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潮を編む――滅んだ小領主の娘、唐土に売られ、海賊の妻となる  作者: ハタ星人


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第三話 家を選ぶ人

応永二十年(一四一三)正月 筑前国遠賀郡 島門


叔父の顔を、わたしはよく覚えていなかった。


三年前、母の弔いのときに一度来ている。そのときは奥にいて、挨拶もしなかった。この体の千代の記憶をいくら探っても、出てくるのは黒い衣の背中だけだ。


だから、座敷に通されて初めて、まともに顔を見た。


麻生盛久。三十六。父の異母弟にあたる。


似ていなかった。父は肩が薄くて指が長い。叔父は肩幅があって、指が短く、掌が厚い。顔立ちも違う。父の顔は縦に長く、叔父の顔は四角い。


似ているところが一つだけあった。


目だ。


人の話を聞いているとき、瞬きが少ない。父もそうだ。


「兄上。ご無沙汰いたしました」


叔父は畳に手をついた。作法に隙がない。加瀬とは違う種類の隙のなさだった。加瀬のは決まりを守る隙のなさで、叔父のは、相手をよく見た上で崩さない隙のなさだった。


「盛久か。芦屋は息災か」


「息災とは申せませぬ」


叔父は顔を上げた。


「御屋形様は近ごろ、あまりお休みになりませぬ」


「……そうか」


「兄上。年内の二十貫、揃えていただいたと聞きました。加瀬が驚いておりましたぞ。島門は無理じゃと申しておったのに、と」


父の指が、脇息の縁に触れた。触れただけで、叩かなかった。


「揃えた」


「どうやって」


「関を締めた」


「ほう」


叔父は、そこで初めて笑った。


「締めた、と申されますと」


「升を作り直した。古いものに細工がしてあった」


「細工」


「底に板が貼ってあった」


叔父は、しばらく黙っていた。


わたしは襖の陰にいた。


呼ばれてはいない。ただ、廊下を通りかかって、話し声が聞こえたので、そのまま座り込んでしまった。行儀の悪いことだ。誰かに見つかれば叱られる。


それでも動かなかった。


叔父が来たら、升の話が出る。出たら、その先が知りたかった。


誰が貼ったのか。


父は追及しなかった。追及できなかったのか、しなかったのかは分からない。でも、貼った者は必ずいる。いて、この三月、その者は取り分を失っている。


「兄上」


叔父の声が、少し変わった。


「その升を作り直したのは、どなたのお指図で」


「わしじゃ」


「なるほど」


「なぜ訊く」


「いえ。……見事なものと思いましたゆえ」


嘘だ、とわたしは思った。


理由は言えない。ただ、いま叔父の声が変わった。変わったということは、答えの中身によって次に言うことを変えるつもりだった、ということだ。


そういう訊き方を、わたしは知っている。前の生でさんざんやったし、さんざんやられた。


心臓が速くなった。


「兄上。折り入って申し上げたい儀がござります」


「申せ」


「御屋形様は、島門の関を芦屋に一本化してはどうかと仰せにござります」


父が、動かなくなった。


「……何と」


「二つの関で別々に取るより、芦屋で一度に取ったほうが手間が省ける、と。島門は荷の検めだけをいたし、銭は芦屋で取る。そういう形に」


「それでは島門が食えぬ」


「相応の扶持は出ます」


「扶持」


父の声が、初めて硬くなった。


「盛久。それは、この家から関を取り上げるということじゃ」


「扶持は出ると申しました」


「扶持をもらう身になれと申すか。四代、この関を預かってきた家に」


「兄上」


叔父の声は静かだった。


「四代預かってきたことと、これから預かれることとは、別の話にござります」


襖の陰で、わたしの指の先が冷えた。


そういうことか。


三月かけて帳面を作った。二十俵の欠けを見つけた。升を作り直して、関の実入りが戻った。父は年内の二十貫を揃えられた。


揃えられてしまった。


島門の関から、思ったより銭が取れる。それが芦屋に知れた。


——わたしがやったんだ。


背中を、汗が伝った。


数を作れば聞いてもらえる。あの日そう思った。通ったと思って、膝が笑って、廊下で壁に手をついた。


数は、聞いてもらうためだけのものじゃない。


数が出れば、その数を欲しがる者が出る。


前の生で、いくらでも見たはずのことだった。村の井戸がよく出るようになれば、その井戸を誰のものにするかで揉める。収量が上がれば、上がった分をどこかから取りに来る者が現れる。


