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潮を編む――滅んだ小領主の娘、唐土に売られ、海賊の妻となる  作者: ハタ星人


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二部 第一話 水の割り

応永二十二年(一四一五)四月 博多沖・洋上


陸が見えなくなってから、船の中は静かになった。


水手たちは黙って綱を操っている。荷役の男たちは荷のあいだで眠っている。子どもの泣き声も、いつのまにか止んでいた。


わたしは、荷のあいだに座っていた。


袴はまだ濡れていた。板の隙間から上がってくる海水が、乾く間もなく次のを呼ぶ。冷たさは、もう痛みに近かった。


顔を上げると、七人が思い思いの姿勢で座り込んでいた。子どもの一人は、母親らしき女の膝で眠っている。母親は眠っておらず、虚ろな目で船底を見つめていた。


誰も、口を利かなかった。


利く言葉を、まだ誰も持っていなかったのかもしれない。国を離れ、家を離れ、これから先どこへ運ばれるかも分からない身では、言葉より先に、黙ることのほうが自然なのだろう。


わたしも、しばらくはそうしていた。


だが、いつまでも黙っているわけにはいかなかった。


**——お嬢さん。やってみますか。**


陳文興の声が、まだ耳に残っている。水の割り振りをする者が要る、と言った。あの人は、それを本当に任せるつもりなのだろうか。それとも、荷になった娘をからかっただけなのだろうか。


分からない。


分からないが、指の先が、勝手に動いていた。


甕は十三。積み荷の検めで見た数だ。乗る者は三十四人——荷役、水手、そしてわたしたちのような荷が七人。


一日に一人が飲む量を、三合とする。宗徳が前に、遠洋の船はそのくらいだと言っていた。


三十四人×三合。一日で、一斗二升にはなる。


十日で十二斗。


甕一つに、どれだけ入るのか。昨日、水を配られた甕を見た。あの大きさなら、一つに二斗ほど入るはずだ。十三甕で、二十六斗。


二十六斗を、十二斗で割れば——


——二十日は保つ。


案外、保つ。


昨日はもっと切迫した数字が出た気がしたが、あれは水甕が九つだったときの話だ。四つ足された今は、余裕がある。


でも、飲む量は人によって違う。


働く水手は、荷役の男たちより飲む。子どもは少ない。同じ三合で割るのは、正しくない。


わたしは、指を折りながら、もう一度組み直した。


水手は、綱を引き、帆を操り、汗をかく。荷役の男たちは、荷を検めるくらいで、体はそれほど動かさない。子どもは、体そのものが小さい。同じ量を配れば、働く者ほど損をする。損をすれば、いずれ不満が出る。


不満が出れば、割りそのものが崩れる。


一人の得より、全体の釣り合いを取ることのほうが、大事だ。


前の生で、そういう場面を見たことがある。水の乏しい村で、誰にどれだけ配るかを決めるとき、平等に配ることが、必ずしも公平ではなかった。畑を耕す者と、家で機を織る者とでは、汗のかき方が違う。同じ量を配れば、耕す者から不満が出て、いずれ皆が損をする。


