第十七話 棟梁
応永二十四年(一四一七)七月 福建 泉州 陣屋
甚助のことがあってから、弥九郎は、少し変わった。
以前は、稼ぎの相談も、船の見立ても、こちらの答えを聞くなり、すぐに次へ移った。だが、あの一件から、話が終わったあとも、しばらく、無言でいることが増えた。
その夜も、そうだった。
潮の記録を渡し終えたあと、弥九郎は、床几に腰かけたまま、動かなかった。
「弥九郎殿」
「……ん」
「何か、お考えでござりますか」
弥九郎は、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「甚助のことを、考えておった」
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「あいつは、俺が拾うた男だ」
弥九郎は、そう語りはじめた。
灯りは、一つだけだった。小屋の隅に置かれた灯明が、弥九郎の横顔を、片側だけ、淡く照らしている。もう片方は、闇に沈んでいた。
いつもの、こちらを見透かすような鋭さは、そこになかった。ただ、疲れた男の顔が、そこにあった。
わたしは、黙って、聞いていた。話す気があるときに、余計な口を挟むべきではないと、この二年で学んでいた。
「十年前、まだ俺が頭に立つ前のことだ。飢饉の年でな。瀬戸内のあちこちで、食い詰めた者が、あぶれておった」
「十年前と、仰いますと」
「俺が、十四のころだ」
その歳に、わたしは、少し驚いた。弥九郎自身も、飢えた側にいた歳だ。
「俺の親は、その飢饉で死んだ。父も、母も。残されたのは、俺と、弟が一人」
弥九郎の声に、これまで聞いたことのない響きが混じった。淡々としているが、その淡々さの底に、何か、深く沈んだものがあった。
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「弟を食わせるために、盗みを働いた。海に出て、漁を横取りすることもした。それでも、足りなんだ」
「弟殿は」
「死んだ。俺の目の前で」
その一言は、短く、だが、重かった。
弥九郎は、それ以上、詳しくは語らなかった。語らないことで、かえって、その場面の重さが、こちらに伝わってきた。飢えた子どもが、目の前で、兄の腕の中で息絶える。想像するだけで、喉の奥が、詰まる思いがした。
わたしは、何も言えなかった。慰めの言葉は、この場に、ふさわしくない気がした。
「それから、俺は、誓うた」
弥九郎は、続けた。
「二度と、目の前で、腹を空かせた者を死なせぬ、と」
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「甚助は、あの飢饉のとき、俺と同じように、親を失うた子だった。俺より、いくつか下だったか。拾うて、飯を食わせて、船に乗せた」
「なぜ、拾われたのでござりますか」
「理由なぞ、ない。ただ、放っておけなんだ」
その言葉に、わたしは、少し戸惑った。損得だけで動く男だと、ずっと思っていた。だが、いまの話は、損得の理屈では、説けないものだった。
「弥九郎殿は、損得だけで動かれる方だと、思うておりました」
「そう見えるように、しておる」
弥九郎は、そう言って、初めて、こちらを見た。
「頭が情に流されれば、一団は保たん。だから、損得で語る。そのほうが、皆が納得しやすい」
「では、本当は」
「本当のところは、俺にも、よう分からん」
弥九郎は、そう言ってから、少し考えるように、間を置いた。
「じゃが、損得だと言うておるのも、まるきり嘘というわけではない」
「と、仰いますと」
「手下は、俺にとって、確かに、資本でもある。稼がせて、勝たせて、食わせる。それができておるあいだは、皆、俺についてくる。できなんだら、誰もついてこぬ。それだけのことだ」
その言い方には、先ほどまでの、疲れた男の声とは、また違う響きがあった。もっと、乾いた、頭に立つ者としての声だった。
「甚助のような、あの飢饉を生き延びた古い連中とは、俺の負い目が繋ぎ止めておる。あいつらは、俺の弟が死んだことも、俺があの年に何をしたかも、知っておる」
「新しゅう入った者たちは」
「あいつらは、俺の負い目なぞ知らん。ただ、飯を食わせてくれる頭に、ついてきておるだけだ。それでよい。それで、十分だ」
「同じ一団の中に、二つの繋がり方が」
「そうだ。古い連中には、負い目で応える。新しい連中には、稼ぎで応える。どちらか一方だけでは、この一団は保たん」
その言葉に、わたしは、なるほど、と思った。
