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潮を編む――滅んだ小領主の娘、唐土に売られ、海賊の妻となる  作者: ハタ星人


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第四十話 道半ばの、その先へ

永享四年(一四三二)六月 伊予国 怒和島 下怒和


弥九郎の船団が、怒和島の湊へ、戻ってきたのは、六月に入って間もなくのことだった。


「船が、見えました」


見張りの声に、湊には、たちまち、島の者たちが、集まりはじめた。弥太郎が、綾の手を振り払うようにして、湊の先端まで、駆けていった。


「父上」


弥太郎が、そう叫んだ。船が、まだ、はるか沖にあるうちから、その小さな体は、じっと、船の方角を、見つめ続けていた。


---


船が着き、弥九郎が、湊に降り立った。その顔には、長い戦を終えた者だけが持つ、確かな疲労と、それに勝る、静かな充足とが、同時に滲んでいた。


「お帰りなさいませ」


わたしが、そう出迎えると、弥九郎は、微かに笑った。


「戻ったぞ」


弥太郎が、その足元に、まとわりつくように、駆け寄った。弥九郎は、その小さな体を、しっかりと、抱き上げた。


「殿。もう一人、お引き合わせしたい者が、おり申す」


わたしは、そう言って、乳母に抱かれた、小さな娘を、示した。


弥九郎は、しばらく、その場で、動きを止めた。


「これは」


「三月に生まれ申した。女子にござります。文で、お報せしようかとも思いましたが、殿の御手を、戦のさなかに、煩わせとうはございませんでした」


弥九郎は、恐る恐る、その小さな体を、抱き取った。武骨な、潮に灼けた腕の中で、赤子は、小さく、身じろぎをした。


「俺が、留守のあいだに、こんなに、大きな重みが、増えておったとはな」


その声には、驚きと、隠しきれない喜びとが、同時に滲んでいた。


「名は、まだ、決めておりませぬ。殿に、お選びいただきとうござります」


弥九郎は、しばらく、赤子の顔を、じっと見つめていた。


「……綾にも、また、子が増えたと聞いた。この島は、いつのまにか、子だくさんの島になったものだな」


「はい。数えることに慣れたわたくしでも、この賑やかさばかりは、正直、数えきれぬほどにござります」


その言葉に、弥九郎は、声を立てて笑った。


---


その夜、館の一室で、あらためて、この戦の全容を、弥九郎と、振り返った。


「河野氏一本化、確かに、成し遂げられました」


わたしは、そう言った。


「大内様との縁も、伊予一国の、実質的な後ろ盾と呼べるほどに、深まりました」


弥九郎は、深く頷いた。


「随分と、遠くまで来たものだな」


「大野氏、教通方、白水三郎。この一年余りで、幾つもの決着を、つけてまいりました」


わたしは、そう続けた。


「因島・能島・来島の三島に、いまや、響灘までも。この一党の版図は、確かに、瀬戸内の広い一角に、及んでおります」


「新居郡の兵の備えも、いくらか、形になってまいりました」


わたしは、そう続けた。


「二年前、傭兵を二百ほど雇い入れた、あの話か」


「はい。あの傭兵も、いまでは、半ばほどに減り申した。空いた分は、この島で育てた常備兵に、着々と、入れ替わっており申す。定行殿の差配のもと、新居郡だけで、二百を超える常備兵が、既に、育っております」


「四百には、まだ、届かぬか」


「はい。ですが、この分で参れば、あと一年か二年のうちには、届きましょう。田を耕す力とは切り離した、確かな兵の厚みが、この一党の、また一つの足場になりつつござります」


「十兵衛は、この話を、どう見ておる」


弥九郎が、そう訊ねた。


「先だって、十兵衛殿に、四百という数を、あらためて申し上げたところ、しばらく、絶句しておられました。『銭だけで、これほどの数の兵を、田に触れさせず養う家など、聞いたことがない』と」


「それほどまでに、異例なことなのか」


「はい。並の武家であれば、いざ戦となれば、まず、田の民を駆り出すのが、当たり前にござります。田から切り離した兵を、これほどの数、恒常に養うなど、十兵衛殿ほどの武辺者でも、これまで、耳にしたことがない遣り方だそうにて」