その記憶を、いま、この船の上で、そのまま使っている。


前の生のことは、顔も名も、ほとんど思い出せない。それでも、こういう場面での勘所だけは、ちゃんと体に残っている。


不思議なものだと、あらためて思った。


---


**同日 昼**


若い男が来た。


昨日、陳文興の脇に控えて紙に書きつけていた男だ。名は聞いていない。歳はわたしより少し上、十七か十八くらいに見える。


「割り、決めたか」


日本語だった。訛りがある。だが、通じる。


わたしは頷いた。


「水手は、一日四合。荷役は三合半。子どもは二合。……わたくしたちも二合半」


「なぜ、水手だけ多い」


「働くからにござります。汗をかけば、要り用が増えます」


若い男は、しばらくわたしを見ていた。


それから、笑った。


「陳様が仰るとおりだ。あんた、面白い」


——面白い。


その言葉を、わたしは前にも聞いたことがある。庭を見ながら、素の笑いを見せた叔父の顔が、一瞬よぎった。


思い出す前に、若い男が続けた。


「だが、水手が聞くと思うか」


「……」


「あんたは荷だ。荷の指図を、水手が聞くと思うか」


言われて、初めて気づいた。


数を組むことに夢中で、それを誰の口で伝えるかを考えていなかった。


前の生でも、この生でも、いつもそうだ。数は作れる。作った数を、誰が持っていくかを、いつも後で考える。


「あなたが、お伝えくださいますか」


「俺の言葉でか。それとも、あんたの言葉でか」


「……あなたの言葉として」


若い男は、少し笑った。


「なら、聞いてやってもいい」


そう言って、去っていった。


去っていく背中を見ながら、わたしは、いま自分がまた同じことを繰り返していることに気づいた。


数を組む。組んだものを、誰かの口に託す。託した相手が、それをどう運ぶかで、通るか通らないかが決まる。


自分の口で言えないものは、いつも誰かを介する。介するたびに、少しずつ、自分の手を離れていく。


それでも、託す相手がいるだけ、まだましだった。


誰にも託せなければ、数はただの紙屑と変わらない。


---


夕方、水配りがあった。


若い男が甕から柄杓で汲み、椀に注いでいく。水手には四合、荷役には三合半。子どもには二合。


一人の水手が、椀を突き返した。


「足りねぇ」


「決まりだ」


「誰が決めた」


若い男が、わたしのほうを見た。


一瞬だけだった。だが、水手はそれを見逃さなかった。


「あの荷か」


笑い声が起きた。何人かが、こちらを見た。


心臓が、耳の後ろで鳴りはじめた。喉の奥が、急に乾いた。


十数人の男たちの目が、いっぺんにこちらへ向く。この体は、そういう目に慣れていない。


それでも、わたしは目をそらさなかった。


そらせば、それだけで負ける。前の生で、そういうことを何度も見た。数字より先に、目で負ける者がいた。


「荷の指図で、水を飲めというのか」


水手の一人が言った。年配の男だった。日に灼けて、腕に古い傷がある。


「決めたのは、陳様にござります」


わたしは言った。


「わたくしは、割っただけにござります」


「割った数が信用できるかという話だ」


「では、お確かめくださりませ」


わたしは、甕を指した。


「甕は十三、二斗ずつで二十六斗。乗る方は三十四人。この割りで十日、保ちまする。十日目に、残りを検めてくださりませ。合うておりましたら、その先も同じ割りで参りましょう」


