第十九話 また、荷になる
応永二十四年(一四一七)十二月 福建 泉州
陳家の門には、まだ封がされたままだった。
蔵も、書斎も、開かない。中に残された者たちは、庭と、下人部屋のあいだを行き来するだけの日々を、半月ほど過ごした。
火の気がない台所で、粥だけが日に一度、配られた。誰も、多くを話さなかった。話せば、この先どうなるかを考えねばならず、考えても、答えの出ないことばかりだったからだ。
下女の阿花は、十日ほどで、姿を消した。
役所の者が来て、二言三言、何かを告げ、そのまま連れていった。誰にも別れを言う間はなかった。空いた褥だけが、しばらく片づけられずに残っていた。
次は、誰か。
誰もが、口には出さずに、そう思っていた。
沙汰は、師走の半ばに届いた。
陳文興は、辺地への流罪と決まった。二度と、この町へは戻れない。
その報せを聞いたとき、喉の奥が、また渇いた。死罪ではなかったことに、安堵していいのかどうかも、よく分からなかった。生きて流されるということが、この人にとって、救いなのか、それとも、もっと長く続く罰なのか。
林という男がどうなったのかは、誰も教えてくれなかった。訊く先も、なかった。
その報せが届いた日の夕方、阿蓮が、わたしの部屋の前に立った。
「入ってもよいか」
「阿蓮」
わたしは、板間の隅に座ったまま、顔を上げた。
阿蓮は、旅支度をしていた。振り分け荷物を、肩に掛けている。
「出て行くのですか」
「俺は、荷ではない。陳様に雇われておっただけだ。あるじがおらんくなれば、雇いも消える」
その言い方は、いつもと同じ、ぶっきらぼうなものだった。だが、声の底に、これまで聞いたことのない硬さがあった。
「これから、どこへ」
「決めておらん」
阿蓮は、そう言って、少し笑った。
「陳様の下で、値の付け方だけは、嫌というほど仕込まれた。それを元手に、しばらく、独りでやってみる」
「一人で、商いを」
「大きいことは言えん。誰かの荷を運んで、口銭を取る。それだけのことから始める」
その言葉を聞きながら、わたしは、頭の中で、勝手に数を弾いていた。
——元手なし。後ろ盾なし。歳も若い。この町で、そういう者が独りで立つ見込みは、十のうち一つあるかどうか。
そう読んで、それ以上、何も言わなかった。言えば、根拠のない気休めになる。気休めは、この男がいちばん嫌う類のものだった。
だが、その勘定は、たぶん、見当違いだった。
阿蓮の顔には、見込みの高さを問うている者の顔ではなく、何か別のものがあった。それが何なのか、うまく言葉にできないまま、わたしは口を閉じた。
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「一つ、忠告をしてやる」
阿蓮は言った。
「陳家の身代は、役所が競りに掛ける。荷も、道具も、そして——あんたたちもだ」
「わたくしどもも」
「陳家の荷は、陳様の身代の内だ。人も同じ扱いになる」
わかっていたことだった。それでも、口にされると、腹の底が冷えた。
「競りでは、黙っておっては損をする。値を付ける者は、見た目と、聞いた話だけで値を弾く。あんたの本当の値打ちは、黙っておっては、誰にも分からん」
「では」
「あんたは、字が書ける。二国の言葉で帳が読める。潮も、荷の割りも分かる。そういうものは、黙って立っておっては、誰の目にも留まらん」
阿蓮は、荷物を担ぎ直した。
「陳様は、あんたの手を見て値を付けた。今度は、あんたが、あんたの手を、自分で見せてやれ」
それだけ言うと、阿蓮は、戸口で一度だけこちらを振り返った。
「借りは、多いほうが後で高う売れる、と言うたな」
「言われました」
「まだ、返してもろうておらん」
阿蓮は、そう言って、笑った。
わたしは、少し考えてから、口を開いた。
「では、一つだけ、いまお返しいたしまする」
阿蓮が、こちらを見た。
