第三十三話 怖い女だ
永享四年(一四三二)正月 筑前国 大内方陣中
年が明けた。大内盛見討死の衝撃が、まだ、色濃く残る陣中で、弥九郎は、この先、どう動くべきかを、あらためて、島の千代に、使いを通じて、相談してきた。
「殿が、御自ら、御下問にござります」
伊佐次が、そう伝えてきた。
「陣営を、変えるべきか、迷うておられる」
「はい。大内方が、これほど弱ったいま、少弐方に、鞍替えすべきではないかと、家中の一部からも、そういう声が出ておるとのこと」
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「殿御自身は、いかがお考えか」
わたしが、そう訊ねると、伊佐次は、答えた。
「まだ、決めかねておられます。ゆえに、千代様の御見立てを、伺いたいとのことにて」
わたしは、頭の中で、これまで積み上げてきた算段を、あらためて、丁寧に、組み直した。
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決めかねている人間は、返事のたびに、迷いを一つずつ、口にする。書状を一往復させるごとに、船で一日、陣で一日。その間にも、鞍替えを唱える家中の声は、勢いを増すだろう。往復を重ねている暇は、なかった。
わたしは、弥九郎の返しを、先に、数えることにした。
その夜、わたしは、一通の書状と、小さく折った紙を、三枚、用意した。
書状には、結論だけを記した。困っておる方に、いま、助太刀してお助けすれば、それだけ、深き恩を売れましょう、と。
折った紙には、表に問い、裏に答えを、一行ずつ書いた。
一枚目。表は「負けたら、どうする、と問われたなら」。裏は「負けるのですか」。
二枚目。表は「戦は時の運だと、浪人教官に習うた、と言われたなら」。裏は「負けたら、瀬戸内に帰ればよろしゅうござります。所詮、他人事にござります」。
三枚目。表は「それでも、渋い顔をなさるなら」。裏は「加えて、評判の勘定もござります。既に、勝敗の決した側に付けば、『ずるい奴』と、見られましょう。弱った側に、なお踏みとどまれば、『忠義者』の名が立ちまする。負けても、『筋を通した』と、評されましょう」。
「これを、順に、殿にお渡しください」
わたしがそう言うと、伊佐次は、三枚の紙を、掌に載せ、怪訝な顔をした。
「殿が、そのとおりに、問われるとは、限りませぬが」
「殿は、書状をお読みになれば、必ず、口に出して問われます。迷っておられるときは、殊に。その問いが来たなら、一枚目を。来なかった紙は、そのまま、持ち帰ってください」
「もし、別の問いを、なさったなら」
「そのときは、書状のとおりを、口で、お伝えください。それ以上は、わたくしにも、読めませぬ」
伊佐次は、深く頷き、紙を懐に収めた。
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伊佐次が、戻ってきたのは、五日後だった。
「いかがでありましたか」
わたしが、そう訊ねると、伊佐次は、笑いを堪えるような顔をした。
「殿は、書状をお読みになって、しばらく、黙っておられました。それから、『負けたら、どうする』と」
「一枚目を」
「お渡しいたしました。裏をお読みになって、殿は、口をへの字に曲げられ申した。そして、『戦は時の運だと、浪人教官に習うたぞ』と」
その言葉に、わたしは、微かに笑った。迷われたとき、殿は、郷田十兵衛に習うたことを、持ち出される。そういう癖が、あった。
「二枚目を」
「お渡しいたしました。『負けたら、瀬戸内に帰ればよろしゅうござります。所詮、他人事にござります』と。殿は、紙を持ったまま、声を立てて、笑われて」
「それから」
「それでもなお、渋い顔をなさるので、三枚目を。評判の勘定を、お読みになると、殿は、三枚の紙を、膝の前に、並べられました」
伊佐次は、そこで、言葉を切った。
「しばらく、じっと、見ておられました。それから、こう仰せに。『俺が何を言うか、一つ残らず、読まれておる。十兵衛に習うた言葉まで、持ち出すと見越されておった』と。そして」
「そして」
「『……怖い女だ』と」
わたしは、その言葉を、しばらく、胸の内で、転がした。怖い、と言われたのは、策のためではない。殿の口から出る言葉を、殿よりも先に、わたしが読んでいた。そのことが、殿には、怖かったのだろう。
「殿は、御決断されましたか」
