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潮を編む――滅んだ小領主の娘、唐土に売られ、海賊の妻となる  作者: ハタ星人


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第二十一話 値

応永二十六年(一四一九)三月 福建 泉州 陣屋


一年が、過ぎた。


徳化から手ぶらで戻ってきたあの日から、わたしは、ひたすら理を積み上げてきた。


水の樽を焦がす法を教え、分け前の割り方を書き直し、潮の刻限を記し続けた。船底の貝を落とす順を決め、豆を浸して芽を出させる場所を、船倉の隅に確保させた。荷の積み方を組み替えて、船足を上げた。


どれも、地味な仕事だった。手柄と呼べるほどのものは、一つもない。



だが、積み上がれば、形になる。


この一年で、弥九郎の一団は、船を二艘増やした。手下の数も、二十ばかり増えた。腹を下す者も、歯茎を腫らす者も、目に見えて減った。


そのすべてに、わたしの書いたものが噛んでいた。


陣屋での扱いも、少しずつ変わっていた。


嫌がらせは、いつのまにか止んでいた。桶を倒された日のことを覚えている者は、もういないのかもしれない。代わりに、荷の割り方や、船の傷み具合を、こちらに訊きに来る者が現れた。


「姐さん」


若い手下が、そう呼ぶようになった。誰が言い出したのかは分からない。荷でも、よそ者でもなく、そう呼ばれるようになるまでに、二年かかった。


呼ばれるたび、悪い気はしなかった。



——庇われるだけの理を積み上げればよい。


二年ほど前、この陣屋の隅で、そう心に決めた。あのときは、いつになれば足りるのか、見当もつかなかった。


いま、ようやく、足りたと思えた。


---


三月の半ば、弥九郎が、日本へ帰る支度を始めた。


「秋の風を待って、瀬戸内へ戻る」


そう告げられたとき、胸の奥が、静かに鳴った。



四年である。荷として博多を出てから、四年が経とうとしていた。


その船に、わたしが乗るかどうかは、まだ、何も決まっていなかった。


荷であれば、どこへでも運ばれる。だが、運ばれた先で、また売られることもある。泉州で買った荷を、日本へ運んでまた売る。それは、この男にとって、ごく当たり前の商いの形だった。


このまま黙っていれば、また、値をつけられる。


そうと分かっていて、黙っている理由は、もう、どこにもなかった。


その夜まで、三日かかった。


三日のあいだ、板間の隅で、何度も、口にする言葉の順を組み直した。どの数から始めるか。どこで区切るか。どの問いが返ってくるか。返ってきたとき、どう応じるか。


それで、俺に何の得がある。


必ず、そう訊かれる。二年前から、この男の問いは、いつも同じ形をしていた。ならば、答えは、先に用意しておけばよい。


三日目の夜、わたしは、弥九郎の小屋を訪ねた。


---


灯は、一つだけだった。


弥九郎は、床几に腰かけて、何か書きつけを眺めていた。字が読めるわけではない。数だけを、指で追っている。


「弥九郎殿。お話がござります」


「なんじゃ」


わたしは、板間に膝をついた。


だが、頭は下げなかった。


下げれば、荷の姿勢になる。荷の姿勢からは、荷の言葉しか出てこない。


「わたくしを、日本へお連れくださりませ」


弥九郎の指が、止まった。


「連れて帰って、どうする」


「売らずに、置いてくださりませ」


「売る、とは言うておらん」


「仰ってはおられませぬ。ですが、得におなりと思われれば、お売りになりましょう。それが、これまでのやり方にござります」


弥九郎は、しばらく黙っていた。


「なぜ、そんな得にもならぬことをせねばならん」


来た、と思った。この男の問いは、いつも、そこから始まる。


わたしは、息を吸った。


「得になりまする。そのことを、これから、順に申し上げまする」


---


「まず、これまでのことにござります」


わたしは、指を折った。


「わたくしをお買いになった値は、銭にして三十貫余りと伺いました。この一年で、船が二艘、増えておりまする。腹を下す者、歯を腫らす者が減り、稼ぎに出られぬ日が減りました。分け前の割り方を変えてから、揉め事も減っておりまする」


