第十二話 抜け荷の男
応永二十四年(一四一七)二月 福建 泉州
その男が、初めて陳家の門をくぐったとき、わたしは蔵の帳を検めている最中だった。
外が、にわかに騒がしくなった。荷運びの男たちの声。それに混じって、聞き慣れない訛りの、荒々しい笑い声。
阿蓮が、帳場に顔を出した。
「日本の客だ」
「日本の」
「荷を運んでくる連中がいる。陳様の商いの、裏の方の相手だ」
裏の方、という言葉に、心当たりがあった。あの塩気を帯びた土を買い付けていた取引先と、同じ筋のものかもしれない。
「見てもよろしいでしょうか」
阿蓮は、少し迷う顔をした。
「あんたは、荷の検めで顔を出せばいい。それなら、不自然じゃない」
---
庭先に、見慣れない一団がいた。
日本の衣を纏った男たちが、十人ほど。これから荷を運び込むところなのか、まだ手をつけずに立っていた。荒っぽい身なりで、腰に得物を差している者もいた。
その中央に、一人、抜きん出て目立つ男がいた。
歳は二十代半ばだろう。日に灼けた肌に、鋭い目つき。着ているものは、粗末というほどではないが、飾り気もなかった。腰の得物だけが、やけに手入れの行き届いたものに見えた。
手下たちに何か指図しながら、この場を仕切っているのが、ひと目で分かった。声を荒らげているわけではないのに、その場の誰もが、この男の一言に、すぐさま動いていた。
命じる声に、迷いがなかった。
その迷いのなさに、わたしは、思わず目を留めた。あの山里の若い衆を説き伏せたときに掴んだ理屈——迷いなく言い切る声が、人を動かす——を、この男は、教わらずとも、地でやっている。
わたしは、荷の検めを装って、その様子に近づいた。
積まれた荷を見て、指が止まった。
これは。
降ろされたばかりなのだろう、積み方の乱れが、そのまま残っていた。重い荷が上に、軽い荷が下に積まれている。片方に寄りすぎて、船縁が傾いていたのだろう。船足が、ろくに出ていなかったはずだ。
そう思ったところで、日本の言葉が、耳に飛び込んできた。
「おい、遅い。もっと早う運べ」
その声の主が、あの男だった。
日本語だと分かった瞬間、わたしは、少し驚いた。ここ二年、明の言葉ばかりの中で生きてきた。日本語を、こんな場所で、こんな荒っぽい調子で聞くとは思っていなかった。
---
荷運びが終わったあと、男は、陳文興と何か話していた。商いに要るだけの明の言葉は、この男も片言ながら使えるらしい。それでも、込み入った話になると、途端に言葉が詰まる。そのたびに、雇われているらしい現地の仲介者が、間に入って助けていた。
わたしは、その様子を、少し離れたところから見ていた。
やがて、陳文興が、こちらを手招いた。
「お嬢さん。この方の船を、少し検めてもらえますか」
わたしは、頭を下げて、進み出た。
男が、こちらを見た。
値踏みするような目だった。だが、そこには、これまで会った誰の値踏みとも、少し違う色があった。商人の値踏みでも、老人の興味でもない。もっと、腹の底を探るような目つきだった。
「陳様の使いか」
「はい。麻生千代と申します」
「日本人か」
「筑前の生まれにござります」
男は、少し眉を上げた。それから、面白がるように、口の端を上げた。
「筑前か。遠いところから来たものじゃ」
「俺は、瀬戸内の生まれじゃ」
それだけ名乗って、名は言わなかった。
瀬戸内、という一言が、胸の奥に、小さく引っかかった。
筑前とは、決して近くはない。それでも、同じ日本の内。海を通せば、繋がっている土地だった。
いま、二人して、日本よりずっと西の、この泉州にいる。故郷からの隔たりで言えば、瀬戸内も筑前も、たいした違いはない。同じだけ、遠い。
この二年、日本の土を踏んでいない。日本の言葉を聞くのも、阿蓮の口を通してだけだった。それが、いま、目の前に、瀬戸内訛りの、荒々しい日本語を話す男が立っている。
