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潮を編む――滅んだ小領主の娘、唐土に売られ、海賊の妻となる  作者: ハタ星人


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第二十話 断られる

応永二十五年(一四一八)正月 福建 泉州


弥九郎に買われてから、ひと月が経とうとしていた。


役所の書きつけに名を刻まれ、陣屋に移された。寝る場所が変わり、飯を恵む者が変わった。それだけのことだった。


陣屋の板間は、陳家の書斎より、ずっと狭かった。壁の隙間から、潮の匂いと、干魚の匂いが、いつも入り込んでくる。夜になると、手下衆の高いびきと、波の音が、区別のつかぬまま重なって聞こえた。


荷であることは、何一つ変わっていなかった。


競りの莚の上で、自分から口を開いた。あのとき、何かが変わった気がしていた。だが、いま振り返れば、変わったのは値の高さだけで、値そのものが消えたわけではなかった。誰かに買われ、誰かの持ち物として名を記される。その形は、島門の湊で捕らわれたときから、一度も崩れていない。



——このままでは、いつまでも荷のままだ。


板間の隅で、幾晩も、頭の中だけで算段を組んだ。


紙には書かなかった。書けば、誰かの目に触れる。この手のことは、頭の中にだけ、しまっておくべきものだった。


島門では、黙っていた。証がないから、おなごの言うことだから、そう己に言い聞かせて、口を閉じ続けた。その果てに、家を失った。


競りの莚の上では、初めて声を上げた。だが、声を上げただけでは、値が上がるだけで、荷という形そのものは消えなかった。黙っていても、声を上げても、荷は荷のままでいられる。ならば、次に要るのは、声を上げることではない。形そのものを変える算段だった。


策は、三つあった。


一つは、いますぐに効くもの。二つは、この先の展望に関わるもの。三つは——わたし自身の、身の置き方に関わるもの。


三つとも、容易ではなかった。だが、三つとも、いまのこの身に残された、数少ない手だった。


まずは、一つ目からだった。


---


陣屋の水甕は、いつも濁っていた。


長く積んだ水は、幾日かで、腐りかけた匂いを放ちはじめる。手下衆は、それを承知の上で飲んでいた。飲まねば、他に水がないからだ。


「その水、腹を下しませぬか」


古参の一人に訊いた。名を松吉といった。足を挟まれ、命を落としかけた、あの若者だった。


「下す。慣れておる」


松吉は、事もなげに言った。腹を下すことなど、傷を負うことや、飯が薄いことと並んで、数えるまでもない日々の一部らしかった。


慣れる、という言葉が、耳に残った。慣れることで、防げるはずのものを、防がずに済ませている。この一団では、それが当たり前になっていた。


「荷の分際で、水にまで口を出すか」


近くにいた別の男が、そう言った。皮肉ではあったが、追い払う響きではなかった。誰も、真剣には取り合っていない。それが、かえって、こちらの気を楽にした。


わたしは、樽を検めさせてもらった。


蓋を開け、匂いを嗅ぐ。次に、指を浸して、粘りの具合を確かめる。陳家の蔵で、腐りかけた米や、湿気た紙を、足かけ二年検めてきた勘が、そのまま役に立った。古いものほど、粘りが強く、匂いに酸みが混じる。


内側が、そのままだった。木の肌が剥き出しで、そこに水垢と、目に見えぬ黴が、幾重にも溜まっていた。


「樽の内を、焦がしなされ」


陣屋の差配役に、そう言った。


「火で、内側だけを、軽く焼くのでござります。それから、砕いた炭を、少し沈めなされ。水の腐りが、ずっと遅うなりまする」


「なぜ、そうなる」


「……分かりませぬ」


正直に答えた。理屈は、いまの言葉では説けない。ただ、そうなることだけは、確かに知っていた。


「汲む順も、決めなされ。古い樽から先に使い、新しい樽を後に回す。順を守らねば、いつまでも古い水が底に残りまする」


差配役は、しばらく黙っていた。


「元手は」


「炭一つと、火だけにござります」


その一言が、いちばん効いたらしい。差配役は、その日のうちに、人手を出させた。


樽が、幾つも、庭先に並べられた。中を洗い、乾かしてから、小さな火を入れる。焦がしすぎれば、木そのものが弱る。焦がさなすぎれば、意味がない。頃合いを見極めるのは、目と、鼻だった。