わたしが、伊佐次に、そう訊ねると、伊佐次は、頷いた。
「はい。大内方に、踏みとどまると、正式に、御決断されました」
その報せに、わたしは、深く、息を吐いた。
「家中の反対は、なかったのか」
わたしが、そう訊ねると、伊佐次は、答えた。
「少なからず、ござり申した。ですが、殿は、それらの声を、しかと、抑え込まれました」
「どのように」
「『負けを恐れて逃げる者に、何を成せる』と、そう仰せになったとの由」
その言葉に、わたしは、深く、感じ入った。この決断は、単なる数の勘定だけでなく、弥九郎自身の、確かな覚悟によって、支えられていた。
「家中の者たちの、その後の様子は」
「殿の、あの一言で、皆、腹をくくった様子にて。動揺は、既に、収まりつつあります」
その報せに、わたしは、深く、安堵の息を吐いた。
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「殿は、他に、何と」
わたしが、そう続けて訊ねると、伊佐次は、少し、笑いを堪えるような顔をした。
「『千代の勘定には、いつも、敵わぬ。だが、その勘定のおかげで、今日まで、この一党は、ここまで来られた』と」
その言葉に、わたしは、胸の奥が、じんわりと、温かくなるのを感じた。
「殿の御決断、しかと、伝わりました」
わたしは、そう、伊佐次に告げた。
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「郷田十兵衛殿も、何か」
わたしが、そう訊ねると、伊佐次は、答えた。
「殿が、『戦は時の運だと、浪人教官に習うたぞ』と仰せになったのを、十兵衛殿は、大層、喜んでおられました。ようやく、あの指南が、政の判断にまで、活きるようになったと」
その話に、わたしは、深く頷いた。陸戦の指南が、いつのまにか、この男の、政の判断そのものにまで、応用されるようになっていた。
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その夜、綾のもとを訪ねた。この一連の遣り取りを、かいつまんで伝えた。
「怖い女、にござりますか」
綾が、そう言って、微かに笑った。
「はい。殿御自身の、その一言にござります」
「千代殿は、それを、どう受け止めておられますか」
その問いに、わたしは、少し、考えた。
「怖い、と言われて、悪い気は、いたしませぬ。ただ」
「ただ」
「その怖さを、殿だけには、いつまでも、恐れず、受け止めていただきとうござります」
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綾は、それを聞いて、深く頷いた。
「殿は、きっと、そうなさいましょう。これまでも、そうしてこられたのですから」
その言葉に、わたしは、深く頷いた。
「志乃殿の子も、年の暮れに、無事、生まれ申した」
綾が、そう続けた。
「男子か、女子か」
「女子にござります。志乃殿は、既に、すっかり、母の顔になっておられます」
その報せに、わたしは、深く頷いた。又五郎の忘れ形見が、女子として生まれたことに、頭の隅で、静かに、安堵する自分がいた。血筋の見立てが、これで、大きく揺らぐことはなさそうだった。
「虎王丸様たちも、あの子を、可愛がっておられますか」
「はい。皆で、代わる代わる、あやしてくれております。この島は、いつのまにか、子だくさんの家になりましたね」
その言葉に、わたしは、微かに笑った。
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夜、灯芯を整えながら、帳に、この日のことを書き留めた。
殿、大内方に踏みとどまることを決断す。困っておる方を助ければ恩を売れるとの進言、殿、受け入れる。評判の勘定も添える。殿より「怖い女だ」との一言。郷田十兵衛の指南、殿の政の判断にまで活きる。
書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。この決断が、この先、どのような形で、この一党に返ってくるのか、いまは、まだ、はきとは、分からなかった。ただ、殿が、この賭けに、踏み出したことだけは、確かだった。
翌日、範久様が、この決断を、家中の者たちに、あらためて、伝える場を設けた。
「弥九郎殿方が、大内方に、しかと、留まられるとのこと」
範久様が、そう告げると、家中の者たちのあいだに、静かな、しかし確かな、安堵の色が広がった。
