第三十八話 響灘を継ぐ
永享四年(一四三二)四月 響灘・伊予国 怒和島
白水三郎が滅んだあと、響灘の縄張りは、主を失ったまま、宙に浮いた形になった。弥九郎方は、この縄張りを、そのまま、引き継ぐことになった。
「白水衆の縄張り、そして、かつての人脈も、こちらの手に」
九州から戻った伊佐次が、そう報告した。
「かつての取り決めは」
わたしが、そう訊ねると、伊佐次は、答えた。
「島門と白水衆のあいだに、五つの約定があり、そのうち通っておった四つを、白水三郎は、日和見な男ながら、最後まで、律義に守り通しておったとか。地の者たちは、いまも、それを、覚えておるようで」
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その話に、わたしは、遠い昔のことを、静かに、思い返した。まだ、島門にいた頃、白水衆と交わした、あの約定。荷として売られた自分自身の、始まりの記憶が、そこには、確かにあった。
「その縄張りを、いま、こちらが、継ぐことになるとは」
わたしは、思わず、そう呟いた。
「感慨深げに、ござりますな」
伊佐次が、そう言った。
「はい。荷として売られた女が、売った男の縄張りそのものを、いま、継ぐことになる。この円環の、閉じ方を、まだ、正しくは、飲み込めずにおります」
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「地の者たちの、様子は」
わたしが、そう続けて訊ねると、伊佐次は、答えた。
「戸惑いは、ござりますが、悪い顔ばかりでは、ござりませぬ。白水三郎の、あの日和見な気性を、快う思うておらぬ者も、少のうなかったようで。ただ、約定だけは違えぬ男であった、とは、誰もが申しております」
その話に、わたしは、深く頷いた。
「では、これも、また、いつものやり方で」
「はい。力ずくで奪うのではのうて、恩と、利とで、少しずつ、こちらへ、なびかせてまいりましょう」
「郷田十兵衛殿は、この一件を、どう見ておられる」
わたしが、そう訊ねると、伊佐次は、答えた。
「『武で奪った縄張りより、利で得た縄張りのほうが、よほど、長続きする』と、そう仰せになっておられました」
その言葉に、わたしは、深く頷いた。この一党が、これまで、幾度も、体現してきた道理が、ここでも、確かに、当てはまっていた。
「殿は、この響灘の縄張りを、どう治めるおつもりか」
「まずは、代官のような形を、立てとうござります。土地の者から、信を置ける者を、選び出しましょう」
その答えに、わたしは、深く頷いた。因島や、能島、来島と、同じ手筋を、ここでも、丁寧に、なぞっていくつもりだった。
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数日のうちに、響灘周辺の在地の海の衆から、弥九郎方への、正式な帰順の申し出が、幾つか届きはじめた。
「白水三郎が守っておった四つの約定を、これからも、そのまま守ってくださるのであれば、弥九郎様に、従いまする」
そう申し出た頭の一人の言葉を、わたしは、伊佐次から伝え聞いた。
「あの約定を、誰が組んだかは、知っておるのか」
わたしが、そう訊ねると、伊佐次は、首を横に振った。
「いえ。地の者は、白水の掟として覚えておるのみにて。誰が組んだかは、知りませぬ。ただ、その掟が続くのであれば従う、と」
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その報せに、わたしは、深く、感慨を覚えた。あの、まだ、何も持たなかった頃に組んだ約定が、組んだ者の名を知られぬまま、売った男の手で守られ、幾年もの歳月を経て、いま、こうして、確かな信の礎になっていた。
「殿は、この報せを、どう受け止めておられる」
わたしが、そう訊ねると、伊佐次は、答えた。
「感慨深げに、頷いておられました。『お前が、あの島門で、あの約定を組んだからこそ、いまの、この響灘がある』と」
その言葉に、わたしは、しばらく、何も言えなかった。
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「伊佐次。四つの約定に、いま一つ、加えねばなりませぬ」
「五つ目、にござりますか」
「はい。人を、取らぬこと。あの折、白水三郎が、呑まなんだ一つにござります」
伊佐次は、少し、黙った。
「地の者の中には、乱取りで食うておった者も、おりましょう。反発も、ござりましょうな」
「だからこそ、白水の掟の続きとして、この一党が治めるいまのうちに、加えるのでござります。人を取った者は、この海から締め出す。代わりに、人ではのうて荷を運ぶ商いで食える道を、恩と利とで、用意いたしましょう。殿には、わたくしから申し上げ、殿の名で出していただきます」
その答えに、伊佐次は、深く頷いた。
三日座り続けた兄が、通せなかった一つだった。それから十余年、売られた当人の手で、ようやく、この海に書き込める。その巡り合わせの重さを、わたしは、静かに、噛みしめた。
