第二十九話 恩を返す
永享三年(一四三一)十月 伊予国 怒和島 下怒和
河野氏一本化から、ひと月ほどが過ぎた。島の暮らしが、ようやく、落ち着きを取り戻しはじめたころ、大内方から、思いがけない使いが届いた。
「北九州の戦へ、御助勢を、賜りたく」
その申し出に、わたしは、頭の中で、素早く、これまでの経緯を辿り直した。
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「先だって、こちらから、大内様に、戦の手助けをお願いいたしました。あの借りを、いま、返すべきときが来たのやもしれませぬ」
わたしが、そう言うと、弥九郎は、少し考え込んだ。
「北九州は、遠い。地縁も、薄い」
「はい。ですが、この申し出を受ければ、大内様との縁は、六島・因島・能島・来島に並ぶ、確かな後ろ盾にまで、育ちましょう」
弥九郎は、しばらく、天秤にかけるように、考え込んでいた。
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「受けるべきか」
弥九郎が、そう訊ねた。
「受けるべきにござります。あの折の借りを、こちらから、返さねば、いずれ、大内様の信を、失いましょう。信を失えば、これまで積み上げてきたものが、根こそぎ、崩れかねませぬ」
「郷田十兵衛は、連れて行くか」
「はい。実戦の指揮官として、御同行いただきとうござります」
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数日のうちに、船団の支度が整えられた。因島・能島・来島の村上一党にも、応援を求めた。孫六は、快く、船を出すと約した。
「三島の主として、恩を返す機にござる」
孫六は、そう言って、深く頷いた。三島から出す船は、二十艘。こちらの本隊と合わせれば、此度の船団は、四十艘を超える構えとなった。
出立の朝、わたしは、湊まで見送りに出た。此度も、この身は、島に残るほかなかった。
「必ず、御無事で」
わたしが、そう言うと、弥九郎は、微かに笑った。
「案ずるな。十兵衛がおる」
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船団が、湊を離れていく。その姿が、水平線の向こうに消えるまで、わたしは、舳先の方角を、じっと見つめ続けていた。
「うまく、いきましょうか」
傍らにいた綾が、そう訊ねた。
「うまくいく。これまでの支度が、すべて、この一戦のために、積み上げられてきたようなものにござります」
その答えに、綾は、深く頷いた。
「留守は、しかと、お預かりいたします」
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その日の夕方、弥太郎が、湊で、船の行方を、いつまでも、目で追っていた。
「父上は、いつ、お戻りに」
弥太郎が、そう訊ねた。
「まだ、分からぬ。だが、必ず、お戻りになる」
わたしが、そう答えると、弥太郎は、深く頷いた。
「弥太郎も、いずれ、殿の跡を継ぐのですね」
その問いに、わたしは、少し、考え込んだ。
「いずれ、な。だが、それは、まだ、先の話だ」
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夜、館の一室で、独り、帳を広げた。
大内方より、北九州の戦への助勢を求める使い、届く。弥九郎方、受けることに決す。村上一党も、応援に加わる。船団、出立す。
書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。この一党は、いつのまにか、伊予一国どころか、遠い北九州の戦にまで、その手を伸ばすようになっていた。かつて、根城を探すことだけで、精一杯だった一党が、ここまで来た。その歩みの重さを、あらためて、噛みしめずにはいられなかった。
留守を預かるあいだ、わたしは、いつも以上に、島の隅々にまで、目を配った。範久様の当主としての務め、定行の新居郡の差配、そして、島の日々の暮らし。数えるべきものは、殿が留守のあいだも、少しも、減らなかった。
「姐さん、殿がおられぬあいだも、変わらず、お忙しそうにて」
伊佐次が、そう声をかけてきた。
「殿がおられぬからこそ、しかと、目を配らねばならぬ。これまでも、そうしてまいった」
わたしは、そう答えた。
数日後、範久様が、館を訪れた。
「殿は、いつ、お戻りに」
範久様が、そう訊ねた。
「まだ、分かりませぬ。九州の戦は、長引くやもしれませぬ」
「それがしにも、何か、できることは」
その問いに、わたしは、少し、考えた。
「範久様は、いまは、御自身の務めを、しかと、果たされることが、何よりの支えにござります」
