第九話 白い器
応永二十三年(一四一六)七月 福建 泉州府徳化
陳文興の言いつけで、わたしは初めて、泉州の外へ出た。
行き先は、徳化という土地だった。泉州から山を幾つも越えた先にある、焼き物の里だという。
「窯元との取り決めを、検めてきなさい」
陳文興は、そう言って、書状を一通、わたしに持たせた。
「あなたなら、数だけでなく、窯の様子も見立てられるでしょう」
見立てて何になるのかは、言われなかった。だが、この人が理由もなく人を動かすことは、これまで一度もなかった。
阿蓮は、今回は付き添わなかった。別の用があるという。代わりに、陳家の荷運びの男が一人、同行した。言葉のほとんど通じない、無口な男だった。
一人で行くも同然だと、覚悟を決めた。
不安がないと言えば、嘘になる。だが、この一年で、言葉の分からぬ土地を一人で歩くことにも、いくらか慣れてしまった自分がいた。
慣れる、というのは、恐ろしいことかもしれない。恐ろしさが、いつのまにか、当たり前のものに変わっていく。それは、強くなったということなのか、それとも、感じるべきものを感じなくなっただけなのか、自分でも判じかねた。
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徳化へ向かう道中、山ばかりが続いた。
福建の山は、島門の丘とは、規模がまるで違った。険しく、深く、いつまでも同じ緑が続く。荷運びの男の後をついて歩きながら、わたしは、自分がどれほど泉州の内側に守られていたかを、あらためて思い知った。
外に出れば、この土地は、どこまでも広い。
三日かけて、徳化に着いた。
土埃の匂いと、焼き物を焼く煙の匂いが、里全体に染みついていた。あちこちに窯があり、煙突から煙が立ち上っている。
道の脇に、割れた器の欠片が、無造作に積まれていた。失敗して捨てられたものらしい。その量の多さに、目を見張った。
一つの見事な器の陰に、これほど多くの失敗が積み重なっているのだと、あらためて思い知らされた。
書状を頼りに、目当ての窯元を訪ねた。
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窯元の主は、留守だった。取り決めの検めは、明日以降になるという。
門前で、しばらく待たされた。荷運びの男は、荷を降ろして、日陰で早々に居眠りを始めた。この男にとっては、ただの荷運びの仕事の一つに過ぎないのだろう。
わたしにとっては、違った。この足で踏む土地の一つ一つが、まだ見ぬ理を隠しているかもしれない。そう思うと、待たされている時間さえ、退屈には感じなかった。
その日は、宿に泊まるほかなかった。
宿の主に、窯場を見て回ってもよいかと訊くと、案内を一人つけてくれた。年配の職人だった。
案内されるまま、幾つかの窯を見て回った。
穴を斜面に掘り、そこへ薪を焚べて焼く造りが多かった。日本の窯とも、大きくは違わない。
だが、その中に一つ、他と違う窯があった。
斜面に沿って、いくつもの房が連なっている。一つの房で焚いた火の熱を、次の房へと送り込む造りらしい。
「これは」
案内の職人に訊いた。
「連房、と呼んでいる。同じ薪で、幾つも一度に焼ける」
同じ薪で、幾つも。
その一言に、耳が留まった。
薪は、いつでも足りないものだ。島門の湊でも、火を焚くたびに、誰かが山へ入って木を伐っていた。同じ火で、幾つも焼けるなら、それだけ木を節約できる。
「これを使えば、いくら節約になりましょうか」
「さて。並みの窯の、倍は焼けると聞く」
倍。
その数を、わたしは頭の中で書き留めた。
薪が半分で済むなら、木を伐る手間も、運ぶ手間も、それだけ減る。木を伐らずに済んだ山は、次の年も、また木を与えてくれる。
これは、焼き物の話だけでは、終わらない。
木の要る仕事は、他にもいくらでもある。塩を焼く。銅を吹く。船を造る。どれも、同じ薪を奪い合っている。
一つの工夫が、薪を半分にできるなら、その分だけ、他の仕事に薪を回せる。
そう考えたところで、わたしは、自分がまた、島門にはもうない何かのために、算段を組んでいることに気づいた。
詮無いことだ。
分かっていて、それでも、指を折る手は止まらなかった。
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翌日
窯元の主との取り決めの検めは、半刻もかからずに終わった。
書状に記された量目と、実際の在庫を照らし合わせるだけの、単純な仕事だった。数は、狂っていなかった。
用が済んだあと、わたしは、案内の職人に頼んで、白い焼き物を焼く窯を見せてもらった。
その窯の前に立ったとき、わたしは、言葉を失った。
出来上がった器が、並べられていた。
白い。ただ白いだけではない。陽の光を受けて、薄く透き通るような白さだった。島門で見た、灰色がかった素焼きの器とは、まるで別のものだった。
「これは」
「白磁、という」
声がした。