知っていた。何度も見た。手が覚えているはずのことだった。


なのに、わたしは。


「兄上。お返事は急ぎませぬ」


叔父はそう言って、立ち上がる気配を見せた。


「今宵は泊めていただきます。明日、船で戻りますゆえ」


---


その夜、わたしは廊下で叔父に呼び止められた。


厠へ立った帰りだった。月が出ていて、濡れ縁に細く光が落ちていた。


「千代殿」


振り向くと、叔父が濡れ縁に腰かけていた。


寝間着ではなく、まだ昼の小袖のままだった。膝の上に、何も持っていない。ただ庭を見ていた。


「はい」


「昼間、襖の外におられたな」


指の先まで冷えた。


「……申し訳ござりませぬ」


「叱っておらぬ。座られよ」


わたしは少し離れたところに座った。


叔父は庭を見たままだった。庭といっても、木が三本と苔があるだけの狭いものだ。それを、この人はずっと見ていた。


「升の細工に気づかれたのは、千代殿か」


わたしは答えなかった。


「答えずともよい。兄上は嘘のつけぬお人じゃ。『わしじゃ』と仰せられるときの間が、少し長かった」


やられた、と思った。


「……はい」


「どうして分かった」


「升の底に、段がござりましたゆえ」


「触れば分かるものか」


「触れば分かります」


「わしは触ったことがある。分からなんだ」


叔父はそこで初めてこちらを向いた。


「千代殿。触って分かったのではない。**貼ってあるかもしれぬと思うて触った**のであろう」


心臓が、跳ねた。


「なぜ、そう思われた」


「……」


「答えられぬか」


「答えられませぬ」


「よい」


叔父はまた庭に目を戻した。


「答えられぬことのほうが多い。人はみな、そういうものを一つや二つ抱えておる」


しばらく、二人とも黙っていた。


風がなかった。冬の夜にしては暖かい。遠くで犬が鳴いて、すぐやんだ。


「千代殿は、帳を付けておられると聞いた」


「……宗徳殿からでござりますか」


「ほう。博多の商人が来ておったか」


しまった、と思った。


わたしはうっかり、この人が知らなかったことを教えてしまった。


叔父は表情を変えなかった。変えなかったこと自体が答えだった。この人は、宗徳のことを知らなかった。知らなかったが、いま知った。


——この人と話すのは、危ない。


胸の奥で、警鐘のようなものが鳴った。


でも同時に、別のものも鳴っていた。


面白い、と思ってしまったのだ。


三月のあいだ、わたしは誰とも話していなかった。与三次は荷を読み上げてくれるけれど、なぜ帳を付けるのかは理解していない。さよは笑ってやり過ごす。父は聞かない。兄は中身を聞かずに頷く。


