幕間 波 鷹丸
永享四年(一四三二)九月 伊予国 怒和島
おれは、十になる前から、波を数えている。
浜に座って、寄せてくる波の間を数える。十まで数えて、指を折る。折った指が十になったら、頭の中で、百と言う。百になったら、また最初から。
幸松様に習った。
幸松様は、おれが六つのとき、指折りで数えて見せてくれた。数え方の違う子は、おれだけだった。「まだ、十までも危のうござります」と、幸松様はおれの頭の上で、そう言った。
いまは、百まで数えられる。
数が合うと、うれしい。
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母の話をする。
母は、さよといった。おれが五つのときに、この島の館で死んだ。
そのときのことは、あまり覚えていない。母は、眠っているのだと思っていた。千代様が、おれの手を握って、何か言われた。何を言われたかは、聞こえなかった。
母は、起きなかった。
それでも、おれは、母が眠っているだけだと、しばらく、思っていた。
半月して、ようやく、分かった。
分かってからも、泣かなかった。泣くのは、母が嫌がると思ったからだ。母は、いつも、笑っていた。分からないことを、笑ってやり過ごす人だった。
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母が話してくれたのは、姫様の話だった。
寝る前に、毎晩のように話した。おれの寝床の横に、母は座って、手をおれの胸に置いた。
「むかし、むかし。姫様のおりんしゃった」
筑前の言葉だ。おれは、もう、その言葉は話さない。この島の言葉を話す。でも、頭の中では、母の声は、いつも、筑前の言葉のままだ。
「姫様は、潮ば数えよらしたと」
おれは、聞いた。
「どうして」
「分からんと。わたしは、賢うなかけん」
母は、笑った。
「浜に座って、波の間ば、じいっと数えよらしたと。わたしは、それば見て、笑いよったと」
「笑ったの」
「笑うたばい。でもね」
母は、声を落とした。
「姫様が、数えよらしたけん、島門の湊は、船の通る日ば、先に分かったと。誰も気づかんやった。わたしだけが、知っとったばい」
おれは、眠くなった。母の手は、温かかった。
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母が話してくれた姫様の話は、四つあった。
潮を数える姫様。日に灼けるなと叱ったら、日陰で数え続ける姫様。字を書くのが好きな姫様。夜、眠れんで、天井を見ている姫様。
どれも、短い話だった。
母は、姫様の名を、言わなかった。ずっと、姫様、と呼んでいた。
おれは、五つのときには、それが誰なのか、分かっていなかった。
島の大人たちも、千代様の話をする。
松吉様は、千代様のことを、姐さん、と呼ぶ。「姐さんは、数えるとき、唇が動く」と笑う。六郎太様は、「千代様の言葉は、一度で聞け」と言う。幸松様は、「千代様の頭の中は、母屋より広い」と言う。
どれも、できあがった話だ。
千代様は、そういう人だ、と決まった話だ。
母の話は、違う。母の話の中の姫様は、浜に一人で座っている。誰にも決められていない。誰も、まだ、その人のことを、できあがった形では、知らない。
おれは、その姫様の話が、いちばん、好きだ。
だから、島の大人たちの話は、聞くだけ聞いて、母の話の隣に、並べないでおく。並べたら、母の姫様が、かすんでしまう気がして。
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弥太郎様に、一度だけ、訊かれたことがある。
弥太郎様は、千代様の子だ。まだ六つで、おれの腰ほどの背丈がある。「鷹丸は、母上のことを、どう思う」
おれは、少し考えて、こう答えた。
「数を数える人だと思います」
弥太郎様は、首を傾げた。
「それだけか」
「それだけです」
おれは、嘘をついた。
それだけではない。
でも、それ以上は、まだ、おれの持ち物ではない。母から預かったものだ。千代様に返すまでは、誰にも見せない。
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分かったのは、この島に来て、一年ほど経ってからだ。
千代様が、浜で、波を見ておられた。