その言葉に、弥九郎は、少し、誇らしげな顔をした。


「お前のやることは、いつも、並の物差しでは測れぬな」


「並であっては、この一党は、これほどまでには、育ちませなんだ」


わたしが、そう答えると、弥九郎は、深く頷いた。


「種を蒔けば、いずれ、実る。お前の、いつもの理屈どおりだな」


「はい。急いては、しくじりまする。ですが、蒔いた種を、途中で投げ出しもいたしませぬ」


「それでいて、まだ、満ち足りぬ顔をしておるな」


弥九郎が、そう言うと、わたしは、微かに笑った。


「満ち足りては、おりませぬ。数えれば数えるほど、まだ、足りぬものが、見えてまいりまする」


「その、足りぬものとは」


「はい。ですが」


わたしは、少し、間を置いてから、続けた。


---


「まだ、席は、ござりませぬ」


その一言に、弥九郎は、少し、考え込むような顔をした。


「河野氏を一本化しても、それは、通春様——あるいは、その御子孫の家。わたくしたちの家では、ござりませぬ」


「それは、いつまでも、変わらぬのか」


弥九郎が、そう訊ねた。


「分かりませぬ。ですが、いまは、まだ、変わっておりませぬ」


その答えに、弥九郎は、深く、長い息を吐いた。


---


「それでも、進み続けるのだな、お前は」


弥九郎が、そう続けた。


「はい。席がないからといって、歩みを止める理由には、なりませぬ」


わたしは、そう答えた。数えることに慣れた頭の中で、その事実は、いつも、静かに、確かに、そこにあった。


弥九郎は、それを聞いて、微かに笑った。


「その強さが、時に、恐ろしくもあり、頼もしくもある」


---


翌朝、館の庭先で、弥太郎と、鷹丸、そして、綾の子・虎王丸とが、共に、木刀を振っているのが見えた。弥太郎は、既に、五つになっていた。虎王丸は、それより一つ二つ年上、鷹丸は、さらに年上で、もう、十一になろうとしていた。今日から、弥太郎も、正式に、この稽古に加わることになっていた。


「鷹丸、上手になったな」


わたしが、そう声をかけると、鷹丸は、少し、照れたような顔をした。


「幸松様——いえ、定行様に、教えていただいており申す」


その言葉に、わたしは、深く頷いた。母を亡くし、まだ幼いまま、この島に引き取られた鷹丸が、こうして、日々、確かに、育っていた。この子の物語は、まだ、始まったばかりだった。


定行が、弥太郎の前に、しゃがみ込んだ。


「まずは、構えから。難しいことは、何も、考えずともよい」


定行が、そう言って、弥太郎の小さな手に、木刀を、そっと持たせた。弥太郎は、緊張した面持ちで、その重みを、両手で、しかと、受け止めた。


「上手にできるか、不安か」


わたしが、そう声をかけると、弥太郎は、少し、考えてから、頷いた。


「不安にござります。ですが、鷹丸様や、虎王丸様のように、なりとうござります」


その健気な答えに、わたしは、胸の奥が、微かに温かくなるのを感じた。


「案ずるな。皆、最初は、同じように、構えすら、ままならなかった」


定行が、そう言うと、弥太郎は、少し、安堵した顔を見せた。


その日の夕刻、わたしは、初めて、弥太郎に、筆と硯とを、手渡した。


「今日から、少しずつ、字を、覚えていこうな」


「はい、母上」


弥太郎は、そう答えると、覚束ない手つきで、筆を執った。真っ白な紙に、初めて引かれた、歪んだ一本の線を見つめながら、わたしは、頭の中で、静かに、この子の行く末を、思い描いた。


その夜、弥九郎と、二人きりで、この先のことを話し合った。


「弥太郎も、虎王丸も、いよいよ、稽古が始まった。そろそろ、傅役を、しかと、定めておくべきだろうな」


弥九郎が、そう切り出した。


「はい。此度の折、あわせて、決めとうござります」


わたしは、そう答えた。


「弥太郎には、誰を」


「六郎太殿を、と思うており申す。長年、この一党を支えてくれた、確かな男。此度、身を固めたばかりでもあり、これからは、腰を据えて、弥太郎の傍らにいてもらいとうござります」


