幕間 十七 石 郷田十兵衛
永享四年(一四三二)七月 伊予国 新居郡
懐に、石が一つ入っておる。
親指の爪ほどの、灰色の石じゃ。川原にいくらでも転がっておる類いで、何の変哲もない。儂は、これを、二十余年、持ち歩いておる。
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調練が引けたあとの稽古場は、静かでよい。
兵は、飯に散った。縄を片づける音が遠のいて、土の上には、昼の足跡だけが残っておる。儂は、その隅に膝をついて、小石を並べはじめた。
石一つが、兵の一団じゃ。
並べる石は、籠に山ほど入れて、いつも稽古場の隅に置いてある。若い者に陣立てを教えるのに、図は要らん。石があればよい。石は、嘘をつかん代わりに、言い訳もせん。置いた場所で崩れるものは、置き方が悪い。それだけを、黙って教えてくれる。
今夜、並べておるのは、響灘の入り江じゃ。
白水三郎が討たれて、三月になる。
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あの日、儂は、殿の船におった。
入り江の口は、すでに塞がれておった。白水の船が、潮に追われるように、岩の際へ寄ってくる。逃げ場がないと悟った男が、最後に何をするか、儂には分かっておった。
自分で、乗り移ってくる。
「それがしが、代わりましょう」
儂は、そう言うた。
殿は、儂を見て、首を振った。
「これは、俺の因縁だ」
それだけじゃった。
儂は、一歩、退がった。
退がりながら、胸の内で、何かが、すとんと落ちるのを感じた。あれが何であったか、儂は、三月かかって、ようやく分かった。
安堵じゃった。
そして、そのすぐ後ろから、取り上げられた、という思いが来た。
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儂は、いずこかの家中で、足軽大将を務めておった。
家の名は言わん。戦の名も言わん。言うたところで、どこの誰が覚えておる。滅びた家は、滅びた時点で、語る者がいなくなるものじゃ。
主は、川を背にして、最後の陣を敷いた。
負け戦と、皆が悟っておった。悟っておって、誰も口にせなんだ。儂は、足軽の三十余人を預かっておった。主は、儂を呼んで、こう言うた。
「十兵衛。その三十を連れて、退け。川の下手に、渡れる浅瀬がある」
儂は、言うた。
「残りまする」
「退け」
「それがしは」
「退けと言うておる」
主の声は、静かじゃった。怒鳴られたほうが、まだ、楽じゃった。
儂は、退いた。
三十人を連れて、浅瀬を渡った。渡りながら、儂は、足の下の石を、一つ拾うた。何のために拾うたかは、分からん。気づいたら、手に握っておった。
その夜、川の向こうで、陣が燃えた。
儂は、安堵しておった。
あの安堵を、儂は、二十余年、見ぬふりをして生きてきた。
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生き延びた者だけが、次の戦で、また、誰かを守れる。
奥方に、そう言うたことがある。大野氏を攻める支度の折じゃった。奥方は、儂に、恥とは思われませぬか、と訊ねた。
儂は、思わぬ、と答えた。
偽りではない。思うておらんことにして、二十余年、生きてきたのじゃ。
あの言葉を、儂は、何度も、他人の前で唱えてきた。唱えておると、いつの間にか、自分の信条のような顔をする。信条ではない。浅瀬を渡った足の言い訳じゃ。
じゃが、言い訳であっても、間違いではなかった。生きた三十人のうち、七人は、後に、別の主の下で、子を育てた。儂が退かなんだら、あの七人の子は、おらん。
言い訳が、同時に、勘定として合うておる。
だから、手放せなんだ。
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石を、動かしていく。
殿の船が入り江の口を塞ぐ。白水の船が、岩の際へ寄る。ここまでは、儂の並べ方と、変わらん。
問題は、その手前じゃ。
白水は、浅瀬へ逃げ込む癖を持っておった。三度目、四度目と、同じ場所へ。それを、あらかじめ読んで、伏せの船を置いたのは、館から届いた指図じゃった。
殿の指図ではない。
殿は、船の上では、潮の読みも、船の足も、儂の及ぶところではない。じゃが、あの指図の形は、殿の癖ではなかった。
敵のおるところに、石を置く者がおる。
敵のおるはずのところに、石を置く者もおる。
儂は、前の者じゃ。陣を見て、敵を見て、兵を置く。足軽大将とは、そういう役目じゃ。
あの指図は、後ろの者の手じゃった。まだ、そこにおらん敵を数えて、先回りして、石を置く。逃げ道を一つずつ数えて、減らしていく。
誰の手か、儂は、その指図を、初めて見たときから、分かっておった。
