↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮を編む――滅んだ小領主の娘、唐土に売られ、海賊の妻となる  作者: ハタ星人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
18/123

第五話 狂い

応永二十三年(一四一六)三月 福建 泉州


春になって、言葉はだいぶ聞き取れるようになっていた。


市の値の付け合いも、七割方は分かる。台所の下女たちの世間話にも、時折くすりと笑えるくらいには追いつけていた。


字のほうは、もっと進んでいた。


阿花が教えてくれる言葉と、市の看板で拾う字と、褥の下に隠した紙束——三つを行き来しながら、わたしは毎晩、覚えたものを書き足していた。


紙束は、もう二十枚を超えていた。


---


ある朝、陳文興に呼ばれた。


久しぶりのことだった。船を降りてから、この人と直に話すのは二度目になる。


「お嬢さん」


陳文興は、そう言って、わたしを書斎に通した。


書斎には、幾つもの帳が積まれていた。日本の帳とは綴じ方が違う。糸で綴じるのではなく、折り畳んだ紙を重ねてある。


「阿蓮から聞きました。字が、だいぶ読めるようになったと」


「まだ、拙うござります」


「拙くとも、読めるなら十分です」


陳文興は、帳の一冊を、わたしの前に置いた。


「絹の蔵の帳です。この一月ぶんを、検めてもらえますか」



心臓が、静かに鳴った。


検める。


その言葉の意味を、わたしはよく知っている。三年前、番屋で与三次に「升を見せて」と言ったときと、同じ言葉だ。


「なぜ、わたくしに」


「船の水を、あなたは正しく割りました。台所の帳も、以前、少し覗いたことがあるでしょう」


わたしは、答えられなかった。


覗いたことはある。台所の日々の入用を記した、簡単な帳だ。誰かに命じられたわけではなく、暇なときに、目についたものを眺めていただけだった。


見られていたとは、思わなかった。


「周が見ていたのではありません。見ていたのは、わたしです」


陳文興は、そう言って、少し笑った。


「あなたは、見るものすべてを、頭の中で並べ直す癖がある。市場でも、台所でも、そうしていた」


「……」


「船の上でも、そうでしたね。水甕の数を、誰に言われずとも数えていた」


わたしは、答えなかった。答える必要もなかった。この人は、答えを求めて言っているのではない。


「その癖を、蔵の帳で試してみたい。それだけのことです」


「試して、何をなさるおつもりで」


陳文興は、しばらくわたしを見ていた。


「わたしの家は、商いで立っています。商いは、数で回ります。数を読める者は、多いようで、少ない。読める者はいても、疑うところまで読める者は、もっと少ない」


「疑う」


「はい。並んだ数を、そのまま信じない。そこに、誰かの手が入っていないかと、まず疑う」


わたしは、宗徳の言葉を思い出した。値の違いには、たいてい理由がある。理由のない違いを見つけたときだけ、そこに人の手が入っている、と。


あの人も、同じことを言っていた。海の向こうでも、この向こうでも、商いを長くやった者は、同じところに行き着くらしい。


「あなたは、疑うところまで見える。それが、珍しい」


「わたくしは、ただ——」


「ただ」


「数が合わぬのが、気持ち悪うござります」


陳文興は、声を立てて笑った。


「それでいい。それだけで、十分です」


---


蔵の帳は、日本の升と帳とは、勝手が違った。


明の量目は、日本のものと目盛りが違う。斤、両、銭——単位の並びも、置き換え方も、初めは掴めなかった。


それでも、数そのものの動きは、どこの国でも同じだった。


入りが幾つ、出が幾つ、残りが幾つ。


わたしは、板間で、夜ごとその帳を写し取った。写し取りながら、単位を日本の目盛りに置き換えて、頭の中で比べた。


一日目は、ただ写すだけで終わった。字を目で追いながら、明の桁の書き方に、まだ手間取った。


二日目は、写した数を、日本の目盛りに直す作業に費やした。斤を貫に、両を匁に。頭の中で二重に数を持ち歩くのは、思ったより骨が折れた。


三日目の夜、指が止まった。


絹の反物が、合わない。


入りの数と、出た数と、残りの数を足し合わせると、五反ほど足りない。



また、これだ。


三年前、升の底に貼られた板を見つけたときと、同じ感覚だった。狂いは、いつも同じ顔をして現れる。数字が、静かに嘘をついている。


心臓が、静かに、けれど確かに、速くなった。


翌朝、わたしは同じところをもう一度、写し違えていないか確かめた。


違わなかった。


五反。確かに、足りない。


もう一度、初めから帳を辿り直した。今度は、日を追ってではなく、荷主ごとに並べ直してみた。