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数日後、代官の人選についても、報せが届いた。
「地の者の中から、亀の甲羅のように、堅実な男を、一人、見出だし申した」
伊佐次が、そう報告した。
「名は」
「与三太、と申す、四十がらみの漁師にて。白水三郎の代からも、決して、義理を欠かさぬ男として、地の者たちに、信を置かれておったとの由」
その報せに、わたしは、深く頷いた。
「白水三郎の下でも、義理を欠かさなんだ、とは」
「はい。頭の生き方とは、また、別に、自分自身の筋を、しかと、通してきた男のようにて」
その話に、わたしは、少し、興味を引かれた。
「その与三太に、代官の役目を」
「はい。殿も、既に、直に、お会いになり、御裁断を、下されました」
その報せに、わたしは、深く、安堵した。因島、能島、来島と同じように、この響灘の地でも、確かな人を得られたことは、何よりの成果だった。
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「与三太は、いかなる男か、詳しゅう、聞かせてくれ」
わたしが、そう続けて訊ねると、伊佐次は、答えた。
「寡黙な男にて。多くは語りませぬが、殿の御前でも、一切、物怖じせず、はきと、己の考えを、述べたとの由」
「どのようなことを」
「『白水三郎は、目先の得ばかりを、追いすぎ申した。それが、この滅びを、招いたのでござろう』と、そう申したとの由」
その言葉に、わたしは、深く、感じ入った。かつての頭の生き方を、地の者自身が、そう、正しく、見抜いていた。
「その言葉、殿は、どう受け止められたか」
「深く、頷かれたとのこと。『目先の得だけでは、いずれ、足元をすくわれる。それは、俺たちも、肝に銘じねばならぬ』と、仰せになったとの由」
その報せに、わたしは、深く頷いた。この教訓を、この一党自身への、戒めとして、しかと、受け止めていた。
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その足で、この人選の詳細を、あらためて、帳に、丁寧に、書き留めた。荷として売られた土地の記憶が、いま、こうして、確かな統治の形へと、生まれ変わろうとしていた。
「与三太殿には、いずれ、しかと、この目で、お会いしとうござります」
わたしは、独り言のように、そう呟いた。九州の陣中にいる限り、この身が、直に、その地を訪ねることは、まだ、叶わなかった。だが、いずれ、殿が戻られたのちには、その日も、来るはずだった。
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その夜、綾のもとを訪ねた。響灘の件を、かいつまんで伝えた。
「荷として売られた女が、その縄張りを継ぐ」
綾が、そう繰り返した。
「これほどの巡り合わせが、あるものにござりますね」
「はい。数えることに慣れたわたくしでも、この巡り合わせだけは、うまく、言葉にできませぬ」
その答えに、綾は、静かに、微笑んだ。
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「千代殿は、この円環を、どう、お感じですか」
綾が、そう訊ねた。
「感じる、というより……ようやく、一つの区切りが、ついた気がいたします」
わたしは、そう答えた。島門で、荷として売られた、あの日から、既に、十年以上の歳月が流れていた。その長い歳月の果てに、この円環が、ようやく、閉じようとしていた。
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夜、灯芯を整えながら、帳に、この日のことを書き留めた。
響灘の縄張り・人脈、弥九郎方が、引き継ぐ。かつて交わした約定のうち四つ、いまも、地の者たちの信の礎となる。あの折通らなかった五つ目「人を取らぬこと」を、新たに加える。荷として売られた女が、売った男の縄張りを継ぐという、円環が閉じる。
書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。この巡り合わせの重さを、あらためて、噛みしめた。数えることに慣れた頭でも、この一件だけは、いつまでも、数え尽くせない気がした。
翌日、範久様に、この響灘継承の一件を、あらためて伝えた。
「これで、この一党の版図は、また、大きく広がったのですね」
範久様が、そう言った。
「はい。ですが、広がった分だけ、背負うものも、増えまする」
「それでも、千代殿は、前へ進まれるのですね」
その問いに、わたしは、深く頷いた。
「進まねば、これまでの、幾多の犠牲が、無駄になりましょう」
その答えに、範久様は、深く、頭を下げた。
範久様が去ったあと、義重も、この響灘継承の報せを聞き、館を訪れた。
「これで、瀬戸内の西の端から、北九州の入り口までを、この一党が、束ねるまでになったのだな」