「これで、河野方の後ろ盾も、変わらず、確かなものと存じます」
古参の家老の一人が、そう漏らした。
その報告を、伊佐次から伝え聞いたわたしは、深く頷いた。九州の遠い決断が、こうして、伊予国内の安定にも、確かに、繋がっていた。
「河野方の家中には、これで、しばらく、動揺は、広がりますまい」
伊佐次が、そう続けた。
「はい。だが、この安堵も、いつまで続くかは、まだ、分かりませぬ。九州の戦況が、どう転ぶかによって、また、大きく、揺り戻すこともありましょう」
その言葉に、伊佐次は、深く頷いた。
「姐さんは、常に、その先まで、見据えておられますな」
「見据えねば、いずれ、足元を、すくわれましょう。それが、この島に流れ着いてから、幾度も、学んできたことにござります」
その答えに、伊佐次は、深く、頭を下げた。
その後、伊佐次は、九州へ戻る船に乗るため、湊へと向かった。その背を見送りながら、わたしは、この一党が、これほど遠くまで、その手を伸ばすようになったことを、あらためて、噛みしめた。
荷として競り場に立たされていたあの日から、幾年もの歳月が流れていた。あの日の自分に、いまのこの姿を見せたなら、いったい、何と言うだろうか。答えの出ぬ問いを、わたしは、また、静かに、心の中に、しまい込んだ。
弥太郎の寝息が、隣の間から、変わらず、静かに聞こえていた。その音を聞きながら、わたしは、この正月の一夜が、この一党にとって、また一つの、確かな節目になったことを、あらためて、噛みしめた。灯を消しても、しばらくのあいだ、目は冴えたままだった。窓の外を吹く風の音だけが、静かに、部屋の中に、届いていた。
翌日、伊佐次が、九州へ戻る前に、もう一度、館を訪れた。
「殿の御決断、まことに、見事なものにござりました」
伊佐次が、そう言った。
「そなたも、あの陣中で、殿の御様子を、間近で見ておったのだな」
「はい。あの一言を、書状にしたためられる前、殿は、しばらく、独り、陣幕の中で、考え込んでおられました」
その話に、わたしは、少し、胸を突かれた。
「迷うておられたのだな」
「はい。ですが、迷うておられたのは、負けるかどうかではのうて」
伊佐次は、そこで、少し、言葉を選ぶように、間を置いた。
「では、何を」
「千代様の勘定を、しかと、信じ切れるかどうか、その一点にござりました」
その言葉に、わたしは、しばらく、動けなかった。
「信じ切る、とは」
「殿は、こう仰せになっておりました。『千代の勘定は、いつも、正しい。だが、正しいというだけでは、家中の者は、命を懸けてはくれぬ。俺自身が、その勘定を、俺の言葉として、腹に落とせるかどうか。それが、要る』と」
その言葉に、わたしは、深く、息を吐いた。これまで、書状に記す勘定だけを、正しさの根拠として、積み重ねてきた。だが、その勘定を、実際に人に伝え、動かすのは、いつも、弥九郎自身の言葉であり、覚悟だった。
「それを、伝えに、参ったのか」
「はい。千代様に、しかと、お伝えせよと、殿より、言い付かっており申した」
わたしは、しばらく、その言葉を、胸の内で、繰り返した。
「伝えてくれて、かたじけない」
伊佐次は、深く、頭を下げ、九州へ戻る支度に、取り掛かった。
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その日の午後、定行も、新居郡の民たちへ、この決断を伝えに、館を訪れていた。傍らには、小三郎の姿もあった。二人が連れ立って現れるのは、近頃、珍しいことではなくなっていた。
「新居郡の民たちも、殿の御決断を、しかと、受け止めておるようにて」
定行が、そう報告した。
「不安の声は」
「多少は、ござりました。ですが、これまでの、殿の確かな歩みを、皆、信じておるようにて」
その報告に、わたしは、深く頷いた。
「小三郎殿は、新居郡まで、共に」
わたしが、そう訊ねると、小三郎は、少し、照れたように答えた。
「はい。定行殿の差配ぶりを、間近で学びとうござりまして。田の水の引き方一つとっても、橘家の所領とは、まるで違う仕組みにて、驚くことばかりにござります」
「小三郎殿は、覚えが早うござる。もう、帳の付け方も、大方、身につけられ申した」
定行が、そう言い添えると、小三郎は、いくらか誇らしげな顔をした。予州家の武将の子として生まれながら、いまは、こうして、余所の島の差配を学ぶことに、素直な喜びを見出している——その姿に、わたしは、幸松があの頃、身一つでこの島に流れ着いた日のことを、重ねずにはいられなかった。