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奥方に、陣立てを教えたのは、六年前じゃった。
殿に石の並べ方を教える席に、奥方も学ばれるか、と問うた。奥方は、はい、と答えた。その目が、石を見ておらなんだ。石の置かれた、あいだを見ておった。
兵と兵のあいだ。
そこが、崩れるのじゃ。
あれは、教えて身につく目ではない。生まれつきか、でなければ、別のどこかで、長いこと、同じことを数えてきた目じゃ。
儂は、何も聞かなんだ。聞かんのが、浪人の礼儀じゃ。
弩を出したのも、奥方じゃった。弓に三年、弩に十日。儂は、そう言うた。あれは、褒めたのではない。弓の三年を積んできた者の、悔しさじゃった。
三年かけて積むものを、十日で超える。
儂が、足軽大将として積んだものを、この一党は、たった数年で、別の形に組み替えてしもうた。
悔しゅうは、ある。
じゃが、儂は、悔しがるより先に、これで、守れる命が増える、と、勘定した。
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石を教えるのは、殿と奥方だけではない。
庭先の隅には、いつも、子らが座っておる。奥方が目をかけておる、年嵩の若い者どもじゃ。幸松、亀吉、久紀。ほかにも、孤児上がりの者が幾人か。
幸松は、石を数えて、動かす前に、頭の中で全部の並びを組み替えてしまう。手は遅いが、動かしたときには、もう答えが出ておる。
亀吉は、石を見ずに、石の置かれた場所の端を見る。足場が崩れる、その縁をじゃ。船の上で育った者の目をしておる。
久紀は、石の数を覚えるのではなく、石一つが何人なのかを覚えようとする。先に顔を思い浮かべて、それから置く。まだ、並べるのは下手じゃ。じゃが、あれは、将の目じゃと、儂は思うておる。
三人とも、儂の石の置き方を、何一つ、真似せん。
それでよい。
真似されては困る。儂の置き方は、儂が負けて、覚えたものじゃ。負け方まで、継がせとうはない。
教えるとは、そういうことじゃと、遅うに分かった。
主は、儂に、何も教えなんだ。退けと言うただけじゃ。儂は、あの一言を、二十余年かけて、読み解いてきた。
読み解いて、今、ようやく、分かったような気がする。
あれは、命令ではなかった。
石を、次へ渡すという、頼みじゃった。
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誰にも、言わん。
殿が、奥方の手を借りておることを、儂は、誰にも言わん。
言えば、殿は、軽く見られる。この一党は、殿の口を通して、動いておる。船の者も、島の者も、殿が言うたから、動く。その口が、誰かの口写しじゃと知れたら、殿の言葉は、重みを失う。
殿が軽うなれば、奥方の手も、軽うなる。
奥方は、それを、誰より、分かっておる。分かっておるから、館の奥におる。
二人は、そういう組み合わせじゃ。
儂は、そこへ、石を並べる役で入っておる。
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最後に、懐から、あの石を出した。
灰色の、爪ほどの、小さな石じゃ。
陣立ての稽古では、大将の駒に、これを使う。若い者には、籠の石のうち、少し形の良いのを一つ見繕うて、大将じゃと言う。殿にも、触れさせたことはない。
今夜も、これを、入り江の中ほどに、置こうとした。
置こうとして、手が止まった。
白水の船のあった場所じゃ。
あの男は、最後に、自分の足で、殿の前へ出た。観念して、出たのじゃ。
儂は、その場におった。
儂が、あの船に、立ち回っていたら、殿の因縁を、儂が、取り上げていたことになる。
殿は、それを、許さなんだ。
あのとき、退がれと、言われたようなものじゃ。
主に、退けと言われた、あの日のように。
石を、置かなんだ。
懐へ、戻した。
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明日も、調練がある。
籠の石を、また、並べる。若い者の中に、石を動かすのが速い者が、一人、二人、育ってきた。あの者らの手が、あと数年で、儂の手より、速うなる。
そうなる前に、教えねばならん。
殿は、儂と二人きりになると、時々、ぽつりと、こう言う。
「十兵衛は、俺の知らんことを、よう知っておるな」
その度に、儂は、答える。
「それがしも、殿の知っておられることを、一つも知り申さぬ」
嘘ではない。
石の置き方を知っておる者と、潮の読み方を知っておる者と、数を引く者と、口を貸す者と。この一党は、そういう手の寄せ集めじゃ。
誰か一人が欠けても、並びが崩れる。
儂は、その並びの、隅のほうの石じゃ。
懐の石は、重うはない。
重いのは、置かぬと決めた、手のほうじゃ。