薪の爆ぜる音がして、樽の内側から、白い煙がゆっくりと立ち上った。木の焦げる匂いが、潮の匂いに混じる。手下衆の幾人かが、遠巻きに眺めていた。物珍しそうな顔もあれば、鼻白んだ顔もあった。


「これしきのことで、水が変わるものか」


誰かが、そう呟くのが聞こえた。


わたしは、答えなかった。証は、いずれ、水そのものが立てる。言葉で言い争うより、そのほうが、よほど早い。


---


十日ほどして、水の匂いが、目に見えて変わった。


腹を下す者が減った、と、古参の一人が言った。誰に命じられたわけでもなく、その話は、陣屋の隅々まで、勝手に広まっていった。


「あの女、荷にしては、使えるらしい」


そう囁く声を、わたしは、幾度か耳にした。


井戸端で、水汲みをしていた二人の男が、こちらに気づかぬまま、話しているのも聞いた。


「腹を下さんようになったな」


「うむ。あの女が来てからだ」


「荷が、指図するとはな」


「指図というほどでもない。ただ、教えただけだ」


言葉の端々に、まだ棘はあった。だが、荷を扱うときの響きとは、少し違って聞こえた。


弥九郎一人の得ではなく、船に乗る者すべての得になる。そういう形の技を、初めて、この一団に差し出した。


「水のことは、聞いた」


弥九郎が、そう声を掛けてきたのは、その数日後だった。


「陳の家では、帳を検めるだけだったお前が、今度は、そんなことまで知っておるとはな」


「知っておりました。ただ、それだけにござります」


「出した銭は、もう幾らか取り戻せたということだな」


弥九郎は、そう言って、少し笑った。値踏みの言葉だったが、以前のような、値踏みだけの目ではなかった。


胸の内が、少し軽くなった。だが、値は、まだ十分には上がっていない。荷から一歩、対等な相手へ近づいただけで、まだ、その先には遠かった。


一つ目の策は、これで終わりではなかった。ただの糸口に過ぎなかった。


---


同月末 福建 泉州府徳化


弥九郎に頼み込んで、徳化行きの許しを得た。


「陳家の縁で、腕のある職人を知っておりまする。連れて参れれば、一団の役に立ちましょう」


そう言うと、弥九郎は、少し考えてから、頷いた。


「行ってこい。ただし、十日で戻れ」


三日かけて、山道を歩いた。道は、以前歩いたときと、ほとんど変わっていなかった。道端の、割れた器の欠片の山も、あのころより、少し大きくなっているように見えた。


歩きながら、頭の中では、既に話がまとまっていた。木も、骨も、灰も、島にはいくらでもある。窯を築く場所も、いくらでも選べる。呉徳全に足りないのは、それを使わせてもらえる先だけだ。ならば、こちらがそれを差し出せば、否やはないはずだった。


数えれば数えるほど、話は通るはずだった。


以前、この道を歩いた帰り、宿の紙の隅に、こう書き添えたことがあった。技ではなく、人を運ばねばならない。あのときは、行く先の当てもないまま、気の早い考えだと、自分でも戒めた。


