第二十七話 静かな温度差
永享三年(一四三一)八月 伊予国 怒和島 下怒和
大野氏当主の切腹から、数日が過ぎた。館の暮らしは、表向きは、いつもどおりに戻っていた。だが、弥九郎の様子には、まだ、拭いきれない何かが、微かに残っていた。
「まだ、あの一件が、頭から離れぬ」
夕餉のあと、弥九郎が、誰にともなく、そう漏らした。
「殿」
わたしが、そう声をかけると、弥九郎は、少し、力ない笑みを浮かべた。
「案ずるな。ただの、独り言だ」
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その夜、板間で、あらためて、弥九郎と、この件について話した。
「居心地の悪さは、まだ、消えませぬか」
わたしが、そう訊ねると、弥九郎は、頷いた。
「消えぬ。あの男の、屈せぬ目が、いまも、瞼の裏に、焼き付いておる」
わたしは、その言葉に、正面からは、同調しなかった。
「これもまた、いずれ、要ることにござります」
その一言に、弥九郎は、少し、驚いた顔をした。
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「お前は、もう、あの一件を、しかと、飲み込んでおるのか」
弥九郎が、そう訊ねた。
「飲み込んでいる、と申せば、噓になりましょう。ですが、あの決着がなければ、河野方の面目は、保てなかった。それも、確かなことにござります」
弥九郎は、しばらく、黙って、こちらを見つめていた。
「お前は、この論理を、静かに、内側に、取り込んでおるのだな」
その言葉には、責める色はなかった。ただ、静かな、確かな観察の色が、そこにはあった。
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「殿は、まだ、その論理に、馴染めませぬか」
わたしが、そう訊ねると、弥九郎は、頷いた。
「馴染めぬ。だが、馴染めぬままでも、殿として、立ち続けねばならぬのだろう」
「それもまた、殿の、確かな器量にござります」
わたしが、そう言うと、弥九郎は、少し、複雑な顔をした。
「器量、というより、ただの、鈍さかもしれぬぞ」
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その遣り取りの中に、わたしは、これまでとは違う、微かな距離を感じ取った。少し前から、既に、蒔かれていた、あの、小さな兆し——渡りの数が減ったこと、そして、それぞれの成長の方角が、少しずつ、違いはじめていること——が、この一件を機に、また、はっきりとした形を取りはじめていた。
決定的な対立では、まだ、なかった。だが、二人が、同じ景色を見ながら、違う場所に、その心を落ち着けようとしている。その事実だけは、確かだった。
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「わたくしは、これから先も、こういう場面に、幾度も出会いましょう」
わたしは、そう続けた。
「そのたびに、殿のように、居心地の悪さを、正直に、抱え続けることは、できぬかもしれませぬ」
「なぜだ」
「策を組む者が、いちいち、心を乱しておっては、この一党を、正しく導けませぬ。わたくしは、その役目を、これからも、担い続けねばなりませぬ」
弥九郎は、それを聞いて、深く、長い息を吐いた。
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「お前が、そうやって、少しずつ、変わっていくのを、俺は、どう受け止めればよいのか、まだ、分からぬ」
その言葉に、わたしは、しばらく、答えられなかった。
「殿は、わたくしが、変わることを、お厭いですか」
「厭うてはおらぬ。ただ、寂しい、と思うことは、ある」
その一言に、わたしは、胸の奥が、鈍く痛むのを感じた。
頭の奥で、また、あの考えが、静かに顔を出した。この一党が、これからも、動き続けるかぎり、殿は、この頭を、必要とし続けるだろう。争いが絶えぬかぎり、わたくしは、捨てられずに済む。その勘定が、いま、この胸の痛みの底にも、確かに、潜んでいた。
その考えを、わたしは、顔には、決して出さなかった。ただ、いつもの、静かな面持ちのまま、次の言葉を、口にした。
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「殿は、変わらずにいてくださいませ」
わたしは、そう言った。
「わたくしが、こうして、少しずつ、冷たくなっていくとしても、殿だけは、その温かさを、失わずにいてくださいませ。そうでなければ、この一党は、いずれ、誰も、正しく導けなくなりましょう」
その言葉に、弥九郎は、しばらく、黙っていた。
