第三十六話 詰め切れぬ敵
永享四年(一四三二)三月 響灘
戦は、なおも、続いていた。優勢のまま追い詰めたはずの白水三郎が、そのたびに、地の利を活かして、最後の抵抗と離脱とを繰り返していた。
その報せは、響灘の陣から早船で戻った伊佐次が、弥九郎の書状とともに携えてきた。
わたしが女子を産んで、まだ数日だった。床は上げられず、褥の上に半身を起こし、襖を隔てた隣の間に伊佐次を座らせて、書状を読んだ。産屋の障子の向こうでは、三月の光が、まだ薄く、畳の縁に落ちていた。
「またも、逃げられ申した」
襖の向こうで、伊佐次が言った。
「響灘の潮と浅瀬を、知り尽くしておるようにて。こちらの船が追いきれぬ細い水道へ、幾度も、逃げ込んでおり申す」
書状には、先に送った指図どおりに土居一党の伝手を辿り、地の者の一人から、白水三郎の逃げ込む先を聞き出した、とあった。入り江が一つ。その入り江の退路は、一つしかない。潮の満ち引きによっては、その一つすら、塞げるかもしれぬという。
土居、という名に、わたしは、宇和海の硫黄の道筋を探らせた折のことを思い出した。伊佐次が、力ずくでなく、荷の融通と、情報の分かち合いとで、小さな諍いを収めた相手だった。あの折の誼が、思わぬところで、実を結んでいた。
そして、問いが二つ、記されていた。
退路を塞げるのは、満潮から四半刻ほどのあいだのみ。その短い刻限に、あの男を、どう確実に入り江へ追い込むか。もう一つは、追撃の消耗で苛立ちはじめた者たちを、どう抑えるか。
「郷田十兵衛殿は、何と」
わたしが問うと、伊佐次は少し、声を落とした。
「『海の戦にも時の運はある。だが、時の運を待つだけでは、いつまで経っても決着はつかぬ』と、そう仰せにござりました」
「村上殿は」
「孫六殿より、文を預かっており申す。入り江の潮の満ち引きは、こちらでも確かめておる、と。能島攻めの折に得た読みの技を、ここでも活かせましょう、との由。孫太郎殿も、能島の代官として、その潮読みを、若い者に、直々に、教えておられます」
その言葉に、わたしは、少し、誇らしい思いを抱いた。かつて、失敗を重ねながら身につけた技が、遠い海でも、確かに、実を結ぼうとしていた。
運を待つだけでは足りない、という十兵衛の言葉も、胸に残った。あの老人は、いつも、わたしが数えずに済ませていた欄を、指で一つ、叩いてみせる。待つこと自体にも、勘定がかかる。兵の疲れ、船の傷み、苛立ちの積もる日数。その欄を、わたしは、まだ、数え終えていなかった。
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読み終えて、わたしは、布団の上で、静かに息を吐いた。
潮の読み。刻限の短さ。逃げ道の数。どれも、数えれば答えの出る問いだった。出る、はずだった。ただ、その答えを、わたしは、自分の口で伝えることができない。
響灘までは、早船で一日。書状を送れば、返しの問いが戻るまでに、少なくとも二日。その二日のあいだに、潮は変わり、白水は別の水道に潜る。同じ陣の端にでもいて、顔を見て、問われた端から答えられるなら、半日で済む話だった。
産褥の身は、板間の端までも動けない。響灘の海は、あまりに遠かった。綾は、三度の産を、この島で越えてきた。産んだ翌々日には、もう、帳場の声を聞き分けていたという。わたしには、それができぬ。数えることしかできぬ身が、体という、数えきれぬものに縛られている。
動けぬ身が、これほど歯がゆいとは。そう思ってから、思い直した。往復が二日かかるのなら、一度で済ませればよい。弥九郎が、次に何を問うか。十兵衛が、次に何を言うか。それを先に数えて、答えを一通に詰めればよい。
「紙を」
わたしは、そう言って、筆を取った。
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「白水三郎を、あの入り江へ追い込む。そのための策を、先に申し上げます」
わたしは、襖の向こうの伊佐次に、書きながら、聞かせた。
「あの男は、これまで、幾度も追い詰められては、あの入り江へ逃げ込んでおります。ならば、こちらから、あえて、追い詰めすぎず、いつもの逃げ道だけを、残してやればようござります」
「逃げ道を、あえて残す、とは」
「他の逃げ道を、すべて塞いでしまえば、あの男は、かえって別の手を考えましょう。いつもの逃げ道だけを、あえて開けておけば、迷わず、そこへ逃げ込みます」
