幕間 耳 白水三郎
永享四年(一四三二)四月 響灘 入り江
右の耳は、聞こえん。
若いころに取られた。耳がないのじゃから、聞こえんのが当たり前じゃ。海の上では波の音を左でしか聞けんから、右のほうは、いつも誰かに預けて生きてきた。
その右から、今夜は、潮が来る。
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入り江の口が、塞がれた。
夕刻、満ち潮に乗ってここへ逃げ込んだ。いつもの手じゃ。満ちて入り、引いて抜ける。三十年、これで抜けられなんだ日はない。
その口の岩の際に、いま、船が横に並んでおる。
引き潮の刻限に、ちょうど口が閉じる並べ方じゃった。潮の満ち引きを、わしの顔より知っておらんと、あの並べ方はできん。
誰が教えたか、数えるまでもなかった。この入り江の口を知る者は、わしのほかに三人しかおらん。三人とも、わしが十年、銭を払うてきた者じゃ。
恨む気は、ない。毎年入る銭より、ひと息に入る銭のほうが大きかった。それだけのことじゃ。わしでも、そうする。
十年の銭を渡して、これか。そう思うて、少し笑うた。身代は一度きりじゃと、昔、小娘に言うたことがある。あれを、わしの身に返されたのじゃから、世の中は、よう出来ておる。
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三日前、浅瀬で捕られた手下が戻ってきた。
縄は掛かっておらなんだ。身代も取られず、小舟に乗せて、こちらの船の見える沖まで返されたという。
「斬らん、と言われました」
手下は、薄気味悪そうに言うた。
「降った者に手を出さん一党じゃと、向こうの水夫が、そう申しておりました。島の者も、みなそうじゃと」
わしは、黙って聞いておった。
聞きながら、足の下で床の揺れを数えておった。癖じゃ。
「頭」
「なんじゃ」
「弥九郎の奥方というのが、明から連れ帰られた女子じゃそうで。字が書けて、算えられて、海の筋は、その奥方が引いておると、島の者が」
名までは、手下も知らなんだ。
名は、要らなんだ。
明から。競りで買われた。字が書けて、算えられる。
陳という男の屋敷に、三十で入った荷があった。陳は、あとで泉州で捕まって、屋敷の者は、みな官の競りに出されたと、博多の唐房では話に出た。わしは、そういう話を聞くと、酒を飲ませて、先を訊く。売った荷の行き先を知らんと、気持ちが悪い性分じゃ。
三十で売った荷が、十七年して、わしの船を数えて削っておる。
商いとしては、わしの負けじゃ。
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少弐に付いたのは、負けると思うて付いたのではない。
大内の旗の下に残れば、いずれ、あの一党と縄張りを争う日が来る。争えば、数の少ないほうが削られる。わしは、そう読んだ。ならば、大内の背中を衝く側へ回って、前金を取れるうちに取る。それが、商いじゃった。
読みは、半分、当たった。
前金は、取れた。ただ、少弐の殿様は、わしが思うたより早う、足元が崩れた。盛見が討たれて、大内は弱ると見たのじゃが、弱った大内より、弱らんまま育つ一党のほうが、わしには手強かった。
二十艘あった船は、気づけば、十を割った。
浅瀬へ逃げ込むたび、そこに伏せの船が待っておった。二度目までは偶然かと思うた。三度目で、これは偶然ではないと分かった。わしの逃げる癖を、数えた者がおる。
数えられた者は、逃げ道が、一つずつ減っていく。
あの娘が、島門の湊で帳に付けておった数と、同じ手触りじゃった。
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あの小娘を売った日のことは、よう覚えておる。
覚えておるのは、娘の目じゃ。
島門の丘の途中に立って、わしの船を見ておった。目をそらさん女子じゃった。湊の約定を書いたのは、その娘じゃろうと、わしは、あの日、ほとんど察しておった。
約束を書いた女子は、約束の破れ目から先を、数えられる。
膝をついて、約定の話を切り出したとき、わしは、四つじゃと言うた。
あの若いのは、三日座って、五つ目を呑めと言うた。わしの前で、手下が五十おる場所で、飯も食わんで。
あんな男は、そうはおらん。
わしは、四つで持ち帰れと言うた。それが、利口じゃったからじゃ。あの若いのは、利口がどういうものか、分かっとって、座っておった。三日座って、戻って、妹に、五つとも通ったと言うたのじゃろう。
それで、あの娘が、わしの前に来た。
あの娘は、二十貫と言うた。
二十貫では安い、と、わしは言うた。
あれは、娘を高う売るために言うたのではない。
高う売るつもりなら、黙っておればよい。宗徳から二十貫を取れば済んだ話じゃ。あの娘が二十貫と言うたとき、わしは、それを呑んでもよかった。
