幕間 杭 ——さよ
応永二十二年(一四一五)夏 長門国 赤間関
うちは、宿の裏で桶を洗うとった。
赤間関という湊じゃった。関門の瀬戸に面しとって、船がひっきりなしに通る。島門なんぞ比べものにならんくらい大きか湊じゃと、来たときに思うた。
売られてから、三月になる。
買うたのは、船宿をやっとる女じゃった。四十がらみで、口は悪かばってん、殴らん。飯も食わせる。それだけでずいぶんましなんじゃと、同じ日に来た娘が言うとった。
その娘は、二月目に別のところへ移された。
どこへ行ったのか、うちは知らん。
訊かんかった。
訊いても教えてはくれんし、教えてもろうたところでどうにもならん。
——分からんことは、分からんまま置いとく。
うちは、桶をゆすいだ。
そうしとると、たいてい、そのうちどうにかなる。
なっとらんことも多かばってん、それも、そのうちどうにかなる。
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姫様のことを、うちはよう考える。
初めてお会いしたのは、十四のときじゃった。屋敷に上がって、姫様付きになれと言われた。姫様は八つで、小そうて、色が白かった。
変わった子じゃと、すぐに思うた。
八つの子が、番屋に行って、荷の目方を訊く。訊いて、答えを聞いて、それから黙って何かを考えとる。
女中頭が「気味の悪か子じゃ」と言うとるのを、うちは何度も聞いた。
うちは、そうは思わんかった。
気味が悪かとじゃなか。
あの子は、ずっと何かば心配しとった。
八つの子が、心配することなんて、ほんとうは何もなかはずじゃ。飯があって、寝る場所があって、父上と兄上がおらす。それで足りる。
なのに姫様は、いつも何かば心配しとった。
心配して、それを誰にも言わんかった。
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潮を数えはじめたのは、十一のときじゃ。
石段の三段目に座って、膝の上に帳面ば広げて、指をかじかませながら、毎日毎日、同じことを書いとらした。
「飽きんもんですねえ」
うちは、そう言うた。
「毎日、違うて引く」
姫様は、そう答えなさった。
「昨日は、あの杭の二つ目まで見えた。今日は三つ目まで見えとる」
「そら、そうでしょうたい。月が変われば潮も変わりますけん」
「変わるのは知っとる。どれだけ変わるかを、書いとるとよ」
うちは、返事に詰まった。
それで、笑うた。
分からんことは、笑うてやり過ごす。それがうちのやり方じゃった。
姫様は、そのたびに少しだけ黙らす。
——ああ、この人はいま、話す相手ばひとり失くしなさった。
そう思うことが、何度もあった。
思うても、うちには続きが言えん。潮のことも、荷のことも、芦屋のことも、何も分からんとじゃけん。
じゃけん、笑うた。
笑うしか、なかった。
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姫様は、うちのことを何も知らん。
歳も知らんかった。父がおることは知っとらしたばってん、母がおらんことは知らんかった。うちに弟が二人おったことも、その二人が流行り病で死んだことも、知らんかった。
言わんかったけん、知らんだけじゃ。
姫様は、訊かん人じゃった。
湊で死んだ善次さんと亀助さんの名前も、知らんかった。「善次と、亀助というのは」と訊かれたとき、うちは少し驚いた。三年おそばにおって、湊の者の名前を一つも覚えとらんかったとじゃ。
ばってん、あのとき姫様は訊いた。
三年目にして、初めて訊きなさった。
じゃけん、うちは怒らんかった。
あの人は、人の名前ば覚えるかわりに、潮の高さば覚える人じゃった。頭ん中の場所が決まっとって、両方は入らんとじゃろう。
うちは、そう思うことにしとった。
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いちど、姫様が泣かれたことがある。
縁組が決まった夜じゃ。
「そなたは、嫁ぐ相手を自分で決められるか」
そう訊かれた。
「決められるわけなかでしょう」
うちは笑うて、そう答えた。
ほんとうに、そう思うとった。父が決めて、相手の家と話ばつけて、うちは行く。みんなそうじゃ。嫌かどうかを考えたこともなかった。
「嫌ではないのか」
「嫌とか、そういうもんじゃなかです」
「みんなそうですけん」
そう言うたとき、姫様の顔が変わった。