負い目だけで語れば、それは、この男一人の内側の話で終わる。だが、稼ぎという分かりやすい理があれば、負い目を知らぬ者たちにも、この男についていく理由が生まれる。
損得の理屈は、鎧であると同時に、負い目を知らぬ者たちを繋ぎ止める、確かな綱でもあった。
「では、わたくしは」
「お前は、まだ、どちらでもない」
弥九郎は、そう言って、少し笑った。
「古い連中のように、負い目で繋がってもおらん。新しい連中のように、ただ稼ぎだけで繋がってもおらん。お前は、どちらとも違う場所に、まだ、ぽつんと立っておる」
その言葉に、わたしは、何と返せばよいか、分からなかった。
その答えは、正直だった。
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「甚助は、古い連中の一人だった。俺にとっては、弟の代わりのようなものだった」
手下の命が、この男の唯一の資本だと、ずっと思っていた。
その見立ては、まるきり間違っていたわけではなかった。新しく加わった者たちにとって、この男は、確かに、稼がせ、食わせる頭でしかない。その限りでは、資本という言葉は、いまも生きている。
だが、甚助のような、古い連中に限って言えば、資本という言葉だけでは、足りなかった。彼らは、この男にとって、償いきれない負い目でもあった。
弟を救えなかった負い目を、その一人一人に、償い続けている。
資本であれば、損得の勘定で扱える。増えれば喜び、減れば惜しむ、それだけのことだ。だが、負い目は、勘定では終わらない。減るたびに、古い傷が、また開く。甚助は、その、負い目のほうの一人だった。
甚助が死んだ夜、弥九郎が、潮を承知の上で船を出したわけが、いま、ようやく分かった気がした。あれは、資本を惜しむ勘定ではなかった。弟を、二度、見殺しにするわけにはいかなかったのだ。
同じ男の中に、勘定で語れる部分と、勘定では語れない部分とが、同時にあった。そのどちらも、嘘ではなかった。
そう気づいたとき、わたしは、これまで見ていた弥九郎の姿が、少しだけ、違って見えてくるのを感じた。
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「甚助のことは、俺の落ち度だ」
「弥九郎殿の」
「段取りを立てたのは、お前だ。じゃが、その段取りを、皆に呑ませたのは、俺だ。仲間を置いていかぬという、皆の性分を、俺が、お前に伝えておかなんだ」
「なぜ、お伝えにならなんだのですか」
弥九郎は、少し黙った。
「お前が、あまりにも、数と理屈で通す女だったゆえ、それだけで十分だと、油断しておった」
その一言に、わたしは、何か、胸の奥を突かれる思いがした。
——油断していたのは、わたしのほうだけではなかった。
これまで、失策は、すべて自分の落ち度だと、そう思い込んでいた。数を見誤った、心を読み損ねた、その責を、一人で背負い込もうとしていた。
だが、いま、目の前の男は、その責の一端を、自ら引き受けようとしている。誰かに責を押しつけて楽になる道もあるのに、この男は、それを選ばなかった。
その姿を見て、わたしは、少し、意外の念を覚えた。損得だけで動く男が、なぜ、こうも容易く、自分の非を認めるのか。
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「弥九郎殿。お伺いいたしたき儀が」
「なんじゃ」
「棟梁になられたのは、いつのことでござりますか」
「二十で。先代が、海で死んだ」
「その前は、どうしておられたのでござりますか」
「先代の下で、下働きをしておった。弟を喪うたあと、拾われてな。船倉の掃除から始めて、少しずつ、荷の見張りを任されるようになった。甚助のような、同じ年に親を喪うた子らを、俺の裁量で使えるようになったのは、十七、八のころだ。それでも、頭ではなかった。頭に立つには、まだ早かった」
「お若うござりましたな」
「若かった。じゃが、他に、なる者がおらなんだ」
弥九郎は、少し、自嘲するような笑いを浮かべた。
「頭に立つというのは、いいものではない。皆を食わせる責を、一人で負う。誰かが死ねば、その責も、一人で負う」
「重うござりましょう」
「重い。じゃが、負わねば、皆が飢える」
「弥九郎殿御自身は、誰かに、その重さを、預けとうはならぬのでござりますか」
弥九郎は、少し、驚いた顔をした。
「そのようなことを訊く者は、初めてだ」
「お答えいただかずとも、よろしゅうござります」
「いや」
弥九郎は、しばらく黙って、それから、こう言った。
「預けたいと思うたことは、ある。じゃが、預けられる相手がおらなんだ。頭というのは、そういうものだ」