この人は、聞く。


聞いて、返してくる。返ってきたものが、こちらの想定より一手先にある。


そういう相手と話すのが、どれだけ久しぶりか。


「千代殿」


「はい」


「関を芦屋に一本化する話、どう思われる」


心臓が、また速くなった。


訊かれた。十二の娘に。政の話を。


分かっている。値踏みされている。この人はわたしを試している。答えれば手の内を見せることになる。黙るのが正しい。


正しいと分かっていた。


「……手間は、省けませぬ」


口が、勝手に動いた。


「ほう」


「荷は島門と芦屋で別々に着きまする。銭を芦屋で取るなら、島門で検めた紙を芦屋へ運ばねばなりませぬ。人が要ります。人が要れば、そこで数が狂います」


「狂うか」


「狂います。必ず」


「なぜ言い切れる」


「二つの場所で同じ数を書けば、必ず食い違うからにござります。食い違えば、どちらが正しいかを誰も言えませぬ。言えなければ——」


そこで、口を止めた。


——言えなければ、掠め放題になる。


言いかけて、飲み込んだ。


叔父は、それを待っていた。待っていたことが、間の取り方で分かった。


「言えなければ、何じゃ」


「……いえ」


「千代殿」


「何も申しておりませぬ」


叔父は、笑った。


昼間の作法としての笑いではなかった。もっと素の、面白いものを見つけた者の笑いだった。


「面白い」


そして、こう言った。


「誰に教わった」


去年、升のことで父に訊かれたのと、同じ言葉だった。


でも、意味がまるで違った。


父は「お前がそんなことを知っているはずがない」と言っていた。叔父は「誰がお前を仕込んだのか、その相手を知りたい」と言っている。


前者には答えられない。後者には——


「誰にも教わっておりませぬ」


「では、天からの授かりものか」


「授かりものではござりませぬ。数えただけにござります」


「数える」


叔父は、そこでしばらく黙った。


そして、立ち上がった。


「千代殿。一つだけ申しておく」


「はい」


「兄上は、この話を断られる」


「……」


「断るのが筋じゃからじゃ。損か得かではない。四代預かった関を扶持と引き換えに手放すのは、筋が通らぬ。だから断られる」


その通りだと思った。父はそういう人だ。


「そして、断れば島門は苦しゅうなる」


「……なぜでござりますか」


「御屋形様が仰せになったことを断る家じゃからじゃ。それだけで、扱いは変わる」


叔父は、庭のほうを向いたまま言った。


「わしは兄上のことを軽んじてはおらぬ。筋を通せる人は、そう多うない」


そこで、少し間があった。


「だが、筋では家は残らぬ」


わたしは顔を上げた。


月明かりの中で、叔父の横顔が見えた。四角い顔の輪郭が、影で少し歪んで見えた。


「兄上は筋を選ばれる。わしは家を選ぶ」


そう言って、叔父は行ってしまった。


---


翌朝、叔父は船で戻った。


丘を下りていく背中を、わたしは濡れ縁から見ていた。来たときと同じ、急がない歩き方だった。


見送りに立った父が、屋敷に戻ってきて、わたしの横を通った。


「千代」


「はい」


「昨夜、盛久と話したか」


「……はい」


「何を訊かれた」


「関のことを」


「答えたか」


黙っていた。


父は、それ以上訊かなかった。


ただ一言、こう言った。


「叔父を好きになるな」


そして、行ってしまった。


わたしはその言葉の意味が、うまく取れなかった。


危ない人だから近づくな、という意味なら分かる。でも父の言い方は、そうではなかった。もっと、諦めたような言い方だった。


まるで、好きになってしまう気持ちのほうを、先に分かっているような。


---


**同月 島門・関の番屋**


三日後、番屋で与三次が言った。


「姫様。太平が、暇を取りました」


「太平」


「若い者で。荷の目方を検めておりました」


「……」


「郷へ帰ると申しまして」


わたしは筆を止めた。


「与三次」


「はい」


「その者が、升に板を貼ったのか」


老人は、しばらく答えなかった。


外で、鴉が鳴いた。冬の川口は静かで、鳴き声がやけによく響いた。


「……分かりませぬ」


「与三次」


「わしは、分かりませぬ」


その声で、分かった。


分かっていて、言わないのだ。この老人は太平を引き立てた。番屋に入れたのも、目方の検めを任せたのも、たぶんこの人だ。


四十年勤めた老人が、自分の引き立てた若者について「分かりませぬ」と言うとき、それは分からないという意味ではない。


わたしは筆を持ったまま、しばらく動けなかった。


太平という名前を、わたしは知らなかった。


三月のあいだ、毎日この番屋に通っていたのに。荷を読み上げてもらい、数を書き取り、突き合わせて、二十俵の欠けを見つけた。


その番屋で毎日目方を検めていた若者の名前を、わたしは一度も覚えようとしなかった。


数は覚えている。四十二俵。三十反。六俵。三百文と二百文。全部言える。


人の名前が、一つも入っていなかった。


「与三次」


「はい」


「……その者は、いくつであった」


老人は、少し驚いた顔をした。


それから、言った。


「二十二にござります」


「そうか」


それだけ言って、わたしは帳面に目を戻した。


書くことは、いくらでもあった。書いても書いても、追いつかない気がした。


その日の帳の余白に、わたしは一行だけ、荷とは関わりのないことを書いた。


太平。二十二。


書いてから、しばらくそれを見ていた。


それが何の役に立つのかは、自分でも分からなかった。

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