襖の向こうで、伊佐次が、息を呑むのが分かった。
「姐さんの、その裏の裏を読む勘定、まことに、恐ろしゅうござります」
「恐ろしいのではござりませぬ。ただ、あの男の、これまでの生き様を、丁寧に、数えているだけにござります」
あの男を数えるのは、難しくなかった。損得で動き、結んだ約定の数だけは、粗末にしない。日和見に見えるのは、どちらが長く続くかを、いつも、量っているからにすぎない。そういう男は、追い詰められたとき、必ず、いつもの道へ戻る。慣れた潮と、慣れた入り江と、慣れた地の者。命が懸かる刻ほど、人は、新しい賭けより、馴染んだ安全に縋る。
わたしは、筆を止めずに、続けた。
「敵が、失態を仕出かしたときは、そっとしておいてやるものにござります。そのほうが、また、同じ失態を重ねてくれましょう。……とは申せ、それは、凡人には、できぬ相談にござりましょうな。失態を見つければ、すぐにでも、叩きたくなる。それが、人の情というものにござりますゆえ」
伊佐次は、少し、言葉に詰まった様子だった。
「伊佐次。そなたは、凡人にござりますか」
「……凡人にて、ござります」
「それでよろしゅうござります。凡人であるからこそ、そなたには、叩く役目を、任せられまする。手心を、凡人に求めても、詮ないことにござりますゆえ」
襖の向こうで、伊佐次が、深く、頭を下げる気配がした。
書状には、こう書いた。
逃げ道を一つだけ残すこと。入り江の退路が塞がるのは、満潮から四半刻。その刻限に合わせて、追い込みの船と、退路を塞ぐ船とを、別に組むこと。合図は、陸の十兵衛殿に預け、海の潮は、能島の孫太郎殿の読みに任せること。他の者の苛立ちは、この一手で終わると告げれば、抑えられよう。末尾に、一行だけ、足した。潮は読めても、人の苛立ちは、読み切れませぬ。そこは、殿のお目に、お任せいたします、と。
弥九郎が次に問うであろうことは、すべて、先に書いた。それでも、別の問いが来れば、伊佐次が口で伝える以上のことは、わたしにはできない。その限りが、また、歯がゆかった。
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伊佐次は、その夜のうちに、早船で響灘へ発った。
数日後、弥九郎からの返しが、短く、届いた。
「その策、しかと承知した。十兵衛とも練り直す」
その一行に、わたしは、深く、安堵した。問いも、重ねての念押しも、なかった。往復は、これで済んだ。問われる前に答えを渡した分、あの人は、迷わずに動ける。それだけのことが、いまは、何より、有難かった。
あの人は、この子の顔を、まだ、見ていない。名も、まだ、ない。そこまで数えかけて、やめた。
その夜、床の脇で、生まれたばかりの女子が、小さな息をしていた。弥太郎の寝息とは、また違う、頼りない音だった。小さな拳が、掛け布の縁を、きゅっと掴んでいる。乳を含ませると、この子は、驚くほどの力で、吸いついた。勘定に入れていなかった、この小さな重さが、数える頭の隅に、いつのまにか、居座っていた。
この子の寝顔と、響灘の入り江の形と。わたしは、そのどちらにも、手が届かぬまま、ただ、灯りの下で、二つを並べて数えていた。
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翌日、綾が、粥の椀を持って、様子を見に来た。
「お休みになるよう、申し上げたはずにござります」
「休んではおります。ただ、頭が、休んでくれませぬ」
わたしが、そう答えると、綾は、小さく笑って、枕元に椀を置いた。この一連の算段を、かいつまんで伝えた。
「最後の一手、にござりますね」
「はい。これで決着がつくか、また逃げられるか。まだ、分かりませぬ」
「千代殿の、これまでの積み重ねが、ここで、活きるのですね」
「潮を読む技は、この一党の、いちばんの武器にござります」
わたしは、そう答えながら、響灘の陣へ届くまでの日数を、また、数えた。間に合うかどうか。その答えは、まだ、分からなかった。
綾は、それ以上、何も言わず、わたしが、粥を口に運ぶのを、静かに見ていた。数を数えることしかできぬ頭に、この人の、黙って待つ静けさは、ときどき、少しだけ、眩しかった。
その日の夕、弥太郎が、女中の手に引かれて、襖の隙間から、顔を覗かせた。