弥九郎は、それを聞いて、深く頷いた。


「六郎太なら、任せられる。虎王丸のほうは」


「松吉殿に、お願いいたしとうござります。あの男も、古くからの、確かな一党の柱。義重様の血を引くあの子にも、しかと、目を届かせられる者が、要りましょう」


「松吉か。悪くない」


弥九郎は、そう言って、微かに笑った。


翌日、六郎太と松吉、両名を呼び、傅役の役目を、正式に申し付けた。二人とも、深く頭を下げ、その重い役目を、確かに、受け入れた。


「鷹丸のことも、決めておきたい」


弥九郎が、そう続けた。


「近習として、弥太郎と虎王丸、両名に、付けようと思うており申す。あの子も、もう、十一。傅役ほどの重みは、まだ、負えますまいが、傍らで、二人を支える役目は、務まりましょう」


わたしが、そう答えると、弥九郎は、深く頷いた。


「お前が、幼き日から、唯一、心を許した女子であったな、さよは。その忘れ形見が、二人の傍らで育つのも、悪くない巡り合わせだな」


「はい。いずれ、あの子自身が、確かな側近として、育っていくはずにござります」


小姓については、まだ、何も、決めなかった。二人とも、その役目を担うには、あまりに幼すぎた。それは、十年の先の話だった。


数日後、わたしは、弥太郎を、独り、部屋に呼んだ。字と算えの手習いとは、また、別のことを、教えておきたかった。


「今日は、母と二人だけの、内緒の稽古じゃ」


わたしが、そう言うと、弥太郎は、少し、目を輝かせた。


「内緒、にござりますか」


「うむ。これは、定行にも、六郎太にも、教えられぬ、母だけが、そなたに授けられるものじゃ」


わたしは、そう続けながら、頭の中で、これから、この子に、何を、どう授けていくべきかを、静かに、数え直した。数を読む力。人の腹の内を測る力。表に立たずとも、確かに物事を動かす力。それは、これまで、この母が、独りで、身につけてきたものだった。


「母上のように、なりとうござります」


弥太郎が、そう言った。その素直な言葉に、わたしは、少し、胸を突かれた。


「なれるやもしれぬ。だが、一つだけ、しかと、心に留めておかねばならぬことがある」


「何にござりますか」


「そなたの兄は、虎王丸じゃ。この家を、いずれ、継ぐのは、あの子じゃ。そなたは、その兄を、支える側に回らねばならぬ」


その言葉に、弥太郎は、少し、不思議そうな顔をした。


「母上のように、なれても、ですか」


「なれても、じゃ。むしろ、母のようになれるからこそ、なおのこと」


わたしは、そう答えながら、頭の中で、自分自身のこれまでの歩みを、静かに、思い返した。名を求めず、席を求めず、それでも、確かに、この一党を動かしてきた。その生き方を、この子にも、そのまま、伝えねばならなかった。


「表に立つことと、力を持つこととは、また、別のことじゃ。そなたには、後者の力を、しかと、授けたい。ただし、その力は、兄を、押しのけるためではのうて、兄を、支えるために使うものじゃ」


弥太郎は、しばらく、考え込んでいたが、やがて、深く頷いた。


「分かり申した。兄上を、お支えいたしまする」


その素直な答えに、わたしは、深く、安堵した。同時に、頭の隅では、この子には、まだ、明かせぬ勘定が、静かに動いていた。虎王丸が、しかと、当主の器に育つならば、それでよい。だが、万が一、あの子が、その重みに耐えかねる器であったなら、名だけは、あの子に残しながら、実の舵取りは、この子に、しかと、担わせる。それもまた、この一党が、これまで幾度も歩んできた道だった。いま、この子に伝えたのは、その道の、表側の半分にすぎなかった。数えることに慣れたこの頭でも、この子が、いつか、その裏側の半分にまで、気づく日が来るのかどうかは、まだ、はきとは、見通せなかった。


