第五話 狂い
応永二十三年(一四一六)三月 福建 泉州
春になって、言葉はだいぶ聞き取れるようになっていた。
市の値の付け合いも、七割方は分かる。台所の下女たちの世間話にも、時折くすりと笑えるくらいには追いつけていた。
字のほうは、もっと進んでいた。
阿花が教えてくれる言葉と、市の看板で拾う字と、褥の下に隠した紙束——三つを行き来しながら、わたしは毎晩、覚えたものを書き足していた。
紙束は、もう二十枚を超えていた。
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ある朝、陳文興に呼ばれた。
久しぶりのことだった。船を降りてから、この人と直に話すのは二度目になる。
「お嬢さん」
陳文興は、そう言って、わたしを書斎に通した。
書斎には、幾つもの帳が積まれていた。日本の帳とは綴じ方が違う。糸で綴じるのではなく、折り畳んだ紙を重ねてある。
「阿蓮から聞きました。字が、だいぶ読めるようになったと」
「まだ、拙うござります」
「拙くとも、読めるなら十分です」
陳文興は、帳の一冊を、わたしの前に置いた。
「絹の蔵の帳です。この一月ぶんを、検めてもらえますか」
心臓が、静かに鳴った。
検める。
その言葉の意味を、わたしはよく知っている。三年前、番屋で与三次に「升を見せて」と言ったときと、同じ言葉だ。
「なぜ、わたくしに」
「船の水を、あなたは正しく割りました。台所の帳も、以前、少し覗いたことがあるでしょう」
わたしは、答えられなかった。
覗いたことはある。台所の日々の入用を記した、簡単な帳だ。誰かに命じられたわけではなく、暇なときに、目についたものを眺めていただけだった。
見られていたとは、思わなかった。
「周が見ていたのではありません。見ていたのは、わたしです」
陳文興は、そう言って、少し笑った。
「あなたは、見るものすべてを、頭の中で並べ直す癖がある。市場でも、台所でも、そうしていた」
「……」
「船の上でも、そうでしたね。水甕の数を、誰に言われずとも数えていた」
わたしは、答えなかった。答える必要もなかった。この人は、答えを求めて言っているのではない。
「その癖を、蔵の帳で試してみたい。それだけのことです」
「試して、何をなさるおつもりで」
陳文興は、しばらくわたしを見ていた。
「わたしの家は、商いで立っています。商いは、数で回ります。数を読める者は、多いようで、少ない。読める者はいても、疑うところまで読める者は、もっと少ない」
「疑う」
「はい。並んだ数を、そのまま信じない。そこに、誰かの手が入っていないかと、まず疑う」
わたしは、宗徳の言葉を思い出した。値の違いには、たいてい理由がある。理由のない違いを見つけたときだけ、そこに人の手が入っている、と。
あの人も、同じことを言っていた。海の向こうでも、この向こうでも、商いを長くやった者は、同じところに行き着くらしい。
「あなたは、疑うところまで見える。それが、珍しい」
「わたくしは、ただ——」
「ただ」
「数が合わぬのが、気持ち悪うござります」
陳文興は、声を立てて笑った。
「それでいい。それだけで、十分です」
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蔵の帳は、日本の升と帳とは、勝手が違った。
明の量目は、日本のものと目盛りが違う。斤、両、銭——単位の並びも、置き換え方も、初めは掴めなかった。
それでも、数そのものの動きは、どこの国でも同じだった。
入りが幾つ、出が幾つ、残りが幾つ。
わたしは、板間で、夜ごとその帳を写し取った。写し取りながら、単位を日本の目盛りに置き換えて、頭の中で比べた。
一日目は、ただ写すだけで終わった。字を目で追いながら、明の桁の書き方に、まだ手間取った。
二日目は、写した数を、日本の目盛りに直す作業に費やした。斤を貫に、両を匁に。頭の中で二重に数を持ち歩くのは、思ったより骨が折れた。
三日目の夜、指が止まった。
絹の反物が、合わない。
入りの数と、出た数と、残りの数を足し合わせると、五反ほど足りない。