「それが、幾らになる」


「船一艘、造れば幾らかかりまするか」


「新しく造れば、四十貫は下らん」


「では、二艘で八十貫。そのうち、わたくしの働きが幾らぶんかは、弥九郎殿がお決めなされませ。ただ、三十貫の元は、とうに取れておりましょう」


弥九郎は、しばらく黙っていた。


「まあ、そうだな」


「ならば、これより先の働きは、すべて、儲けにござります」


言い切った。語尾を、濁さなかった。


弥九郎の目が、こちらを見た。値踏みではなく、話を聞く者の目だった。


「それが、一つ目にござります」


「一つ目、と申したか」


「三つ、ござります」


---


「二つ目は、この先のことにござります」


わたしは、そこで、少し間を置いた。


ここからが、危うい。証のないことを、言い切らねばならない。


「弥九郎殿。いま、なぜ、抜け荷が儲かるのか、お考えになったことはござりますか」


「明が、海を禁じておるからだ」


「では、なぜ、明は海を禁じておるのでござりましょう」


「知らん。あちらの都合だ」


「その都合が、いつまでも続くとは、限りませぬ」


弥九郎の眉が、動いた。


「公の船が、また通うようになりまする」


「公の船」


「日本と明のあいだで、御上同士の商いにござります。かつては、通っておりました。いまは、絶えておりまする。されど、絶えたものは、いずれ、また開きまする」


「なぜ、そう言い切れる」


来た、と思った。


この問いには、答えられない。答えられないことを、承知の上で、言い切らねばならない。


「銭になるからにござります」


わたしは、そう答えた。


「明の御上も、日本の御上も、通わせれば儲かることを、知っておりまする。儲かる道を、いつまでも塞いでおく者は、おりませぬ。人は、いずれ、儲かるほうへ動きまする。それだけのことにござります」


弥九郎は、しばらく黙っていた。


「……理屈は、通っておる」


「そのとき、何が起きまするか」


「知らん」


「明は、日本の御上に、こう申しまする。倭寇を、退治せよ、と」


弥九郎の顔から、笑いが消えた。


「公の商いが開けば、抜け荷は要らのうなりまする。要らぬどころか、邪魔にござります。そのとき、幕府も、守護も、我らを差し出しまする。差し出したほうが、得だからにござります」


「……」


「いま、この海で稼いでおられるのは、公の道が塞がっておるゆえにござります。塞がった穴から、水が漏れておるだけのこと。穴が塞がれば、水は止まりまする。そのとき、賊のままであれば、真っ先に狩られまする」


---


弥九郎は、床几から立ち上がった。


小屋の中を、二度、往復した。


「いつだ」


「分かりませぬ」


「分からんのに、言うか」


「明日かもしれませぬ。十年先かもしれませぬ。ただ、必ず来まする」


「十年先の話をされて、俺にどうしろと言う」


「十年、備えなされませ」


弥九郎が、足を止めた。


「十年かけて、賊でのうなりなされませ。湊を持ち、田を持ち、船を持ち、帳を持つ。奪わずとも食える形を、十年かけて、作りなされませ」


「奪わずに、どうやって食う」


「通る船から、銭を取るのでござります。奪うのではのうて、守る代わりに、いただく。湊を整え、水と兵糧を置き、船を直す場を設ければ、商船のほうから、銭を持って寄ってまいりまする」


