第十六話 外れる
応永二十四年(一四一七)六月 福建 泉州 陣屋
その旬ほど前、弥九郎に、初めて、稼ぎに関わる助言を求められたことがあった。
「二つの湊、どちらを先に狙うか、迷うておる」
弥九郎は、そう言って、地図がわりの粗い絵図を、机に広げた。
「一方は荷が多いが、見張りも厚い。もう一方は、荷は少ないが、隙が多い」
わたしは、記録してきた潮の表と、これまで聞き集めた二つの湊の様子を、頭の中で並べた。
これまで、潮を読み、分け前を割り、豆を勧め、船の傷みを見立ててきた。どれも、この一団を支える働きだった。だが、いま求められているのは、違う種類のことだった。
どちらの湊を、先に襲うか。
それを、この身が、選ぶことになる。
指先が、わずかに強張った。誰かの湊が、今宵、この助言のせいで、荒らされることになる。その誰かの顔も、名も、わたしは知らない。知らないまま、選ぶことになる。
一瞬、口をつぐんだ。
だが、答えぬわけにはいかなかった。答えねば、ここにいる意味がない。この陣屋で、居場所を得るために、いま、まさにこの一線を越えねばならないのだと、頭のどこかで、冷たく分かっていた。
「見張りの厚いほうは、潮の流れが速うござります。船足が出にくく、退くときに手間取りましょう。手薄なほうから、まず手をつけられませ」
「なぜだ」
「小さゅう獲って、確かに退くほうが、大きゅう獲って手間取るより、後々の実入りは多うござります。二度、三度と稼げまするゆえ」
弥九郎は、しばらく黙って、それから頷いた。
「よかろう。そちらから行く」
その夜、手薄なほうの湊を叩いた稼ぎは、大きな損もなく、思ったより多くの荷を得て終わった。
翌朝、弥九郎が、書役の場に顔を出した。
「お前の見立て通りだった」
「恐れ入りまする」
「潮のことだけかと思うておったが、こういう見立ても、できるらしい」
その一言に、わたしは、内心、少し誇らしい気持ちになった。潮の記録という、限られた技だけではなく、段取りそのものを見立てる技を、初めて、この男に認められた気がした。
同時に、昨夜の強張りのことも、思い出していた。
誰かの湊を選んだ。その選びに、迷いを見せた自分がいた。だが、いざ答えを口にしてしまえば、あとは、いつもの理屈が、すらすらと出てきた。一度越えてしまえば、越える前の強張りは、存外、あっさりと薄れていくものらしい。
——それが、恐ろしい。
そう思う自分と、誇らしいと思う自分が、同じ胸の内に、並んで座っていた。
---
その旬が明けたころ、弥九郎に、今度は、もっと大きな相談を持ちかけられた。
「北の入り江に、荷を積んだ船が停まっておる。手薄な船だ。今宵、潮が変わる刻限に叩きたい」
わたしは、記録してきた潮の表を、頭の中で辿った。
「戌の刻に、潮が引きはじめまする。その前に、片をつけねばなりませぬ」
「どれくらいの間がある」
「四半刻ほど」
弥九郎は、頷いた。
「それだけあれば、足りる」
---
わたしは、記録の傍ら、その夜の段取りを、頭の中で組み立てた。
船は三艘出す。うち一艘は、陽動として、入り江の反対側から近づける。残る二艘で、本命の船を挟み撃ちにする。
潮が引きはじめれば、浅瀬に足を取られる船が出る。だから、四半刻以内に、荷を移し終え、退かねばならない。
「もし、間に合わなんだら、いかがなさいますか」
わたしは、念のため、そう訊いた。
「間に合わせる」
「万一の場合にござります」
弥九郎は、少し考えて、こう言った。
「間に合わぬ者が出れば、置いていく。潮に取られては、元も子もない」
その理屈は、正しかった。全体を生かすために、一部を切り捨てる。数の上では、いちばん損の少ないやり方だった。
「承知いたしました」
わたしは、その通りに、段取りを紙に書いた。
四半刻という区切り。それを超えれば、退く。誰であろうと、待たない。
書きながら、これが、正しい段取りだと、確信していた。三艘のうち一艘が損なわれるより、全体が無事に戻るほうが、明らかに得だ。損の少ない道を選ぶのは、これまで何度も、この一団のために示してきたことだった。