---


その日の午後、正俊と清光が、あらためて、殿の御佩刀を、手入れのために、館へ持ち帰った。


「戻られた早々、恐れ入りまするが」


正俊が、そう言って、恭しく、一振りを、受け取った。


「頼む。これからも、その一振りが、殿を、しかと、守ってくれるように」


弥九郎が、そう言うと、正俊は、深く、頭を下げた。


「いずれ、この一振りに、しかと、村正の銘を、刻む日が、まいりましょう」


正俊が、そう続けると、弥九郎は、微かに笑った。


「その日を、楽しみにしておる」


その遣り取りを、傍らで見ていたわたしは、深く、感じ入った。かつて、対立していた二つの技が、いまでは、こうして、この一党の、確かな柱の一つになっていた。


---


「範久様は」


わたしは、そう、傍らにいた綾に、訊ねた。


「大祝家との縁組も、家中にしかと定着し、当主として、日々、しっかりと務めておられます」


綾が、そう答えた。


「あの子が、あれほど、立派になるとは」


「殿と、義重様と、そして、千代殿の、これまでの支えがあってこそにござります」


その言葉に、わたしは、少し、胸が温かくなった。


---


その夜、独り、帳を広げた。


大内方への助勢、無事に終える。河野氏一本化、確定す。大内との関係、伊予一国の、実質的な後ろ盾へと深まる。白水三郎、討たれ、響灘の縄張り、こちらに継がれる。教通方、族滅す。又五郎様、討死。


書き終えて、しばらく、その長い一行を見つめた。この一年あまりで、あまりに、多くのことが、起きていた。数えることに慣れた頭でも、その総てを、正しく数え切ることは、もはや、できなかった。


---


弥九郎は、隣の部屋で、既に、休んでいるようだった。この一年、あの男は、殿として、これまでにない重さを、幾つも、背負い続けてきた。清濁併せ持つ器として、この男は、いっそう、人望を集める領主へと、育ちつつあった。


わたしは、といえば、自分の内側で、何かが、静かに、しかし確かに、変わりつつあることを、感じていた。大野氏の一件、白水三郎の最期。数えることでは片づかぬはずの出来事の裏に、いつのまにか、冷たい勘定を、静かに働かせている自分がいた。


弥九郎と、わたし。二人の成長は、いつのまにか、それぞれ、違う方角を向きはじめていた。それを、対立と呼ぶには、まだ、早すぎた。だが、その違いは、確かに、そこにあった。


---


窓の外を見ると、初夏の月が、静かに、海を照らしていた。六島、因島、能島、来島。そして、いま、響灘までも。数え上げれば、この一党が治める土地は、いつのまにか、瀬戸内の広い一角に及んでいた。


それでも、まだ、道半ばだった。二神本家という名の内側にも、まだ、正式な席はない。忽那諸島の全域にも、まだ、手の届かぬ場所が残っている。そして、その先には、いずれ、明との貿易再開という、避けては通れぬ壁も、待ち構えているはずだった。


千代だけが、それが来ると知っていた。受験で覚えた太字の一つ。年は思い出せないが、必ず開くことだけは、確かに知っていた。


その日が来るまでに、この一党は、瀬戸内の中だけに留まらない、確かな備えを、築いておかねばならなかった。


弥太郎の寝息が、隣の間から、静かに聞こえてきた。鷹丸や、虎王丸の、日々、力強くなっていく足音も、頭の中に、まだ、残っていた。この子たちが、大人になる頃、この島は、いったい、どれほどの広さを持つ場所になっているのだろうか。


答えの出ぬ問いを、わたしは、そっと、帳の隅に置いた。


翌日、範久様と、定行、そして、綾、志乃。この島に集う、それぞれの立場の者たちが、久方ぶりに、一堂に会する宴が、静かに、催された。


その席で、範久様は、小三郎を、傍らに呼び寄せた。


「小三郎。そなたは、もう五年あまり、この島で、定行と並んで学び、大野攻めでも、初陣を、しかと、生き延びた。二神の家中に、そなたほどの若者は、多くはおらぬ」


小三郎は、少し、緊張した面持ちで、頭を下げた。


「そなたに、わたしの名から、一字を渡そう。今日より、橘久紀と、名乗るがよい」


「久紀……」


小三郎は、その名を、噛みしめるように、繰り返した。範久様の名から一字を賜ったことに、傍らで見ていた定行自身が、誰よりも、嬉しそうな顔をしていた。


「予州家への聞こえは、これまでどおり、客分のままでよい。そなたの父上には、いずれ、しかるべき折に、それがしから、直に、詫びと礼を尽くそう。だが、この家中では、そなたは、既に、我らの一人だ」


範久様が、そう続けると、小三郎は、深く、深く、頭を下げた。


「かたじけのう、ござります。この島に来た日は、正直、いつまでこの身の置き場があるものかと、心細うござりました。表向きは客人のまま、名だけをいただく形になろうとは思うており申さなんだが、それでも、この名を、しかと、背負うていく所存にござります」


