなんだ。


---


造船場の隅に、わしの居場所がある。


修理待ちの船が並んでおるあたりだ。日が当たる。風がよけて通る。板が積んであって、腰を下ろすのに丁度よい。


十年、そこにおる。


足腰が立たんようになって船を降りて、行き場がのうて、居着いた。棟梁が追い出さんでおいてくれる。追い出しても、たいして場所が空くわけでもないからだろう。


日がな一日、そこに座っておる。


船大工が働くのを見ておる。若い者が走り回るのを見ておる。荷が積まれるのを見ておる。



誰も、わしに話しかけん。


話しかける用がないからだ。それはそうだ。わしにできることは、もう何もない。


十年である。


---


日本の娘が来たのは、三年ばかり前だ。


初めは、道を訊きに来たのかと思うた。


そうではのうて、わしの持っておる物を見に来た。


懐から水羅盤を出したら、身を乗り出した。皿に水を張って、針を浮かべる。針が北を指す。それだけの物だ。


「なぜ、北を指すのでござりますか」


そう訊いてきた。


わしは、知らんと答えた。


使い方は知っておる。なぜそうなるかは知らん。四十年使うてきて、一度も考えたことがない。


娘は、それを聞いて、頷いた。


不服そうな顔をせなんだ。



そこが、少し妙だった。


たいていの者は、知らんと言われると、つまらん顔をする。あるいは、わしを馬鹿にした顔をする。この娘は、どちらでもなかった。


ああ、この子は、答えではのうて、道具を見に来ておるのだ。


そう思うた。


理屈は、あとで自分で考えるつもりなのだろう。わしから取りたいのは、皿と針の使い方だけだ。


そういう者は、初めてだった。


---


なぜ教えたのかと訊かれれば、暇だと答える。


そう答えた。娘にもそう言うた。


半分は本当だ。


十年、わしは暇だった。


もう半分は、こうだ。


わしは、あの三年で、四十年ぶんを喋った。


婆さんは、船の話を聞かん。聞いても分からんし、分かりたくもないと言う。海に取られかけた亭主の話を、面白がって聞ける女房はおらん。


若い衆は、忙しい。わしの話を聞く暇があれば、板の一枚も削ったほうがましだ。それも道理だ。


だから、四十年、誰にも喋らなんだ。


喋らずに十年座っておって、そこへ、日本の娘が来た。


星の高さの測り方を訊いた。潮の見方を訊いた。針路の書き方を訊いた。占城まで何日かかったかを訊いた。麻林国の獣の話まで、二度も聞きたがった。



止まらんかった。


わし自身、驚くほど、口が回った。


四十年、腹に溜めておったものが、三年で出た。


出してしまうと、軽い。


軽いというのは、悪いことではない。だが、少し、心細うもある。


---


一度だけ、妙なことがあった。


麻林という国から、麒麟が献じられたという話をしてやったときだ。


わしが若い時分に、都で大層な評判になった話だ。聖なる獣で、首がこの背丈の何倍もあるという。見た者は皆、腰を抜かしたそうだ。


そういう話をすると、たいていの者は驚く。首がそんなに長い獣がおるものか、と笑う者もおる。どちらにせよ、顔が動く。



あの娘は、動かなんだ。


「麒麟」


そう繰り返したきりだった。


驚いた顔をしようとして、間に合わなんだ、というふうに見えた。


わしは、そのとき、こう思うた。


——この子は、この獣を、どこかで見たことがあるのではないか。



馬鹿な話だ。


麻林という国は、鄭和様の船団が幾月も西へ進んで、ようやく辿り着いた国だ。日本の田舎の娘が、そんな獣を見ておるはずがない。


だから、思うただけで、口には出さなんだ。


そのあと、娘は麻林の場所を訊いてきた。わしは知らんと答えた。


それで、話は終わった。


終わったのだが、なぜか、いまも覚えておる。


あの一瞬、あの娘の顔から、何かが引っ込むのを見た気がする。


見た気がする、というだけだ。歳を取ると、そういう気がすることが増える。


---


一つだけ、渡さなんだ物がある。


道筋の覚え書きだ。


古い紙の束で、四十年ぶんの、方角と刻限と、進んだ見込みが書いてある。若い時分に書きはじめて、船を降りるまで書いた。


