幕間 草 彦次
永享四年(一四三二)八月 伊予国 鵜の子の入江
鵜の子の入江は、潮の匂いが、変わっておらなんだ。
豚を受け取る船の護衛に付いて、それがしは、十三年ぶりに、この浜を踏んだ。望んだわけではない。兵糧の豚を、館の近くまで運ぶ手が足りぬと、伊佐次殿に言われて、断る理由がなかっただけのことにござる。
足の下の砂が、記憶より、固い。
人の手が入った砂は、固うなる。それがしの頃は、もっと、柔らこうて、足を取られた。
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十三年前の冬、それがしは、この入江の頭であった。
船八艘、手下は二百と少し。冬を越す当てはなかった。そこへ、弥九郎殿の船が来て、使いが言うた。退け、と。
それがしは、答えた。退かぬ。冬を越す理がある、と。
理、と言うた。
理ではなかった。
入江には、手下のほかに、女子供と、年寄りがおった。百に近かったやも知れぬ。船の上の者は、船で生きられる。入江の者は、入江でしか生きられぬ。退けば、その者らの冬は、なくなる。
それだけのことにござった。
じゃが、それがしは、理と言うた。
頭が、情で動いたとは、言えぬ。言えば、手下に侮られる。頭は、得で動く者でなければならぬ。得で動く者の言葉であれば、手下は、付いてくる。
だから、冬を越す理、と言うた。
あの使いの口から、奥方様の耳に、それは、得で動く男の言葉として、届いたのであろう。のちに、館で向かい合うたとき、あの御方の目が、何かを測りかねている目をしておった。
測りかねるはずじゃ。
それがしは、あの御方に、測られぬように、言葉を選んだのでござるから。
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戦のことは、よう覚えておらぬ。
覚えておるのは、肩に刺さった、一本の矢じゃ。
柵の向こうで、手下に指図をしておった。大声を出しておったのであろう。急に、肩が、焼けるように熱うなって、膝をついた。弓ではなかった。弓の音とは、違うた。
あとで、それが弩という道具じゃと聞いた。
手下には、弓の上手い者が幾人かおった。十年、二十年かけて、腕を磨いた者らじゃ。その者らより先に、見たこともない道具を持った水手が、それがしを射た。
弓に三年、弩に十日。
のちに、十兵衛殿が、そう言うのを聞いた。聞きながら、それがしは、膝の上の手を握った。
悔しい、とは違うた。
あの日の矢は、それがしの手下の十年を、十日の道具で上回った。それを、この一党の者は、最初から、そう勘定して、船に積んで運んできたのじゃ。
あのとき、こちらが弱かった。
後に、館で、そう言うた。
偽りではござらぬ。
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七年、流れた。
手下は、二百から、五人になった。
一人は、冬の海に出て、戻らなんだ。一人は、借財の形に、他国の船へ売られた。一人は、斬られた。残った五人は、逃げ足の速い者でも、腕の立つ者でもない。ただ、別れる先を持たなんだ者らじゃ。
寅蔵という男が、そのうちの一人におる。それがしの下で、舵を取っておった。いまは、新居郡で、調練の列の端に並んでおる。
七年のあいだ、それがしは、ずっと、一つのことを考えておった。
あの入江の女子供は、どうなったか。
斬られたか。売られたか。あるいは、冬の海へ追い出されたか。
噂は、入ってきた。弥九郎という頭の一党は、降った者を、斬らぬ。入江の女子供にも、粥を配ったという。
噂など、当てにならぬ。
じゃが、当てにならぬ噂でも、七年のあいだに、三度、同じ話を聞いた。三度聞けば、当てにするしかなくなる。
常備兵の募りの話を聞いたとき、それがしは、禄のことより先に、その噂を思うた。
行って、見よう。
見て、噂が嘘であれば、その場で、あの御方の首を取る。
そう思うて、五人を連れて、島へ渡った。
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館に通された日のことは、覚えておる。
