第十話 山
応永二十三年(一四一六)九月 福建 山中の村
徳化から泉州へ戻る道中、荷運びの男が、腹を下した。
無理もない。宿で出された水が合わなかったのだろう。男は青い顔で、しばらく道端にうずくまった。
このまま歩かせるわけにはいかない。近くに村があると聞き、そこで一晩、休ませてもらうことにした。
村は、山の斜面に張りついたような、小さな集落だった。田はほとんどなく、代わりに、山の木々のあいだに、何かを育てているらしい畑地が点在していた。
家々は、板と土を塗り固めただけの、粗末な造りだった。屋根の茅は、あちこちが薄くなっている。村の入口で、痩せた犬が一匹、こちらを警戒するように吠えた。
豊かな村ではない。ひと目でそれと分かる貧しさが、村全体を覆っていた。
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村の長らしき老爺に、一晩の宿を頼んだ。
貧しい村だった。屋根は傷み、井戸は浅く、水は少しばかり濁っていた。それでも、老爺は、快く迎え入れてくれた。
「日本の娘か。珍しいな」
「はい。泉州の陳家より参りました」
「陳家の名は聞いたことがある。悪い商人ではないと聞く」
老爺は、そう言って、粗末な粥を出してくれた。米は少なく、雑穀が多く混じっていた。それでも、湯気の立つ椀を差し出すその手つきに、精一杯のもてなしの心が見えた。
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その夜、荷運びの男を休ませたあと、わたしは、村の様子を見て回った。
畑地は、思ったより広く、丁寧に世話されていた。だが、水の便が悪いのだろう、土がひどく乾いている。作物の育ちも、悪かった。
これは。
見覚えのある光景だった。
前の生で、幾度も見た。水の乏しい土地で、人々が、限られた雨だけを頼りに、細々と作物を育てている光景。
翌朝、老爺に訊いた。
「この村は、水にお困りではござりませぬか」
老爺は、少し驚いた顔をした。
「よくお分かりになる」
「山の斜面に、雨水を溜める工夫をなされば、少しは違いましょう」
「工夫、とは」
「まず、この村の周りの高低を、見せていただけませぬか」
老爺は、少し戸惑いながらも、村の周囲を案内してくれた。
歩きながら、わたしは、目分量で傾斜を見た。谷筋が、村の裏手から、畑地へ向かって緩やかに下っている。この傾きなら、水を導ける。
その谷筋の途中に、雑草に覆われた窪みがあった。よく見ると、縁のあたりに、石を積んだ跡が残っている。
「あれは」
「昔、溜め池があった場所だ」
老爺は、そう言って、少し目を伏せた。
「三十年ほど前、飢えた年があってな。池を守る手が足りのうなって、そのまま、崩れるに任せた。以来、誰も、直そうとする者がおらなんだ」
窪みに降りて、土を検めた。底に敷いてあったはずの粘土は、ひび割れ、ところどころ流れ出していたが、形そのものは、まだ残っていた。一から谷を掘るのに比べれば、遥かに早く済むはずだった。
「一から掘るより、ここを直すほうが、早うござります」
「あそこの窪みを、直しとうござります。土を叩き締め、粘土を塗り直せば、水が漏れぬようになりまする。そこへ、雨水を集めて溜めておくのでござります」
老爺は、しばらくわたしを見ていた。
「あなたは、そのようなことに詳しいのか」
「……はい」
その答えに、迷いはなかった。
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もう一日、村に留まることにした。荷運びの男の腹の具合も、まだ本調子ではなかったし、何より、わたし自身が、留まりたかった。
老爺に頼んで、村の若い衆を数人、集めてもらった。
「谷筋の高いところに、まず溜め池を掘ります」
わたしは、木の枝を使って、地面に図を描きながら説明した。
「高いところに溜めれば、水は低いところへ、自ずと流れてまいります。畑まで、樋を引けば、水を汲みに行かずとも、水が来ます」
若い衆の一人が、疑わしげな顔をした。
「そのようなこと、うまくいくものか」
「うまくいきます」
わたしは、言い切った。
「わたくしは、前に、これで幾つもの村を助けたことがござります」
嘘ではなかった。前の生の記憶は、顔も名も朧げだが、この手つきだけは、確かに覚えている。
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その日から、村の男たちと一緒に、古い溜め池を直しはじめた。
鍬を握るのは、久しぶりだった。手のひらに、すぐに肉刺ができた。それでも、痛みは、不思議と苦にならなかった。