いま、その当てが、ようやくできた。書き添えた一行を、実地に移すときが来たのだと、胸の内で、静かに繰り返した。


窯場に着くと、呉徳全は、朝と同じ姿勢で、土をこねていた。


「呉殿」


呉徳全が、顔を上げた。


「小娘か。陳家は、どうした」


「潰れましてござります。陳様は、遠地へ流されました」


呉徳全の手が、一瞬だけ止まった。それから、また動きはじめた。


「そうか」


短い一言だった。それ以上は、訊かれなかった。


「また参りました。前に、暇なときにでも、と仰せくださいましたゆえ」


「言うたな」


呉徳全は、口の端だけで、わずかに笑った。


---


「呉殿。お願いがござります」


「言うてみい」


「わたくしは、いま、日本の男の一団におりまする。船で、瀬戸内という海へ帰ります。呉殿の腕を、その地で使うていただけませぬか」


呉徳全は、手を止めた。


「窯を、そちらに作れ、ということか」


「はい。木は、いくらでもござります。骨も、灰も、ござります。呉殿の腕さえあれば」


「その島とやらは、どれほどの広さじゃ」


「まだ、この目で見てはおりませぬ。されど、海に囲まれ、木は尽きぬと聞いておりまする」


「見てもおらぬ島に、わしを呼ぶか」


「呼びまする。この目で見るより先に、呉殿の腕が、要ると分かっておりますゆえ」


呉徳全は、しばらく黙って、こちらを見ていた。それから、また轆轤を回しはじめた。


「土は」


その一言に、わたしは、答えに詰まった。


「まだ、見つけておりませぬ」


「土がのうて、何を焼く」


呉徳全は、そう言って、また土をこねはじめた。


「土だけの話ではのうて、あんたには、焼く場所がない」


「場所とは」


「窯を築く場所。薪を運ぶ道。売り先。窯を守る人手。焼き物は、土と火だけでは、できぬ。土地に根を張った、幾重もの支えの上に、ようやく立つものじゃ」



その一言で、頭の中で組み上げていた算段が、音を立てて崩れた。指先から、すっと血の気が引いていくのが分かった。


木も骨も灰も、確かに用意はできる。だが、それは、器の材でしかない。呉徳全がこの窯場で生きてこられたのは、材のゆえではなく、幾十年も同じ土地で、同じ人々の間で、少しずつ築いてきた繋がりのゆえだった。それは、船に積んで運べるものではなかった。


腕と、材と、場所さえ揃えば、人は動く。そう見込んでいた自分の勘定が、根から間違っていたのだと、いま、ようやく分かった。


その言葉に、わたしは、何も言い返せなかった。



正しかった。


だが、正しいと認めることと、諦めることとは、別だった。


足りないのは、材でも、腕でもなかった。根を張れる場所だった。まだどこにあるとも知れぬ島に、まず土地と、人と、暮らしを、こちらの手で作らねばならない。それができて、初めて、人は動く。


いまの自分に、何が足りていないのかが、ようやく、はっきりと見えた。


---


「呉殿の腕を、惜しんでおりまする」


「惜しんでどうする」


「惜しいものは、惜しいと申し上げたいだけにござります」


呉徳全は、しばらく手を止めて、こちらを見た。


「あんたは、変わらぬな。腕にも銭にもならぬことを、まっすぐに言う」


「……」


「じゃが、わしは、この窯を離れぬ。ここにしか、わしの飯の種はない」


「日本には」


「日本のことは、知らぬ。知らぬ土地に、腕一つで渡って、根付ける歳でもない」


呉徳全は、土をこねる手を、しばらく止めなかった。


「わしにも、弟子が二人おる。まだ、一人前には遠い。あれらを置いて、海の向こうへは行かれん」


その一言は、これまでの、素っ気ない物言いとは、少し違って聞こえた。


呉徳全は、そう言って、轆轤を回しはじめた。


それで、話は終わりだった。


---


窯場を辞する道すがら、胸の底が、重かった。


呉徳全だけではなかった。この数月、造船場の棟梁にも、老いた船乗りにも、火薬を扱う男にも、それとなく水を向けてみたことがあった。


棟梁は、笑って首を振った。


「わしがおらねば、この場は回らぬ。代々の弟子が幾人もおる。その者たちへの借財もある。一人だけ抜けるというのは、そう容易いことではない」


そう言って、棟梁は、こちらの申し出を、丁寧に、だが揺るぎなく退けた。


火薬を扱う男は、何も言わずに、ただ首を振るだけだった。口にできない筋の縛りがあるらしいと、あとで人づてに聞いた。


老いた船乗りには、直に会って、話をした。


「わしと一緒に来い、と申すか」


船乗りは、日に灼けた顔で、笑った。


「有難い話じゃ。じゃが、わしには、この土地に、病がちの婆さんがおる。置いては行けぬ」


「存じませんでした」


「言うたことがなかったからの」


船乗りは、水羅盤の使い方を教えてくれたときと、同じ、暇そうな顔をしていた。


「あんたに教えたことは、あんたの中に残る。それで十分じゃ。わしの躰まで、運ぶ要はない」


その言葉は、慰めのつもりだったのだろう。だが、慰めであるだけに、かえって重く響いた。鼻の奥が、つんとした。


技は、絵に描ける。だが、その技を支えている人の暮らしまでは、描き取れない。



——持ち帰れるのは、書いたものだけだった。


その一行を、頭の中で、幾度も繰り返した。


だが、書いたものだけでも、形にできるものはある。


老いた船乗りの水羅盤を、これまで幾度も手に取らせてもらっていた。石の重さ、針の細さ、水を張る器の深さ。目に焼きつけた形を、道中、紙に描き起こした。弩の造りも、火薬の男から盗み見た限りで、同じように図に起こしてあった。