おれは、後ろから見ていた。千代様は、座って、じいっと、動かなかった。唇が、わずかに動いた。何かを、数えている。
波の間を、数えている。
母の話の、そのままだった。
おれは、息を止めた。
千代様が、あの姫様だ。
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おれは、それを、誰にも言っていない。
千代様にも、言っていない。
母は、死ぬ少し前に、おれの手を握って、こう言った。
「鷹丸。わたしが、姫様の話ばしよったことは、千代様には、言わんでくれんね」
「どうして」
「恥ずかしかけん」
母は、笑った。いつもの、分からないことを笑う顔だった。
でも、そのあとに、こう続けた。
「姫様は、賢か人たい。けどね、強か人やなか。賢かだけ」
おれは、意味が分からなかった。
「賢かだけの人はね、ときどき、自分ば忘れなさる」
母の手が、おれの手を、強く握った。
「そのときは、お前が思い出させてあげんしゃい」
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千代様は、おれに、母のことを、話そうとされない。
話そうとして、やめる。
そういう顔を、何度も見た。口が、少し開いて、閉じて。目が、おれの顔のどこかを探して、すぐに逸れる。
おれは、そのたびに、知らん顔をする。
何も知らぬ子の顔だ。幸松様に、数え方を習ったばかりの子の顔だ。
千代様は、安心される。
安心して、また、何も言わずに、行かれる。
おれは、それでよいと思っている。
千代様は、きっと、どう話せばよいのか、悩んでおられる。賢い人は、話し方を間違えることを、いちばん恐れる。おれが、先に知っていると分かれば、千代様は、もっと、困られる。
困らせたくない。
母は、そのために、おれに言った。
自分ば忘れなさる。
だから、おれは、千代様が、話してくださる日まで、待つ。待つあいだ、おれは、母の話を、頭の中で、繰り返し、数える。
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昨日、弥九郎様が、おれを呼ばれた。
館の縁側で、弥九郎様は、おれの顔を、しばらく見ておられた。
「鷹丸。お前は、いくつになった」
「十一になり申す」
「そうか」
弥九郎様は、頷かれた。
「弥太郎と、虎王丸の近くにおれ。二人の、話し相手になってやってくれ」
「はい」
おれは、頭を下げた。
「それ以上のことは、いまは、決めぬ」
弥九郎様は、そう仰った。
おれは、顔を上げた。
弥九郎様の目は、静かだった。言葉の奥に、何かを置いておられるのが、分かった。
「千代にも、そう話してある」
「はい」
「お前には、傅役を付けぬ」
弥九郎様は、少し、間を置かれた。
「付けぬ理由は、お前が、いちばん、分かっておるはずだ」
おれは、答えなかった。
分かっている。
おれには、親がいない。親がいないということは、いまのおれには、守る人も、頼る人も、まだ、ないということだ。傅役は、家の者が付ける。家のない者に、傅役は付かない。
でも、おれには、弥太郎様がいる。
弥太郎様は、千代様の子だ。
千代様の子を、守る。
それは、千代様を守ることと、同じだ。
母は、言った。
そのときは、お前が思い出させてあげんしゃい。
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夕方、浜に出た。
波の間を、数えた。
十まで数えて、指を折る。折った指が十になって、百と言う。百を、二度。
潮が変わる。
波の間が、わずかに、広がる。
母の話に出てきた姫様が、数えていたのは、きっと、この変わり目だ。
数が合う。
おれは、うれしくなった。
数が合うと、母の話が、本当だったと分かる。母の話が本当だったと分かると、母がいたことが、本当だったと分かる。
母が、いなくなったことは、悲しい。
でも、母がいたことは、数が合うたびに、確かになる。
おれは、立ち上がった。
館のほうから、誰かの足音が、聞こえた。
千代様だ。
おれは、後ろを向かずに、もう一度、波の間を、数えはじめた。
何も知らぬ子の、顔をして。
千代様が、おれの横に、並ばれた。
何も言われなかった。
おれも、何も言わなかった。
二人で、同じ海を、見ていた。
波の間は、さっきよりも、少しだけ、広がっていた。