その言葉に、わたしは、何か、胸を突かれるものを感じた。
頭に立つということは、預ける相手を持てぬということでもあるらしい。損得で語る鎧の下に、この男は、ずっと、一人で立ち続けてきたのだろう。
その言葉に、わたしは、島門の父のことを思い出した。
父もまた、家を負う重さに、押し潰されていた。筋を通すことと、家を守ることの、どちらも捨てられずに。
弥九郎もまた、損得の理屈を掲げながら、その裏で、誰にも言えない負い目を、一人で背負い続けている。
似ている。
そう思った瞬間、この男を見る目が、少しだけ変わったのを、わたしは、はっきりと自覚した。
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「弥九郎殿は、恐ろしいことは、ござりませぬか」
「ある」
即答だった。
「何を、恐れられます」
「また、目の前で、誰かを死なせることだ」
その答えに、迷いはなかった。
「損得で語っても、それだけは、消えぬ。夜な夜な、それだけは、消えぬ」
その声には、これまでの荒々しさが、少しもなかった。ただ、静かな、恐れがあるだけだった。
わたしは、この男が、夜、一人で、その恐れと向き合っている姿を、想像した。昼のあいだ、皆の前では、迷いのない声で命じている男が、夜になれば、消えない恐れに、一人で耐えている。
それを、誰にも見せずに、また朝が来れば、いつもの顔で、船を出す。
わたしは、しばらく、その言葉を、胸の内で反芻した。
これまで、この男を、使える駒として、あるいは、扱いやすい主として、見てきた。数と理屈で動く相手だからこそ、こちらも数と理屈で応じればよいと、そう割り切っていた。
だが、その割り切りの裏に、この男自身の、割り切れないものが、確かにあった。
損得で動く男を、損得で御する。それは、正しいやり方のはずだった。だが、正しいやり方だけでは、掴みきれないものが、人にはある。升の裏に隠れた与三次の想い、兄が黙って三日座り続けた意地、そして、いま、この男が抱える負い目。
数えられるものと、数えられないもの。その両方を併せ持つのが、人という生き物なのだと、あらためて思い知らされた。
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板間へ戻っても、しばらくは、筆を執る気になれなかった。それでも、忘れないうちにと思って、紙を広げた。
だが、いつもとは、違う書き方になった。
潮の記録でも、分け前の割り方でもない。ただ、弥九郎という一人の男の来し方を、思い出せる限り、書き留めた。
十四で親を失い、弟を失い、二度と死なせぬと誓った男。損得の理屈を、鎧のようにまとって、その裏で、負い目を一人で抱え続ける男。
書きながら、頭の隅で、別の声がした。
——これは、使える。
古参の心をどう繋ぎ止めるか、新参にどう向き合わせるか。いま聞いた話をそのまま数の形に組み直せば、この一団を、これまで以上に御する道具になる。
その考えが浮かんだ瞬間、指が止まった。
たったいま、この男は、誰にも見せたことのない傷を見せてくれた。それを、わたしは、もう策の材料として値踏みしている。
——嫌な女だ、わたしは。
そう思っても、それ以上、考えを打ち切ることはできなかった。書き終えた紙を、しばらく見つめた。使うかどうかは、まだ決めていない。だが、使えると分かってしまったことだけは、もう、消せなかった。
書きながら、わたしは、自分の中で、何かが変わったのを感じていた。
これまで、弥九郎を、「使える」かどうかで測っていた。だが、いまは、違う目で、この男を見ている。
——それが、何であるかは、まだ、名付けられなかった。
前の生でも、この生でも、人を見るとき、わたしは、いつも、その人が何をできるか、何を持っているかを、まず数えてきた。それは、生きるための術でもあった。数えることでしか、人との間合いを測れなかった。
弥九郎もまた、そうやって数えてきた相手の一人だった。損得で動く男、扱いやすい主、理屈の通じる相手。そういう見方で、測り続けてきた。
いま、その物差しの外側に、この男の別の顔があることを知った。知ったところで、何が変わるわけでもない。明日も、潮を記し、段取りを組み、この男の勘定に応え続けるだけだ。
それでも、何かが、確かに変わった。
名付けられないまま、わたしは、筆を置いた。
窓の外で、いつもと同じ夜風が、吹いていた。だが、その夜風を受ける自分の心持ちが、これまでとは、確かに違っていた。