弥九郎は、こちらを見ていた。


「奪うより、実入りが少なかろう」


「一度きりの実入りは、少のうござります。されど、毎年入りまする。奪えば、その湊は二度と使えませぬ。守れば、毎年、同じ湊が銭を落としまする」


「……」


「そして何より、狩られませぬ」


弥九郎は、すぐには答えなかった。


「……手下は、承知せんぞ」


「なぜにござりますか」


「奪うほうが、早い。奪えば、その日に飯が食える。湊を整えて、十年待てと言うて、誰がついてくる」


その反論は、もっともだった。だが、答えは、既に用意してあった。


「一度に、変えよとは申しませぬ。奪うことは、当面、お続けなされませ。ただ、奪うた銭の幾らかを、湊に回しなされませ。十のうち、二で足りまする」


「二か」


「二にござります。十年で、それが積み上がりまする。手下衆の稼ぎも、八は、そのまま残りまする。当面、大きくは、誰も痛みませぬ」


弥九郎は、そこで、床几に腰を下ろした。


長く、黙っていた。


---


「お前は」


弥九郎は、ようやく口を開いた。


「なぜ、そこまで先のことを考える」


「弥九郎殿が、それをお考えになっておられるからにござります」


弥九郎の目が、こちらを見た。


「手下を食わせる責は、弥九郎殿お一人が負うておられまする。今年は食えても、来年はどうか。十年先はどうか。夜な夜な、そればかりを考えておられるのではござりませぬか」


弥九郎は、答えなかった。


答えないことが、答えだった。


「その重さを、預ける相手がおらぬと、いつぞや仰せられました」


「……言うたな」


「わたくしに、預けなされませ」


はっきりと、そう言った。


「先のことを考えるのは、わたくしの役目にいたしまする。弥九郎殿は、手下を率いておられればよろしゅうござります。十年先に何が来るかは、わたくしが数えて、お伝えいたしまする」


弥九郎は、しばらく、こちらを見ていた。


「それが、二つ目か」


「はい」


「……で、三つ目は」


---


そこで、わたしは、初めて、言葉を選んだ。


三つ目だけは、数では組み立てられない。


数で組み立てられないものを、数で語る男に、どう差し出すか。この一年、そればかりを考えてきた。


「三つ目は、身の置き所にござります」


「置き所」


「荷のままでは、いずれ、また売られまする。買われた先で、また値をつけられまする。それでは、二つ目の策が、成りませぬ」


「なぜ成らん」


「十年、同じ場所におらねば、十年の備えはできませぬ。明日売られるやもしれぬ者の言うことを、誰が聞きましょうか」


弥九郎は、頷いた。この理屈は、通ったらしかった。


「では、どうする」


わたしは、顔を上げた。


「わたくしを、娶りなされませ」


---


小屋の中の音が、消えた。


弥九郎は、こちらを見ていた。何を言われたのか、掴みかねている顔だった。


「……お前を」


「はい」


「なぜ、そうなる」


「妻であれば、売られませぬ。売られねば、十年、同じ場所におれまする。おれば、十年の備えができまする」


言いながら、自分の声が、これまでになく強いことに気づいていた。


弱く出れば、荷の分際の戯言になる。強く出て、初めて、聞くに値する話になる。それは、この四年で、身に染みて学んだことだった。


「それだけの理由か」


「それだけにござります」


「他に、女がおったらどうする」


「おられまするか」


「……おらん」


「では、案ずることもござりませぬ」


そう返してから、少し、言い過ぎたかと思った。だが、弥九郎は、怒らなかった。呆れたような顔で、頭を掻いただけだった。


この男に対しては、これでいい。遠慮がちに出るほど、話が軽く扱われる。二年かけて、その加減を、ようやく掴んでいた。


弥九郎は、床几の上で、身を乗り出した。


「情はないのか」


その問いに、わたしは、一瞬、答えに詰まった。



情。


考えたことが、なかった。


この男を、使える相手として測ってきた。損得の通じる主として、扱いやすいと踏んできた。棟梁としての重さを知って、見る目が変わったことは、確かにある。だが、それを情と呼ぶのかどうか、わたしには分からなかった。