年配の水手は、しばらく黙っていた。


日に灼けた顔の中で、目だけがこちらを値踏みするように動いていた。船底に転がる荷が、口を利いたことが、まだ信じられないという顔だった。


それから、鼻を鳴らした。


「小賢しい」


小賢しい、という言葉には、聞き覚えがあった。


「口を出すな」


これまで何度も、似た言葉を投げられてきた。


でも、今度は少し違う。


叩かれなかった。


代わりに、水手は椀を受け取った。三合半で。


不服そうだったが、飲んだ。


膝の力が抜けそうになった。それを、袴の上から手で押さえた。


通った。


通ったのは、わたくしの理屈のおかげだろうか。


それとも、あの若い男が「陳様が仰るとおりだ」とあの場で言ったからだろうか。


考えて、すぐに答えが出た。


たぶん、後者だ。


理屈だけなら、水手は聞かなかった。あの男が陳文興の名を持ち出したから、聞いた。


あの男は、あの一言で、水手たちの前に立ったことになる。


荷の肩を持った男として。


そのことが、この先あの人にとってどういう意味を持つのか、わたしは考えなかった。


考える前に、水配りの続きに気を取られていた。


---


夜になって、若い男がまた来た。


「あんた、名は」


「千代にござります」


「千代」


若い男は、その音を確かめるように繰り返した。


「俺は阿蓮という。陳様の家の者だ」


「あれん」


「そうだ」


阿蓮は、荷の縁に腰を下ろした。


「日本の言葉は、母から習った。母は博多の生まれで、こちらへ来た人だ」


「……そうでしたか」


「陳様の家では、日本の言葉が要る。日本と商いをするからだ。だから俺が呼ばれた」


「お母上は、いまも」


阿蓮の顔つきが、わずかに変わった。


「死んだ。三年前だ」


「……申し訳ござりませぬ」


「あんたが謝ることじゃない」


阿蓮は、それだけ言って、話を打ち切った。


わたしは、それ以上訊かなかった。訊けば、この人の傷に触れることになる。触れてよいものかどうか、まだ判じかねた。


そのことを、わたしは覚えておくことにした。この人にも、失ったものがある。


その話を聞きながら、頭の隅で別のことを考えていた。


この人が、わたくしの言葉を伝える者になる。


明の言葉が分からない身では、これから何をするにも、誰かの口を借りるしかない。


島門では、兄の口を借りた。今度は、この人の口を借りることになる。


同じことを、また繰り返している。


「阿蓮殿」


「殿はいらない。使用人に殿はつけない」


「……阿蓮」


「それでいい」


「先ほどは、ありがとう存じます」


阿蓮は、肩をすくめた。


「陳様が『やらせろ』と言った。俺はそれを伝えただけだ」


「それでも」


「あんたの割りは、悪くなかった。水手が多く飲むという理屈は、通っている」


阿蓮は、そう言って、少し黙った。


それから、こう言った。


「明では、字が読めて算えられる女は、珍しくない。だが、初めて会った場で、水手を黙らせる女は珍しい」


「黙らせたわけでは」


「黙らせた。理屈で、だ」


阿蓮は、立ち上がった。


「明日も、割りを頼む。俺が伝える」


去っていく背中を、わたしは見ていた。


---


十日目、水甕が検められた。


残りは、思ったより少なかった。子どもの一人が、こっそり多く飲んでいたらしい。それでも、大きくは外れていなかった。


阿蓮が、甕の縁に棒を差し入れて、水位を測った。測った長さを、わたしに告げる。わたしは、それを頭の中の見込みと突き合わせた。


見込みより、一寸ほど少なかった。子どもが盗み飲みした分と、ほぼ合う。


読みどおりだ。


そう思うと、指の先が、じんわりと熱くなった。三年前、升の狂いを言い当てたときと、同じ熱さだった。


年配の水手が、甕を覗き込んで、何も言わなかった。


日に灼けた横顔を、わたしはしばらく見ていた。何か言われるだろうかと身構えていたが、何も来なかった。


言わなかったことが、答えだった。


その日から、水配りは何も言われずに続いた。水手たちは、椀を受け取るとき、こちらを見ることもなくなった。見なくなったことが、かえって、認められた証のように思えた。


見張られなくなるというのは、こういうことか、と思った。


---


十四日目、風が変わった。


水手たちが慌ただしくなった。帆が下ろされ、櫓が出される。


わたしは、荷のあいだから空を見た。


雲が、速く流れている。


「嵐か」


近くにいた荷役の男が、誰にともなく言った。


阿蓮が来て、わたしの前にしゃがんだ。


「水の割りを、変える」


「……嵐が長引けば、要りますね」


「どれくらい保たせられる」


わたしは、頭の中で数を組み替えた。