「値の違いには、たいてい理由がござります。理由の分からぬ違いを見つけたときだけ、そこに人の手が入っております。博多の叔父から、幼い時分に教わりました」
「それが、いまの役に立つか」
「立ちましょう。いまは、まっとうな荷ですら、動かす者が減っておりまする。取り締まりを恐れてのことにござります。されど、阿蓮殿には、疑われる理由がござりませぬ。皆が怖じ気づいておるいまのうちに、小さく、正直な荷を運べば、値は却って付きましょう」
阿蓮は、しばらく黙っていた。
それから、初めて、少し驚いたような顔をした。
「……その理屈、誰かに取られる前に言うたことを、悔やむなよ」
「悔やみませぬ」
「達者でおれ」
わたしは、頭を下げた。
顔を上げたときには、もう、阿蓮の姿はなかった。
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同月末 泉州 官の蔵地
競りの朝は、よく晴れていた。
役所の蔵地に、莚が敷かれ、陳家から運び出された荷が、種ごとに並べられていた。絹の反物、壺、家具、そして人。
反物の山の匂いが、まだ屋敷にいたころと変わらぬ、糊と樟脳の匂いだった。その隣に、書き損じの紙を焚く煙が上がっている。役人が、値のつかぬ書付を、片端から燃やしているらしかった。足かけ二年ぶんの帳の写しも、あの中にあるのかもしれなかった。
人は、庭の隅に、縄も掛けられずに立たされていた。逃げる先がないことは、誰もが知っている。島門の湊で見た光景と、寸分違わなかった。
老いた下男が二人。若い下女が三人。子どもが一人。
そして、わたし。
役人が、一人ずつ、前へ呼んだ。
年老いた下男の一人は、歯を検められただけで、次へ回された。値は、聞こえなかった。ただ、書役が何かを書きつけ、それで終わった。歳を取った男の値は、初めから、さして高くならないのだろう。
若い下女が呼ばれたとき、役人は、顔と手だけを見て、すぐに数を口にした。下女は、何も言わず、うつむいたまま連れていかれた。
その下女は、台所で幾度か言葉を交わした娘だった。名は、覚えていない。
覚えていないことに、いまさら気づいた。四年、同じ屋敷にいて、阿花の名しか覚えなかった。
その値を、わたしは、頭の中で書き留めた。安い値だった。あの下女が何を知り、何ができるかは、誰も尋ねなかった。尋ねられなければ、答えようもない。
塩を漬ける加減を、あの娘はよく知っていた。竈の火の残し方も、覚えの悪いわたしに、幾度も教えてくれた。
その一つも、値には入らなかった。
——黙っていれば、その値で決まる。
阿蓮の言葉が、耳の底で鳴っていた。
わたしの番が来るまで、まだ、少し間があった。
その間に、頭の中で、言うべきことを並べ直した。字が書けること。二国の帳が読めること。足かけ二年、蔵の帳を検めてきたこと。証は、陳家に残っている。順に並べれば、迷わず口から出せる。
白水衆の頭の前で、五つの約定を一つずつ数えたときと、同じやり方だった。あのときは、通らなかった。今度は、通す。
自分の番が来た。
「アソウ、チヨ」
書役が、名を読み上げた。陳文興が初めてこの名を書きつけたときと、同じ響きだった。
役人が、こちらの手を取ろうとした。
その前に、わたしは口を開いた。
「恐れながら、申し上げたき儀がござります」
役人の手が、止まった。
「字が書けます。日本の言葉と、明の言葉、両方の帳が読めまする。足かけ二年、陳家の蔵の帳を検め、狂いを幾つも正してまいりました」
役人は、値踏みするような目で、こちらを見た。
「証は」
「陳家の帳を、お検めくださりませ。この三月、蔵の帳は、すべてわたくしが写しておりました」
書役が、何か言い合っていたが、やがて、一人が奥へ走っていった。
戻ってきたとき、その手には、あの帳の一冊があった。証として持ち去られていたものが、いま、こちらの値を作る証にもなっていた。
——見せることには、いつも裏表がある。
書役は、頁をめくり、しばらく黙っていた。それから、値を口にした。