「勝手な言い分だな」
「勝手にござります。ですが、それが、いま、わたくしに言える、精一杯の本音にござります」
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弥九郎は、それを聞いて、微かに笑った。
「お前らしい、勝手な言い分だ」
その笑い方には、いつもの温かさが、確かに、残っていた。わたしは、その笑みに、少し、救われる思いがした。
救われた、というのは、正しい言葉だろうか。この温かさを、失わせてはならぬと、いま、確かに思うた。それが、殿への情からくるものか、それとも、この一党の行く末を守るための、ただの勘定からくるものか。わたしは、自分でも、はきと、分けることができなかった。
「今宵は」
わたしが、そう切り出すと、弥九郎は、頷いた。
「渡ろう」
久方ぶりの渡りだった。だが、その夜の閨は、これまでのような、策を通すための場ではなく、ただ、二人が、静かに、寄り添うだけの、穏やかな時になった。
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夜、灯芯を整えながら、帳に、この日のことを書き留めた。
殿、大野氏の一件に、なお、居心地の悪さを抱える。わたくしは、その論理を、静かに、内側に取り込みつつある。二人の成長、それぞれ、違う方角へ向かいはじめる兆し。決定的な対立には、至らず。
書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。この温度差が、この先、どこまで広がっていくのか。いまは、まだ、誰にも、分からなかった。
翌朝、綾のもとを訪ねた。この一連の遣り取りを、かいつまんで伝えた。
「殿と、少し、温度差が、生まれておるのですね」
綾が、そう言った。
「はい。決定的な対立ではござりませぬが、確かに、何かが、違いはじめております」
「それを、案じておられますか」
その問いに、わたしは、しばらく、考えた。
「案じております。ですが、この違いを、無理に埋めようとも、思いませぬ」
「なぜにござりますか」
「殿には、殿の生き方がござります。わたくしには、わたくしの生き方がござります。その違いを、認め合うこともまた、二人で歩む道の、一つの形やもしれませぬ」
綾は、それを聞いて、静かに、微笑んだ。
「千代殿も、随分と、大人になられましたね」
その一言に、わたしは、少し、照れくさい思いを抱いた。
「綾殿の、日頃の御教えのおかげにござります」
「買いかぶりにござります。千代殿御自身が、幾つもの経験を経て、そこに、辿り着かれたのでしょう」
その言葉に、わたしは、深く頷いた。
弥太郎が、庭先で、亀吉たちと、楽しげに、遊んでいる声が聞こえてきた。その無邪気な声を聞きながら、わたしは、この子が育つ世界が、少しでも、穏やかなものであるようにと、静かに、願わずにはいられなかった。
その日の夕方、幸松——いまは定行——が、久方ぶりに、島へ戻ってきた。新居郡の差配の合間を縫っての、短い里帰りだった。
「殿と、千代様のあいだに、何か、ござりましたか」
定行が、そう、それとなく訊ねてきた。
「なぜ、そう思う」
「島の空気が、いつもと、少し、違うように感じましてござります」
その鋭さに、わたしは、少し、驚いた。
「大きな諍いではない。ただ、互いの生き方が、少しずつ、違う方を向きはじめておるだけだ」
「それは、案じるべきことにござりましょうか」
その問いに、わたしは、しばらく、考えた。
「案じるべきかどうかは、まだ、分からぬ。だが、この違いを、恐れずに、見つめ続けようと、そう思うておる」
定行は、それを聞いて、深く頷いた。
「それがしにも、いつか、そのような日が、来るのでしょうか」
「来よう。人と人とが、共に、長く歩めば、いつか、必ず」
その答えに、定行は、静かに、頷いた。
定行が、新居郡へ戻る前、もう一度、弥九郎とも、言葉を交わす機会があった。
「殿、御気分は、いかがにござりますか」
定行が、そう訊ねると、弥九郎は、微かに笑った。
「気にかけずともよい。ただの、夫婦の間合いの話だ」
「それがしには、まだ、分かりかねますが……お二人が、末永う、共におられることを、願うており申す」
その素直な言葉に、弥九郎は、深く頷いた。
「ありがたい言葉だ」
定行が去ったあと、わたしは、弥九郎と、あらためて、二人だけで、静かな時を過ごした。
「あの子も、随分と、大人になったな」
弥九郎が、そう言った。
「はい。この島で育った子供たちが、皆、それぞれの場所で、確かに、育っております」
「その子らを見ておると、俺たちの温度差など、些細なことに思えてくるな」
その言葉に、わたしは、微かに笑った。
