第二十二話 船出
応永二十六年(一四一九)九月 福建 泉州
秋の風が、北から吹きはじめた。
船出の日が、決まった。
陳文興が捕らわれてから、二年になる。陳家が潰れたあと、弥九郎の一団は、幾つかの小さな家を頼りに商いを繋いできた。だが、どの家も、陳家ほどの構えは持たなかった。荷は細くなり、実入りも目減りした。それでも、この地に留まる理由は、まだあった。
その理由が、この一月で消えた。
先月、また一つ、荷を扱っていた家が役所に踏み込まれた。今度は、弥九郎の名までは知れなかったが、あと一歩のところだった、と阿蓮からの言伝が届いた。取り締まりは、二年前よりも、なお厳しゅうなっている。目こぼしの利く役人の数は減り、賄賂の相場は、月を追うごとに上がっていた。
「潮時だ」
弥九郎は、そう言った。それだけで、話は決まった。最も大きな取引先を失って二年、その穴を塞ぎながら食い延ばしてきたが、これ以上は、この地で得られるものより、失うもののほうが大きくなっていた。
その半月ほど前から、陣屋は、荷を積む支度で慌ただしくなっていた。船は八艘。手下は二百と少し。四年のあいだにこの地で買い集めた荷を、そのすべてに割り振らねばならなかった。
その割り振りを、わたしがやることになった。
「お前がやれ。俺は、数が苦手だ」
弥九郎は、そう言って、荷の目録を投げて寄越した。
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船着き場に、荷が積み上げられていた。
絹。陶器。薬種。鉄。それに、水と、兵糧と、船を直す材。
それだけではなかった。竹の籠に、豚が数頭、運び込まれていく。雄と雌が一対、それに乳離れしたばかりの子が数匹。日本の土になじむよう、早くから船に乗せて潮に慣らしておけと、船乗りに教わった通りにした。徳化から運ばせた茶の苗木も、根を湿らせた布でくるんで、目立たぬ木箱に何枚も収めてある。ほかにも、正式には持ち出しを禁じられている品が、幾つか紛れ込んでいた。役人の目を盗んで積んだものもあれば、阿蓮の伝手を頼ったものもある。どの箱に何を隠したかを、すべて覚えているのは、わたし一人だった。
朝の光が、積み荷の莚を白く照らしていた。潮の匂いに、藁と、油と、汗の匂いが混じっている。荷役の男たちの掛け声が、あちこちで上がっては、途切れた。
わたしは、目録を膝に置いて、一つずつ数えた。
重いものは下へ、船の真ん中へ。軽いものは上と両端へ。同じ荷を、一艘に固めない。一艘が沈めば、その荷は丸ごと失われる。八艘に散らせば、一艘失っても、残る七艘に八分の七が残る。
四年前は、この算段の外側にいた。
そう思って、手が止まった。
四年前、わたしは博多で、荷として積まれた。積まれる側だった。どこに置かれるかも、誰の隣に置かれるかも、選べなかった。ただ、荷のあいだに座らされて、水甕の数を袖の中で数えていた。
いま、その水甕を、どの船に幾つ積むかを、わたしが決めている。
同じ船着き場ではない。だが、同じ形だ。
そう気づいて、少し、可笑しくなった。
可笑しさの底に、別のものが混じっているのも、分かっていた。
あのとき、わたしは、水が足りないと言った。言えば値が下がると分かっていて、それでも言った。言わねば荷のままだと、あの朝、初めて悟ったからだった。
四年経って、いまは、足りるかどうかを決める側にいる。
四年で、こちら側まで来た。
長かったのか、短かったのか。数えれば、四年である。だが、その四年の中身は、数では書けなかった。
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「姐さん。この壺は、どこへ」
若い手下が、荷を抱えて訊きに来た。
「三の船の、船底に。藁を厚う敷いて、間に詰め物を入れなされ。割れれば、値が消えまする」
「へい」
手下は、すぐに走っていった。
わたしの一言で、二百の男が動く。
指図が、そのまま通る。誰も、荷の分際でとは言わない。誰も、女子がとは言わない。
その心地よさに、わたしは、いつのまにか慣れていた。
慣れたことに、その日、初めて気づいた。
二年前、この陣屋で、桶の水を零された。
あのときは、拾うことしかできなかった。振り返れば負けると、そればかりを己に言い聞かせていた。
いまは、振り返らずとも、誰も何もしない。
