第十五話 外の者
応永二十四年(一四一七)五月 福建 泉州 陣屋
書役の場を得てから、陣屋に通う日が増えた。
潮の記録は、順調に積み上がっていった。弥九郎は、幾度か、その記録をもとに船を出す刻限を変え、そのたびに、成果を上げていた。
だが、陣屋の空気が、こちらに慣れてきたかといえば、そうではなかった。
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ある朝、机に向かっていると、背後で、囁き合う声がした。
「あの女、また来ておる」
「棟梁のお気に入りらしいぞ」
「たかが荷が、いつのまに書役面じゃ」
わたしは、筆を止めなかった。聞こえていないふりをするのが、いちばん賢明だった。
だが、声は、止まらなかった。
「棟梁も、物好きよの。日本の女子ならいくらでもおろうに、よそ者に肩入れして」
——よそ者。
その言葉が、耳の奥に、はっきりと残った。
女だから、ではなかった。この一団に、女はほかにもいる。炊事や繕い物をする女たちが、幾人か、陣屋に出入りしている。彼女らは、疎まれてはいなかった。
嫌われているのは、女だからではない。外から来た者だからだった。
考えてみれば、当然のことだった。この一団の芯にいる古参は、瀬戸内の海の民として、長い年月をかけて、互いの信を積み重ねてきた者たちだった。生まれたときから海にいて、同じ飯を食い、同じ危うい橋を渡ってきた者同士の絆が、そこにはある。
新しく加わった者たちは、その絆を持たない。誰かに指図されるのが嫌で流れ着いた者、飯を食わせてくれる頭についてきただけの者。命を預け合った仲ではなくとも、この一団には居場所があった。
だが、そのどちらでもないわたしには、絆と呼べるものが、何一つなかった。
数と理屈だけを持って、ある日、突然、その輪の中に入り込んだ。輪の外から来た者を、輪の内の者が、すぐには受け入れない。それは、理屈でも何でもなく、ごく当たり前の、人の情の動きだった。
分かっていても、その視線の冷たさに、慣れることは、たやすくなかった。
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昼過ぎ、水を汲みに行こうとして、わたしは、若い手下の一人にぶつかった。
わざとではないとは、思えない仕草だった。
桶が倒れ、水が零れた。
「これは、失礼」
その言い草には、詫びる響きが、まるでなかった。
わたしは、黙って、桶を拾った。言い返したところで、益はない。ここで揉めれば、それこそ、外の者としての立場を、さらに悪くするだけだ。
「よそ者は、水汲みも下手か」
背後で、笑い声が起きた。
わたしは、振り返らなかった。振り返れば、それだけで負ける。三年前から、変わらない理屈だった。
だが、これまでの相手とは、少し違った。升の細工をした者も、水手も、賊も、皆、こちらの数と理屈に、最後には折れた。
ここの手下たちは、折れなかった。理屈で勝っても、態度は変わらなかった。
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その日の夕方、弥九郎に、そのことを話すべきかどうか、わたしは迷った。
結局、話さなかった。
話したところで、どうなるものでもない。むしろ、告げ口をする女、という評判が加わるだけだろう。
だが、弥九郎のほうから、その話を切り出してきた。
「若い連中が、お前に嫌がらせをしておると聞いた」
「……どこで、お聞きに」
「陣屋の中のことは、たいてい、耳に入る」
わたしは、答えに詰まった。
「気にすることはない」
弥九郎は、あっさりと言った。
「あいつらは、よそ者が気に入らんだけだ。お前でなくとも、同じことをする」
その言い方に、わたしは、少し違和感を覚えた。
「では、お咎めには、ならぬのでしょうか」
「咎める理由がない」
弥九郎は、こともなげに言った。
「あいつらは、悪さをしたわけではない。ただ、お前を嫌うておるだけだ。嫌うことを、咎めることはできぬ」
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その理屈は、正しかった。正しいだけに、余計に、胸の底が冷えた。
「棟梁は、わたくしを、庇うてはくださらぬのですか」