「小三郎殿の、その若さと素直さは、この一党にとって、掛け替えのない財産にござります。定行殿も、よき手本を、示し続けてくだされ」
「かたじけのうござります」
定行が、そう答えると、小三郎も、深く頭を下げた。二人の並んだ姿を見ながら、わたしは、この島が、寄る辺のない者だけでなく、他家から来た若者までも、こうして確かに育て上げていく場になりつつあることを、あらためて、噛みしめた。
「その信頼を、決して、裏切ってはならぬな」
「はい。それがしも、しかと、心得ており申す」
その夜遅く、正俊と清光も、九州の陣に送る新たな武具の支度について、報告に来た。
「殿が、大内方に、しかと、踏みとどまられたとのこと。ならば、なおのこと、武具の支度に、抜かりがあってはなりませぬ」
正俊が、そう言った。
「頼む。この決断が、確かな形に、結びつくよう、支えてほしい」
わたしが、そう答えると、清光も、深く頷いた。
「量を鍛える技も、質を極める技も、いまこそ、揃うて、力を発揮すべきときにござる」
その言葉に、わたしは、深く、感じ入った。かつて、激しく対立していた二人の技が、いまでは、こうして、一つになって、この一党を、支え続けていた。
「殿の御佩刀にも、いずれ、銘を、しかと、刻む日が」
正俊が、そう続けると、わたしは、微かに、笑った。
「その日は、遠くはござりますまい。殿が、この戦を、しかと、乗り越えられたそのときにこそ」
その答えに、正俊は、深く、頭を下げた。
二人が去ったあと、わたしは、独り、灯りのもとで、これまでの、この一党の歩みを、あらためて、思い返した。荷として売られた小娘が、この島に流れ着いてから、幾つもの戦を、幾つもの決断を、積み重ねてきた。その一つ一つが、いま、こうして、遠い九州の地での、弥九郎の覚悟にまで、確かに、繋がっていた。
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その夜、義重とも、この決断について、あらためて、話し合った。
「婿殿の、あの覚悟には、正直、驚かされたわ」
義重が、そう言った。
「はい。わたくしも、殿の、あの決断力には、いつも、助けられております」
「千代殿の、あの進言があってこその決断でもあろう」
義重が、そう続けると、わたしは、少し、考えた。
「進言は、わたくしのものにござります。ですが、その進言に、命を懸けて、応えられるかどうかは、殿御自身の器量にござります」
その答えに、義重は、深く頷いた。
「二人が、揃うてこその、この一党よな」
その言葉に、わたしは、深く、頭を下げた。
正月も明け、島の暮らしは、少しずつ、いつもの静けさを、取り戻しつつあった。だが、九州の陣の行方だけは、まだ、誰にも、はきとは、見えてこなかった。
数日後、九州の陣から、さらなる報せが届いた。大内方の家中も、殿の決断を受けて、次第に、落ち着きを取り戻しつつあるという。
「これで、当面の危機は、乗り越えられたようですね」
わたしは、独り言のように、そう呟いた。だが、この先、どのような戦況が待っているのか、まだ、誰にも、はきとは、分からなかった。
その日の夜遅く、弥太郎を寝かしつけながら、わたしは、殿の「怖い女だ」という一言を、もう一度、静かに、思い返した。怖いと言われることは、これまでの人生で、幾度も、あった。だが、その一言を、これほど、確かな信頼と共に、受け取ったのは、初めてのことだった。口の端が、独りでに、微かに持ち上がった。恐れられることと、頼られることとが、この殿においては、同じ一つの重さで、天秤に載っていた。ならば、この怖さは、隠すべきものではのうて、むしろ、しかと、育てておくべきものだった。誰よりも、この殿にだけは、いつまでも、恐れながら、離れずにいてもらわねばならなかった。
「父上は、いつ、お帰りになるのですか」
眠りに落ちる前、弥太郎が、そう、小さく、訊ねた。
「もう少し、先になりましょう。ですが、必ず、お戻りになります」
わたしが、そう答えると、弥太郎は、安心したように、目を閉じた。その寝顔を見つめながら、わたしは、この子が大人になる頃には、この冬の決断が、どのような形で、この一党の歴史として、語り継がれているのだろうかと、静かに、思いを馳せた。
外では、正月の澄んだ寒風が、静かに吹いていた。