わたしは、その遣り取りを、少し離れた場所から、見守っていた。客分という体裁を崩さぬまま、実は二神の家中に取り込む——この二枚舌のやり方は、綾を猶子に立てた本家の一件、村上一党を代官の看板の下で束ねたやり方と、同じ根を持っていた。表向きの名分を立てて相手の顔を潰さず、実を静かに攫っていく。この一党が、幾度となく繰り返してきた手管が、ここでもまた、確かに、生きていた。


その素直な物言いに、わたしは、幸松があの日、初めて名を告げたときの姿を、重ねずにはいられなかった。寄る辺のない者を受け止め、確かな居場所へと育て上げる——この一党の、変わらぬ形が、また一つ、ここに結ばれていた。


その様子を見ていた弥九郎が、ふと、亀吉を、傍らに呼んだ。


「亀吉。お前にも、名を渡す頃合いだろう」


亀吉は、少し、驚いた顔をした。


「それがしにも、にござりますか」


「幸松には、既に、渡してある。お前だけ、いつまでも、拾われたときのままの名では、示しがつかぬ」


弥九郎は、そう言って、微かに笑った。


「今日より、亀田定澄と、名乗るがよい。数を読む目の確かさ、十兵衛からも、幾度も聞いておる。いずれ、この一党の陣立てを、幸松と並んで、担う日が来よう」


「定澄……」


亀吉は、その名を、静かに、噛みしめるように、繰り返した。


「かたじけのう、存じまする。この御恩、幸松と同じく、生涯、忘れませぬ」


その姿を見ながら、わたしは、この一党の、指揮を執れる者の数が、まだ、あまりに少ないことを、頭の隅で、あらためて数え直していた。弥九郎、郷田十兵衛。いまのところ、実際に兵を率いて動かせる者は、この二人だけだった。定行、定澄、久紀。この若者たちが、一人前に育つまでには、なお、幾年もの歳月が要る。それまでは、綱渡りの日々が続くことになるだろう。


宴の合間、わたしは、そのことを、弥九郎に、あらためて進言した。


「殿。指揮を執れる者を、いま少し、増やしとうござります」


「若い者たちが、育つのを待つしかあるまい」


「待つだけでは、足りませぬ。既に、この一党の中に、実の戦を、幾度も潜り抜けてきた者たちが、おり申す」


「誰のことだ」


「熊野水軍の頭、鈴木重家殿にござります。荒海を渡り歩き、白水三郎との一戦でも、確かな働きを見せてくださいました。約定の相手のままでは、熊野は遠く、いざというとき、手が届きませぬ。あの御方を、正式に、武士として召し抱え、いずれは、海の戦の一角を、しかと、任せとうござります」


弥九郎は、それを聞いて、深く頷いた。


「もう一人は」


「行然殿の一党の、藤内にござります。行然殿御自身は、あくまで、あの一党の、信心の面での長。ですが、実際に戦場へ出て、手勢を動かしておるのは、いつも、藤内にござります。既に、評定の折、武士として、召し抱えてはおり申す。ですが、いまは、まだ、名ばかりの扱いにて。夜討ち・崖登りの技だけでのうて、陸の一手の将として、正式に、部隊を率いる立場を、与えとうござります」


「二人とも、既に、この一党のために、幾度も、命を張ってきた者たちだ。異存はない」


「それに、もう一人」


わたしは、そう続けた。


「彦次にござります」


弥九郎は、少し、意外そうな顔をした。


「彦次は、傭兵の束ねを、既に、二年、任せておろう」


「はい。ですが、あくまで、名目は、傭兵の頭にすぎませぬ。この二年、彦次は、傭兵を減らしながら、その穴を、育った常備兵で埋めるという、難しい入れ替えを、しかと、成し遂げてまいりました。かつて、鵜の子で、みずから一党を率いておった男にござります。手勢を率いて、腹を割って戦を仕切った経験は、この一党の中でも、並ぶ者は、そう多くはござりませぬ。いつまでも、傭兵頭という、名ばかりの立場のままでは、あの男の器を、正しく使い切れておりませぬ」


「彦次は、元は、海で鳴らした男だろう。海の一手を、任せるのではないのか」


弥九郎が、そう訊ねた。


「いえ、陸に、しかと、任せとうござります。この幾年、彦次は、陸で、傭兵と常備兵の入れ替えを、束ね続けてまいりました。海の勘は、既に、幾分、鈍っておりましょう。それに、鈴木殿の海の一手に、あとから割り込ませれば、要らぬ角も立ちましょう。いまの彦次の場は、既に、陸にござります」