その答えに、範久様は、深く頷いた。
「承知いたしました」
その凛とした様子に、わたしは、この若き当主が、着実に、成長していることを、あらためて感じ取った。
その日の午後、大祝家からも、丁重な文が届いた。範久様の元服と、許婚の披露を、あらためて、寿ぐ内容だった。
「大祝家との縁も、確かに、深まりつつありますね」
わたしが、そう漏らすと、義重が、頷いた。
「婿殿が、九州の戦から、戻られたのちには、あらためて、大祝家への挨拶も、正式に、済ませねばなりますまい」
「はい。この縁は、これからも、大切に、育ててまいりたく存じます」
その言葉に、義重は、深く頷いた。
夜、独り、帳を広げ、留守のあいだの、島の様子を、丁寧に、書き記した。範久様の当主としての成長、定行の新居郡の差配、大祝家からの文。数えるべきことは、殿の留守のあいだも、絶えることがなかった。
弥太郎が、隣の間で、小さく、寝返りを打つ音がした。その寝息を聞きながら、わたしは、九州の戦の行方を、静かに、案じ続けていた。
翌朝、綾のもとを訪ねた。志乃の様子も、あわせて、確かめた。
「志乃殿は、いかがですか」
「落ち着いて、過ごしておられます。腹の子も、順調にて」
その報せに、わたしは、深く頷いた。
「殿の御無事を、共に、祈りましょう」
綾が、そう言うと、わたしは、深く頷いた。この島に残る女たちの、それぞれの祈りが、いま、遠い九州の地へと、静かに、届けられていた。
三人目の子も、この頃には、既に、達者に、館の中を、はいはいして回るようになっていた。
「近ごろは、目が離せませぬ」
綾が、そう言って、微笑んだ。
「あちこちに、興味を持ちはじめる歳にござりますね」
わたしが、そう答えると、綾は、深く頷いた。
「はい。この賑やかさが、館に絶えぬこと、何よりの福にござります」
その言葉に、わたしは、深く頷いた。政の重さの裏で、この島には、確かに、命が、次々と、育ちはじめていた。
数日後、孫太郎からも、能島の様子を伝える文が届いた。
「能島、変わらず、落ち着いて治まっており申す。九州への船団にも、能島から、幾艘か、加わらせていただき申した」
その文を読み、わたしは、深く頷いた。因島、能島、来島。三島の主となった村上一党が、いま、それぞれの持ち場で、確かに、この一党を、支えてくれていた。
「孫太郎殿も、立派な代官に、育たれましたね」
わたしは、独り言のように、そう呟いた。
その日の夕方、正俊と清光も、館を訪れ、九州へ渡った弥九郎の武具のことを、案じていた。
「殿の御佩刀、しかと、御守りくださっておりましょうか」
正俊が、そう漏らした。
「案ずるな。あの一振りは、既に、何度も、実戦をくぐり抜けてきた」
わたしが、そう答えると、正俊は、少し、安堵した顔を見せた。
「いずれ、あの一振りに、しかと、銘を刻む日が、来るとよいのですが」
「その日は、遠くはござりますまい」
その言葉に、正俊は、深く頷いた。
その夜、円秀も、九州の陣に送る薬の追加支度について、相談に来た。
「戦が長引けば、薬も、足りのうなりましょう」
円秀が、そう言った。
「追加の薬を、船で、送り届けとうござります」
「頼む。傷を負う者を、一人でも、多く、救うてやってほしい」
その言葉に、円秀は、深く頷いた。
数日のうちに、追加の薬と、食糧とを積んだ船が、九州へ向けて、出立していった。留守を預かる、この島の者たちの、それぞれの支えが、いま、遠い戦場の弥九郎方を、静かに、後押ししていた。
夜、独り、帳を広げ、この日までの、留守中の出来事を、丁寧に、数え直した。孫太郎からの文、正俊・清光の案じる声、円秀の薬の追加支度。一つ一つは、小さな出来事だった。だが、その一つ一つが、この一党を、確かに、支え続けていた。
翌日、範久様と、定行とが、共に、館を訪れた。二人とも、九州の戦況を、案じているようだった。
「まだ、何の報せも」
範久様が、そう訊ねた。
「まだにござります。船が着くまでには、なお、日数がかかりましょう」
わたしが、そう答えると、定行が、深く頷いた。
「それがしも、新居郡の差配の合間、しかと、殿の御無事を、祈っており申す」
その言葉に、わたしは、深く頭を下げた。
「二人とも、それぞれの持ち場で、しかと、務めを果たしてくれておる。それだけで、この一党は、確かに、保たれておる」
その言葉に、範久様と定行は、互いに、顔を見合わせ、微かに笑った。
「それがしたちも、いずれ、殿や、千代様のように、この一党を、支える柱の一つに、なりとうござります」
範久様が、そう言うと、わたしは、深く頷いた。
「既に、その道を、しかと、歩んでおられます」
その答えに、二人は、深く、頭を下げた。