奥方様は、それがしの顔を、しばらく見ておられた。値踏みする目ではなかった。数える目でも、なかった。
それがしは、恨んでおり申さぬ、と言うた。
あのときは、こちらが弱かった、と。
あれが、そのとき口にした、たった一つの、偽りのない言葉にござった。
恨みは、ござった。ござったが、恨む相手は、あの御方ではなかった。
それがしが恨んでおったのは、冬を越す理、と言うて、入江の者らの命を、手下の得に化けさせた、あのときの、それがし自身にござる。
奥方様は、それを、測りかねておられたようじゃ。
測りかねたままで、よい。
それがしの胸の内は、数に直せぬ。直せぬように、してある。
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傭兵を束ねる役目を、召し抱えられてほどなく、任された。
金で集めた者らは、金で動く。それがしが、いちばんよう知っておる。金が切れれば、剣は、ほかの手に向く。向かぬようにするには、金より先に、居場所を与えるしかない。
大野氏の城を攻めたときも、そうじゃった。
弩の隊を率いて、門の前に立った。門を破れば、中に女子供がおるのは分かっておった。分かっておって、破らねばならなんだ。
破る前に、それがしは、傭兵どもを集めて、言うた。
中に入っても、女子供と年寄りには、手を出すな。取るものは、兵の持つ物だけにせよ。
誰も、理由を訊かなんだ。
訊かれれば、答えようがなかった。それがしの口の裏には、十三年前の入江があった。それは、人に話せることではない。
門は、開いた。
中からは、女の悲鳴が聞こえた。入江で聞いた声と、同じ高さじゃった。それがしは、耳を塞ぎたかった。じゃが、右の肩は、いつものように疼いたまま、剣を握る手だけが、しっかり動いた。
戦が終わり、報せを持って、館に出向いた。
奥方様は、礼を述べられた。
それがしは、こう答えた。
「根無し草の頃には、考えられなんだ役目にござる」
「この島に拾われた恩を、少しは、返せたかと存じます」
どちらも、偽りではござらぬ。
ただ、言わなんだ半分がある。
あの門の前で、それがしは、入江の者らに、詫びておった。
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入江の奥に、網を繕う者が、おった。
背の曲がった、年寄りの女じゃった。名は、呼べなんだ。呼べば、それがしの声で、この入江の十三年が、巻き戻る。
じゃが、背中の形に、見覚えがあった。
昔、それがしの船の飯を炊いておった女の、背に似ておった。違うかもしれぬ。同じ背の形の年寄りは、世に、幾らでもおる。
網の端が、浜に垂れていた。
それがしは、近づかなんだ。
帯に挟んでおった、俸禄の米の包みを、一つ、取り出した。護衛の礼として、豚の船の頭から渡されたものじゃ。
それを、網の籠の傍らに、そっと置いた。
置いて、立ち去った。
背後で、船の頭の声がした。
「彦次殿、何か、落とされましたか」
「いや。何も」
それがしは、言うた。
「ただ、足が、取られただけにござる」
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八月の入江には、風があった。
夕方、船の舳先に座って、帰りの潮を待った。肩の傷が、疼いた。雨の前に、いつも疼く。今夜は、降るかもしれぬ。
いつぞや、年少の者らに稽古をつけておったとき、こう言うたことがある。
それがしのような、根無し草の生き方だけは、させとうない。
あれは、本心にござった。
根無し草は、風が吹けば、どこへでも流れる。流れるたびに、持っていた物を、一つずつ、手放す。それがしは、七年かけて、二百人の手下と、一つの入江を、手放した。
いま、それがしには、五人の手下と、調練場の端の持ち場が、ある。
根があるとは、言えぬ。
ただ、足が、取られる砂は、ある。
それで、よいのやもしれぬ。
潮が、引きはじめた。
船が動く。入江が、後ろへ遠ざかっていく。
網の傍らの米の包みは、ここからは、もう、見えぬ。
あの女が、気づくかどうかも、分からぬ。
分からぬまま、船は出た。