そのことを思い出して、口の端が、勝手に持ち上がった。慌てて、引き締めた。
引き締めながら、なぜ引き締めたのだろうと、少し不思議に思った。
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同月 出立の前日
荷の割り振りが、終わった。
八艘に、どの荷を幾つ積むか。水を幾甕ずつ配るか。人を何人ずつ乗せるか。すべて、紙に書き出して、弥九郎に渡した。
弥九郎は、その紙を、指で追った。字は読めない。それでも、数の並びだけは追える。
「これで、全部か」
「はい」
「一つ、抜けておるぞ」
わたしは、顔を上げた。
「お前が、どの船に乗るかが、書いておらん」
指摘されて、初めて気づいた。
二百人と、八艘ぶんの荷を、寸分の狂いなく割り振った。そのどこにも、自分の名を書いていなかった。
「……失念しておりました」
「お前は、俺の船だ。それでよいか」
「よろしゅうござります」
弥九郎は、頷いて、紙を丸めた。
わたしは、その場を辞して、板間へ戻った。
戻る道すがら、いま指摘されたことの意味を、考えていた。
自分を勘定に入れ忘れた。二百人ぶんの飯と水を計りながら、自分の一人ぶんを、書き落としていた。
珍しいことでもない。
そう思って、片づけた。数えるべきものが多すぎれば、こぼれるものも出る。それだけのことだ。
そのときは、本当に、それだけのことだと思っていた。
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その夜、荷を積み終えた船着き場を、一人で歩いた。
八艘が、暗い水の上に並んでいる。どの船に何が積まれているかは、すべて頭の中にあった。目を閉じても、順に言える。
松吉が、艫のほうで、綱を結び直していた。
「姐さん。まだ起きておられるので」
「見回りにござります」
「明日は、早うござりますよ」
「存じております」
松吉は、笑って、また手を動かしはじめた。
その手の動きを、しばらく見ていた。
二年前、この若者は、板の隙間に足を挟まれて、死にかけた。わたしの立てた段取りが、置いていけと命じていた。そして、置いていかれなかった。置いていかなかった男が、代わりに一人、戻らなかった。
甚助。
その名を、いまも覚えている。顔は知らない。歳も知らない。名だけを、紙の上に書いた。
仲間を置いていかぬ者、あり。忘れぬこと。
そう書き添えた一行を、この四年で、幾度も読み返した。
読み返して、それで、次から人の情を勘定に入れられるようになったかといえば、そうではなかった。読み返すたび、そういうものがあると思い出すだけだった。思い出すことと、勘定に入れることとは、まるで別のことだった。
次は、間違えぬ。
そう思うことは、幾度もあった。思うだけで、いつも足りなかった。
松吉が、結び終えた綱を、二度、引いて確かめた。
「よし」
その声が、暗い水の上に、短く響いた。
わたしは、何も言わずに、その場を離れた。
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同月 出立の日 泉州 船着き場
朝、潮が上がるのを待って、船が出た。
わたしは、弥九郎の船の、艫に近いところに立っていた。
四年前は、荷のあいだに座らされていた。縄は掛けられなかったが、立つことは許されなかった。
いまは、立っている。
誰も、座れとは言わない。
風が、頬に当たっていた。北からの、乾いた風だった。この風を待っていた。この風が、船を東へ運ぶ。
泉州の街が、少しずつ遠ざかっていく。
石の道。反った屋根。市の喧騒。四年、この街で暮らした。
陳家の門も、あの辺りにあるはずだった。いまは誰が住んでいるのか、知らない。役所の封が解かれたあと、誰かが買い取ったと聞いた。それきりだった。
陳文興が流された先も、分からない。生きているのかどうかも、分からない。
四年。
十四で来て、十八になった。
来たときは、明の言葉を一言も知らなかった。いまは、拙いなりに、市で値の付け合いができる。字も読める。書ける。
だが、訛りは、いまも笑われる。四年いても、この地の者にはなれなかった。
なれなくて、よかったのかもしれない。
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船が沖へ出ると、陸の輪郭が、青く霞んでいった。