泉州へ戻ったら、鍛冶屋と船大工に、それぞれ頼んでみよう。銭は、この一団の元手から、少しだけ借りる形になる。


「あんたの持ってきた図面通りに作れば、本当に、そのように動くのか」


鍛冶屋なら、そう訊くだろう。


「動きまする、おそらく」


そう答えるほかない。老人の持つ物ほど確かに動くという証は、どこにもない。試して、うまくいかなければ、また作り直せばいい。人は連れて帰れずとも、形だけなら、こちらの手で、いくらでも作り直せる。


喉の奥が、乾いていた。三日かけて歩いた道のりが、そのまま、手ぶらで戻る道のりになる。それでも、まったくの手ぶらではない、と自分に言い聞かせた。


---


泉州へ戻る山道で、日が傾いてきた。


木々の影が、長く伸びている。福建の山は、島門の丘とは、規模がまるで違う。この広さの、ほんの一部にしか、わたしの手は届かない。


一つ目の策は、半分だけ通った。倭寇の一団は、いくらか動かせるようになった。だが、人を運ぶという企ては、外れた。


二つ目の策と、三つ目の策は、まだ、頭の中にしまったままだった。


いま口にすれば、まだ早い。値は、もっと上げてからでなければ、通らない。


指を折って、数え直した。水の樽。分け前の割り方。船足の見立て。潮の記録。差し出せるものは、確かに増えている。だが、それでも、まだ足りない。二つ目、三つ目の策を切り出すには、この一団の中で、もう一段、値を上げておく要があった。


板間に戻ったら、今日見聞きしたことを、紙に書き留めよう。呉徳全の言葉。棟梁の借財。船乗りの妻。火薬の男の縛り。



一つも、連れて帰れるものはなかった。


それでも、書けば、いつか何かの役に立つかもしれない。土のこと、窯のこと、連房の造りのこと。人は運べずとも、見たものだけは、紙の上でなら、海を渡れる。


分からないまま、わたしは、暮れかけた山道を、陣屋へ向かって歩きつづけた。


一つ目の策は、これで打ち止めだった。人を運ぶことでは、これ以上、値を上げられない。


だとすれば、残る道は、二つしかなかった。


一つは、頭の中にある先の見通しを、この一団の行く末そのものに繋げること。もう一つは——己という一人の女を、この身のまま、差し出すこと。


どちらも、これまでの策より、はるかに危うい。危ういからこそ、値も、はるかに重い。


胸の内で、まだ言えずにいる二つの策が、静かに、出番を待っていた。


---


陣屋に戻ると、弥九郎が、待っていた。


「どうだった」


「断られましてござります」


「そうか」


弥九郎は、それだけ言って、しばらくこちらを見ていた。


「惜しい男を、逃したな」


「はい」


「じゃが、お前は、諦めが早い質ではあるまい」


その一言に、わたしは、顔を上げた。


「弥九郎殿には、そう見えますか」


「見える」


弥九郎は、短くそう言って、床几に腰を下ろした。


「まだ、何か企んでおる目だ」


その目は、鋭かった。だが、咎める色ではなかった。むしろ、面白がっている色に近かった。


わたしは、何も答えなかった。答える代わりに、頭を下げた。


弥九郎は、それ以上、問わなかった。


問わないことが、この男なりの、間の置き方なのだろう。急かせば、こちらが構えて口を閉じることを、知っているのかもしれなかった。


灯を一つだけ点けて、紙を広げた。


呉徳全の言葉を、まず書いた。棟梁の借財。船乗りの婆さん。火薬の男の縛り。


書き終えて、次の頁を、しばらく見つめた。



白いままの頁だった。


言葉にしてしまえば、後戻りができなくなる。それは、まだ、もう少し先でいい。


筆を洗い、紙束をしまって、わたしは、灯を吹き消した。

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