第三十四話 日和見の男
永享四年(一四三二)二月 筑前国 大内方陣中・響灘
大内盛見討死の報せが、遠く響灘にまで届いた頃、思いがけない一報が、九州の陣から、館へと届いた。
「白水三郎、少弐方へ、寝返り申した」
その報せに、わたしは、しばらく、言葉を失った。
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「なぜ、いま」
わたしが、そう訊ねると、使いは、答えた。
「大内方が、盛見様の討死にて、弱ったと見たようにて。損得ずくの判断にござりましょう」
その答えに、わたしは、頭の中で、白水三郎という男の、これまでの生き様を、あらためて、思い返した。かつて、自分を、荷として、唐人商人に売った、あの男だった。
「響灘という立地は」
わたしが、そう続けて訊ねると、使いは、答えた。
「大内領に、近うござります。ですが、それゆえに、寝返ったというより、こちらの理由は、また、別にあるようで」
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「別の理由、とは」
「大内様が、既に、瀬戸内の村上・忽那水軍——すなわち、弥九郎方——を、取り込んでおられます。白水三郎にとっては、大内方に留まれば、いずれ、こちらとの縄張り争いを、避けられぬと、見たのやもしれませぬ」
その話に、わたしは、深く頷いた。日和見で、損得ずくの、あの男らしい判断だった。
数日後、この寝返りが判明した直後、思いがけない事実に、わたしは、行き当たった。
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「瀬戸内への帰路は、必ず、響灘を通ることになる」
以前、伊佐次から聞いた、あの何気ない世間話が、いま、まったく違う重みを持って、頭の中に、蘇ってきた。
わたしは、地図を広げ、あらためて、この事実を、確かめた。
一艘、二艘の小舟であれば、夜陰に紛れ、潮を読んで抜けられぬ道ではない。現に、阿蓮の伝手の早船は、これまでも、あの海を行き来している。使いの者も、書状も、通る。だが、弥九郎が率いて渡った船団は、そうはいかない。兵を載せた大船が、列をなして関門から響灘へ抜ける間、白水三郎が、手をこまぬいて見送るはずがなかった。
「船団ごと帰るには、白水三郎を、討ち破らねば」
わたしは、思わず、そう呟いた。
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その旨を、九州の弥九郎へ、早船で、書状にして伝えた。返しの書状には、こう記されていた。
「船団が、あの海を、通れぬということか」
弥九郎の、その一言に、わたしは、深く頷いた。大内方に踏みとどまるという、あの決断が、結果として、自分たちの帰り道を、塞ぐ形にもなったという、皮肉な巡り合わせだった。
「兵と船を、小分けにして、抜けさせる道は」
弥九郎からの、次の書状には、そう記されていた。
「ござりませぬ」
わたしは、そう、書き返した。小分けにして抜けさせれば、一艘ずつ、白水の網に掛かるだけである。それに、そのあいだ、九州に残る者が薄くなる。
その書状を送ったあと、わたしは、独り、地図を、しばらく、見つめ続けていた。響灘という、この一つの海域が、いま、この一党の命運そのものを、握る形になっていた。
「抜けられぬのなら、正面から、確実に、仕留めるほかござりませぬ」
わたしは、そう、自分に、言い聞かせた。頭の中で、これまでの、白水三郎との因縁を、あらためて、数え直した。かつて、自分を、荷として売った男。その男を、いま、この手で、討たねばならない。その巡り合わせの重さを、まだ、正しくは、受け止めきれずにいた。
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「白水三郎を、正面から、討ち破るしか、道はござりませぬ。ですが」
わたしは、さらに、こう書き加えた。
「これは、こちらにとって、逃げ場のない必然であると同時に、正面から敵対する、確かな大義名分でも、ござります。かつて、こちらを荷として売った男。それを、いま、討つ。これほど、はっきりとした大義は、そう多くはござりますまい」
弥九郎からの返しには、ただ、一言だけが記されていた。
「分かった。討つ」
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翌日、伊佐次から、より詳しい報せが届いた。
「白水三郎の一党、いまの勢力は、いかほどか」
わたしが、そう訊ねると、伊佐次は、答えた。
「船の数にして、二十艘ほど。かつてよりも、幾分、勢いを増しておるとの由」
その報せに、わたしは、頭の中で、こちらの戦力と、あちらの戦力とを、あらためて、突き合わせた。