すると、ある一人の荷主の名が、月に幾度も出てくることに気づいた。他の荷主より、明らかに多い。


その荷主への出しの記を、一つずつ拾い出した。


同じ日付に、同じ量目で、二度書かれている記が、三か所あった。


一度のものを二度書いたのか、それとも、二度書いて実は一度しか出ていないのか——後者なら、その差が、蔵から静かに消えたことになる。


指を折って数えると、三か所の差が、ちょうど五反になった。


合った。



合ったことが、嬉しいのか、恐ろしいのか、自分でもよく分からなかった。


---


言うべきか、黙るべきか。


その迷いは、もう長くは続かなかった。


三年前、わたしは升の狂いを、証がないまま告げて、叩かれた。


だが、それでも告げた。証がなくても、告げるべきときは告げる。それが、あの三年で身につけたことだった。


今度は、証がある。


数を、写した紙がある。入りと出と残りを、日を追って並べてある。


言わない理由が、なかった。


わたしは、その帳を持って、陳文興のところへ行った。


「五反、足りませぬ」


陳文興は、わたしの持ってきた写しを、しばらく眺めていた。


「どこで、消えたと思いますか」


「蔵から出るときの記が、粗うござります。同じ日に、同じ量目で、何度も出ております。同じ荷主に、同じ日に、二度出た記もござりました」


「二度」


「一度のものを、二度書いた、あるいは——」


わたしは、言葉を選んだ。


「二度書いて、実は一度しか出ておらぬ、ということもあり得まする。その分だけ、蔵に残るべきものが、残っておりませぬ」


陳文興は、しばらく黙っていた。


それから、周を呼んだ。


わたしが名を知らなかった、蔵の帳を預かる老いた書役だった。


---


周が来た。


わたしは、書斎の隅に控えるように言われていた。下がることも許されず、そこに立っていた。


周は、初め、いつもと変わらぬ様子だった。陳文興に向かって、丁寧に頭を下げている。


陳文興が、写しを差し出した。


周の目が、紙の上を走った。



一瞬で、顔の色が変わった。


血の気が引くというのは、こういうことかと思った。頬の赤みが、見ている間に失せていく。


周は、何か言おうとして、言葉にならなかった。


陳文興が、静かに、しかし逃げ場のない調子で、何かを訊いた。わたしには、半分も聞き取れなかった。ただ、周の答えが、しどろもどろになっていくのは分かった。


途中から、周は、こちらを見た。


わたしを見た。


その目に浮かんだものが、何であったか、わたしは長く考えることになる。


恨みではなかった、と思う。もっと近いのは、驚きだった。まさかこの娘に、と言いたげな目だった。


見られている間、わたしは目をそらさなかった。


そらせば、それだけで負ける。水手たちの前で覚えたことだ。


でも、内心では、喉の奥が渇いていた。


やり取りの末、周は深く頭を下げて、書斎を出ていった。


出ていくとき、周は一度だけ、わたしの前を通った。


すれ違いざま、周は日本の言葉で、こう呟いた。


「……甥が、余計なことをした」


小さな声だった。陳文興には、たぶん聞こえていない。


意味を、その場では掴みかねた。


わたしは、何も言い返せなかった。ただ、その一言が、耳の奥に貼りついて離れなかった。


その日のうちに、蔵の差配が変わった。


新しい者が、周に代わって蔵に入った。


周がどうなったのかは、わたしには知らされなかった。ただ、その日から、屋敷のどこにも、あの人の姿を見なくなった。


---


同月 末


阿蓮が、久しぶりに来た。


いつもと、様子が違った。


肩の力の抜け方が、違う。目を合わせるのを、少し避けているように見えた。


「阿蓮」


「……ああ」


「何か、ござりましたか」


阿蓮は、しばらく黙っていた。


それから、こう言った。


「周は、俺の叔父だ」



わたしは、動けなくなった。


——甥が、余計なことをした。


あの日、周が去り際に呟いた一言が、いま、ようやく形になった。


甥というのは、阿蓮のことだった。


余計なことというのは、たぶん、筆を貸したことだった。


周は、あの一瞬で、すべてを察していたのだ。誰が娘に字を教えたか、その字が、誰の首を絞めることになったか。


「……知りませんでした」


「言っていない。言う理由もなかった」


阿蓮は、壁に凭れた。


「あの人は、俺の母の兄だ。俺がこの家に入れたのも、あの人の口利きだった」



心臓が、冷たくなった。


同じだ。


三年前、与三次を思い出した。太平を番屋に引き立てたのが与三次だったように、周を蔵に引き立てたのは、阿蓮の身内だったのだろう。あの二人組と、同じ形が、ここにもある。