分からないものを、分かるふりで語ることは、この男に対して、いちばんやってはならないことだった。


そして、もう一つ、分かったことがあった。


この男は、いま、こちらの答えを、待っている。


損得の話をしていたはずの男が、情の有無を訊いてきた。訊くということは、そこに、何かが引っかかっているということだ。引っかかっているものは、揺すれる。



——ここは、押せる。


わたしは、口の端を持ち上げた。


嗤ったのだと、自分でも分かった。娘の笑い方ではなかった。


「ござりませぬ」


そう答えた。


灯の火が、頬の片側だけを照らしていた。その明るいほうを、弥九郎に見えるように、わずかに顔を傾けた。無意識ではなかった。どう見えるかを、計算して、傾けた。


「わたくしが差し上げられるのは、数と、理と、この身だけにござります。情は、算えられませぬゆえ、勘定に入れておりませぬ」


「……ないと言い切るか」


「言い切りまする」


わたしは、そこで、もう一歩だけ踏み込んだ。


「弥九郎殿。情のある女子なら、いくらでもおりましょう。情のある女子は、あなた様を慰めまする。されど、わたくしは、あなた様を儲けさせまする」


弥九郎の喉が、鳴った。


「どちらが要り用かは、ご自身でお決めなされませ。……もっとも、決める前から、答えは出ておりましょうけれど」


言いながら、胸の内で、自分の声を聞いていた。


こんな喋り方は、島門ではしなかった。陳家でも、しなかった。いつのまに、こういう物言いができるようになったのだろう。


弥九郎は、しばらく、こちらを見ていた。


それから、笑った。


声を上げて、笑った。


「……えげつない女だ」


その一言に、わたしは、また、口の端を持ち上げた。


褒め言葉として受け取ったからではない。この男が笑ったということは、こちらの読みが当たったということだ。当たったことが、快かった。


---


「一つ、訊く」


弥九郎は、笑いを収めて、そう言った。


「お前は、それでいいのか」


その問いは、思いがけないものだった。


得か損かではなく、こちらの心持ちを訊いている。この男が、そういう問い方をしたのは、初めてだった。


「よろしゅうござります」


わたしは、迷わず答えた。


「荷でおるよりは、はるかに」


弥九郎は、そこで何か言いかけて、やめた。


口を開きかけ、そのまま閉じた。


何を言おうとしたのかは、分からなかった。訊く気にも、ならなかった。


「よかろう」


弥九郎は、そう言った。


「連れて帰る。売らぬ。お前は、俺の女だ」


「有難う存じまする」


「ただし」


弥九郎は、指を一本立てた。


「十年先の話が外れたら、そのときは、承知せんぞ」


「外れませぬ」


わたしは、言い切った。


「外れたら、そのときは、いかようにもなされませ」


「大した度胸だ」


弥九郎は、そう言って、また笑った。


それから、思い出したように、こう付け足した。


「手下には、俺の口から言う。お前の入れ知恵だとは、言わぬ」


「その方が、よろしゅうござります」


「分かっておるのか」


「分かっておりまする。女子の申したことでは、誰も動きませぬ」


弥九郎は、少し、意外そうな顔をした。


「不服ではないのか」


「不服にござります」


わたしは、そう答えた。


「されど、不服を申しても、何も変わりませぬ。変わらぬものを嘆くより、変えられるものを数えるほうが、よほど得にござります」


---


小屋を出ると、外は、真っ暗だった。


海の音が、いつもより近く聞こえた。


わたしは、しばらく、その場に立っていた。


膝が、遅れて震えはじめた。話しているあいだは、震えなかった。終わってから、体が、ようやく追いついてきたらしかった。



——通った。


三つとも、通った。


一つ目で、元は取れていることを認めさせた。二つ目で、この先の十年を預からせた。三つ目で、売られぬ身になった。


胸の底が、熱かった。


震えているのに、寒くはなかった。腹の奥に、火が入ったような熱がある。安堵とは、少し違った。安堵なら、力が抜けるはずだ。いまは、逆だった。指の先まで、妙に冷たく冴えている。