「弥九郎方の船は、いま、幾艘、動かせる」
「因島・能島・来島の村上一党だけでも、四十艘は下りませぬ。六島の本隊と、約定の見返りに応じて、船を回してくれた熊野水軍も合わせれば、六十艘あまりにはなりましょう」
その答えに、わたしは、少し、安堵した。数の上では、こちらが、優っていた。
「ですが」
伊佐次が、そう続けた。
「なんじゃ」
「響灘の潮は、白水三郎の縄張りにて、あちらのほうが、遥かに、よう知っており申す。数だけでは、測れぬ戦にござりましょう」
その言葉に、わたしは、深く頷いた。かつて、この一党が、村上一党や、六島の海賊衆と渡り合ったときと、同じ理屈だった。数の勘定だけでは、海の戦は、決まらなかった。
「潮の読みは、殿に、任せるほかござりませぬ」
わたしは、そう、独り言のように、呟いた。
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数日後、孫六からも、この一件について、文が届いた。
「白水三郎とは、かねてより、幾度か、小競り合いを重ねてきた間柄にて。あの男の潮の読みは、確かに、侮れませぬ」
その一文を読み、わたしは、頭の中で、あらためて、この戦の難しさを、数え直した。
「されど、村上一党の潮読みも、あの男に、引けを取るものではござらぬ。此度は、しかと、力を貸させていただきたく」
その言葉に、わたしは、深く、安堵した。因島・能島・来島の三島を治めるに至った、村上一党の力が、いま、こうして、この一戦の、確かな支えになろうとしていた。
「孫六殿の御力添え、まことに、頼もしゅうござります」
わたしは、そう、返しの文を、したためた。
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その夜、綾のもとを訪ねた。この一連の報せを、かいつまんで伝えた。
「白水三郎という御方は」
綾が、そう訊ねた。
「わたくしを、荷として、初めて、唐人商人に売った男にござります」
その答えに、綾は、少し、息を呑んだ。
「その男と、いま、正面から、相まみえることになるのですね」
「はい。逃げ場のない、背水の陣にござります」
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「千代殿は、どのような、お気持ちにござりますか」
綾が、そう訊ねた。
「まだ、はきとは、分かりませぬ。恨みなのか、それとも、ただの、勘定なのか」
わたしは、正直に、そう答えた。
「いずれにせよ、この一戦は、避けられませぬ」
綾は、それを聞いて、深く頷いた。
「せめて、殿の、御無事を、祈るしかござりませぬね」
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夜、灯芯を整えながら、帳に、この日のことを書き留めた。
白水三郎、少弐方へ寝返る。瀬戸内への帰路、響灘を通らねばならぬことに気づく。討ち破らねば、船団は帰れぬという、逃げ場のない必然。正面から敵対する大義名分と、背水の陣、両方を得る。殿、討つ決断。
書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。かつて、自分を荷として売った男との、この巡り合わせ。数えることに慣れた頭でも、この因縁の重さだけは、まだ、正しくは、数えきれずにいた。
その夜、範久様が、館を訪れ、この報せを、詳しく訊ねてきた。
「白水三郎という御方は、千代殿にとって、どのような御方なのですか」
その問いに、わたしは、しばらく、言葉を選んだ。
「わたくしを、初めて、荷として、売った男にござります」
その答えに、範久様は、少し、息を呑んだ。
「その男と、いま、戦うことに」
「はい。逃げ場のない、巡り合わせにござります」
範久様は、それを聞いて、深く、頭を下げた。
「千代殿の、その重荷を、それがしには、まだ、量りかねまする。ですが、殿の御無事を、しかと、祈っており申す」
その素直な言葉に、わたしは、深く頷いた。
その翌朝、正俊と清光も、この報せを聞き、館を訪れた。
「白水三郎との、決戦になると」
正俊が、そう訊ねた。
「はい。逃げ場のない、一戦にござります」
「ならば、殿の御佩刀を、いま一度、しかと、研ぎ直さねばなりませぬ」
正俊が、そう言うと、清光も、深く頷いた。
「この一戦のために、鍛えてきたと言うても、過言ではござりますまい」
その言葉に、わたしは、深く、感じ入った。この島に集った、それぞれの技を持つ者たちが、皆、この一戦に向けて、静かに、しかし確かに、支度を進めていた。
「頼む。殿が、この戦を、しかと、乗り越えられるように」
わたしが、そう言うと、二人は、深く、頭を下げた。