奇妙な感慨だった。懐かしさと呼ぶには、遠すぎる。それでも、何かが、久しぶりに、故郷の側から吹いてきたような気がした。
---
「船を検めよ、と言われたが」
「はい」
「何を検める」
「積み荷を」
わたしは、船着き場まで案内された。
停泊していた船を見て、すぐに分かった。想像していたとおりだった。
古い船だった。修繕の跡が、あちこちにある。船縁の傾きは、やはり、荷の積み方の悪さから来ていた。
「この船足、去年より落ちておりませぬか」
わたしは、思い切って訊いた。
男の目が、鋭くなった。
「なぜ、それを知っておる」
「船を見れば分かりまする」
「見ただけで」
「はい」
男は、しばらくわたしを見ていた。
それから、笑った。
「面白いことを言う小娘じゃ」
その言葉に、内心、身構えた。これまで、この言葉には、必ず何かの含みがあった。だが、ここで怯んでは、話が進まない。
わたしは、腹に力を込めた。
あの山里で掴んだ理屈を、いま、この男に対して、初めて意図して使う。
弱く出れば、荷の分際の戯言として、聞き流されるだけだ。相手は、迷いなく人を動かす術を、生まれつき身につけている男だ。生半可な物言いでは、鼻先で笑われて終わる。
——ならば、こちらも、迷いを見せぬまでのこと。
語尾に迷いを残すな。分かっていて、そう己に言い聞かせた。
「船足が落ちたのは、荷の積み方が悪いゆえにござります」
語尾を、濁さなかった。迷いを、声に出さなかった。
「積み方」
「重い荷を上に、軽い荷を下に積んでおられます。それゆえ、船が傾き、水を余分に受けて、進みが鈍うなっております」
男の目が、細くなった。
「それで、俺に何の得がある」
その一言が、まさに、これまで想像していた通りの問いだった。
---
「積み方を、正しく組み替えれば、船足は戻りまする」
「戻る、と言い切るか」
「言い切りまする」
「証は」
「いま、半日いただければ、お見せいたしまする」
男は、しばらく黙っていた。
それから、手下の一人に、何か命じた。
「やらせてみよ」
---
半日かけて、わたしは、荷役の男たちに指図して、積み荷を組み替えた。
重い荷を、船底近くへ。軽い荷を、上と両端へ。片舷に寄っていた荷を、均等に戻す。
言葉は、まだ拙い日本語と、片言の明語を混ぜて伝えた。荷役の男たちは、初め、戸惑っていた。荷の女の指図など、聞く筋合いはないという顔をした者もいた。
だが、弥九郎が、遠くから一言、何か命じた。
その一言だけで、男たちの態度が変わった。渋々ながらも、指図に従いはじめた。
あの男の一声は、こちらの十の理屈より、よほど重い。
そのことを、目の当たりにした。理屈は、正しさを示す。だが、人を実際に動かすのは、正しさではなく、動かす力を持つ者の一言なのだと、あらためて思い知らされた。
そのあと、弥九郎は、その場を離れなかった。
離れないどころか、袖をたくし上げて、自分も荷を担ぎはじめた。頭に立つ者が、荷役に混じって汗をかいている。島門では、見たことのない光景だった。父も、叔父も、荷に手を触れたことなど、一度もなかったはずだ。
しかも、命じ方が細かかった。
「三郎次、そっちは足元が濡れとる。滑るぞ」
「弥助。腰が入っておらん。そのままでは、明日は動けんようになる」
一人ずつ、名を呼んでいた。十人からいる手下の、全員の名を、この男は当たり前のように口にしている。
呼ばれた男が、笑って何か言い返す。弥九郎も、笑い返す。
——ああ。
そこで、腑に落ちた。
この男の一声が重いのは、頭だからではない。名を呼ばれる側が、呼ばれるだけの何かを、この男から受け取っているからだ。
理屈で人を動かす術しか持たない自分には、そもそも、この土俵がなかった。
