第十八話 海禁
応永二十四年(一四一七)十一月 福建 泉州
泉州の冬は、雪を知らない。
それでも、朝夕の風には、湿った冷たさが混じるようになっていた。港の石畳が、夜のうちに湿気を吸って、踏むたびに冷たさが足の裏から上がってくる。潮の匂いに、何か焦げたような匂いが混じっている日もあった。役所の門前で、何かを焼いているらしかった。
沖には、この数月、見慣れぬ船影が増えていた。
大きくはない。だが、動きが違う。荷を積んだ商船のように、のろのろとは進まない。岸に沿って、行きつ戻りつしながら、目を光らせている船だった。
「あれは、なんの船で」
阿蓮に訊いた。
「巡視の船だ。役所の水軍が、近ごろ、数を増やした」
阿蓮は、船影から目を離さずに言った。
「以前は、月に一度、通るかどうかだった。今は、三日に一度は見る」
市の入り口には、新しい高札も立った。
字は、まだ半分ほどしか読めなかった。それでも、「私自下海」「厳禁」という文字は、拾えた。
「あれは、何と」
「私に海へ出る者を、厳しゅう禁ずる、という触れだ」
「近ごろ、急に増えた。先月も、西の商家が一つ、潰れた」
「潰れた、と申しますと」
「抜け荷が知れて、主が捕らえられた。荷は、すべて役所に取り上げられた」
阿蓮の声は、いつもより低かった。
「その主は」
「知らぬ。噂では、極刑になったと聞いた」
その一言に、喉の奥が、急に渇いた。
明の海禁が厳しいことは、以前から聞いていた。だが、これまでは、遠い話だった。役所の触れも、余所の商家の噂も、この二年、耳を素通りしていくだけの音でしかなかった。
いま、その音が、初めて、こちらの胸の内側に届いた。
「なぜ、急に」
「知らぬ。上の御方が変わったとも、朝貢の船が近く出るゆえ、余分な穴を塞いでおるとも聞く」
阿蓮は、肩をすくめた。
「理由は、いつも、わしらの知らぬところで決まる」
その言い方に、わたしは、何も返せなかった。理由の分からぬ風向きに、命が左右される。それは、この二年、幾度も見てきたことだった。
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その日、書斎で、蔵の帳を検めているとき、指が止まった。
弥九郎の一団との取引を記した頁だった。この一年で、量が、はっきりと増えている。応永二十三年の冬に比べて、およそ三倍。
わたしは、頁をさかのぼって、月ごとに数を並べ直した。
初めは、月に一度か二度、小さな荷が動いていただけだった。それが、夏を過ぎたころから、月に五度、六度と増えている。荷の目方も、大きくなっていた。
それだけではなかった。
荷を出す刻限も、使う船着き場も、この数月、ほとんど同じだった。同じ刻限、同じ場所、同じ形の荷。
升の狂いを見抜いたのと同じ目で、この頁を見た。
——これは、危ない。
同じ形が続くということは、他人にも読めるということだ。役人が今宵どこを検めるかを迷ったとき、いちばん読みやすい形をした商いが、いちばん先に見つかる。
そして、この形を作ったのは、他でもない、わたし自身だった。
刻限を書き留め、荷の割り振りを組み、同じ船着き場を使えば無駄がないと勧めたのは、わたしだった。無駄のなさは、そのまま、読みやすさでもあった。
背筋が、冷えた。
わたしは、その頁を写し取って、陳文興のもとへ持っていった。
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書斎には、阿蓮も控えていた。
「陳様。近ごろ、取り締まりが厳しゅうなっておりますこと、お聞き及びでござりましょうか」
「聞いております」
陳文興は、静かに答えた。
「西の商家のことも」
「あれは、迂闊な商いをしておりました」
わたしは、写した頁を差し出した。
「わたくしどもの商いも、迂闊にござります」
陳文興の眉が、わずかに動いた。
「この一年で、弥九郎殿との取引が、三倍になっておりまする。しかも、刻限も、使う船着き場も、ほとんど変わりませぬ」
「読まれる、と」
「同じ形を繰り返すものは、いずれ、誰かの目に留まりまする。役人が疑うとき、まず見るのは、そういう形にござります。このまま参れば、いずれ、あの西の商家と同じ道を辿りまする」
陳文興は、しばらく、写した頁を眺めていた。
「量を減らせ、と」
「せめて、船着き場を変え、刻限をずらしなされませ。今すぐ止めよとは申しませぬ。ただ、同じ形だけは、続けてはなりませぬ。形さえ崩せば、目は逸れましょう」
問題を示し、利を示し、手段を示す。この二年、幾度も使ってきた型だった。損なわれるのは、この家の身代。守るのは、その身代。理屈の筋道に、狂いはないはずだった。
