幕間 針 志乃
永享四年(一四三二)九月 伊予国 怒和島
あの方の顔を、思い出せなくなった。
声は、覚えております。廊下を歩く足音も。朝に障子を開けるときの、桟の鳴る間合いも。けれど、顔だけが、どう組み合わせても、ひとつにならぬのです。
嫁いで、二年に満たぬうちに、あの人は、亡くなりました。
それで、思い出す顔が、ない。
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一周忌の夕べ、綾様の館の一間に、小さな位牌を置いて、灯りを点けました。
線香は、綾様が持ってきてくださいました。兄上の分だと、仰って。わたくしと綾様と、二人きりで、手を合わせました。
あの人は、綾様の兄上でした。
その兄上が、綾様のお味方の殿様に、討たれたのです。綾様が、どういうお気持ちでわたくしを助けてくださったのか。そのお気持ちの重さを、わたくしは、一年かけて、ようやく、手のひらに載せられるようになりました。
載せるだけで、まだ、持ち上げられません。
「志乃殿」
綾様が、手を合わせたまま、仰いました。
「兄上のことを、思い出されますか」
「声だけ」
わたくしは、正直に申しました。
「お顔が、どうしても」
綾様は、しばらく、黙っておられました。それから、こう仰いました。
「わたくしは、兄上の顔を、よう覚えております。けれど、兄上が、わたくしに何を言うてくださったかは、思い出せぬのです」
二人で、少し笑いました。
死んだ人は、一人ずつ、持っていく部分が違うのだと、思いました。
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この子は、乳のにおいがします。
まだ、九月ぶんしか生きておりませんのに、瞼の裏の色が、あの人に似て参りました。似ているのが、どこなのか、うまく言えません。目の形でも、鼻の線でもない。眠りに落ちる直前の、眉の寄せ方です。
あの人は、眠る前、いつも、眉を寄せておられました。何かを、考え終わらぬまま、眠りに落ちる人でした。
この子が、同じ顔をする。
それを見るたび、わたくしは、あの人の顔を、一瞬だけ、思い出します。
思い出した、と思った次の瞬間には、もう、この子の顔になっている。
だから、いま、わたくしが覚えているあの人の顔は、この子の顔なのでしょう。
それでもよいと、思うております。
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千代様が、お見えになったのは、灯りを落としかけた頃でした。
一周忌の供物を、持ってきてくださったのです。米と、布と、塩。それから、小さな、白い包みが、一つ。
「お口に合うかどうか」
そう仰って、包みを差し出されました。開けると、干した柑橘の皮に飴をからめた、小さな菓子でした。この島の柑橘で、拵えたものだそうです。
「この子に、というわけではござりませぬ」
千代様は、少し、慌てたように仰いました。
「志乃殿が、召し上がっていただければ」
「かたじけのう存じます」
わたくしは、頭を下げました。
下げながら、思いました。
この方は、一年前と、同じ顔をしておられる。
わたくしの部屋を訪ねてくださった夜、千代様は、お悔やみを述べてくださいました。その言葉は、嘘ではありませんでした。嘘ではなかったけれど、それだけでもなかった。
あの方の目は、お悔やみを述べておられるあいだにも、わたくしの腹を、見ておられました。
一度、確かに、見られたのです。
あの目は、数えておりました。
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腹の子が、男であれば、誰の側につくか。
女であれば、どこへ嫁がせるか。
あの方は、きっと、そのどちらをも、数えておられた。
不快ではございませんでした。
不快なのは、数えることではなく、数えているのを、数えていないふりで隠すことです。千代様は、隠すのがお上手ではありません。お上手でないから、わたくしにも、見えてしまう。
隠せているつもりで、隠せていない。
そこが、あの方の、人らしいところなのでしょう。
わたくしは、あのとき、一つのことを決めました。
恩は、受ける。
この子のために、受けられるものは、受ける。
けれど、恩に、縛られるつもりは、ありません。
