幕間 名 荒瀬弥九郎(二神定海)
永享四年(一四三二)十月 伊予国 怒和島 下怒和
夜の浜で、枝の先を使って、砂に字を書いている。
波が来て、消す。また書く。
十画。縦と横が絡み合って、どこで筆を止めればよいのか、いまだに分からん。字を読めん男が、字を書いておる。笑い話だ。
書いておるのは、梅、という字だ。
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娘の名を、まだ決めておらん。
六月に帰った。腕に乗った小さいのが、思うたより重うて、あの時は、重みが増えておったとはな、と口走った。口走ってから、決めかねておる。
千代は、あの日、言うた。名は、まだ、決めておりませぬ。殿に、お選びいただきとうござります、と。
あれは、頼みだ。
あいつが俺に頼みごとをするのは、珍しい。策は持ち込む。数も並べる。そうではなくて、ただ、お前が選べ、と預けられたのは、これが、いくつ目だったか。指を折って、すぐに折り終わった。
弥太郎のときを思い出す。
弥太郎、でどうだ、と俺が言うた。あいつは、答えなんだ。長いこと、答えなんだ。顔から、色が引いておった。産後の疲れだと思うた。思うことにした。
あれが何であったか、俺は、いまも知らん。訊いておらん。訊けば、あいつは、答える。答えて、嘘を吐く。顔に出る嘘を、吐かせたくなかった。
ただ、名を付ける話になると、あいつの口が重うなる。それだけは、分かった。
だから、今度は預けたのだ。選ぶことが、あいつには重いのだろう。重いなら、俺が持つ。
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虎王丸と弥太郎には、どちらも俺の名を割って持たせた。それでよいと思うた。男の名は、そういうものだ。家を継ぐ者は、継ぐ名を負う。
娘には、割ってやるものがない。
荒瀬の家は、俺が、船の上で拾い集めた寄せ集めだ。継ぐほどの名も、守るほどの家格もない。そこへ生まれた女の子に、俺の名の欠片を渡して、どうする。
それに、俺の名には、重いものが付いておる。
弟の名だ。
あの子が死んだ冬、飢えた村の、家の裏手に、梅が一本あった。
誰も世話をせん木だった。枝は折れ、幹には、蟻の道ができておった。それでも、雪の残る朝、そこだけ、花をつけた。ほかには、何も咲いておらなんだ。
弟が、それを見て、言うた。
あれは、食えるか、と。
食えん、と俺は答えた。花だ。実になるのは、まだ先だ。
弟は、そうか、と言うて、目を閉じた。
あの梅を、あれから、何度も思い出した。夢にも出た。名を出すたび、俺は、あの日の干し魚を思う。半分を食った自分を思う。
だから、長いこと、梅の花を見たくなかった。
見たくなかったのに、娘の顔を見た瞬間、あの梅が浮かんだ。
寒い朝に、いちばん先に咲いて、誰にも見られんでも咲いて、それでも咲いて。
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考えてみれば、俺は、自分の手で人に名を付けたことが、弥太郎と虎王丸の二人しかない。それも、自分の名を割っただけだ。
俺自身の名も、半分は借り物だ。二神定海。義重殿が、こしらえて、与えてくれた名だ。字は読めんが、人が書いたその四字は、見れば分かる。立派な字面だと思う。立派すぎて、俺の名のような気がせん。
借り物でも、割り物でもない名を、人に付けるのは、初めてだ。
だから、手が止まる。
怖いのだと思う。名は、呼ぶたびに、その子の上に積もっていく。呼び間違えた名は、一生、外せん。
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先月、綾が訊いた。
「殿。姫の名は、お決まりになりましたか」
台所の脇の、人気のない廊下だった。綾は、そういう場所を選ぶ。選ぶのが、上手い女だ。
まだだ、と答えた。
綾は、それ以上、訊かなんだ。そうですか、と言うて、裾を直した。それから、少し笑うて、こうも言うた。
「弥太郎のときも、随分と、迷うておられましたね」
迷うておった。あの夜も、今夜と同じように、浜に出た。そこまで綾が知っておるのかと思うと、背中がむず痒うなった。
綾は、見ておる。見ておって、言わん。言わんで済ませられるのは、強い女だ。
千代と綾は、似ておらん。似ておらんのに、俺が迷うと、二人とも、迷うておる俺を、黙って、待つ。
あれは、女二人の気遣いなのか、俺が頼りないだけなのか。