「阿蓮。わたくしは」


「あんたのせいじゃない」


阿蓮は、そう言った。


「叔父が絹をくすねていたのは、事実だ。誰かがいつか見つけただろう。それが、あんただっただけだ」


言葉は、責めていなかった。


でも、目は、以前ほど、こちらを見なかった。


「叔父上は、どうなられたのでしょう」


「家から出された。行く先は、知らない」


「……お家には」


「田舎に、婆さまがいる。たぶん、そこへ行った」


阿蓮の声が、そこで少し掠れた。


「叔父が、俺をこの家に入れてくれた。母が死んだあと、俺を引き取って、字を仕込んで、陳様に口を利いてくれたのも、叔父だ」


わたしは、初めて知った。


母が死んでいたことも、阿蓮を育てたのが叔父であったことも、これまで一度も聞いていなかった。


聞かなかったのは、わたしが訊かなかったからだ。


「俺を口利きで入れてくれた者が、俺の目の前で、あんたに暴かれた」


「……」


「陳様の前で、恥をかいた」


わたしは、何も言えなかった。


言い訳を探した。証があった。狂いは事実だった。誰かが見つけるべきものだった。


全部、正しい。


正しいことが、阿蓮の傷を消しはしなかった。


「阿蓮。もし、わたくしが黙っておれば」


「黙っていたら、あんたが陳様を欺いたことになる」


「……」


「叔父も、それは望まなかっただろう」


阿蓮は、そう言って、初めて、少しだけ笑った。力のない笑い方だった。


「あんたは、悪いことをしたわけじゃない。俺も、それは分かっている」


「では」


「分かっていることと、平気でいられることは、別だ」



その一言が、いちばん堪えた。


わたしにも、覚えがあった。升の狂いを見つけて、与三次を叱らせてしまった、あの冬のことを。


正しいことをした。それは分かっている。分かっていて、それでも、あの老人の背中が小さく見えたことを、いまも忘れていない。


分かっていることと、平気でいられることは、別だ。


その言葉を、わたしはこの先、何度も思い出すことになる。


---


その夜、わたしは板間で、紙束を広げた。


書き足すべきことが、また一つ増えていた。


 周。阿蓮の叔父。絹五反を掠める。蔵より出さる。


書きながら、指が止まった。


三年前、升の狂いを告げたとき、わたしは与三次が咎められることを、計算に入れていなかった。数を作ることに夢中で、その数が誰の頭の上に落ちるかを、考えていなかった。


今度は、違った。


今度は、証を持っていく前から、誰かが咎められることは分かっていた。分かっていて、それでも持っていった。


分かっていて、やったことと、分からずにやったこと、どちらが罪深いのだろう。


答えは出なかった。


三年前は、知らなかったから、赦されるところがあったかもしれない。今度は、知っていて、なお同じことをした。


黙っていれば、周は蔵に残っただろう。阿蓮は、いつもどおりに笑っていただろう。


でも、絹は、五反ずつ、これからも消え続けただろう。


それでいい、と割り切れる自分と、割り切れない自分が、同時にいた。


---


四月


蔵の帳は、それから、わたしが検めることになった。


陳文興の言いつけだった。


新しい書役——周の後任は、若い男だった——は、わたしに帳を渡すとき、必ず頭を下げた。慇懃な頭の下げ方だった。


慇懃さの裏に、怖れがあるのが分かった。


数を検める女は、この屋敷では、いつのまにか怖れられる者になっていた。