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わたくしの実家は、教通方の風向きを読んで、早々に縁を切りました。
あの人が討たれる前から、わたくしの名は、実家の帳から消えておりました。誰も、迎えには来ませんでした。来るはずがないのです。
だから、わたくしには、この島しか、ございません。
ここで、生きていかねばなりません。
生きるには、居場所が要ります。居場所は、情けでは、保てません。情けは、いつか、尽きる。尽きたとき、わたくしが、ただの、身重の寡婦に戻らぬよう、何かを、持っておかねばならない。
武家の娘として、仕込まれたことがございます。
読み書き。和歌。故実。礼法。縫い取り。
実家では、嫁に出すための飾りだと、思うておりました。ここへ来て、はじめて分かりました。
これは、居場所の元手です。
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撫子様が、手習いに来られるようになったのは、ひと月ほど前のことです。
綾様の御長女。今年、五つになられます。
最初は、綾様のお言いつけでした。女の子には、一通りの教養を、仕込んでおきたいと。わたくしは、二つ返事で引き受けました。
引き受けながら、気づいておりました。
これが、居場所になる、と。
撫子様は、飲み込みの早い子です。針を持つと、一度、手を止めます。こうと決めるまで、動かれません。お父上と、同じなのだと、綾様が仰いました。
その針の持ち方を教えながら、わたくしは、自分の針を、考えておりました。
縫うものは、決まっております。
あの人の、古い羽織です。
あの人が最後に着ていた物は、教通方の館の跡に残ったまま、戻りませんでした。けれど、一つだけ、嫁入りのときに持ってきた、普段着の羽織が、手元に残っています。
裏地が、柔らかい。
それを解いて、小さく縫い直せば、この子の寝巻きになります。
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千代様は、帰りがけに、縁先で足を止められました。
「志乃殿」
「はい」
「何か、お困りのことは」
「ございません」
わたくしは、首を横に振りました。
「綾様が、よくしてくださいます。撫子様も、素直な子で」
千代様は、頷かれました。頷きながら、ほんの少し、何かを探すような顔をされました。
「もし」
「はい」
「この子が、大きゅうなって、何かを知りたがることがあれば」
千代様は、言葉を選んでおられました。
「わたくしが、できることなら、お力になります」
わたくしは、一礼しました。
けれど、胸の内では、こう答えておりました。
力は、借りません。
この子に、あなたへの恩を、背負わせはしません。
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この子が、物心つく頃に、わたくしは、こう話すつもりです。
あなたのお父上は、あなたを守れず、亡くなりました。
あなたとわたくしを助けてくださったのは、数を数える御方です。あの御方には、恩があります。
けれど、恩だけを抱いて、あの御方を見てはいけません。
あの御方は、人を助けるとき、同じ手で、人の値を数えます。助けられたあなたも、数えられている。それを知ったうえで、それでも、受けた恩は、返しなさい。
返すときも、数えなさい。
数えられる側ではなく、数える側に立ちなさい。
それが、わたくしが、この子に渡せる、いちばん確かな贈り物です。
千代様は、きっと、そう話されることを、予期しておられない。
予期しておられぬまま、この子は、少しずつ、わたくしの針の目を、受け継いでいく。
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灯りを落とす前に、羽織の裏地を、そっと広げました。
糸をほどく手が、途中で、止まりました。
縫い目の一つに、指が当たったのです。
あの人が、自分で、ほころびを縫った跡でした。不揃いで、糸の色が違う。縫い慣れぬ人の、縫い目です。
「あなたも、縫われたのですね」
声に出して、言ってみました。
答えはありません。この子が、寝息を立てているだけです。
その寝息の合間に、眉が、ぴくりと動きました。
あの顔です。
わたくしは、ほどきかけた糸を、そのままにして、針を置きました。
もう少し、このままで、置いておこうと思いました。