わたしは、懐から、紙の束を取り出した。
四年ぶんだった。
隔壁のこと。桟の入った帆のこと。昇降する舵のこと。水羅盤の使い方。牽星板の読み方。白い土のこと。連房の窯のこと。山で椎茸を作る法。土から硝石を採る法。弩の造り。豆を浸して芽を出させる法。
一枚ずつ、めくった。
紙は、もう黄ばみはじめていた。墨も、初めのころのものは、薄れかけている。書いた当時の指の冷たさまで、一緒に思い出せる紙もあった。
これが、四年で得たすべてだった。
持って帰れる。
紙は、軽い。八艘の荷のどこにも数えられていない、この束が、いちばん重い。
だが、この束の中に、人は一人もいない。
呉徳全は、来ていない。棟梁も、船乗りも、火薬の男も、来ていない。阿蓮がどこで何をしているかも、分からない。
紙は運べた。人は、一人も運べなかった。
日本に置いてきた者も、同じだった。
さよが、どこにいるのか。与三次が、まだ生きているのか。宗徳の商いが、いまも続いているのか。何一つ、知らない。日本へ戻ったところで、知る手立てがあるとも思えなかった。
四年前、この海を渡るとき、わたしは、失った者たちの名を、数えるように思い返していた。
いまは、思い返す回数が、減っている。
減っていることに気づいて、少し、うろたえた。忘れたわけではない。ただ、思い出す機会が、日ごとに減っていく。それは、忘れることと、どれほど違うのだろう。
風が、紙の端をめくった。
わたしは、束を懐に戻した。
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弥九郎が、こちらへ来た。
「見えるか」
「何がでござりましょう」
「日本だ」
弥九郎は、東の水平線を指した。
もちろん、何も見えない。まだ幾日もかかる。
「見えませぬ」
「そうか」
弥九郎は、少し笑った。冗談のつもりだったらしい。
「まずは、瀬戸内へ帰る。俺の生まれた海だ」
「瀬戸内、と申しますと」
「伊予から、安芸、周防のあたりだ。あの辺りの潮と島は、俺の庭のようなものだ」
「腰を据える場所は、既にお決まりでござりますか」
弥九郎は、少し考えるような顔をした。
「決めておらん。前に使うておった根城が一つあるが、四年も留守にしておる。まだあるかどうかも分からん」
「では」
「まずは、その根城を見に行く。それから先は、着いてから決める」
わたしは、それ以上、訊かなかった。訊いたところで、いまの弥九郎に、これ以上の答えはない。分かっていることと、分かっていないことの境目を、この人はいつも、正直に口にする。
「守護や、在地の家のことは」
「行ってみねば分からん。四年だ。何がどう変わっておるかは、俺にも読めん」
胸の奥に、かすかな不安と、それに似た熱が、同時に兆した。
行く先の名も、地の理も、まだ何一つ分かっていない。四年前、荷として運ばれたときと同じように、これから先に何が待っているのか、この身には見えていない。
だが、違うところが一つある。
見えぬ先へ向かうとき、あのときは、ただ運ばれるだけだった。今度は、着いた先で、自分の頭でその場を読み、算段を組む番が回ってくる。
その違いだけで、胸の奥の色が、まるで違って見えた。
「して、着いた先で、お前はどう構えるつもりだ」
その問いに、わたしは、すぐには答えなかった。
答えられなかったのではない。答えの形が、まだ定まらなかったからだった。
水の乏しい土地なら、溜池を掘ればよい。田のない土地なら、木を使う道もある。潮の速い場所なら、その流れを、刻限ごとに書き留めればよい。書き留めれば、いずれ、敵の船をその流れの中へ誘い込むこともできる。在地の家が力を失うておるなら、争わずに入る道もある。力で獲れぬものは、縁で獲ればよい。
土地の名も、家の名も、まだ何一つ知らない。それでも、頭の中では、いくつもの型が、既に動きはじめていた。前の生で、幾度も繰り返してきた仕事の型だった。土地が変わっても、型は同じように使える。
「まだ、何も見ておりませぬゆえ、案という案はござりませぬ。ですが」
「ですが」
「見れば、すぐに組めまする」
弥九郎は、少し笑った。
「相変わらず、口の減らぬ女だ」
そう言って、頷いた。それから、こう付け足した。