「もっともです」
陳文興は、そう言って、頁を置いた。
「もっともですが」
その先を、しばらく言わなかった。
「今月の荷だけは、変えられません」
「なぜにござりますか」
陳文興は、窓の外を見た。
「林という男を、存じておりますか」
「存じませぬ」
「三十年前、わたしがまだ小僧で、この町に流れてきたばかりのころ、飯も宿もない身を、拾うてくれた人です」
その声に、これまで聞いたことのない色があった。値付けの声でも、帳を読む声でもない。
「あのとき、わたしには、値打ちなど何もなかった。歯も、手も、見るまでもなかったでしょう。それでも、あの人は、飯を分けてくれました」
「林殿は、いま」
「息子が、博打の借りを作りました。相手が悪い。この月のうちに耳を揃えねば、命に関わります」
「それと、今月の荷と、何のかかわりが」
「今月の荷が、その銭になります」
わたしは、しばらく、言葉を探した。
「量を絞り、刻限を変えても、林殿への銭は作れましょう。急がずとも」
「急がねば、間に合いませぬ。相手は、月が変わるのを待ってはくれませぬ」
「されど、いま動けば、危のうござります。陳様御自身が、追われる身になりまする」
「わたしも、危ういと分かっております」
陳文興は、そこで、初めてこちらを見た。
「お嬢さんの数は、いつも正しい。今度も、正しいでしょう」
「では」
「値の話であれば、お嬢さんの言う通りにいたします。ですが、これは、値の話ではありません」
その一言で、わたしは、それ以上、何も言えなくなった。
——値の話ではない。
島門で、父が同じことを言った。筋を曲げて生き延びた家に、誰がついて参る、と。あのとき、わたしは、その言葉の重さを、ついに量れなかった。
いまも、量れない。
数の外側にあるものを、この人が抱えていることは、分かる。分かるが、それがどれほどの重さなのか、こちらの帳には、載せる欄がない。
隣で、阿蓮も、口を挟まなかった。ただ、拳を、袖の中で握っているのが見えた。
「陳様。お考えを、お改めいただくことは」
「ありません」
短い答えだった。だが、迷いはなかった。
わたしは、頭を下げるほかなかった。
「せめて、船着き場だけは、いつもと変えなされませ。それだけでも、いくらか、目は逸れましょう」
「それは、そういたしましょう」
陳文興は、頷いた。
その頷きに、わたしは、いくらか安堵した。だが、心の底では、それだけでは足りないと、数がはっきり告げていた。
数は、足りぬと告げている。それでも、この人を止める言葉を、わたしはこれ以上、持っていなかった。
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同月末 泉州 陳家
その夜のことは、いまも、匂いから思い出す。
冷えた霧の匂いに、松明の油の匂いが混じっていた。
荷が、いつもより早い刻限に出ることになっていた。船着き場も、言われた通り、変えてある。わたしは、書斎の窓から、その様子を見ていた。数えることしか、できることがなかった。
刻限まで、あとどれだけか。頭の中で、幾度も繰り返した。
不意に、遠くで、犬が続けざまに吠えた。
それから、足音。数えきれないほどの足音が、石畳を打つ音が、こちらへ近づいてくる。
心臓が、喉の位置まで跳ね上がった。
「阿蓮」
呼んだが、返事はなかった。阿蓮は、荷のほうへ出ていて、この場にいなかった。
門が、外から叩かれた。叩くというより、押し破るような音だった。
役人の一団が、なだれ込んできた。松明の灯りが、庭を、赤く照らした。声が飛び交ったが、明の言葉の早口は、七割方しか、耳に入ってこなかった。
陳文興は、庭に出ていた。
逃げなかった。
わたしは、書斎の陰から、それを見ていた。膝の裏が、笑っていた。動けば見つかると分かっていながら、足が言うことを聞かなかった。
役人の一人が、何かを読み上げた。陳文興は、それを、頭を垂れて聞いていた。
いつもと、同じ姿勢だった。荷を検めるときも、帳を読むときも、この人はいつも、こうして頭を垂れていた。
違うのは、いま、その頭の上に、抜き身の得物が向けられていることだけだった。
「連れて行け」
その一言だけ、はっきりと聞き取れた。
役人が、陳文興の両腕を取った。抗いはしなかった。
連れられていく途中、陳文興は、一度だけ、こちらを振り返った。
暗がりに隠れていたはずだった。それでも、この人には、見えていたのかもしれない。
何も、言わなかった。
ただ、いつもの、値をつける前の、静かな目で、こちらを見た。
それから、前を向いた。
門の外へ、連れ出されていった。