先ほどの下女の、五倍近い値だった。
胃の底が、重くなった。声を上げてよかったのかどうか、まだ分からなかった。ただ、黙っているよりは、確かに、ましだった。
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同日 泉州 市の広場
競りは、市の広場で行われた。
高い値のついた荷から、順に呼ばれる。わたしの番は、後ろのほうだった。
莚の上に立たされて、待つあいだ、喉の奥が渇いた。冬の日差しは弱く、風が首筋を刺した。
「アソウ、チヨ。字読み、算用に達者」
役人の声が、そう読み上げた。
数人が、こちらを見た。恰幅のよい商人らしき男が、一度、値を口にしかけた。屋敷勤めの帳付けが欲しいのだろう、値踏みする目つきでこちらの手元を窺っていた。
その値を役人が書き留めようとしたとき、人垣の向こうから、聞き慣れた訛りの声がした。
「その値、俺が出そう」
顔を上げた。
弥九郎が、そこに立っていた。
手下を二人だけ連れていた。いつもの、腰の得物だけが、やけに手入れの行き届いた姿だった。
先ほどの商人は、弥九郎の腰の得物と、後ろに控える手下の面つきを見て、すぐに口をつぐんだ。面倒事には関わらぬという構えで、値を引いた。
役人が、値を確かめる。弥九郎は、懐から銭を出させ、迷いなく払った。
やり取りが済むと、弥九郎は、こちらへ歩いてきた。
「久しいな」
「弥九郎殿」
膝が、ふいに震えた。安堵なのか、それとも別の何かなのか、自分でも判じかねた。
「陳の家が潰れたと聞いて、来てみれば」
弥九郎は、こちらを、上から下まで、値踏みする目で見た。だが、それは、これまでの、腹の底を探る目とは、少し違って見えた。
「お前、あの値、自分で口を開いたと聞いたが」
「はい」
「黙っておれば、二束三文で売られるところだったろう」
「はい」
「お前が仕組んだのか」
わたしは、少し迷ってから、答えた。
「阿蓮に、教えられましてござります」
弥九郎は、しばらくわたしを見ていた。
それから、初めて、少し笑った。
「相変わらず、正直な口を利く」
「弥九郎殿。あの夜、囲まれなんだ三人は」
弥九郎の目から、笑いが消えた。
「二人は、山を越えて逃げてきた。もう一人は」
弥九郎は、言葉を切った。
「分からぬままだ」
その一言で、十分だった。わたしは、それ以上、訊かなかった。
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役所の書きつけに、名が記された。
麻生千代。荒瀬弥九郎、これを買う。
その一行だけで、この足かけ三年、書き溜めてきた帳の量とは比べものにならないほど、わたしという者の値が、決まってしまった。
陳家の荷から、弥九郎の荷へ。
島門から博多へ、博多から泉州へと運ばれたときと、同じ形だった。違うのは、今度は、自分で声を上げたということだけだった。
それでも、荷は荷だった。
書きつけの一行に、名を刻まれる。誰に買われるかを、自分では選べない。声を上げて、値を上げることはできても、値そのものを消すことはできない。
弥九郎の後ろについて歩きながら、わたしは、指の先が、まだ冷たいことに気づいた。冬のせいばかりではなかった。
阿花のことを、思い出した。褥だけが残って、誰にも別れを言わずに消えた、あの下女のことを。
——わたしは、別れを言えた。
それだけ、恵まれていたのかもしれない。
阿蓮は、もう、この町のどこにもいない。
行く先を告げずに去った男の後ろ姿を、わたしは、いつまでも思い出せるだろうか。それとも、島門の焼け跡や、さよの背中と同じように、いずれ薄れていくのだろうか。
答えの出ないまま、わたしは、弥九郎の背を追って、市の雑踏を歩いていった。
雑踏の向こうに、船着き場の帆柱が、幾本も立っているのが見えた。
そのどれかに、これから乗せられるのだろう。行く先は、まだ、告げられていなかった。