崩れた縁を叩き締め、ひび割れた底に、新しい粘土を塗り重ねる。一から谷を掘るのではなく、既にある形を直すだけだ。傾斜を測り直し、水の流れる道筋を確かめる。
道具は粗末だった。測る器具もない。木の枝を目印にして、目分量で傾斜を見た。
ないものを、あるもので何とかする。
その割り切りは、この一年で、すっかり身についていた。
村の男たちは、初めは半信半疑だった。だが、日を追うごとに、手を動かす速さが変わってきた。誰も、命じられて働いているのではない。自分たちの村のためだと分かって、進んで動いていた。
その様子を見ているだけで、胸の奥が、じんわりと温かくなった。
疑わしげだったあの若い衆も、二日目には、誰よりも早く鍬を振るうようになっていた。
「本当に、水が溜まるのか」
作業の合間、その若い衆が、そう訊いてきた。
「溜まります」
「あんたは、なぜ、そこまで言い切れる」
「見たことがあるからにござります。同じことをして、水が溜まった村を」
言い切った。実のところ、この村と、あの土地の傾斜や水の量が、どこまで同じかは、わたし自身、確かめきってはいなかった。だが、迷いを声に出せば、若い衆の鍬は止まる。そう分かっていたから、迷いは呑み込んで、言い切った。
若い衆は、しばらく黙って、それから、また鍬を振るいはじめた。
信じたわけではないのかもしれない。それでも、手は止まらなかった。信じるより先に、体が動く。そういう人間も、この世にはいる。
それを、悪いことだとは思わなかった。理を疑いながらでも、手を動かせる人間のほうが、時に、理を疑わず動けない人間より、よほど強い。
そして、いま気づいた。
人を動かすのは、正しさそのものではない。正しさを、迷いなく言い切る声だ。
弱気な口ぶりで真を語る者より、自信満々に語る者のほうが、たいてい、人はついてくる。中身の正しさは、あとから証されればよい。まず言い切って、信じさせて、動かす。動いてから、正しかったと分かればいい。
——厭な発見だ。
そう思う自分がいる一方で、この理を、忘れずに覚えておこうと思う自分もいた。
いつか、もっと大きなものを動かさねばならないとき、この理が、要り用になる気がした。
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三日目、崩れていた溜め池が、元の形を取り戻した。
雨が降った夜、池に、水が溜まった。
翌朝、村の子どもたちが、その水を見て、歓声を上げた。
「水が、溜まっとる」
「こんなに」
老爺が、目を潤ませて、水を見つめていた。
「長年、この村は、雨の少ない年には、飢えを覚悟してきた。これがあれば、少しは違う」
老爺の目尻から、一筋、涙がこぼれた。皺だらけの頬を伝って、顎の先で止まった。
子どもたちが、水面に石を投げて、跳ねる水しぶきに歓声を上げている。誰も、この水がどうやってそこにあるのかなど、考えていない。ただ、目の前にある水を、無邪気に喜んでいる。
その様子を見ていると、わたしの喉の奥も、熱くなった。
その言葉を聞いて、わたしは、久しぶりに、胸の底から込み上げるものを感じた。
悲しみではなかった。恐れでもなかった。
これは、たしかに、誰かのためになった。
数を作っても、届かなかった夜が、これまで幾度もあった。証を持っていっても、退けられたことも、数え切れない。だが、いま、目の前にある水は、誰にも否定されようのない、確かな形をしていた。
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その日の午後、村の女たちに誘われて、山へ入った。
「これを、あんたにも見せたい」
そう言われて、案内されたのは、木々の間の、薄暗い一角だった。
伐り倒された木の幹に、鉈で無数の傷がつけられていた。傷の周りに、小さな茸が、いくつも生えている。
「これは」
「椎茸、という。木に傷をつけておくと、そこに、茸が生える」
「傷をつけるだけで、でござりますか」
「傷をつけて、あとは待つ。二年、三年とかかることもある。だが、一度生えはじめれば、幾年も採れる」
女たちの一人が、乾かした椎茸を、竹の籠に入れて見せてくれた。日持ちがして、遠くまで運べるのだという。
「これは、売り物になりましょうか」
「泉州まで運べば、なる。ただ、うちの村からでは、道が悪うて、運ぶ手間がかかる」
乾かした椎茸を、一つ手に取ってみた。軽い。それでいて、指で押すと、しっかりとした弾力があった。
匂いを嗅ぐと、独特の、山の香りがした。前の生で、似た匂いを嗅いだ覚えがある気がした。どこでだったかは、思い出せない。それでも、この匂いを、悪くないと感じる自分がいた。