嵐で船足が落ちる。落ちれば、着くまでの日数が延びる。延びれば、水は保たなければならない。


だが、どれくらい延びるかは、わたしには分からない。


分からないことを、分からないまま出してはならない。


「分かりませぬ」


わたしは、正直に言った。


「嵐が幾日続くかが分からねば、割りを決められませぬ。ただ——」


「ただ」


「いま少し、切り詰めておくことはできまする。今日から、一割減らしまする。それで数日は稼げます。稼いだ数日のあいだに、嵐の様子を見て、また組み直しまする」


阿蓮は、しばらくわたしを見ていた。


「陳様なら、こう言うだろうな。『足りぬなら足りぬと言え。知ったふりをするな』と」


「知ったふりは、いたしませぬ」


「ああ。だから、任せる」


---


**同夜**


嵐は、思ったより早く去った。


一晩、船が大きく揺れただけだった。朝には、風がやんでいた。


わたしは、荷のあいだで身を丸めながら、ずっと数を数えていた。


揺れの間隔。水手の叫ぶ声の数。何かが倒れる音。


胃の底が、揺れるたびに持ち上がった。手のひらが、汗と潮でぬめっていた。


数えることしか、できなかった。


数えていれば、恐怖で頭がいっぱいにならずに済んだ。


朝、阿蓮が来た。


「無事か」


「はい」


「水甕は」


「一つ、割れました」


「割れた」


「昨夜、揺れで倒れて。ほかは無事にござります」


阿蓮は、甕を検めに行った。


戻ってきて、こう言った。


「十二甕。割りを、組み直せるか」


わたしは、頷いた。


指を折る。甕が一つ減った。日数は、嵐のぶん延びる。


「一割五分、減らしまする。それと——」


「それと」


「割れた甕の分を、子どもの水から先に補いまする。子どもは、割りを減らされても文句を言いませぬ。水手は言います」


阿蓮は、少し笑った。


「あんたは、誰から文句が来るかで割りを決めるのか」


「そのほうが、揉めませぬ」


「陳様と、同じことを言う」


---


**十九日目 泉州近海**


陸が見えた。


誰かが叫んで、それが船中に広がった。荷役の男たちが立ち上がり、水手が帆の具合を確かめている。


わたしは、荷のあいだに座ったまま、その騒ぎを見ていた。


十九日。


水は、最後まで保った。


保たせたのは、わたしだ。


そのことを、誰かに言いたい気持ちがあった。言って、認められたい気持ちが。


でも、口には出さなかった。


出したところで、意味がない。


わたしは荷であって、この船の誰でもない。水を割ったことは、わたしの手柄として記録されない。陳文興の帳に、そう書かれるだけだ。


それでいい。


そう思おうとした。


思おうとして、うまくいかなかった。


島門でのあの三年間、わたしは言っても届かないことを知っていた。だから黙っていた。黙っていて、家を失った。


いまは違う。


言えば、届く。少なくとも、水の割りは届いた。水手は椀を受け取った。


届いたのに、それでも、何かが足りない気がした。


阿蓮が、こちらへ来た。


「着く」


「はい」


「陳様の家に、みな連れて行かれる。あんたも、たぶん」


「たぶん」


「陳様の気分次第だ。あの人は、気に入った荷は手元に置く」


わたしは、遠くの陸を見た。


灰色の岸に、白い建物が並んでいる。日本の湊とは、屋根の形からして違う。棟の反り方も、瓦の重なり方も、初めて見る形だった。


十九日、この目に映るものは、ずっと海と空だけだった。それが、ようやく陸の形になる。


嬉しいはずだった。


なのに、胸の底に、重いものが沈んでいた。


陸に上がれば、また新しい主に検められる。荷として、値を付けられる。船の上で覚えた「割る」という仕事も、陸に上がれば通用しないかもしれない。


またゼロから、値踏みされる。


——ここでは、話せない。


そう思った。


明の言葉を、わたしは一言も知らない。歩くことも、食べることも、これから何もかも、阿蓮の口を借りなければできない。


島門の三年で、わたしは口を開くことを覚えた。


ここでは、その口が使えない。


また、振り出しか。


そう思うと、少し可笑しかった。


三年かけて、ようやく声が届くようになった。届いたと思ったら、今度は言葉そのものがない。


でも、と思う。


水の割りは、言葉がなくても伝わった。数は、どの国でも同じ形をしている。


——数から、また始めればいい。


船が、陸に近づいていく。


甕の水は、あと僅かしか残っていなかった。


それで、足りた。


足りるように、割ったのだから。


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