「なるほど。あいつを、侮っておったな、俺たちは」


弥九郎は、そう言って、微かに笑った。


「彦次にも、正式に、一手を任せとうござります」


「よかろう。あやつも、さぞ、驚くだろうな」


弥九郎が、そう答えると、わたしは、深く頭を下げた。数の上での指揮官は、まだ、まったく足りていなかった。だが、外から新たに人を招くだけでなく、既に、この一党の中で、確かに、育ち、証を立ててきた者たちを、正しく、引き上げていく。それもまた、これまでのやり方と、変わらぬ一筋だった。


「皆、それぞれの場所で、確かに、育っておりますね」


綾が、そう言った。


「はい。この一党は、いつのまにか、島一つの話では、収まらぬところまで、来ておりました」


わたしが、そう答えると、綾は、静かに、微笑んだ。


「その先に、どのような景色が、待っておるのでしょうか」


その問いに、わたしは、しばらく、考えた。


「まだ、はきとは、見えませぬ。ですが、この一党であれば、どのような景色にも、確かに、辿り着けると、そう信じております」


その言葉に、綾は、深く頷いた。


宴の席には、弥太郎と、鷹丸、そして虎王丸の、無邪気な笑い声が、絶えず響いていた。範久様と、定行、そして、名を改めたばかりの久紀も、互いの立場を超えて、旧知の間柄のように、言葉を交わしていた。この島に集った、それぞれの生を持つ者たちが、いま、一つの、確かな絆の中に、静かに、結ばれていた。


灯を吹き消すと、窓の外では、六月の穏やかな潮風が、いつまでも、静かに吹き続けていた。


道は、まだ、半ばだった。それでも、この一党は、確かに、ここまで、歩んできた。その先に続く道を、これからも、一つずつ、数えながら、歩いていくつもりだった。


---


宴も終わり、皆が、それぞれの寝所へ引き取ったあと、弥九郎と、二人だけで、館の縁側に座った。


「随分と、遠くまで来たな、俺たちは」


弥九郎が、そう、独り言のように、漏らした。


「はい。荷として、船底に押し込められておった女が、いまでは、こうして、幾つもの島を数える身の上に、なっており申す」


わたしが、そう答えると、弥九郎は、深く頷いた。


「その道のりの半分は、お前の勘定が、切り開いてきたものだ」


「もう半分は、殿の、その足で、実際に、歩まれた道のりにござります。勘定だけでは、誰も、動きませぬ」


その答えに、弥九郎は、微かに笑った。


「相変わらず、譲らぬな、お前は」


「譲れば、この一党の均衡が、崩れましょう」


わたしが、そう言うと、弥九郎は、声を出して、笑った。その笑い声に、わたしは、いくらか、心が、和むのを感じた。


---


「これからも、こうして、隣に、いてくれるか」


弥九郎が、ふと、そう訊ねた。


その問いに、わたしは、少し、驚いた。これまで、幾度も、共に、幾多の局面を、乗り越えてきた。だが、こうして、はきと、言葉にして、問われたのは、初めてのことだった。


「はい。この一党が、続く限り、隣に、おり続けまする」


わたしは、そう答えた。その答えの裏に、まだ、はきとは、言葉にできない、いくつもの思いが、静かに、渦巻いていた。だが、いまは、それだけで、十分だった。


弥九郎は、それを聞いて、深く頷いた。二人のあいだに、しばらく、穏やかな沈黙が流れた。


夜空には、初夏の月が、変わらず、静かに、輝いていた。この島の、これまでの歩みと、これからの行く末とを、その月だけが、静かに、見守っているようだった。


「明日から、また、忙しゅうなるな」


弥九郎が、そう言った。


「はい。響灘の代官の人選、大内様との、今後の誼の進め方、そして、この一党の、次の一手。数えるべきことは、尽きませぬ」


わたしが、そう答えると、弥九郎は、深く頷いた。


「休む間もないな、お前は」


「殿も、同じにござりましょう」


わたしが、そう返すと、弥九郎は、微かに笑った。


「まあ、それも、悪うはない」


その一言に、わたしは、深く、頷いた。数えることに逃げ込みながらも、この一党と共に歩む日々こそが、いまの、この身にとって、何よりの、確かな居場所だった。


夜が更け、二人は、それぞれの寝所へと、静かに、戻っていった。館の灯りが、一つ、また一つと、消えていく。それでも、この島の、確かな営みは、明日もまた、変わらず、続いていくはずだった。