言ってしまってから、しまったと思った。甘えた物言いだった。だが、口をついて出た問いを、取り消すことはできなかった。
弥九郎は、しばらくわたしを見ていた。
「庇う理由がない」
その一言は、これまでのどの拒絶よりも、静かに、深く刺さった。
「お前は、銭になる。それは認める。だが、あいつらも、銭になる。手下がおらねば、船は出せぬ。お前一人を庇うために、手下との折り合いを崩す理由が、どこにある」
理屈は、通っていた。損得だけで動く男の、いつもの理屈だった。
これまで、その理屈を、頼りにしてきた。損得で動く相手は、扱いやすいと、そう思っていた。情に振り回されない分、こちらも、数と理屈だけで応じればよい。そう考えて、気楽にすら感じていた。
いま、その同じ理屈が、こちらを守らない理由にもなっている。
損得で動くということは、損得にならぬことは、一切やらぬということだ。庇うことに得がなければ、庇わない。それだけの、単純な話だった。
これまで、自分にとって都合の良い面だけを見て、この男の性分を、勝手に測っていたのかもしれない。
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「お前は、賢い」
弥九郎は、続けた。
「賢ければ、自分の身は、自分で守れよう」
「……どうすれば、よろしいのでしょうか」
「知らん。それは、お前が考えることだ」
にべもなかった。
わたしは、その場を辞して、書役の机に戻った。
筆を執ろうとしたが、手が、少し震えていた。
震えを、しばらく、じっと見ていた。
情けなかった。升の狂いを見抜いたときも、白水衆に約定を持ちかけたときも、これほど手が震えたことはなかったはずだ。数と理屈だけを頼りに、これまで、幾度も修羅場をくぐってきたつもりだった。
だが、あの理屈だけを述べる声の冷たさは、これまで浴びてきたどの敵意とも、違う質のものだった。刃を向けられる恐ろしさではない。ただ、静かに、当たり前のこととして、こちらの居場所を認めない、その静かさが、いちばん、こたえた。
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同月 半ば
陣屋での嫌がらせは、その後も、形を変えて続いた。
書きつけた紙が、風で飛ばされたことがあった。誰かが、わざと窓を開け放ったのだと、すぐに分かった。
水汲みの帰り、道に小石を撒かれていたこともあった。
どれも、咎めるほどのことではない。だが、積み重なれば、確かに、こたえた。
わたしは、それでも、陣屋に通い続けた。通わなければ、潮の記録は途切れる。途切れれば、これまでの積み重ねが、無駄になる。
負けてなるものか。
そう思う一方で、夜、板間で一人になると、指先が、冷たくなることがあった。
昼のあいだは、平静を装っていられる。だが、一人になった途端、抑えていたものが、じわりと滲み出てくる。飛ばされた紙を拾い集めたときの惨めさ。小石を踏んで転びかけたときの恐怖。それらを、昼は数と理屈で押し殺し、夜になって、ようやく、自分の身に何が起きたのかを、認めることになる。
そういう夜が、幾晩も続いた。
陳家では、危うい場に足を踏み入れることはあっても、こうした剥き出しの悪意に、直に晒されることはなかった。ここは、違った。
一度だけ、庇う素振りを見せた者がいた。
飛ばされた紙を拾い集めていたとき、古参の一人が、そばを通りかかって、足元の一枚を拾い上げ、無言で差し出した。
「かたじけのうござります」
男は、頷きもしなかった。ただ、紙を渡して、そのまま行ってしまった。
その背中を見送りながら、わたしは、その男の名を知らないことに気づいた。
この陣屋に通いはじめて、ひと月余りになる。何人もの顔を覚えた。誰が船に乗り、誰が陣屋に残るかも、大方は掴んでいる。
だが、名を知っている者は、数えるほどしかいなかった。
数は覚えている。顔も覚えている。名だけが、抜け落ちている。
島門で、同じことをした。三年いて、さよのことも、太平のことも、ほとんど何も知らなかった。
——また、これだ。
そう気づいて、しばらく、拾いかけの紙を持ったまま立っていた。
外の者だから輪に入れない、と、そう思っていた。だが、入れないのではなく、入ろうとしていなかったのかもしれない。
そこまで考えて、わたしは、その考えを、そっと脇へ置いた。