また、これだ。
三年前、升の底に貼られた板を見つけたときと、同じ感覚だった。狂いは、いつも同じ顔をして現れる。数字が、静かに嘘をついている。
心臓が、静かに、けれど確かに、速くなった。
翌朝、わたしは同じところをもう一度、写し違えていないか確かめた。
違わなかった。
五反。確かに、足りない。
もう一度、初めから帳を辿り直した。今度は、日を追ってではなく、荷主ごとに並べ直してみた。
すると、ある一人の荷主の名が、月に幾度も出てくることに気づいた。他の荷主より、明らかに多い。
その荷主への出しの記を、一つずつ拾い出した。
同じ日付に、同じ量目で、二度書かれている記が、三か所あった。
一度のものを二度書いたのか、それとも、二度書いて実は一度しか出ていないのか——後者なら、その差が、蔵から静かに消えたことになる。
指を折って数えると、三か所の差が、ちょうど五反になった。
合った。
合ったことが、嬉しいのか、恐ろしいのか、自分でもよく分からなかった。
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言うべきか、黙るべきか。
その迷いは、もう長くは続かなかった。
三年前、わたしは升の狂いを、証がないまま告げて、叩かれた。
だが、それでも告げた。証がなくても、告げるべきときは告げる。それが、あの三年で身につけたことだった。
今度は、証がある。
数を、写した紙がある。入りと出と残りを、日を追って並べてある。
言わない理由が、なかった。
わたしは、その帳を持って、陳文興のところへ行った。
「五反、足りませぬ」
陳文興は、わたしの持ってきた写しを、しばらく眺めていた。
「どこで、消えたと思いますか」
「蔵から出るときの記が、粗うござります。同じ日に、同じ量目で、何度も出ております。同じ荷主に、同じ日に、二度出た記もござりました」
「二度」
「一度のものを、二度書いた、あるいは——」
わたしは、言葉を選んだ。
「二度書いて、実は一度しか出ておらぬ、ということもあり得まする。その分だけ、蔵に残るべきものが、残っておりませぬ」
陳文興は、しばらく黙っていた。
それから、周を呼んだ。
わたしが名を知らなかった、蔵の帳を預かる老いた書役だった。
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周が来た。
わたしは、書斎の隅に控えるように言われていた。下がることも許されず、そこに立っていた。
周は、初め、いつもと変わらぬ様子だった。陳文興に向かって、丁寧に頭を下げている。
陳文興が、写しを差し出した。
周の目が、紙の上を走った。
一瞬で、顔の色が変わった。
血の気が引くというのは、こういうことかと思った。頬の赤みが、見ている間に失せていく。
周は、何か言おうとして、言葉にならなかった。
陳文興が、静かに、しかし逃げ場のない調子で、何かを訊いた。わたしには、半分も聞き取れなかった。ただ、周の答えが、しどろもどろになっていくのは分かった。
途中から、周は、こちらを見た。
わたしを見た。
その目に浮かんだものが、何であったか、わたしは長く考えることになる。
恨みではなかった、と思う。もっと近いのは、驚きだった。まさかこの娘に、と言いたげな目だった。
見られている間、わたしは目をそらさなかった。
そらせば、それだけで負ける。水手たちの前で覚えたことだ。
でも、内心では、喉の奥が渇いていた。
やり取りの末、周は深く頭を下げて、書斎を出ていった。
出ていくとき、周は一度だけ、わたしの前を通った。
すれ違いざま、周は日本の言葉で、こう呟いた。
「……甥が、余計なことをした」
小さな声だった。陳文興には、たぶん聞こえていない。
意味を、その場では掴みかねた。
わたしは、何も言い返せなかった。ただ、その一言が、耳の奥に貼りついて離れなかった。
その日のうちに、蔵の差配が変わった。
新しい者が、周に代わって蔵に入った。
周がどうなったのかは、わたしには知らされなかった。ただ、その日から、屋敷のどこにも、あの人の姿を見なくなった。
