第十一話 火の土と、鉄の弓
応永二十三年(一四一六)十月 福建 泉州
蔵の帳を検めているうちに、妙な記があることに気づいた。
土を、それも塩気を帯びた古い土を、大量に買い付けている記だった。買い先は、いつもと違う。表向きの取引先ではない、聞いたことのない屋号だった。
「阿蓮」
「なんだ」
「この土は、何に使うものでござりましょう」
阿蓮は、帳を覗き込んで、少し眉を寄せた。
「訊かないほうがいい」
「なぜでござりますか」
「陳様の商いには、表と裏がある。裏のほうに、あんたを近づけたくない」
その言い方に、かえって興味を引かれた。だが、それ以上は追及しなかった。訊いてよいことと、訊かぬほうがよいことの分別くらいは、この一年で身についていた。
それでも、頭の隅で、その帳の一行が、しばらく引っかかったままだった。
塩気を帯びた古い土。表向きでない取引先。そういうものを買い集める商いが、この世にあるということ自体、これまで考えたこともなかった。陳文興という人には、まだ、わたしの知らない顔があるらしい。
商いの表と裏。その境目に、自分がどこまで近づいてよいものか、いまはまだ、はかりかねた。
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同月 半ば
それから幾日か経って、陳文興に呼ばれた。
「今度、荷を検めに行くところがあります。少し、危ういところです」
「危うい、とは」
「抜け荷を扱う場所です。あなたには、数の見立てをしてもらいたい」
わたしは、少し驚いた。これまで、危ういという言葉を、この人がわざわざ口にしたことはなかった。
「なぜ、わたくしに」
「あなたは、疑うことを恐れない。そして、疑うことを、口に出す前に、まず数で確かめる。あそこでは、それが要ります」
その言葉には、値踏みと、いくらかの信頼が、同時に込められているように聞こえた。
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案内されたのは、泉州の外れ、川沿いの古い蔵だった。
表からは、何の変哲もない蔵に見えた。だが、中に入ると、様子が一変した。
薄暗い土間に、人の気配が幾つもあった。荷を運ぶ男、何かを煮炊きする男、帳面らしきものを繰る男。誰もが、こちらに目もくれず、黙々と手を動かしている。
蔵の隅には、見張りらしき男が一人、腰に得物を差して立っていた。その目つきだけが、こちらの動きを、じっと追っていた。
土間に、大きな甕が幾つも並んでいる。甕の中には、白っぽい粉が満たされていた。独特の、鼻を突く匂いがした。
「これは」
「硝石だ」
答えたのは、阿蓮ではなく、蔵の奥から出てきた、目つきの鋭い男だった。歳は三十がらみ、腕に古い刀傷があった。
「陳様の使いか」
「はい。麻生千代と申します」
男は、こちらを一瞥しただけで、それ以上、名乗ろうとはしなかった。
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「硝石とは、何に使うものでござりますか」
わたしは、努めて平静に訊いた。
男は、しばらく黙っていた。それから、ぼそりと言った。
「火薬だ」
その一言で、蔵の空気の意味が、はっきりと分かった。
火薬。焼き物とも、船とも違う、もっと剣呑な世界の道具だった。
「この土から、硝石を採るのでござりますか」
「古い厠の土だ。人や獣の小便が、長年染み込んだ土には、これが湧く」
わたしは、思わず息を止めた。
厠の土。
にわかには信じがたい話だった。だが、口にした男の表情には、冗談の色がなかった。
「その土を、どうやって硝石にするのでござりますか」
「積んで、寝かせて、水を通す。通した水を、煮詰める。白い粉が残る。それが硝石だ」
「積んだ土は、雨に当ててはならぬのでござりますか」
「当てれば、せっかく育ったものが、水に流れて逃げる。だから、積み場には、必ず屋根をかける。粗末な葦簀の屋根でも、ないよりは、よほどましだ」
積んで、寝かせる。
その言葉に、聞き覚えがあった。
前の生で、似たことをした覚えがある。糞尿と藁と灰を積んで、時をかけて熟成させる。あれは、土を作るためだった。作物を育てる、良い土を。
——これは、同じ道理を、まるで違うことに使っている。
土を育てる技と、火薬を作る技が、根では同じ場所に立っている。そのことに気づいた瞬間、背筋を、冷たいものが伝った。