どちらでもよい。待っておってくれる間に、決めればよい。
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六月に戻った日の夜のことは、千代に、言うておらん。
寝所に入る前に、廊下で足を止めた。障子の向こうで、千代が、子を抱いておった。灯は小さく、影が障子に映っておった。
千代の唇が、動いておった。
何を言うておるのかと、耳を寄せた。声は出ておらん。数を、数えておった。赤子の息を、数えておる。吸うて、吐いて、吸うて、吐いて。
赤子の息は、不揃いだ。数えても、合わん。それでも、あいつは、数えておった。合わんのを承知で、数えておる顔だった。
あれは、母の顔かと思うた。それとも、あの女の、癖なのか。
どちらでもよい。どちらでも、俺は、障子を開けられなんだ。
開けて、名を決めたぞ、と言えればよかった。決めておらんかった。決めておらんのに、開けられんかった。
引き返した。縁側で、一刻ほど、座っておった。
あの夜、梅の字は、まだ頭になかった。
名というのは、決めようと思うて決まるものではない。あの夜から四月、枕元に置いて、何度も顔を見て、ようやく、一つ、浮かんだ。
名は、子のほうから、来る。
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名は、償いに使うな、と思うた。
俺は、あの子を飢えさせぬ、と誓った。それは、償いだ。償いは、重い。重いものを背負うのは、俺ひとりでよい。娘に、それを渡してはならん。
梅は、償いの花ではない。
食えるか、と訊かれたら、食える、と今度は答えられる。塩に漬けて干せば、船に積んでも、夏の暑さに傷まぬ。兵糧にもなる。
千代なら、そう言うだろう。
梅は塩漬けにして干せば、兵糧になりましょう、と。真顔で、言う。言って、自分で気づいて、少し、困った顔をする。そういう顔は、悪くない。
あいつなら、どんな名でも、数に直す。梅も、直すだろう。それでよい。直された梅が、それでも咲くなら、構わん。
数に直せんものを、名にしたいのではない。数に直されても、折れんものを、名にしたい。
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昼間、弥太郎に、字を書かせた。
縁側で、手習いをしておった。母に教わった綺麗な字だ。六つの子の字ではない。
「弥太郎。梅、という字は、書けるか」
我ながら、白々しい声が出た。
弥太郎は、顔を上げた。じっと俺を見た。千代と同じ目だ。何かを数える前の、目だ。
それから、黙って、筆を取った。
書いた。
丁寧に、迷いなく。止めるところで止め、払うところで払った。
書き終えて、筆を置いた。それから、言うた。
「もう一度、お書きしましょうか」
俺は、少し笑って、頼む、と言うた。
弥太郎は、もう一度、書いた。さっきより、ゆっくり。俺の目が追えるように。
訊かなんだ。なぜ、いま、この字なのかを。
訊かぬ賢さは、母譲りだ。
あれがどこまで察したのかは、分からん。ただ、あの子は、父が字を読めんことを、恥とも、笑い草とも、しなんだ。千代が、そう育てたのだろう。
そう思うと、胸のあたりが、妙に、暖かうなった。
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名を言う相手は、もう決めてある。
綾だ。
千代に先に言えば、あいつは、よろしゅうござります、と答える。それは、答えだ。勘定に合うかどうかを確かめた上での、答えだ。
綾なら、返事をする。
よい名にござりますね、と言うて、笑う。そこに、数は入らん。入らんほうが、いい。千代は、横で聞いておればよい。聞いて、あとから数えればよい。
それが、あいつには、いちばん、軽く済む。
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砂に、もう一度、書いた。
縦、横。払い。点。
波が、来た。
字が、消えた。
消えて、また、書く。何度書いても、同じ形にならん。それでも、書ける。もう、書ける。
名は、書ける。
まだ、呼んでおらんだけだ。
枝を捨て、立ち上がった。館の方に、灯りがひとつ、点いておる。千代の部屋だ。あいつは、まだ、数えておるのだろう。
俺は、波打ち際で、小さく、声に出してみた。
「梅」
潮の音に、混ざった。
混ざって、消えた。
まだ、誰にも聞かせんでよい。聞かせるのは、冬になってからだ。梅が咲く頃に、言おう。