船が少しずつ水平を取り戻していくのを見て、男たちの手を動かす速さが変わってきた。
日が傾くころ、船は、行きよりも、明らかに深く沈んでいた重心を戻していた。
男が、戻ってきて、船を見た。
しばらく、何も言わなかった。
それから、船縁に手をかけて、船を軽く揺らした。揺れ方が、明らかに違う。安定していた。
「試しに、出してみよ」
短い試し乗りが行われた。戻ってきた船頭が、興奮した様子で、何か報告していた。
男は、それを聞いて、こちらを振り返った。
---
「……お前、何者じゃ」
「陳家の荷にござります」
「荷が、こんなことを知っておるものか」
「知っておりました」
言い切った。
「どこで学んだ」
「学んだのではのうて、見ておぼえましてござります」
男は、しばらく黙っていた。それから、初めて、値踏みではない目で、わたしを見た。
「名を、もう一度」
「千代にござります」
「千代」
男は、その音を、確かめるように繰り返した。
「俺は、荒瀬弥九郎じゃ」
初めて、名乗った。姓と、仮名を、続けて。
その名を、わたしは、頭の中で書き留めた。
瀬戸内の生まれ。日本人。裏の商いをする一団の長。
これから、何度も、この名を書くことになるのだろうという予感が、なぜか、確かにあった。
「陳様とは、長いお付き合いにござりますか」
去り際、わたしはそう訊いた。
「三年ほどか。抜け荷は、あの人の裏の顔だ。表の顔は、こういう場では見せぬ」
「なぜ、わたくしに、そこまでお明かしになりまするか」
弥九郎は、少し笑った。
「隠したところで、お前はもう見抜いておろう。船を見ただけで、船足の落ちた理由まで言い当てる女に、何を隠す」
その通りだった。隠されたところで、数と理屈の筋から、大方は読めてしまう。それを、隠さずに明かすことを選んだ、この男の判断のほうに、わたしは興味を引かれた。
「また、参る」
弥九郎は、それだけ言って、手下たちを連れて去っていった。
その背中を見送りながら、わたしは、あの目つきの正体を、もう一度考えていた。
腹の底を探る目。あれは、値踏みの目でもあり、同時に、使い道を見定める目でもあったのだろう。陳文興の値踏みとも、叔父の面白がる目とも、違う質のものだった。
あの目に見定められたことが、これから、どういう意味を持つのか。まだ、分からなかった。
---
紙の残りが、そろそろ心許なくなってきていた。それでも、今日のことだけは、書いておかねばならないと思った。
積み荷の組み替え。半日での船足の回復。荒瀬弥九郎という男の名。
書きながら、昼間の遣り取りを、頭の中で反芻した。
——それで、俺に何の得がある。
その問いに、正面から答えた。証を、その場で見せた。理屈を、迷いなく言い切った。
通った。
通ったことに、達成感がないと言えば、嘘になる。だが、それ以上に、何か別のものが、胸の底に残っていた。
陳文興も、阿蓮も、老いた船乗りも、呉徳全も、皆、それぞれの理屈で、わたしを扱ってきた。値踏みし、使い、時に頼りにした。だが、誰も、わたしに「得になるか」という一点だけを、真正面から突きつけてはこなかった。
弥九郎の「それで、俺に何の得がある」という問いは、これまで出会った誰の問いより、単純で、そして揺るがなかった。
損得だけで動く男。情に絆されず、体裁も気にせず、ただ、得か損かだけを見る。
そういう相手には、こちらも、損得だけで応じればいい。理屈が通れば、通る。通らなければ、通らない。それだけのことだ。
——分かりやすい。
そう思うと、不思議と、気が楽になった。
あの男の目つきを、思い出す。
商人の値踏みでも、老人の興味でもない、腹の底を探る目。あの目の裏に何があるのかは、まだ見えなかった。
筆を置いて、いま書いたばかりの名を、もう一度、目で追った。
荒瀬弥九郎。
その五文字が、思ったより深く、目に残った。