その日の夕方、義重も、この会合に加わり、九州の戦況について、あらためて、話し合った。
「大内様の御戦は、いかがなりましょうか」
義重が、そう訊ねた。
「まだ、はきとは、分かりませぬ。ただ、殿が、しかと、陣に加わっておられることだけは、確かにござります」
その答えに、義重は、深く頷いた。
「殿の、その覚悟が、この一党の、確かな支えになっておりますな」
その言葉に、わたしは、深く頷いた。
義重が去ったあと、わたしは、独り、館の縁側に座り、遠い九州の空を、思い描いた。弥九郎が、いま、どのような景色を、見ているのだろうか。数えることに慣れた頭でも、その距離だけは、どうしても、埋めることができなかった。
「千代様、少し、よろしいですか」
幸松——いまは定行——が、そう声をかけてきた。新居郡へ戻る前の、最後の挨拶だった。
「殿の御無事を、それがしも、しかと、祈っており申す」
「かたじけない」
わたしが、そう答えると、定行は、少し、考え込んだ様子を見せた。
「千代様は、殿がおられぬあいだ、お寂しゅうは、ござりませぬか」
その率直な問いに、わたしは、少し、驚いた。
「寂しさより、案じる思いのほうが、大きゅうござります。ですが、案ずるだけでは、何も進みませぬゆえ、こうして、日々の務めに、身を投じておるのです」
その答えに、定行は、深く頷いた。
「それがしも、いずれ、そのような強さを、身につけとうござります」
その言葉に、わたしは、微かに笑った。
「強さというより、逃げ道の一つにござります。数えることに逃げ込んでおるだけのこと」
「逃げ道であっても、それが、この一党を支えておるのであれば、確かな強さにござりましょう」
その答えに、わたしは、少し、胸を突かれた。この島で育った子供たちは、いつのまにか、こちらが気づかぬ視点で、物事を見つめられるようになっていた。
定行が、新居郡へと戻っていったあと、わたしは、あらためて、帳を開き、この日の遣り取りを、丁寧に、書き留めた。
その夜遅く、弥太郎を寝かしつけながら、わたしは、この子に、いつか、父の武勇伝を、しかと語り聞かせる日が来るだろうかと、静かに、思いを馳せた。九州の戦、大野氏との決着、そして、これまでの、幾多の歩み。この子が、大人になる頃には、それらの物語が、この島の、確かな歴史として、語り継がれているのかもしれなかった。
弥太郎は、既に、すやすやと、眠りに落ちていた。その寝顔を見つめながら、わたしは、しばらく、動けずにいた。
その夜、松吉が、博多や赤間関の湊から流れてくる噂を、あらためて、まとめて、報告に来た。
「大内様の御家中、北九州の戦に、こちらが助勢に加わったこと、既に、博多や赤間関の湊では、噂になっておるようにて」
「評判は、いかに」
わたしが、そう訊ねると、松吉は、答えた。
「瀬戸内の一水軍が、遠く北九州まで、恩を返しに参じたと、なかなかの評判にて。二神定海の名も、また一段、重うなっておりましょう」
その報せに、わたしは、深く頷いた。
「これも、殿御自身が、これまで、しかと、義理を通してこられたゆえの評判にござります」
「はい。姐さんの勘定と、殿の義理堅さ。この二つが揃うてこその、この一党にござりましょう」
その言葉に、わたしは、少し、照れくさい思いを抱いた。
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「もう一つ、気になる噂を、耳にいたしました」
松吉が、そう続けた。
「なんじゃ」
「白水三郎めの一党、近頃、少弐方に、近しい動きを見せておるとの由」
その名に、わたしは、頭の中で、遠い記憶を、静かに、手繰り寄せた。
「白水三郎は、大内方に近しいと、聞いておったが」
「はい。ですが、北九州の戦で、大内様の旗色が悪うなれば、風向きも、変わりましょう。あの男は、いつも、勝ち馬に乗ることしか、考えており申さぬ」
その報せに、わたしは、頭の中の帳の隅に、その一言を、そっと、書き留めた。いまはまだ、起きてもおらぬ話だった。だが、戦の行方次第では、この一党と、白水三郎との間には、決着をつけねばならない日が、来るのかもしれなかった。
「その話、しかと、覚えておこう」
わたしが、そう言うと、松吉は、深く頷いた。
松吉が去ったあと、わたしは、独り、帳を開き、白水三郎の名を、あらためて、書き記した。島門を出てから、幾年もの歳月が流れていた。だが、あの男に売られた荷としての記憶だけは、いまも、消えることなく、この胸の奥に、残り続けていた。
「いずれ、この借りも、返さねばならぬ日が、来るのだろうか」
わたしは、独り言のように、そう呟いた。答えは、まだ、はきとは、見えてこなかった。
外では、十月の澄んだ風が、静かに吹いていた。