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同月 末
阿蓮が、久しぶりに来た。
いつもと、様子が違った。
肩の力の抜け方が、違う。目を合わせるのを、少し避けているように見えた。
「阿蓮」
「……ああ」
「何か、ござりましたか」
阿蓮は、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「周は、俺の叔父だ」
わたしは、動けなくなった。
——甥が、余計なことをした。
あの日、周が去り際に呟いた一言が、いま、ようやく形になった。
甥というのは、阿蓮のことだった。
余計なことというのは、たぶん、筆を貸したことだった。
周は、あの一瞬で、すべてを察していたのだ。誰が娘に字を教えたか、その字が、誰の首を絞めることになったか。
「……知りませんでした」
「言っていない。言う理由もなかった」
阿蓮は、壁に凭れた。
「あの人は、俺の母の兄だ。俺がこの家に入れたのも、あの人の口利きだった」
心臓が、冷たくなった。
同じだ。
三年前、与三次を思い出した。太平を番屋に引き立てたのが与三次だったように、周を蔵に引き立てたのは、阿蓮の身内だったのだろう。あの二人組と、同じ形が、ここにもある。
「阿蓮。わたくしは」
「あんたのせいじゃない」
阿蓮は、そう言った。
「叔父が絹をくすねていたのは、事実だ。誰かがいつか見つけただろう。それが、あんただっただけだ」
言葉は、責めていなかった。
でも、目は、以前ほど、こちらを見なかった。
「叔父上は、どうなられたのでしょう」
「家から出された。行く先は、知らない」
「……お家には」
「田舎に、婆さまがいる。たぶん、そこへ行った」
阿蓮の声が、そこで少し掠れた。
「叔父が、俺をこの家に入れてくれた。母が死んだあと、俺を引き取って、字を仕込んで、陳様に口を利いてくれたのも、叔父だ」
わたしは、初めて知った。
母が死んでいたことも、阿蓮を育てたのが叔父であったことも、これまで一度も聞いていなかった。
聞かなかったのは、わたしが訊かなかったからだ。
「俺を口利きで入れてくれた者が、俺の目の前で、あんたに暴かれた」
「……」
「陳様の前で、恥をかいた」
わたしは、何も言えなかった。
言い訳を探した。証があった。狂いは事実だった。誰かが見つけるべきものだった。
全部、正しい。
正しいことが、阿蓮の傷を消しはしなかった。
「阿蓮。もし、わたくしが黙っておれば」
「黙っていたら、あんたが陳様を欺いたことになる」
「……」
「叔父も、それは望まなかっただろう」
阿蓮は、そう言って、初めて、少しだけ笑った。力のない笑い方だった。
「あんたは、悪いことをしたわけじゃない。俺も、それは分かっている」
「では」
「分かっていることと、平気でいられることは、別だ」
その一言が、いちばん堪えた。
わたしにも、覚えがあった。升の狂いを見つけて、与三次を叱らせてしまった、あの冬のことを。
正しいことをした。それは分かっている。分かっていて、それでも、あの老人の背中が小さく見えたことを、いまも忘れていない。
分かっていることと、平気でいられることは、別だ。
その言葉を、わたしはこの先、何度も思い出すことになる。
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その夜、わたしは板間で、紙束を広げた。
書き足すべきことが、また一つ増えていた。
周。阿蓮の叔父。絹五反を掠める。蔵より出さる。
書きながら、指が止まった。
三年前、升の狂いを告げたとき、わたしは与三次が咎められることを、計算に入れていなかった。数を作ることに夢中で、その数が誰の頭の上に落ちるかを、考えていなかった。
今度は、違った。
今度は、証を持っていく前から、誰かが咎められることは分かっていた。分かっていて、それでも持っていった。
分かっていて、やったことと、分からずにやったこと、どちらが罪深いのだろう。
答えは出なかった。