振り返ると、五十がらみの男が立っていた。日に灼けた顔に、白い粉がこびりついている。手も、白い粉で汚れていた。
「わたくしは、麻生千代と申します。泉州の陳家より参りました」
「呉徳全だ」
男は、それだけ名乗った。
呉徳全の目は、こちらを値踏みするようでも、警戒するようでもなかった。ただ、興味なさそうに、それでいて、こちらの言葉には応じるという、独特の構えだった。
「なぜ、これほど白いのでござりましょう」
わたしは、器を指して訊いた。
呉徳全は、しばらくわたしを見ていた。
それから、ぼそりと言った。
「土のせいだ」
「土」
「白いのは土のせいじゃ。火は、その次じゃ」
「土が違えば、これほど白さが変わるものにござりますか」
「変わる。同じ火で焼いても、土が違えば、灰にもなれば、この白さにもなる」
「その土は、この窯場で採れるものにござりますか」
呉徳全は、答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
それ以上は、続かなかった。
土のせいだ、という一言が、頭の隅に残った。
——灰を混ぜれば、もっと白う、もっと低い火でも焼けるようになるのではないか。
前の生で、そういう焼き物があった気がする。骨を灰にして、土に混ぜて焼く。名も、作られた土地も、思い出せない。ただ、白さの理屈だけが、記憶のどこかに引っかかっていた。
いま、それを口にしたところで、確かめる術はない。灰の質も、混ぜる量も、火の加減も、何一つ分かっていない。試すには、まだ早すぎた。
いつか、自分の手で、一から試してみたい。そう思うだけで、その日は、それ以上、深追いしなかった。
わたしは、少し待ったが、呉徳全は、もう器のほうを向いて、何か作業を始めていた。
問いを重ねることも考えたが、やめておいた。
無口な男だと、最初は思った。だが、しばらく傍で見ていると、そうではないと分かってきた。
無駄口を利かないだけだ。手を動かしているあいだ、この人の意識は、すべて土と火のほうに向いている。言葉を差し挟む余地が、そもそもない。
そういう人間を、わたしは知っている。島門の与三次も、似た質だった。手が動いているあいだは、余計なことを考えない。考えないからこそ、手がぶれない。
数を読む自分とは、根本から違う集中の仕方だった。羨ましいとまでは思わないが、興味は尽きなかった。
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その日の午後、わたしは、窯場の隅に座って、呉徳全の仕事を眺めさせてもらった。
追い出されるかと思ったが、何も言われなかった。
土をこねる。轆轤を回す。形を整える。乾かす。窯に入れる。
一つ一つの手順は、見ていれば、大まかには掴めた。だが、なぜその土を選ぶのか、なぜその厚みにするのか、なぜその温度で焼くのか——そこに込められた勘所は、見ているだけでは、まるで分からなかった。
一つ、形を仕上げた呉徳全が、それを脇に置き、また新しい土の塊を手に取った。置かれた器を見ると、わずかに歪んでいた。
「いまのは、失敗にござりますか」
「わずかに歪んだ。売り物にはならぬ」
「勿体のうござります」
「これしきのことで、いちいち惜しんでおれば、腕は上がらぬ」
呉徳全は、あっさりと言って、次の土をこねはじめた。道端に積まれていた、あの夥しい欠片の山を、わたしは思い出した。あれは、失敗を惜しまない日々の、積み重なった跡なのだろう。
失敗を恐れず、同じ手順を、幾度も幾度も繰り返す。その果てに、ようやく、この白さに辿り着く。
数を積み重ねて狂いを見つける仕事とは、また違う根気が要る仕事だった。
「呉殿」
「なんじゃ」
「あの白い土は、どこで採れるのでござりますか」
「山の中じゃ」
「どのあたりの山でござりますか」
呉徳全は、手を止めずに答えた。
「教えぬ」
にべもなかった。
「それは、なぜでござりますか」
「教えれば、わしの飯の種が減る」
その理屈は、よく分かった。数を数える技も、島門では、誰にでも軽々しく教えるものではなかった。技とは、そういうものだ。
「では、焼き方だけでも、お教えいただけませぬか」
「無理じゃ」
「なぜ」
呉徳全は、初めて手を止めて、こちらを向いた。
「わしは、この窯の主ではない。雇われて焼いておるだけじゃ」
「……」
「わしの腕は、わしのものじゃ。じゃが、この窯を使う許しは、わしのものではない。教えることも、教えぬことも、わしの一存では決められぬ」
その言葉に、わたしは、少し驚いた。
呉徳全は、この土地でこれほどの器を焼ける唯一の腕を持ちながら、この窯の主ではない。一生、誰かに雇われて焼き続ける身の上らしい。
才を持ちながら、その才を、自分のものにできない人がいる。
そういう理不尽が、この世にはあるらしい。
わたし自身も、似たようなものかもしれなかった。数を読む腕を持ちながら、その腕を使う先を、自分では選べない。