いま、名を覚えたところで、明日、何が変わるわけでもない。そう思うことにした。
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ある日、阿蓮が、久しぶりに陣屋を訪れた。
わたしの様子を見て、少し眉を寄せた。
「顔色が、良うない」
「そうでしょうか」
「隠さんでもいい。噂は、陳家にも届いておる」
わたしは、何も言わなかった。
阿蓮は、しばらく黙っていたあと、こう言った。
「弥九郎殿は、庇わぬ男だ。だが、それは、あんたを軽んじておるからではない」
「では」
「あの男は、誰も庇わぬ。手下同士の喧嘩も、揉め事も、よほどのことがない限り、放っておく。それが、あの男のやり方だ」
「なぜ、そのようなやり方を」
「自分の力で立てぬ者は、いずれ、この一団では立ち行かぬ。庇えば、庇われることに慣れる。慣れれば、いざというとき、自分の身を守れぬ」
その理屈は、厳しかった。厳しいが、一本、筋が通っていた。
「あんたが、ここでやっていけるかどうかを、あの男は、いま、試しておるのかもしれぬ」
「試されて、応えねば、どうなりましょうか」
「陣屋を去ることになろう。誰も、追い出せとは言わぬ。だが、居づらくなれば、自ら去る者は、これまでも幾人かおった」
阿蓮の声には、脅しの色はなかった。ただ、事実を、淡々と述べているだけだった。
その淡々とした調子が、かえって、事の重さを、はっきりと伝えてきた。
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その夜、わたしは、紙に、その日のことを書き留めながら、考えていた。
庇われない、ということ。
島門にいたころ、わたしは、いつも、誰かに守られる側にいた。父に、兄に、時に叔父に。守られながら、それでも届かない声を、もどかしく思っていた。
ここでは、守られること自体が、ない。
だが、それは、悪いことばかりでもないのかもしれなかった。
守られないということは、自分の力だけで、立たねばならぬということだ。誰の陰にも隠れず、誰の名も借りず、ただ、自分の数と理屈だけで、この場に居場所を作る。
それも、悪くない。
そう思おうとしている自分に、わたしは、少し驚いた。
厳しい場だった。だが、この厳しさの中でこそ、確かめられるものがあるのかもしれなかった。
窓の外で、陣屋の男たちの、荒っぽい笑い声が、遠く聞こえていた。
その声の中に、自分の居場所は、まだ、どこにもなかった。
だが、いつか、その声の中に、確かな一つを、自分の手で作る。
そのために、いま、何ができるのか。数を書き留めることは、既にしている。それだけでは、足りないのかもしれない。
数と理屈だけでは、この一団の輪には入れない。輪の内に入るには、輪の内の者たちだけが持つ、別の何かが要るのだろう。
その何かの正体を、わたしは、まだ、掴めずにいた。
——待って。
ふと、別の道筋が、頭に浮かんだ。
弥九郎は、庇う理由がない、と言った。裏を返せば、庇う理由さえあれば、庇うということだ。
あの男は、損得だけで動く。ならば、わたしを庇うことが、明らかにこの男の得になると分かれば、あの男は、迷わず庇うだろう。手下との折り合いより、こちらを守るほうが、得になると、そう思わせればよい。
情に訴えるのではない。理を積み上げて、庇わぬほうが損だと、勘定させればよい。
——それだ。
一瞬、光が差したように思えた。
だが、すぐに、その光は、萎んだ。
理を積み上げるには、まず、積み上げるだけの働きが要る。潮の記録一つでは、まだ足りない。弥九郎に、これなしでは立ち行かぬと思わせるほどの理を、いま、この身は、持っていなかった。
一朝一夕には、できない。
道筋は、見えた。だが、道筋が見えることと、その道を歩き切れることとは、別の話だった。
すぐには、無理だ。
そう認めるのは、少し悔しかった。それでも、無理なものは無理だと、自分に正直であるほうが、遠回りをせずに済む。
急いても、埋まらぬ隔たりが、この世にはある。潮の記録も、椎茸の技も、何もかも、時をかけて積み重ねることで、初めて確かなものになった。この理も、同じだけの時をかけて、積み上げるほかないのだろう。
そう思うと、目の前の冷たさが、少しだけ、耐えやすいものに思えてきた。
耐えやすくなっただけで、冷たさそのものは、何一つ変わっていなかった。