三年前は、知らなかったから、赦されるところがあったかもしれない。今度は、知っていて、なお同じことをした。
黙っていれば、周は蔵に残っただろう。阿蓮は、いつもどおりに笑っていただろう。
でも、絹は、五反ずつ、これからも消え続けただろう。
それでいい、と割り切れる自分と、割り切れない自分が、同時にいた。
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四月
蔵の帳は、それから、わたしが検めることになった。
陳文興の言いつけだった。
新しい書役——周の後任は、若い男だった——は、わたしに帳を渡すとき、必ず頭を下げた。慇懃な頭の下げ方だった。
慇懃さの裏に、怖れがあるのが分かった。
数を検める女は、この屋敷では、いつのまにか怖れられる者になっていた。
阿蓮は、それからも来た。
来なくなったわけではない。ただ、前より口数が減った。用件だけを伝えて、長居はしなくなった。
ある日、わたしは思い切って訊いた。
「阿蓮は、わたくしを恨んでおられますか」
阿蓮は、少し考えて、こう答えた。
「恨んではいない」
「では、なぜ」
「あんたと話すと、叔父のことを思い出す。それだけだ」
それだけ、と言われたことが、かえって重く響いた。
「時が経てば、また前のように話せまするか」
「さあな」
阿蓮は、肩をすくめた。
「あんたは、そういうことを気にする人だとは、思わなかった」
「……」
「数のことにだけ、頭が回る人だと思っていた」
わたしは、何も言い返せなかった。
図星だったからだ。
数のことにばかり頭が回って、人の心のことは、いつも後になってから気づく。
三年前も、今度も、変わらない。
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同月 半ば
夜、板間で、わたしは紙束の一枚を、じっと見ていた。
周。阿蓮の叔父。絹五反を掠める。蔵より出さる。
その下に、新しい一行を書き足した。
阿蓮、口数減る。恨んではいないと申すが、以前のようには話さず。
書いてから、しばらくそれを見ていた。
数は、正しく書ける。だが、この一行が意味するものの重さは、字にしても、うまく量れなかった。
窓の外で、夜風が吹いていた。
福建の四月は、もう夏の気配がする。汗ばむような夜気の中で、わたしは筆を置いた。
数を作ることは、できる。
人の心の分だけ引くことは、まだできない。
三年前、島門で、同じことを思った気がする。
数の合わせ方なら分かる。人の心の合わせ方は、どこにも書いていない。
あのときと、いま。
何一つ、変わっていなかった。
ただ一つ違うのは——三年前は、それに気づくのが、いつも遅すぎた。
今度は、狂いを見つけたその日から、誰が傷つくかを、分かっていた。
分かっていて、それでも、告げることを選んだ。
それが、正しかったのかどうか。
その答えは、まだ出ない。
わたしは、灯を吹き消した。
暗がりの中で、しばらく目を開けたままでいた。
島門では、黙っていて、家を失った。升の狂いに気づいても、証がないからと引き下がり、大内方との通じに気づいても、証がないからと父に退けられた。黙っていた三年の果てに、湊は焼け、父は死に、兄は死んだ。
だから、今度は黙らないと決めた。
数を作れば、告げる。証があれば、退かない。
その決め方は、間違っていないはずだった。
なのに、いま、暗闇の中で、周の去り際の背中と、阿蓮の力ない笑い方が、代わる代わる浮かんでくる。
——黙っていれば、家を失う。
——告げれば、誰かを傷つける。
その二つのあいだに、正しい道があるのだろうか。
あるとしたら、それはどんな形をしているのだろう。
分からなかった。
分からないまま、わたしは目を閉じた。
翌朝、目を覚ましたとき、紙束はいつもの場所に、いつもどおりしまわれていた。
明日も、蔵の帳を検める。
検めれば、また誰かが困るかもしれない。
それでも、検めることをやめるつもりは、なかった。
やめないと決めたことと、やめないでいることが平気なことは、ここでもやはり、別のことだった。