口に出したのは、娘に、己の値を知らせておくためじゃった。
値を知らん荷は、安う叩かれる。
叩かれる荷の行く末は、わしが、いちばん、よう知っておる。
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わしは、十になるかならぬかで、親に二貫で売られた。
値は、あとになって知った。知ったときは、もう、売られ終わっておった。
売られた先から逃げて、捕まって、右の耳を取られた。取ったのは、わしを買うた男の、下働きじゃった。耳を削ぎ落としてから、その男は、わしの顔を見て、こう言うた。
悪う思うな。荷は荷じゃ。それだけのことよ。
怒る気には、ならなんだ。その男には、言い分があって、言い分は、勘定の上では、正しかった。逃げた荷には、印をつけねば、次の客に売れん。
荷は荷じゃ。
以来、その言葉は、わしの中で、ずっと、鳴っておる。人を取るたび、人を売るたび、わしは、あれを口の中で唱えて、手を動かしてきた。
唱えておれば、動かせる。
人を荷と思うことは、できん。じゃが、荷と思うたことにして、手を動かすことは、できる。
あの船着き場で、あの小娘を、荷として船に乗せたときも、そうじゃった。
さよという女子と離され、爺いが這うてきて、板の上に額をつけた。小娘は、船縁を握って、それを見ておった。泣かなんだ。
乗せる前に、わしは、一度だけ、娘の背に向けて言うた。
悪う思うな。荷は荷じゃ。それだけのことよ。
娘は、振り返らなんだ。
それでよかった。
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陳のところへやったのは、割りの悪い口じゃった。
女衒に流せば、幾らか、割の良い口がいくつもあった。字が書けて、算えられる、十四の娘じゃ。若うて、顔も悪うない。手っ取り早く銭にするなら、いくらでもあった。
陳は、そうは使わん。
陳が欲しがるのは、娘の頭じゃ。屋敷の帳を任せる。算えられる娘は、帳場に座らせておけば、一生、役に立つ。そういう家じゃと、唐房の者から、何度も聞いておった。人を、荷として扱いながら、荷としては使わん男じゃと。
わしは、それを選んだ。
選んだことを、娘に言うたことは、ない。言えば、恩になる。
恩は、重い。返さねばならんからじゃ。
憎しみは、返さんでよい。
わしは、そういう勘定をしておった。娘は、わしを恨んで生きればよい。恨みは、軽い。足を前に出す力にも使える。恩は、背に乗って、足を取る。
あの娘は、頭がよい。どちらが軽いか、すぐに分かる。
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夜半、舳先に手下頭を呼んだ。
源蔵という、わしの下で十五年船を漕いだ男じゃ。
「明日、わしが出る。お前らは、口が開いたら、降れ」
「頭」
「降れ。あの一党は、降った者を斬らん」
源蔵は、何か言いかけて、やめた。
こういう男じゃ。言いかけて、やめる。言わんでも、分かる男じゃ。
「頭は、どうされます」
「出る」
「勝てますか」
勝てるとは、思うておらなんだ。
しばらく黙って、わしは、言うた。
「勝たんでもよい。明日、わしの前に出てくるのは、弥九郎じゃ」
弥九郎という男は、降った者に手を出さん。出すときは、自分の手でやる。そういう男は、因縁を、他人に預けん。女房の因縁なら、なおさらじゃ。島門の若いのも、そうじゃった。三日座るのも、自分の足で座った。
わしの相手は、あの女房の男になる。
荷を、買い直した男じゃ。
わしの売った荷を、拾うて、足を生やした男に、斬られる。商いの終わりとしては、悪うない。
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夜が深うなって、潮が、入り江の口に当たる音がした。
岩に当たって、返っていく。右には、何も聞こえん。左の耳だけが、それを拾うておる。
明日、あの男に言うことは、決めてある。
悪かったと言えば、娘は、許すか許さんかを、背負わねばならん。許さなんだら、重い。許したら、もっと重い。どちらにしても、わしが、あの娘の荷を、一つ増やす。
そういうことは、せん。
三十で売ったときと、同じことを言う。
悪う思うな。荷は荷じゃ。それだけのことよ。
あの男が、その言葉を、娘のところへ持ち帰ってくれれば、それでよい。持ち帰らなくても、よい。持ち帰れば、娘は、憎むじゃろう。憎めば、軽い。
軽いまま、前を向いて歩けばよい。
それが、わしが、あの娘にできる、たった一つの、勘定じゃ。
満ち潮は、まだ引かん。
引いたら、出る。
三十で売ったことは、悔いておらん。
悔いておるのは、値じゃ。
あの娘は、三十で売るには、安すぎた。