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夜が更けてから、わたしは、独り、館の縁側に座り、遠い響灘の海を、思い描いた。かつて、荷として、船底に押し込められ、あの男に売られたときの記憶が、いまも、鮮明に、蘇ってきた。
「あのとき、この身は、ただの荷にすぎなかった」
わたしは、独り言のように、そう呟いた。だが、いまは、違った。数を数え、策を組み、この一党の行く末そのものを、動かす立場にあった。あの日の荷が、いま、こうして、あの男を、討つ側に回ろうとしていた。その巡り合わせの重さを、あらためて、噛みしめずにはいられなかった。
翌日、範久様が、館を訪れ、白水三郎との戦の支度について、あらためて、詳しく訊ねてきた。
「それがしにも、何か、できることは、ござりませぬか」
範久様が、そう言った。
「いまは、この島の当主として、家中の動揺を、鎮めておくことが、何よりの支えにござります」
わたしが、そう答えると、範久様は、少し、考え込んだ様子を見せた。
「戦の行方が、はきとせぬ中、家中の者たちを、どう、落ち着かせればよいのでしょうか」
その問いに、わたしは、少し、考えた。
「不安を、無理に、押し隠す必要は、ござりませぬ。ただ、これまで、この一党が、幾度も、困難を乗り越えてきたことを、しかと、語って聞かせてやりなされ。それだけで、皆、いくらか、落ち着きましょう」
「これまでの、困難、にござりますか」
「はい。六島の服属、二神本家の一件、河野氏の一本化。数えれば、この一党は、これまで、幾度も、逃げ場のない局面を、乗り越えてまいりました。此度も、その延長線上にすぎませぬ」
その言葉に、範久様は、深く頷いた。
「しかと、心得ました。それがしも、家中の者たちに、そう語って聞かせとうござります」
その凛とした返答に、わたしは、この幼い当主が、着実に、当主としての器を、身につけつつあることを、あらためて感じた。
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範久様が去ったあと、定行からも、新居郡の様子を伝える文が届いた。
「新居郡の民たちも、白水三郎との戦の報せに、いくらか、動揺しておるようにて。それがしにできる限り、皆を、落ち着かせるよう、努めており申す」
その文を読み、わたしは、深く頷いた。この島だけでなく、新居郡の地でも、それぞれの持ち場で、確かな支えが、続けられていた。
夜、独り、灯芯を整えながら、この日の出来事を、あらためて、帳に、丁寧に書き加えた。伊佐次からの戦力の報せ、孫六からの助勢の申し出、正俊と清光の支度、範久様と定行の、それぞれの働きかけ。数えるべきことは、この逃げ場のない局面の中でも、絶えることがなかった。
その夜遅く、円秀も、来るべき戦に備え、傷薬の追加支度について、報告に来た。
「此度の戦は、これまでにない規模になろうかと。薬も、多めに、揃えておかねばなりませぬ」
円秀が、そう言った。
「頼む。命を落とす者を、一人でも、少のうしたい」
わたしが、そう答えると、円秀は、深く、頭を下げた。
その姿を見送りながら、わたしは、この一党の、それぞれの持ち場にいる者たちが、皆、迫り来る決戦に向けて、静かに、しかし確かに、支度を進めていることを、あらためて、噛みしめた。
その夜遅く、寝所に入っても、わたしは、なかなか、寝つけずにいた。白水三郎という男との、この長い因縁が、いよいよ、決着へ向かおうとしていた。荷として売られた、あの日の記憶と、いま、この一党の勘定方として立つ自分の姿とが、頭の中で、幾度も、重なり合っては、離れていった。
腹は、既に、大きく迫り出していた。産み月も、もう、間近だった。この決戦の緊張の中で、子を産むことになるとは、正直、思うてもいなかった。それでも、この子は、この一党の、確かな未来の一つだった。
弥太郎の寝息が、隣の間から、変わらず、静かに聞こえていた。この子が、いつか、大人になったとき、この因縁の顛末を、どのように、聞かせてやればよいのだろうか。答えの出ぬ問いを、わたしは、また、静かに、心の中に、しまい込んだ。灯を消したあとも、しばらくのあいだ、頭の中の帳は、静かに、開いたままだった。この一戦の行方が、どのような形で、この一党の、これからの歩みに、影を落とすことになるのか。いまは、まだ、誰にも、分からなかった。ただ、確かなことは、もう、後戻りはできぬということだけだった。この一党は、既に、白水三郎との決着を、避けて通れぬ道として、選び取っていた。あとは、その道を、しかと、歩み切るしかなかった。夜が更けるにつれ、島全体が、静かに、眠りに落ちていくのが分かった。それでも、この身の中だけは、まだ、静かな緊張が、続いていた。眠りに落ちるまで、その緊張は、解けそうになかった。夜は、静かに、更けていった。庭先の木々を、風が、そっと、揺らしていた。
外では、二月の冷たい風が、なお、鋭く吹きつけていた。