あの男が、こちらの言う通りに動いた。


一つ目で、頷いた。二つ目で、立ち上がって、小屋の中を二度往復した。三つ目で、笑って、承知した。


順に、こちらが読んだ通りに動いた。読み違えは、一つもなかった。


島門では、一度も、こうはならなかった。


父に升の細工を告げても、退けられた。芦屋の内応を掴んでも、証がないと言われた。八人が抜ければ湊が空になると数えて見せても、聞かれなかった。正しくても、一つも通らなかった。三年、そればかりだった。


それが、今夜は、全部通った。


その事実を、頭の中で、もう一度なぞった。


なぞるたび、腹の奥の熱が、少しずつ強くなるのが分かった。



心地よかった。


そのことに気づいて、わたしは、少しだけ、居心地が悪くなった。


命が懸かっていたはずだ。売られるか、売られずに済むか。それだけの、切実な話だったはずだ。ならば、いま感じるべきは、安堵であって、この熱ではないだろう。


生き延びたのだから、嬉しいのは当たり前だ。


そう思うことにした。


思うことにして、それ以上は考えなかった。考えれば、別の名前が出てきそうな気がした。出てきたところで、どうなるものでもない。明日からは、また、数を書く日々が続く。それだけのことだ。


熱は、しばらく引かなかった。


四年前、博多の唐房で、わたしは、荷として値をつけられた。三十貫。字が書けて、算えられるという、それだけの理由で。


あのとき、手を取られ、指を一本ずつ調べられ、歯を数えられた。数えられている、とだけ思っていた。何も言えなかった。言う言葉を、持っていなかった。



今度は、自分で値をつけた。


つけた値は、この四年ぶんの働きと、これから十年ぶんの見通しと、そして、この身一つだった。


高いのか、安いのか。


分からなかった。


分からないが、少なくとも、他人につけられた値ではなかった。


島門で、叔父が、わたしを縁組の駒として盤の上に置いた。あのとき、置かれる側の痛みを、はっきりと知った。


いま、その盤の上に、わたしは、自分で自分を置いた。


置く手つきが、思っていたよりずっと慣れていたことに、後から気づいた。


---


板間に戻って、灯を点けた。


紙を広げ、その日のことを書き留めようとして、筆が止まった。



書けなかった。


書けば、どこかで誰かに読まれるかもしれない。それだけの理由ではなかった。


数を書き並べれば、この夜のことが、ただの取引に見える。実際、取引だった。それ以外の何物でもない。


だが、紙の上でそう見えてしまうことに、なぜか、わずかな抵抗があった。


腹の奥の熱が、まだ、消えずにいた。


その熱のことを、書こうとして、やめた。書く言葉が、見つからなかった。


数なら、いくらでも書ける。船の傷みも、潮の刻限も、分け前の割り方も、迷わず書いてきた。だが、今夜のこれだけは、どう書けばいいのか、分からなかった。


しばらく、白い紙を見ていた。


それから、こう書いた。


 三月十四日 夜 話、通る。


それだけだった。


日と、刻限と、結果。四年前、陳文興の前で書いたのと、同じ形の一行だった。


書いてから、その一行を、しばらく見つめていた。


四年かけて、荷から、この一行までたどり着いた。


長かったのか、短かったのか、それも分からなかった。


---


灯を吹き消す前に、ふと、あることに気づいた。


呉徳全も、造船場の棟梁も、老いた船乗りも、火薬の男も、誰一人、動かせなかった。


阿蓮も、行く先を告げずに去っていった。


さよも、与三次も、宗徳も、どこにいるのかすら分からない。



——あの船に乗る人間は、結局、わたし一人だ。


四年かけて、この地で得たものは、書き溜めた紙の束と、頭の中の理屈だけだった。人は、一人も運べなかった。


わたしが動かせた人間は、わたしだけだった。


その事実を、わたしは、灯の消えた暗がりの中で、静かに認めた。


だから、次は、人を動かす技を身につけねばならない。


技は、絵に描けば持ち帰れる。だが、人を動かす技だけは、まだ、どこにも書けていない。


その一行を、いつか書けるようになるのか。


分からないまま、わたしは目を閉じた。


外で、潮が、静かに満ちてきていた。

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