---


皆が寝静まったころ、わたしは、独り、庭の隅で、一人の男を、待っていた。


「弥七、参りました」


暗がりから、音もなく、一人の男が、姿を見せた。楠木党残党の一人で、行然殿の縁から、忍びの技を仕込まれてきた男だという。歳の頃は、三十そこそこ。目立たぬ顔立ちと、低い物腰とが、かえって、この稼業には、何よりの得物だった。


「河野氏の一本化は、成った。だが、この先を見据えれば、まだ、知らねばならぬことが、あまりに多い」


わたしは、そう切り出した。


「通春方に連なる家臣団のうち、誰が、どこに、どのような不満や、負い目を抱えておるか。しかと、調べ上げてほしい」


弥七は、深く、頭を下げた。


「畏まって、ござります」


「急ぎはせぬ。急いて、しくじれば、元も子もない。ゆるりと、腰を据えて、探ってくれてよい」


わたしが、そう続けると、弥七は、静かに、頷いた。


「一つ、既に、耳にしておることが、ござります」


「申せ」


「此度、大野氏当主の切腹に伴い、砥部の地に、河野方から、新たな代官が据えられたそうにて。戒能氏の傍流の者だと聞き申した。本流は、教通方に付いて、族滅に巻き込まれたとか。棚から転がり込むようにして、家名を継いだ、という噂にござります」


わたしは、その話に、静かに、耳を傾けた。長らく、同じ人物が治め、これまでは、宗家側の有力な武士が任されてきた、あの土地。生半可な者には、任せられぬはずの土地に、身内でありながら、通春に借りのある、御しやすい人物が、都合よく、据えられた。その符合に、頭の中で、静かに、何かが、結びつくのを感じた。


「その者、目をつけておきまする」


弥七が、そう続けた。


「うむ。頼む。急いてはならぬ。時をかけて、まずは、その者に、誼を結ぶことから、始めるがよい」


わたしは、そう答えながら、この男が、いずれ、どのような形で、この一党の役に立つのか、まだ、はきとは、見通せずにいた。だが、数えることに慣れたこの頭は、こういう小さな綻びを、決して、見逃さなかった。


「畏まって、ござります」


弥七は、そう言い残すと、来たときと同じように、音もなく、闇の中へ、姿を消した。


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床に就いてからも、わたしは、しばらく、目を閉じられずにいた。頭の中では、これまでの、この一党の、長い道のりが、幾度も、繰り返し、浮かんでは、消えていった。


荷として、船底に押し込められた、あの日。弥九郎に、身を売る形で、この一党に、加わったあの日。渡りを重ね、綾を迎え、六島を傘下に収め、二神本家の一件を乗り越え、河野氏を一本化し、そして、いま、響灘までを、その手に収めた。数えることに慣れたこの頭でも、この歩みの重さは、簡単には、数え切れなかった。


「まだ、道半ばにござります」


わたしは、暗闇の中で、独り、そう、静かに、呟いた。二神本家という名の内側にも、まだ、正式な席はない。忽那諸島の全域にも、まだ、手の届かぬ場所が残っている。そして、その先には、いずれ、明との貿易再開という、避けては通れぬ壁も、待ち構えているはずだった。


その壁の向こうに、どのような景色が待っているのか、いまは、まだ、はきとは、見えなかった。だが、この一党であれば、その景色にも、必ず、確かに、辿り着けると、そう、静かに、信じることができた。


弥太郎の寝息と、鷹丸の、日々、力強くなっていく足音とが、頭の中で、静かに、重なり合った。この子たちが、大人になる頃、この一党は、いったい、どれほどの広さを、その手に、収めているのだろうか。答えの出ぬ問いを、わたしは、そっと、帳の隅に、置いた。眠りに落ちる直前まで、この島の、確かな未来のことを、静かに、思い続けていた。夜は、そうして、静かに、更けていった。庭先の木々を渡る、静かな風の音だけが、いつまでも、耳に、残っていた。その音を聞きながら、わたしは、静かに、深く、目を閉じた。この長い一日の終わりに、ようやく、確かな眠りが、訪れようとしていた。

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