わたしは、その話を聞きながら、頭の中で、幾つかの数を組み合わせた。
木に傷をつけるだけの手間。二年、三年という時。そのあいだ、田を作れずとも、山の木さえあれば、続けられる仕事。
——これは、水の乏しい土地に、向いている。
田は水がなければ作れない。だが、木に傷をつけるだけなら、水が乏しくとも、山さえあれば、できる。
そう気づいたとき、わたしは、また、詮無いことを考えている自分に気づいた。
島門には、もう、この技を活かす畑もない。
それでも、その考えを、頭の隅に留めておくことをやめられなかった。
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四日目、二つ目の溜め池にも、水路が引かれた。
老爺の孫だという幼い娘が、水路に手を浸して、はしゃいでいた。冷たいと言って笑い、また手を浸す。それを繰り返している。
その姿を見ながら、わたしは、ふと、自分がこの村に着いてから、一度も「姫様」とも「お嬢さん」とも呼ばれていないことに気づいた。
村の者たちは、わたしを、ただ「あんた」か「お前さん」と呼んだ。身分も、出自も、この村では、大した意味を持たなかった。水を引ける者かどうか、それだけが、ここでの値打ちだった。
その扱いが、不思議と、心地よかった。
麻生の娘でもなく、陳家の荷でもなく、ただ、水を引ける一人の女として扱われる。そういう時間が、この一年、一度もなかったことに、いまさら気づいた。
村を発つ日、老爺と、村の男たち、女たちが、総出で見送りに来た。
「あなたのおかげで、この村は、少し楽になる」
老爺は、深々と頭を下げた。
「頭をお上げくださりませ。わたくしは、ただ、知っていることを申し上げただけにござります」
「知っていることを、惜しまずに与えるのは、易いことではない」
その言葉に、わたしは、少し驚いた。
これまで、わたしの知る限りを差し出すことは、常に、何かの見返りを見込んでのことだった。陳文興に認められるため、阿蓮に借りを返すため。
だが、この村では、何も見込んでいなかった。
ただ、目の前に、水を必要としている人がいて、自分にはそれを助ける手があった。それだけのことだった。
——これが、前の生でやっていたことだ。
そう思い出した。銭にも、名誉にもならない仕事。ただ、水がないと困る人がいて、水を引ける自分がいる。それだけで、動く理由になっていた。
島門を出てから、この心持ちは、一度もなかった。
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村を出て、山道を歩きながら、わたしは、久しぶりに、心が軽いのを感じた。
蔵の帳を検めれば、誰かが咎められる。船の理を追えば、賊のことを考えてしまう。技を見れば、それを運ぶ算段を巡らせてしまう。
この一年、わたしのすることには、いつも、何か重いものがついて回っていた。
だが、この村での日々には、それがなかった。
ただ、水を引いて、人が喜ぶ。それだけの、単純な仕事だった。
——これが、いちばん、性に合っているのかもしれない。
そう思うと、少し可笑しかった。数を読む才も、理を見立てる目も、いつのまにか、この身を縛る鎖のようになっていた。
だが、この村では、その才が、誰かを苦しめることなく、そのまま誰かを助けた。
そんな日が、これほど久しぶりだったとは、自分でも思っていなかった。
荷運びの男が、ようやく本調子を取り戻して、隣を歩いていた。
「お嬢さん、機嫌がよろしいようで」
たどたどしい日本語だった。少しずつ、この男も、言葉を覚えているらしい。
「そう見えまするか」
「見えます」
わたしは、答えなかった。
答えるかわりに、山の稜線を見上げた。
福建の空は、高く、澄んでいた。
いつか、この技を、本当に必要な場所で使える日が来るだろうか。
分からない。
分からないが、いまはただ、久しぶりに晴れた心のまま、歩き続けたかった。
振り返ると、村はもう、木々の陰に隠れて見えなくなっていた。
それでも、あの谷筋に溜まった水は、いまも確かに、そこにあるはずだった。
誰に見せるためでもなく、誰かに認められるためでもなく、ただ、そこにあるだけで、誰かの明日を支えている水。
そういうものを、この身の上で、また一つ、この世に残せたことが、何よりの慰めだった。
島門で残せなかったものを、ここで、少しだけ、埋め合わせられた気がした。
それが、埋め合わせと呼べるほどのものかどうかは、分からない。
分からなくても、いまは、それでよかった。