「ははうえ。ちちうえは、いつ、お戻りになりますか」
満四つになったばかりの子の問いは、数えても、答えの出ぬ問いだった。
「もう少しにござります。潮が、整うのを、待っておられます」
「しお、は、いつ、ととのうのですか」
「満ちるときに。満ちて、引くときに」
弥太郎は、少し考えて、真面目な顔で頷いた。
「では、しおが、はやく、みちるように、おいのりします」
その小さな祈りに、わたしは、笑うことも、頷くこともできず、ただ、その子を、膝の脇に招いて、小さな頭に、手を置いた。
その後、義重が、この一手について、館を訪れ、詳しく訊ねた。
「産後の身で、策を練るとは。無理は、なされぬように」
「寝ておっても、数えることは、できますゆえ」
「今度こそ、白水三郎を、仕留められるのですね」
「はい。あの男の、これまでの生き様を、丁寧に読み解いた末の、確かな一手にござります」
「千代殿の、その執念にも似た数え方には、いつも、感心させられる」
その言葉に、わたしは、少し、考えた。
「執念、にござりますか。わたくしにとっては、ただ、これまでの因縁に、決着をつけるための、当然の勘定にすぎませぬ」
「因縁、とな。あの男と、何かあったのか」
義重が、そう訊ねると、わたしは、静かに頷いた。
「はい。あの男は、かつて、わたくしを、荷として、唐人商人に売った男にござります。あの日から、幾年もの歳月が流れました。ですが、あの日の記憶だけは、いまも、この胸の奥に、消えることなく、残っております」
義重は、深く頷いた。
「その因縁に、しかと、決着をつけられる日が、もう、目の前まで、来ておるのだな」
「はい。そう、信じとうござります」
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その夜遅く、範久様が、館を訪れた。
「お体に障りませぬか」
「障りますが、止めるほうが、障りますゆえ」
範久様は、それ以上は止めず、少し間を置いて、問うた。
「千代殿は、あの男を、憎んでおられるのですか」
範久様が、そう、率直に、訊ねた。
その問いに、わたしは、しばらく、考え込んだ。
「憎しみ、と呼べるほど、はきとした形のものではござりませぬ。ただ」
「ただ」
「あの男に、荷として、値をつけられ、売られた、あの日の、身の縮む思いだけは、いまも、忘れられずにおります。それを、決着とだけ、呼んでおるのやもしれませぬ」
範久様は、深く頷いた。
「千代殿が、かつて、荷として売られたとだけ、伺うております。その日がどのようなものであったか、それがしには、まだ、量りかねまする。ですが、千代殿が、この一党のために、これほどまで、丁寧に、策を練られる姿を、しかと、この目に、焼き付けとうござります」
その素直な言葉に、わたしは、少し、胸を突かれた。
「範久様も、いずれ、御自身の因縁と、向き合う日が、来るのやもしれませぬ」
「そのときは、千代殿の、この姿を、思い出しとうござります」
範久様が去ったあと、わたしは、褥の上で、遠い響灘の海を、思い描いた。あの日、荷として、船底に押し込められた小娘が、いまでは、こうして、幾つもの島を治める一党の勘定方として、この因縁の決着を、自らの手で、組み上げようとしていた。
「あと、もう少しにござります」
わたしは、独り言のように、そう呟いた。
隣の間から、弥太郎の、小さく寝返りを打つ音がした。その音に、わたしは、いくらか、心が落ち着くのを感じた。この子が、すやすやと眠っていられるのも、この島が、変わらず、平穏に保たれているからだった。その平穏の裏で、響灘の海では、いままさに、最後の一手の支度が、進められているはずだった。
窓の外を見ると、三月の月が、静かに、海を照らしていた。響灘の空にも、同じ月が、昇っているはずだった。この決着が、無事に、この一党の手にもたらされたなら、そのときこそ、あの月を、殿と共に、この島から見上げたい。そう思ったが、その願いは、そっと、心の内にしまい込んだ。
明日にも、響灘の陣から、新しい報せが届くはずだった。それを待つあいだ、わたしにできるのは、この島の日々を、丁寧に、数え続けることだけだった。
外では、三月の夜風が、まだ、いくらか冷たく吹いていた。その風の向こうで、潮は、今夜も、満ちては引き、引いては満ちて、白水三郎の入り江の口を、黙って、洗っているはずだった。