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蔵の扉に、役人の手で、封がされた。
書斎の帳も、根こそぎ持ち去られた。足かけ二年、わたしが検め、写し、直してきた、あの帳だった。
夜が明けてから、阿蓮が戻ってきた。頬に、擦り傷があった。
「阿蓮。荷は」
「今月の荷は、船着き場に着く前に、囲まれた。役人は、初めから、あの場所を知っていた」
「変えたはずでは」
「変えたところで、遅かった。誰かが、月の初めから、見張っておったのだろう」
阿蓮の声には、力がなかった。
「陳様は」
「役所に、繋がれておる。林の名も、既に知れておる。あちらも、追われる身だ」
わたしは、何も言えなかった。耳が、少し遠くなった気がした。
「持ち去られた帳は」
「証にされる。あんたが検め、写した、あの帳だ」
その一言に、指の先が、冷たくなった。
「弥九郎殿の手の者は」
「あの場に、五人おった。二人は、囲まれる前に、川へ飛び込んで逃げた。残る三人は、分からぬ」
胃の底が、重くなった。
弥九郎の一団にとって、この夜のことが、まだ届いていないかもしれない。届く前に、こちらから報せねば、次の一手を誤る。そこまで考えて、いま、自分がそれを報せる立場にすら、もう立っていないことに、気がついた。
——わたしが、正しく、丁寧に、写したものが。
読みやすく整えた数が、いま、この人を追い詰める証になっている。
見せることで、生き延びてきた。数を、隠さず、見せてきた。だが、見せたものは、味方の目にだけ届くとは限らない。
台所のほうから、下女たちのすすり泣く声が、細く聞こえていた。阿花の声も、そこに混じっているようだった。誰も、声を上げて泣くことは、許されていない。それでも、堪えきれない者はいた。
「陳家は、いかがなりましょう」
阿蓮は、しばらく黙っていた。
「分からぬ。だが、陳様がおらねば、この家を差配する者が、おらぬ」
「わたくしどもは」
その先を、阿蓮は、言わなかった。
言わなかったことが、答えだった。
主を失った家の荷が、どうなるか。それをこの身で味わっている。あのときは、焼け跡から博多へ、博多からこの町へと、値をつけられながら運ばれた。今度もまた、同じ道が、待っているのかもしれない。
「陳様は、林殿を、見捨てられなんだ」
わたしは、独り言のように呟いた。
「損だと、分かっておられたはずにござります。それでも」
「わしにも、分からぬ」
阿蓮は、そう言って、擦り傷に触れた。
「わしの叔父のことも、陳様は、あんたを咎めなんだ。損得だけで動く御方なら、あんたを咎めておられたはずだ。あんたのおかげで、蔵の狂いは、幾つも正された」
その言葉に、わたしは、答えられなかった。
数では測れないものを、この人は、確かに幾つも抱えていた。それを、わたしは、いつも遅れて知る。知ったときには、たいてい、もう遅い。
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夜が更けてから、ようやく、紙束を広げた。
灯は、一つだけだった。
陳文興、捕らわる。
そこまで書いて、筆が、止まった。
続けて書くべきことが、いくつもあった。林という名。船着き場が知れていたこと。持ち去られた帳のこと。
だが、その先に、もう一行、書かねばならないことがあった。
わたしは、これから、どうなるのか。
その一行だけは、どれほど筆を構えても、続きが出てこなかった。
数えることなら、できる。荷の量も、潮の刻限も、分け前の割り方も、この足かけ三年、迷わず書いてきた。だが、自分の身の行方だけは、どの帳にも、書き方が載っていなかった。
手が、かすかに震えていた。寒さのせいだけではないと、自分でも分かっていた。
これと同じ朝が、かつてあった。父が死に、兄が死に、湊が焼けたあの日、何を書けばいいのか分からぬまま、ただ膝を抱えていた。あのときは、何もできなかった。十一の娘には、できることなど、何もなかった。
いまも、何ができるのかは、分からない。陳家がこの先どうなるのかも、弥九郎の一団がどう動くのかも、まだ見えない。
それでも、あのときの十一の娘とは、違う。足かけ三年、この地で、数を作り、証を出し、人を動かす技を積んできた。黙って流され、値をつけられるのを待つだけの身に、もう戻りとうない。
何をすべきかは、まだ分からない。分からないが、分かるまで、ただ座って待つことだけは、しない。
わたしは、紙束をしまわず、新しい頁を、一枚めくった。
霧が、いつもより深く立ちこめていた。灯を吹き消しても、その白さだけは、板戸の隙間から、うっすらと見えていた。
その白さの向こうで、夜通し、犬が吠えていた。