弥九郎に、この段取りを見せると、頷きが返ってきた。
「よい。その通りにやらせる」
異論は、なかった。段取りに、迷いは、微塵もなかった。
---
その夜、陣屋の隅で、わたしは、船が出ていくのを見送った。
見送りながら、頭の中で、幾度も、段取りを確かめた。
戌の刻まで、四半刻。潮が変わる刻限は、この二月、書き留めてきた表から、外れたことがない。
外れることは、ない。
そう思っていた。
わたしは、机に戻って、その夜の分の記録を、他の紙に書き写していた。手を動かしていれば、待つ間の落ち着かなさが、いくらか紛れた。
だが、夜半過ぎ、戻ってきた船の様子が、おかしかった。
---
三艘のうち、二艘は、無事に戻った。だが、最後の一艘が、なかなか戻らなかった。
陣屋の男たちが、松明を掲げて、川口に集まりはじめた。
わたしは、その輪の外から、様子を窺った。
「何が、あった」
弥九郎の声が、緊迫していた。
戻った船の一人が、息を切らしながら、報告していた。
「松吉が、荷を運ぶ最中に、足を挟まれました。板の隙間に。すぐには抜けず……」
松吉。
その名に、聞き覚えがあった。若い手下の一人だ。名は知っていたが、話したことはなかった。
「置いてきたのか」
弥九郎の問いに、報告の男は、一瞬、答えに詰まった。
「……いいえ。仲間が、二人、残りました。松吉を助け出すために」
その一言に、わたしは、息を呑んだ。
段取りには、なかったことだった。
---
四半刻を超えて、潮は、既に引きはじめていた。
浅瀬に、船が取られる。そこへ、荷主の側の見張りが、異変に気づいて、集まってくる。
駄目だ。
頭の中で、数が、崩れていく音がした。
置いていくはずだった一人のために、二人が残った。残った三人が、いま、浅瀬に取り残された船と共に、危うい場所にいる。
弥九郎が、松明を掲げて、自ら船着き場へ走った。
「船を出せ。助けに行く」
「棟梁、潮が」
「分かっておる」
その声には、迷いがなかった。
わたしは、その背中を見ながら、動けなかった。
段取りを立てたのは、わたしだった。四半刻を超えれば退く、と決めたのは、わたしだった。
その段取りに、誰も、従わなかった。
---
半刻後、船が戻ってきた。
松吉という若者は、生きていた。足を痛めていたが、命に別状はなかった。
だが、助けに残った二人のうち、一人が、戻らなかった。
名を、聞いた。
甚助。
わたしの知らない名だった。だが、その名を呼ぶ声の重さで、この一団にとって、決して軽い名ではないことが分かった。
陣屋に、重い沈黙が下りた。
誰も、わたしを責めなかった。段取りが悪かったとは、誰も言わなかった。
それが、かえって、こたえた。
責められれば、まだ、楽だったかもしれない。責められれば、言い返す理屈を、探すことができる。段取りは正しかった、外れたのは人の心のほうだ、と。
だが、誰も何も言わず、ただ、松明の灯りだけが、川口に、いつまでも揺れていた。その静けさの中に、わたし一人だけが、行き場のない理屈を抱えて立っていた。
---
その夜、書役の机に座ったまま、わたしは、動けずにいた。
段取りは、正しかった。四半刻という区切りも、潮の読みも、何一つ、誤ってはいなかった。
誤っていたのは、そこではなかった。
——仲間を、置いていく者は、いない。
そのことを、わたしは、勘定に入れていなかった。
数の上では、最も損の少ない道を示した。だが、その道を、実際に歩く者たちの心までは、数えていなかった。
損得で動く一団だと、そう思っていた。弥九郎の口癖を、そのまま、この一団すべての性分だと、決めつけていた。
だが、損得のさらに奥に、損得では測れないものが、確かにあった。
蔵の帳の狂いを見つけたときも、白水衆に約定を持ちかけたときも、水を割ったときも、いつも、数と理屈が、こちらの側についていてくれた。数さえ正しければ、大抵のことは通った。その積み重ねが、いつのまにか、数さえ正しければ人は動く、という思い込みに変わっていたのかもしれない。