娘は、あれを見たとき、食い入るように見た。


「わたくしにも、その書き方を、お教えいただけませぬか」


書き方は、教えた。


だが、束そのものは、渡さなんだ。


わしの、たった一つの財だ。譲れば、わしには何も残らぬ。


そう言うた。


言うたときの娘の顔を、覚えておる。


一瞬、何か言いかけて、やめた。


欲しいと言うつもりだったのだろう。


言われれば、渡したかもしれん。


言われなんだから、渡さなんだ。


---


娘が最後に来たのは、去年の冬だ。


日本へ帰る、と言うた。


「わしと一緒に来い、と申すか」


そう訊いたら、そうだと言うた。



有難い話だった。


わしのような者を、船に乗せてまで連れて行こうという者は、四十年でただ一人だ。棟梁も、船頭も、そんなことは考えもせん。足腰の立たん爺を運ぶのは、荷を捨てるのと同じだからだ。


だから、有難かった。


婆さんがおる、と答えた。


それは本当だ。あのころ既に、婆さんは寝つきがちだった。置いては行けぬ。


だが、それだけではない。


連れて行かれても、向こうで何をする。


そう思うた。


海の向こうで、足腰の立たん爺が、何の役に立つ。喋ることは、もう全部喋った。渡せるものは、もう渡した。



残っておるのは、この躰だけだ。


躰は、荷になる。


四十年、荷を運んで生きてきた男が、最後に自分が荷になるのは、どうも、いかん。


そう言えばよかったのかもしれん。


言わなんだ。


代わりに、こう言うた。


「あんたに教えたことは、あんたの中に残る。それで十分じゃ。わしの躰まで、運ぶ要はない」


娘は、しばらく黙っておった。


鼻の頭が赤うなっておるのが、見えた。


見えたが、気づかんふりをした。


そこで泣かれると、こちらが困る。


---


わしは、あの娘の名を知らん。


いや、一度は聞いた。初めに名乗った。


忘れた。


三年通うてきて、名を呼んだことが一度もない。「あんた」で済ませた。娘のほうも、わしを「御老人」としか呼ばなんだ。


互いに、名を持たんまま、三年喋った。



妙な話だ。


だが、考えてみれば、それでよかったのかもしれん。


わしが娘に渡したのは、わしの名ではない。針の浮かべ方と、星の測り方と、書きつけの並べ方だ。


それは、わしの物ではない。


わしより前に誰かが考えて、誰かがわしに渡した。渡した者の名を、わしも知らん。


名は、そういうふうには残らんものらしい。


---


船が一艘、川口を出ていく。


日本へ行く船だと、若い衆が言うておった。秋の風になったから、そろそろだと。


あの娘が乗っておるかどうかは、分からん。


去年の冬に、日本へ帰ると言うたきりだ。それから一度も来ておらん。


来る用がないからだろう。もう、わしから取るものはない。


それでよい。


わしは、板の上から、その船を見ておった。


帆が上がる。針路は、東北東。この刻限のこの風なら、そう取る。四十年やっておれば、見れば分かる。


——書けば、残る。


娘が、そういうようなことを言うておった。


わしは、書くのが得手ではない。あの覚え書きも、線と印ばかりで、字はほとんど入っておらん。


だが、あれの言うことは、たぶん正しい。


わしが死ねば、わしは消える。


覚え書きの束も、婆さんが片づけるか、誰かが焚きつけにするか、どちらかだろう。


それでも、皿に針を浮かべる者が、海の向こうに一人おる。


それで、足りる。


そう思うことにした。


---


夕方、家に戻った。


婆さんが、起きておった。


粥を、三口食った。


三日ぶりだ。


「今日は、船が出た」


そう言うたら、婆さんが「そうかね」と言うた。


それ以上は、何も訊かん。四十年、この女は船の話を訊かなんだ。


わしも、それ以上は言わなんだ。


匙を置いて、しばらく、二人で座っておった。


外が、暗うなってきた。


——名を呼んでみるか。


そう思うて、やめた。


呼ぶのは、よほどのときでよい。


まだ、よほどのときではない。

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