命を育む技と、命を奪う技が、同じ手順の先で分かれる。分かれ道のどちらへ進むかは、積む者の心一つに委ねられている。
その事実が、妙に重く、腹の底に落ちた。
わたし自身、村で水を引き、田を潤す技を教えてきた。あの技も、使いようによっては、水を止めて敵を干上がらせる技にもなり得る。技そのものに、善悪はない。使う者の心が、それを決めるだけだ。
そう思うと、この土間の甕の白い粉も、単に恐ろしいものとしては見えなくなった。恐ろしいのは、粉そのものではない。それを、何のために積むかという、人の心のほうだった。
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「幾月、寝かせるのでござりますか」
「一年から二年、時によっては、それ以上だ」
「そんなに」
「急いては、良いものが採れぬ」
「積む土は、どのようなものでも構いませぬのか」
男は、初めて、こちらをまともに見た。
「よく訊く小娘だ」
「気になりましたゆえ」
「乾いた土は駄目だ。かといって、水浸しでも駄目だ。湿り気が要る。濡れすぎず、乾きすぎず」
その加減の話は、覚えがあった。堆肥を積むときと、まるで同じだった。乾けば熟れず、濡れすぎれば腐る。手で握って、崩れずに、指の跡が残るくらい。
「時折、切り返しをなされますか」
「……なぜ、それを知っておる」
わたしは、答えに詰まった。
「……似たようなことを、見たことがござります。土を作る仕事にござります」
男は、しばらくわたしを見ていた。それから、鼻を鳴らした。
「同じことだ。積んだものを、時々ひっくり返す。そうせねば、下ばかり熟れて、上が残る」
わたしは、頭の中で、その時をどう受け止めればいいのか、しばらく測りかねた。
一年も二年も、ただ積んで待つ。その間、何の見返りも出ない。それでも、待ち続ける。
気の長い仕事だ。
だが、その気の長さの先に、確かなものが出来上がる。
これは、椎茸の里で見た話とも、少し似ていた。木に傷をつけて、二年も三年も待つ。時をかけることでしか手に入らないものが、この世には幾つもあるらしい。
「なぜ、これほどの時をかけてまで、これを作るのでござりますか」
男は、初めて、少し笑った。
「戦は、いつか要る。要るときに、無ければ困る。だから、先に作っておく」
その理屈は、単純で、そして揺るがなかった。
「いつ、戦が来るかも分からぬのに、いまから備えるのでござりますか」
「来てから備えては、遅い。備えは、来る前にするものだ」
その一言は、思いのほか、胸の深いところに刺さった。
島門も、そうだった。芦屋が動くことも、大内が攻め寄せることも、来る前から、幾つもの兆しがあった。それに気づいていながら、備えを講じられなかった。備えようにも、兵も銭も、足りなかった。
備えは、来る前にするものだ。
その理屈を、いま、この蔵の男から聞かされるとは、思ってもみなかった。
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蔵の検めそのものは、半刻ほどで終わった。土の量目、水の使い方、煮詰めたあとの粉の量。それらを、帳と照らし合わせるだけの仕事だった。
だが、わたしの頭には、その日見たものが、いつまでも居座っていた。
土から、火薬が生まれる。
道理を知れば、決して神秘めいたものではない。だが、その道理を、誰もが知っているわけではない。日本では、この道理を知る者は、ほとんどいないだろう。
知っておいて、損はない。
そう思いながら、帰り道、頭の中で、その手順を、何度も反芻した。積む土の種類。寝かせる時。水の通し方。煮詰める加減。
どれも、正確には覚えきれていない。だが、大まかな筋道だけは、確かに掴んだ。
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同月 末
蔵を出たあと、阿蓮に連れられて、陳家の別の一角へ向かった。
そこには、屈強な男たちが幾人かいた。陳家を守る用心棒たちだという。
その中の一人が、見慣れない武具を手入れしていた。
弓に似ているが、弓ではなかった。横に張られた弦を、台のような木の柄が支えている。
「それは」
「弩、という」
用心棒の男が、手を止めずに答えた。
「見せていただいても、よろしいでしょうか」