阿蓮は、それからも来た。


来なくなったわけではない。ただ、前より口数が減った。用件だけを伝えて、長居はしなくなった。


ある日、わたしは思い切って訊いた。


「阿蓮は、わたくしを恨んでおられますか」


阿蓮は、少し考えて、こう答えた。


「恨んではいない」


「では、なぜ」


「あんたと話すと、叔父のことを思い出す。それだけだ」


それだけ、と言われたことが、かえって重く響いた。


「時が経てば、また前のように話せまするか」


「さあな」


阿蓮は、肩をすくめた。


「あんたは、そういうことを気にする人だとは、思わなかった」


「……」


「数のことにだけ、頭が回る人だと思っていた」


わたしは、何も言い返せなかった。



図星だったからだ。


数のことにばかり頭が回って、人の心のことは、いつも後になってから気づく。


三年前も、今度も、変わらない。


---


同月 半ば


夜、板間で、わたしは紙束の一枚を、じっと見ていた。


 周。阿蓮の叔父。絹五反を掠める。蔵より出さる。


その下に、新しい一行を書き足した。


 阿蓮、口数減る。恨んではいないと申すが、以前のようには話さず。


書いてから、しばらくそれを見ていた。


数は、正しく書ける。だが、この一行が意味するものの重さは、字にしても、うまく量れなかった。


窓の外で、夜風が吹いていた。


福建の四月は、もう夏の気配がする。汗ばむような夜気の中で、わたしは筆を置いた。


数を作ることは、できる。


人の心の分だけ引くことは、まだできない。


三年前、島門で、同じことを思った気がする。


数の合わせ方なら分かる。人の心の合わせ方は、どこにも書いていない。


あのときと、いま。


何一つ、変わっていなかった。


ただ一つ違うのは——三年前は、それに気づくのが、いつも遅すぎた。


今度は、狂いを見つけたその日から、誰が傷つくかを、分かっていた。


分かっていて、それでも、告げることを選んだ。


それが、正しかったのかどうか。


その答えは、まだ出ない。


わたしは、灯を吹き消した。


暗がりの中で、しばらく目を開けたままでいた。


島門では、黙っていて、家を失った。升の狂いに気づいても、証がないからと引き下がり、大内方との通じに気づいても、証がないからと父に退けられた。黙っていた三年の果てに、湊は焼け、父は死に、兄は死んだ。


だから、今度は黙らないと決めた。


数を作れば、告げる。証があれば、退かない。


その決め方は、間違っていないはずだった。


なのに、いま、暗闇の中で、周の去り際の背中と、阿蓮の力ない笑い方が、代わる代わる浮かんでくる。



——黙っていれば、家を失う。


——告げれば、誰かを傷つける。


その二つのあいだに、正しい道があるのだろうか。


あるとしたら、それはどんな形をしているのだろう。


分からなかった。


分からないまま、わたしは目を閉じた。


翌朝、目を覚ましたとき、紙束はいつもの場所に、いつもどおりしまわれていた。


明日も、蔵の帳を検める。


検めれば、また誰かが困るかもしれない。


それでも、検めることをやめるつもりは、なかった。


やめないと決めたことと、やめないでいることが平気なことは、ここでもやはり、別のことだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。