人は、数だけでは動かない。数の外側に、命より重い何かを、抱えて生きている者がいる。
それを、知らなかったわけではない。島門にいたころも、同じことを、幾度も思い知らされたはずだった。だのに、また、同じところで躓いた。
学ばぬ女だ。
自分に、そう吐き捨てたくなった。
---
翌朝、弥九郎が、書役の場に来た。
わたしは、頭を下げた。
「段取りが、至りませなんだ」
「段取りは、正しかった」
弥九郎は、そう言った。
「四半刻で退く。潮の読みも、外れておらぬ。お前の落ち度ではない」
「じゃが、甚助殿は」
「あれは、あいつらが、自分で選んだ道だ。お前が命じたわけではない」
その言葉は、慰めだった。だが、慰めであることが、かえって、重かった。
「弥九郎殿。お伺いいたしたき儀が」
「なんじゃ」
「仲間を置いていかぬ、ということを、なぜ、初めに仰せられなんだのですか」
弥九郎は、しばらく黙っていた。
「言わずとも、当たり前のことだからだ」
「わたくしには、当たり前ではござりませなんだ」
「……そうか」
弥九郎は、少し考えるような顔をした。
「お前の国では、そうではなかったのか」
「島門では、仲間を置いていくかどうかを、決めねばならぬ場に、そう幾度も立ち会うたわけではござりませぬ」
「……分かりませぬ。ただ、数えることに気を取られて、当たり前のことを、当たり前と気づけなんだのやもしれませぬ」
言いながら、それだけではないと、内心では分かっていた。数えることに気を取られていたのではない。数えることのほうが、心を測ることより、よほど得手だったから、そちらにばかり頼ってきただけだ。
得手なほうに逃げていた、と言われれば、返す言葉がなかった。
---
弥九郎は、しばらく、わたしを見ていた。
「お前は、数では、たいていのことを言い当てる。だが、時折、こういうことを見落とす」
その指摘は、鋭く、そして、正しかった。
「気に病むな、とは言わぬ。気に病め。それが、次に活きる」
その一言だけを残して、弥九郎は、去っていった。
去っていく背中を見送りながら、わたしは、この男もまた、損得だけの男ではないのだと、あらためて気づいた。
潮が引きはじめていると知りながら、自ら松明を掲げて船着き場へ走った、あの夜の背中を思い出す。あれは、損得の勘定ではなかった。少なくとも、あの一瞬だけは。
損得で動くと嘯きながら、いざとなれば、損得を捨てて走る。この男の中にも、数では測れない何かが、確かに息づいていた。
それを見誤っていたのは、わたしのほうだった。
---
わたしは、紙を開いて、その日の出来事を書き留めようとした。
だが、筆が、なかなか進まなかった。
甚助という名を、書いた。
その下に、何を続ければいいのか、分からなかった。歳も、顔も、どういう人であったかも、わたしは知らない。知らないまま、その人は、船を出さぬという段取りの外側で、命を落とした。
三年前、太平の名を、帳の余白に書いたときのことを、思い出した。
あのときも、名前だけを書いて、その先が続かなかった。
いまも、同じだった。
数えることには、長けている。だが、数えきれないものの重さを、いまだに、正しく量れずにいる。
その事実を、わたしは、幾度、思い知らされれば、身につくのだろうか。
分からないまま、わたしは、甚助という名の下に、小さく、一行だけ書いた。
仲間を置いていかぬ者、あり。忘れぬこと。
書いてから、その一行を、しばらく見つめていた。
数の帳には、決して載らない一行だった。潮の刻限にも、分け前の割り方にも、この一行は、何の役にも立たない。
それでも、書いた。
書いておかねば、また同じ場所で、同じように躓く気がした。次に段取りを組むとき、この一行を思い出せれば、今度は、数の外側にあるものを、あらかじめ勘定に入れられるかもしれない。
できるかどうかは、分からない。
分からないが、少なくとも、忘れずにはいたかった。
その夜、川口の松明は、明け方まで消えなかった。
誰かが、まだ待っているらしかった。