義重が、そう言った。
「はい。ですが、束ねる版図が広がれば、それだけ、目を配らねばならぬ場所も、増えまする」
「千代殿は、その広がりを、重荷とだけ、感じておられるのか」
義重が、そう訊ねると、わたしは、少し、考えた。
「重荷であると同時に、これまでの、この一党の歩みが、確かに、実を結んだ証でもござります。両方の思いが、いま、同じくらいの重さで、この胸の内にござります」
その答えに、義重は、深く頷いた。
「その両方を、正直に、受け止められることこそが、千代殿の、確かな強さなのだろう」
その言葉に、わたしは、深く、頭を下げた。
「義重様は、この一党の広がりを、どう御覧になっておられますか」
わたしが、そう訊ねると、義重は、微かに、笑った。
「わしが、まだ、怒和島の一角を治めるだけの、小さな身であった頃には、思いも寄らなんだ広がりよ。範久や、綾の子らが、この広がりの中で、どのように、育っていくのか。それを、この目で、見届けとうござる」
その言葉に、わたしは、深く頷いた。
義重が去ったあと、わたしは、独り、館の縁側に座り、これまでの、この一党の歩みを、あらためて、振り返った。
怒和島の一角、鵜の子の入江から始まった、この一党の歩み。塩を焼き、木を植え、村上一党と渡り合い、六島を傘下に収め、二神本家の一件を乗り越え、河野氏を一本化し、そして、いま、響灘までを、その手に収めた。数えることに慣れたこの頭でも、この歩みの重さは、簡単には、数え切れなかった。
「これほどの道のりを、殿と共に、歩んでこられるとは」
わたしは、独り言のように、そう呟いた。あの日、荷として、船底に押し込められた小娘には、思いも寄らなかった道のりだった。
弥太郎の寝息が、隣の間から、静かに聞こえてきた。この子が、いつか、この広がった版図を、その手で、受け継ぐことになるのだろうか。答えの出ぬ問いを、わたしは、また、静かに、心の中に、しまい込んだ。
夜が更けても、わたしは、なかなか、寝つけずにいた。頭の中では、これまでの歩みと、これからの行く末とが、絶えず、静かに、巡り続けていた。
翌朝、松吉が、博多や赤間関、周防の湊から流れてくる噂を、あらためて、まとめて、報告に来た。
「弥九郎方が、響灘までを、その手に収めたとの話、既に、西国の湊々では、広まっておるようにて。堺や畿内へは、早船が向かったばかりにて、まだ、届いておりますまい」
「評判は」
わたしが、そう訊ねると、松吉は、答えた。
「瀬戸内から北九州までを、一手に束ねる水軍、と、なかなかの評判にて。中には、大内様に並ぶ勢力になるのではと、そう見立てる者も、おるようにて」
その報せに、わたしは、少し、複雑な思いを抱いた。
「大内様に並ぶ、とは、いささか、大仰にすぎる見立てにござります。この一党は、あくまで、瀬戸内の一水軍にすぎませぬ」
「はい。ですが、諸国の見立てというものは、こちらの都合など、お構いなしに、独り歩きするものにて」
松吉が、そう言うと、わたしは、深く頷いた。この評判の広がりを、これからも、しかと、見張っていかねばならなかった。
その足で、響灘の新しい代官、与三太への、正式な文をしたためた。まだ、一度も会ったことのない相手だったが、この文を通じて、この一党の理と、これからの付き合い方を、丁寧に、伝えておきたかった。
「四つの約定は、これまでどおり、この地の礎とし、この一党も、守ってまいります。加えて、五つ目として、人を取らぬこと、をこの地の掟といたします。与三太殿にも、その礎の上で、この地を、共に、治めていただきとうござります」
その一文を、しっかりと、書き記した。この地の、これからの安寧が、この一通の文から、少しずつ、築かれていくことを、静かに、願わずにはいられなかった。
その文を、伊佐次に託し、九州経由で、響灘へ、送り出した。
灯を消しても、しばらくのあいだ、頭の中では、この一党が、これから治めることになる、広い版図の姿が、幾度も、繰り返し、浮かんでは、消えていった。六島、因島、能島、来島、そして、響灘。数え上げれば、この一党は、いつのまにか、瀬戸内の西の端から、北九州の入り口までを、確かに、束ねる存在になっていた。
「これほどの重みを、正しく、担いきれるのだろうか」
わたしは、独り言のように、そう呟いた。答えは、まだ、はきとは、見えてこなかった。だが、ここまで来た以上、もう、後戻りする道はなかった。前へ進む以外に、この一党が選べる道は、もはや、残されていなかった。夜は、そうして、静かに、更けていった。庭先の木々の葉が、風に、そっと、揺れる音だけが、しばらく、耳に、残っていた。その音を聞きながら、わたしは、静かに、深く、目を閉じた。明日には、また、新しい報せが、届くはずだった。その報せを待ちながら、この島の、確かな営みは、これからも、変わらず、続いていくのだろうと、静かに、思った。
外では、四月の穏やかな風が、静かに、響灘の方角から、吹いてくるようだった。