いま思えば、うちはあのとき、姫様ばひとりぼっちにしたとじゃと思う。
姫様は「みんな」じゃなか。
自分で決めたか人なんじゃ。
なのにうちは「みんなそうです」と言うた。それは「あなたも我慢しなさい」と言うたとと同じじゃ。
姫様は、そのあと何か言いかけて、やめなさった。
「わたくしは」
そう言うて、止まった。
止まったところに何が入るとか、うちには分からんかった。分からんけん、訊けんかった。
灯を消してくれと言われて、消した。
暗うなってから、姫様が小さか声で言われた。
「……嫌じゃ」
聞こえた。
聞こえたばってん、うちは何も言わんかった。
言葉が、なかった。
かわりに、褥ば横に敷いた。
それしか、できることがなかった。
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姫様は、いつもご自分ば責めとらした。
これは、そばにおれば分かる。
升のことも、賊のことも、荷が減ったことも、みんな自分のせいじゃと思うとらした。
そんなわけがなか。
升に板ば貼ったのは姫様じゃなか。船ば襲うたのも姫様じゃなか。芦屋が荷ば回さんごとなったのも、姫様のせいじゃなか。
ばってん姫様は、そういうふうに考えん人じゃった。
数ば並べて、狂いを見つけて、見つけたらそれば自分の落ち度として書きつけなさる。
——そげんことしよったら、身が保ちませんばい。
そう言えばよかった、といまは思う。
言えばよかった。
弥太郎様が亡くならしたあと、姫様は一度も泣かんかった。
殿様が亡くならしたあとも、泣かんかった。
四日のあいだ、一度もじゃ。
泣かん人じゃなか。前は泣いとらした。叩かれた夜も、縁組の夜も泣いとらした。
なのに、いちばん泣くところで泣かんごとなった。
——泣く順番が来とらんとです。
うちには、そう見えた。
順番が来たら、あの人は泣かすとじゃろう。
そんときに、誰か横におってくれればよか。
うちは、おらん。
それが、いちばん心残りじゃ。
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別れるとき、うちは笑うた。
「姫様は、賢かです」
「……」
「賢かけん、どこ行っても、なんとかしんしゃいます」
ほんとうにそう思うとった。
字が書けて、算えられて、いつも先のことば考えとらす。そういう人は、どこへ行ってもなんとかしなさる。
ばってん、ほんとうは、もう一つ言いたかことがあった。
言えんかった。
——姫様。あんまり、ご自分ば責めんでくださいまし。
それが、言いたかったことじゃ。
みんなあなたのせいじゃなかです。あなたが賢かったけん、こうなったとじゃなかです。
そう言いたかった。
言えば、姫様はきっと困った顔ばしなさる。それから「そうか」とだけ言うて、また何か数えはじめなさる。
分かっとる。
分かっとっても、言えばよかった。
振り返らんかったとは、振り返ったら泣くけんじゃ。
泣いたら、姫様がまた「自分のせいじゃ」と思いなさる。
じゃけん、振り返らんかった。
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桶ば洗い終えて、うちは裏の石段に腰を下ろした。
関門の瀬戸は、いつも潮が速か。
宿の女将が言うには、この瀬戸は一日に何度も流れが変わるとじゃという。東へ流れとったもんが、しばらくすると西へ流れる。船乗りはそれば見て船ば出す。
うちは、水面ば見とった。
杭が三本、突き出しとる。
——今日は、二本目の下まで。
そう思うて、自分に驚いた。
数えとった。
誰に言われたわけでもなかとに、潮の高さば見て、杭ば数えとった。
姫様がいつもやっとらしたことじゃ。
飽きんもんですねえ、とうちは笑うた。
——毎日、違うて引く。
姫様は、そう答えなさった。
うちは、しばらく水面ば見とった。
それから、落ちとった木片ば拾うて、石段の隅に印ばつけた。
一本目までのとき、一つ。二本目までのとき、二つ。
意味はなか。
意味はなかばってん、明日も見るじゃろうと思うた。
見て、また印ばつけるじゃろうと思うた。
姫様がどこにおらすとかは分からん。生きとらすかどうかも、ほんとうは分からん。
ただ、この湊の潮が毎日違うて引くということを、いま、たぶんこの町でうち一人だけが気にしとる。
三年、笑うてやり過ごしてきたもんが、一つだけ、うちの中に残っとった。
——そういうもんですたい。
うちは立ち上がって、桶ば抱えた。
夕方の潮が、東へ流れはじめとった。