「じゃが、お前は、もう考えておるだろう」
わたしは、答えなかった。
答える代わりに、口の端を持ち上げた。目は、笑っていなかった。
弥九郎が、少し、たじろいだように見えた。
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夜になった。
船は、静かに東へ進んでいた。
わたしは、船縁に凭れて、暗い海を見ていた。
四年前の夜も、こうして海を見た。あのときは、荷のあいだに座り込んで、揺れの間隔を数えていた。数えていなければ、恐ろしさに飲まれそうだった。
いまは、恐ろしくなかった。
行く先が分かっている。行った先で何をするかも、おおよそ見えている。乗っている船の荷の中身も、水の残りも、全部、こちらの頭の中にある。
上等だ。
そう思った。
思ってから、ふと、別のことに気づいた。
わたしは、いま、この船の荷を割り振る側にいる。
だが、この船そのものは、わたしのものではない。
弥九郎の船だ。
そして、わたし自身も、弥九郎の——
そこで、考えを止めた。
止めた理由は、自分でも分からなかった。
理屈の上では、何も変わっていない。荷として買われ、妻として置かれることになった。呼び名が変わっただけだ。売られぬ身になったのは、確かに大きい。だが、誰かの持ち物であることに、変わりはない。
そのことを、わたしは、あの夜、承知の上で選んだ。
承知の上で選んだのだから、いまさら、何も思うことはないはずだった。
ないはずだ。
そう言い聞かせて、海に目を戻した。
だが、言い聞かせねばならぬ、ということ自体が、答えでもあった。
四年前、荷として積まれたとき、わたしは、荷であることを、承知の上で受け入れたわけではなかった。受け入れる以外に、道がなかっただけだ。
今度は、自分で選んだ。
選んだ結果が、形の上では、四年前と大差ないところに着地している。
ならば、この四年は、何だったのか。
そう考えかけて、やめた。
考えても、益はない。得たものは、確かにある。数えれば、いくらでも数えられる。この船の荷の割り振りを任されていることも、二百の男が指図で動くことも、四年前には、一つもなかったことだ。
数えられるものを数えて、数えられないものは、勘定に入れない。
これまで、ずっとそうしてきた。
波の音は、四年前と、何一つ変わらなかった。
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風が、少し強くなった。
帆が張り、船が速さを増した。
わたしは、懐の紙の束に、手を当てた。
この束を、島へ持ち帰る。溜池を掘る。段畑を切る。窯を築く。船を直す。潮を書き留める。十年かけて、賊でなくなる。
そのすべてを、この頭の中で組み立てて、あの男の口から出させる。
手柄は、あの男のものになる。わたしの名は、どこにも残らない。
それでいい。
そう思って、自分でも、少し驚いた。
以前なら、そこに悔しさが混じったはずだ。届かない、認められない、記されない。その悔しさが、三年、島門で、ずっと胸の底にあった。
いまは、ない。
代わりに、別のものがあった。
名は残らずとも、島は動く。あの男の口を通せば、二百の男が動く。動かしているのは、こちらだ。それを知っているのは、こちらだけでいい。
——知られなくてよい。動けば、それでよい。
その考えが、あまりに滑らかに出てきたことに、わたしは、一瞬だけ、立ち止まった。
立ち止まって、すぐに歩き出した。
考えても、仕方がない。明日には、また、割り振りの続きがある。
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明の陸が、水平線の下に沈んだ。
海の色が、変わった。
四年前、この色が変わるのを、わたしは荷のあいだから見た。あのとき、その先に何があるのかを、わたしは知らなかった。
今度は、違う。
瀬戸内という海がある。伊予、安芸、周防——弥九郎の生まれた海。その先に何があるのかは、まだ、ほとんど知らない。
それでも、知らないことが、恐ろしくはなかった。
着けば、この目で見る。見れば、頭の中で、また算段が組み上がる。それだけは、分かっていた。
わたしは、船縁から手を離した。
風が、北から吹いていた。
その風に、船は、まっすぐ東へ運ばれていった。
——第二部 完