「見るだけなら、構わん」
男は、その武具を、こちらへ向けて構えて見せた。
台の上に、矢のようなものを乗せ、弦を引き絞る。仕掛けを、指で弾く。
矢が、凄まじい速さで飛んだ。的にした木の板に、深々と突き刺さった。
わたしは、その速さに、目を見張った。
「並みの弓とは、何が違うのでござりますか」
「並みの弓は、稽古がいる。何年も、弦を引く力を鍛えねばならぬ。だが、これは違う」
男は、その武具の仕掛けを、指で示した。
「仕掛けが、力を溜めておく。撃つときは、指一本で放つだけだ」
「では、稽古のない者でも」
「十日も練れば、まっすぐ飛ばせるようになる」
その言葉が、耳の奥に、はっきりと残った。
十日。
並みの弓を三年かけて鍛えるのに対して、十日。その差の大きさに、頭の中で、数が勝手に動いた。
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その仕掛けを、わたしはしばらく見つめていた。
弦を引き絞る動きそのものは、並みの弓と大差ない。だが、その力を、仕掛けが代わりに支えてくれる。人の腕力に頼らず、仕掛けが力を溜めておく。だからこそ、非力な者でも、狙いをつけて、放つだけでよい。
理屈は、単純だ。
単純だからこそ、誰にでも扱える。この単純さこそが、この武具の値打ちなのだろう。
「持たせていただくことは」
「駄目だ」
にべもなかった。
「なぜでござりますか」
「これは、武具だ。武具を、余所者に持たせるものではない」
その理屈は、当然だった。だが、断られたことで、かえって、この道具への興味が募った。
「では、せめて、仕掛けの造りだけでも」
男は、しばらくわたしを見ていた。それから、渋々といった様子で、仕掛けの部分だけを見せてくれた。
木と、金物を組み合わせた、精巧な造りだった。弦を引き絞ったまま留めておく仕組みと、それを解き放つ引き金。細部までは分からないが、大まかな理屈は、見て取れた。
「これは、壊れやすうござりますか」
「壊れる」
男は、あっさりと答えた。
「弦は伸びる。留め金は欠ける。使えば使うほど、狂う」
「直せまするか」
「直せる者がおれば、な。この辺りには、幾人かおる。おらぬ土地では、壊れたら、それきりだ」
その一言を、わたしは、頭の中に書き留めた。
十日で使えるようになる武具。だが、直せる者がいなければ、壊れたところで終わる。
——道具だけ持ち帰っても、意味がない。
窯のときと、同じだった。土だけでも、道具だけでも、足りない。それを支える人が要る。
同じ理屈に、この一月で、二度ぶつかったことになる。
「ありがとう存じます」
頭を下げて、その場を辞した。
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灯を点けたのは、夜半を過ぎてからだった。それまで、書くべきかどうかを、しばらく迷っていた。
硝石。土を積み、寝かせ、水を通し、煮詰める。一年から二年。
弩。稽古のいらぬ武具。十日で使えるようになる。
書きながら、頭の中で、二つの道具を並べて眺めた。
火薬は、時をかけねば手に入らない。だが、弩は、人手さえあれば、すぐにでも力になる。
——もし、稽古のできぬ者たちを、束ねねばならぬ日が来たら。
そう考えて、わたしは、また、自分の思考が、詮無い先へ向かっていることに気づいた。
稽古のできぬ者たち、というのは、誰のことを指しているのか。
自分でも、はっきりとは分からなかった。
ただ、頭の隅に、荒々しい男たちの姿が、ぼんやりと浮かんでは消えた。まだ会ったこともない、名前も知らない誰かの姿だった。
気の早いことだ。
そう自分を戒めながらも、その考えを、紙の隅に、書き添えずにはいられなかった。
思えば、この一年で見てきた技は、どれも、誰かを生かすための技だった。船を沈めぬための隔壁。風上へ進むための帆。水を引くための工夫。木から茸を育てる工夫。
だが今日見た二つは、初めて、人を殺めるための技だった。
その違いを、わたしは、まだうまく飲み込めずにいた。
生かす技も、殺める技も、同じ紙の上に、同じ筆で、同じように書き留める。書き留めながら、その筆先に、何のためらいもなかったことに、あとになって気づいた。
——ためらうべきだったのだろうか。
その問いだけは、紙に書かなかった。
書かなかったことのほうが、たぶん、答えだった。