陳文興の家で、蔵の帳を検め、造船場の理を見立て、いまはこうして、遠い山里まで使いに出されている。どれも、自分から望んだ仕事ではない。腕を認められ、その腕の分だけ、使われる範囲が広がっているだけだ。
呉徳全と、自分と、どちらがより不自由なのか、はかりかねた。
少なくとも、この人には、腕がある。腕さえあれば、主が変わっても、飯を食っていける。
わたしには、まだ、そこまでの腕はなかった。数を読む才があるというだけで、まだ、誰かに認められて初めて、ようやく使いものになる身の上だった。
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夕方、窯場を辞するとき、呉徳全が、ぽつりと言った。
「なぜ、そこまで訊きたがる」
「面白うござりますゆえ」
「面白い、か」
呉徳全は、しばらくわたしを見ていた。
「あんたのような者を、明では、あまり見ぬ」
「日本の女子は、珍しゅうござりますか」
「そうではない。……いや、そうかもしれぬ」
呉徳全は、首を振った。
「腕でもなく、銭でもなく、ただ知りたいから訊く、という顔をしておる。そういう者は、あまりおらぬ」
その言葉を、わたしは、しばらく胸の内で転がした。
たしかに、いまのわたしには、この技を使う当てが何もない。焼き物を売る商いをするわけでも、島に窯を築く算段があるわけでもない。ただ、知りたいから、訊いている。
妙なものだ。
いまのわたしは、値を付けられ、働きを検められ、飯を恵まれる身の上にすぎない。明日の我が身がどうなるかも、自分では決められない。そんな者が、腕にも銭にもならないことを、ただ面白いというだけで訊いて回っている。
この訊き方は、飢えた者の訊き方ではない。
前の生を思い出す。あの生では、明日の飯に困ったことなど、一度もなかった。知りたいことを知りたいというだけで学ぶ余裕が、当たり前のようにあった。何の得にもならない問いを、誰に咎められることもなく、いくらでも重ねられた。
その余裕が、いつのまにか、性根に染みついていたのだろう。
いまのこの身は、その余裕を持つ立場ではない。にもかかわらず、頭の芯には、あの頃の癖だけが、そっくり居座っている。
——贅沢な性分だ。
そう自分を評して、少し可笑しくなった。持たざる身でありながら、持てる者の頭のまま、世を見ている。呉徳全が「珍しい」と言ったのも、道理だった。この土地で、腕も銭も持たぬ者が、それでも知りたがるところなど、まず見ないのだろう。
だが、この訊く癖こそが、いつか何かを繋ぐのかもしれない。
そう思うと、少しだけ、胸の奥が軽くなった。
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宿に戻って、わたしは、その日見たものを、紙に書き留めた。
連房の窯。白い土。呉徳全という腕のある職人。だが、その職人は、窯の主ではない。
書きながら、あることに気づいた。
技を持ち帰るには、土だけでも、道具だけでも、足りない。
土がどこにあるか、それだけを覚えても、正しく掘り出す目利きがなければ、使い物にならない。窯の形を覚えても、火加減を見極める腕がなければ、器は割れる。
技とは、紙に写し取れるものと、写し取れないものの、両方でできている。写し取れないもののほうは、結局、人そのものに宿っている。
——技ではなく、人を運ばねばならない。
その考えが、頭に浮かんだ瞬間、わたしは、自分でも驚いた。
人を運ぶ、とは、どういうことか。
この呉徳全という男を、どこかへ連れて行く、ということか。連れて行って、何をさせるというのか。
まだ何一つ、行く先の当てなどないのに、頭の中では、もう先の先まで、考えが走り出していた。
気が早い。
そう自分を戒めながらも、その考えを、紙の隅に書き添えずにはいられなかった。
技は、紙に写せる。だが、技を確かなものにする腕は、人からしか受け継げない。
いつか、その理が、何かの役に立つ日が来るだろうか。
分からない。
分からないまま、わたしは筆を置いた。
窓の外では、徳化の窯の煙が、夜の闇の中に、細く立ち上っていた。
翌朝、泉州へ発つ前に、わたしはもう一度、窯場に立ち寄った。
呉徳全は、朝から既に、土をこねていた。
「発ちまする」
「そうか」
それだけの遣り取りだった。だが、去り際、呉徳全が、思い出したように言った。
「小娘」
「はい」
「またおいで。暇なときにでも」
素っ気ない言い方だったが、それが、この人なりの親しみの示し方らしいと、わたしは受け取った。
「必ず、また参ります」
そう答えて、頭を下げた。
窯場を離れながら、わたしは、胸の内で、その約束を数え直した。
阿蓮との約束。老いた船乗りとの約束。そして、いま、呉徳全との約束。
守れる約束と、守れない約束が、この身の上には、いつも入り混じっている。島門との約束は、ついに守れなかった。今度は、どうだろうか。
背に負うた紙束が、歩くたびに、かさりと鳴った。
その音だけを聞きながら、わたしは山道を下りはじめた。