「殿は、時折、そうして、物事を、うまく、まとめてしまわれますね」
「それが、俺の、数えられぬ技だ」
その軽口に、二人は、久方ぶりに、声を立てて笑い合った。
数日後、松吉が、島の噂話を、それとなく、伝えてきた。
「島の者たちのあいだで、殿と、姐さんの間柄が、変わりつつあるという、噂が、囁かれておるようで」
その話に、わたしは、少し、驚いた。
「悪い噂か」
「いえ、そういうわけでは、ござりませぬ。むしろ、お二人が、それぞれの役目を、しかと、果たしておられるという、感心の声が、多いようにて」
その言葉に、わたしは、深く頷いた。島の者たちの目にも、この一党の変化が、確かに、映っているようだった。
「姐さんは、それを、どう思われますか」
松吉が、そう訊ねた。
「悪くはない。むしろ、それぞれの役目を、しかと、果たすことこそが、この一党を、これからも、支えていく力になろう」
その答えに、松吉は、深く頷いた。
「殿と姐さんの、そのやり方を、これからも、信じており申す」
その素直な言葉に、わたしは、少し、胸が温かくなった。
その夜、弥九郎と、この日の松吉との遣り取りを、あらためて話した。
「島の者たちが、我らのことを、そのように、見ておるとはな」
弥九郎が、そう言った。
「はい。それぞれの役目を、しかと、果たしておるという評でござりました」
「悪い気は、せぬな」
「はい。むしろ、誇らしゅうござります」
その言葉に、弥九郎は、微かに笑った。
「お前と、こうして、それぞれの道を、共に歩んでこられたのは、俺にとっても、確かな誇りだ」
その一言に、わたしは、深く、胸を打たれた。
「殿は、時折、こうして、思いがけない言葉を、口にされますね」
「思いがけないか」
「はい。数えることに慣れた頭では、到底、追いつけぬ言葉にござります」
その答えに、弥九郎は、声を立てて笑った。
「それは、褒め言葉と、受け取ってよいのか」
「無論にござります」
その軽やかな遣り取りに、わたしは、これまでの、あの静かな温度差が、少しずつ、和らいでいくのを感じた。決定的な対立には至らないまま、二人の道は、それぞれに、確かに、前へと進んでいた。
翌朝、範久様も、この一件を、それとなく、聞き及んでいたらしく、あらためて、館を訪ねてきた。
「殿と、千代殿の間柄が、良好であると伺い、それがしも、安堵いたしました」
範久様が、そう言った。
「良好、というより、少しずつ、互いを認め合う道を、探っておるところにござります」
わたしが、そう答えると、範久様は、興味深げな顔をした。
「それがしにも、いずれ、そのような間柄を、築ける日が、来るのでしょうか」
「大祝家の姫君との、御縁のことにござりますね」
「はい。まだ、お会いしたことすら、ござりませぬが」
その言葉に、わたしは、微かに笑った。
「間柄というものは、時をかけて、少しずつ、育っていくものにござります。焦らずとも、よろしゅうござりましょう」
その答えに、範久様は、深く頷いた。
「千代殿の御言葉、しかと、胸に刻みまする」
その素直な態度に、わたしは、この若き当主の、これからの人生にも、確かな幸せが、訪れることを、静かに願わずにはいられなかった。
範久様が去ったあと、わたしは、独り、庭先で、夜空を見上げた。数えることに慣れたはずの自分が、いつのまにか、こうして、人の心の機微や、間柄の育ち方についても、少しずつ、語れるようになっていた。それもまた、この島で過ごしてきた、幾年もの歳月の、確かな実りなのだろう。星々が、いつになく、澄んで見える夜だった。
その後、綾のもとを、もう一度、訪ねた。今日一日の、これらの遣り取りを、あらためて、伝えた。
「殿と、少しずつ、また、近づかれたのですね」
綾が、そう言った。
「近づいた、というより、互いの違いを、認め合う場所に、少し、辿り着けた気がいたします」
「それもまた、二人にとっての、確かな進み方なのでしょう」
その言葉に、わたしは、深く頷いた。決定的な対立にも至らず、かといって、以前と全く同じ形に戻るわけでもない。二人の間柄は、こうして、少しずつ、新しい形へと、静かに、変わりつつあった。
その翌朝、弥太郎が、庭先で、こちらの袖を、ちょんと引いた。
「母上、父上と、また、仲直りされたのですか」
その、あどけない問いに、わたしは、少し、驚いた。
「仲違いなど、しておらぬ。ただ、少し、互いのことを、話し合うておっただけにござります」
わたしが、そう答えると、弥太郎は、安心したような顔をした。
「よろしゅうござりました」
その素直な言葉に、わたしは、深く、頷いた。子供の目にも、大人たちの、ささやかな温度の揺らぎは、確かに、映っていた。
外では、八月の夜風が、いくらか、涼しさを増していた。夏が、少しずつ、終わりに近づいていた。




