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潮を編む――滅んだ小領主の娘、唐土に売られ、海賊の妻となる  作者: ハタ星人


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幕間   文 ——麻生家繁

応永二十二年(一四一五)四月 筑前国遠賀郡 島門


わしは、納戸の戸を閉めた。


板が薄い。中から娘の息づかいが聞こえるような気がしたが、気のせいであろうと思うた。


戸の前で、しばし立っておった。


申すべきことは、昼のうちにみな申した。申せなんだことは、これからも申せぬ。


わしは、櫓のほうへ歩いた。


---


千代が初めて升のことを申しに来たとき、あの子は十一であった。


「あの升の底に、板が一枚、貼り足してござります」


わしは、書状から目を上げなんだ。


上げられなんだ、と申すほうが正しい。


板が貼ってあることは、三年前から知っておった。


芦屋から来た者が細工をしたのであろうということも、察しておった。察しておって、何も申さなんだ。申せば、宗家と事を構えることになる。この家に、それだけの力はない。


見ぬことにしておった。


その升を、十一の娘が手に取り、底を撫でて、貼り板の厚みまで言い当てた。


——なぜ知っておる。


そう訊いた。


娘は、答えなんだ。


答えられぬのじゃと、そのとき分かった。


人には、答えられぬものが一つや二つある。盛久も同じことを申すであろう。わしもそう思う。


じゃが、十一の子がそのようなものを抱えておるというのは、恐ろしいことであった。


「お前は、時折、恐ろしいことを言う」


そう申した。


叱ったつもりはなかった。じゃが、あの子は叱られたと思うたようであった。


障子を閉めるとき、あの子は泣いておった。


わしは、書状を読むふりをして、同じところを幾度も見ておった。


字が、頭に入らなんだ。


---


その次に、あの子は帳を持って参った。


三冊。九月から師走まで、通った荷をことごとく書きつけたという。


「二十俵、足りませぬ」


わしは、帳をめくった。


字は下手であった。じゃが、読めた。


読めるということが、まず驚きであった。この家では、誰も書かなんだ。四代、誰も書かなんだものを、十一の娘が三月かけて作った。


そして、数が合うておった。


わしが漠然と「減っておる気がする」と思うておったものが、そこに数として並んでおった。


——この子は。


そう思うた。


思うて、口に出せなんだ。


「升を、あらためよ」


そう申すのが、精一杯であった。


去り際に「よう、書いた」と申した。


申してから、それだけでは足りぬと思うた。足りぬと思うたが、続きが出てこなんだ。


あの子は廊下で立ち止まり、しばらく壁に手をついておった。


障子の影で、それが分かった。


わしは、動かなんだ。


出ていって、肩の一つも叩いてやればよかったのじゃと、いまは思う。


---


与三次を叱ったのは、誤りであった。


あの老人に落ち度がなかったとは申さぬ。四十年おって、気づかなんだはずがない。


じゃが、叱ってどうなるものでもなかった。


叱ったのは、ほかに叱る相手がおらなんだからじゃ。芦屋を叱ることはできぬ。細工をした者を追うこともできぬ。


じゃから、いちばん近くにおる者を叱った。


情けないことじゃ。


廊下に、千代がおった。


障子越しに、気配で分かった。


あの子は、自分の持って参った帳のゆえに与三次が叱られておると思うたであろう。


——違う。


そう申してやりたかった。


お前のせいではない。わしが弱いからじゃ。


申せなんだ。


申せば、この家の当主が弱いということを、娘に認めることになる。


---


千代が豊前行きを止めに参ったとき、わしはもう決めておった。


八人では戦は変わらぬ。湊が空になる。大内は海から来る。芦屋は動いておらぬ。


あの子が並べたことは、みな、わしが考えたことであった。


三月かけて考えて、それでも行くと決めた。


行かねば、少弐様に背くことになる。背けば、この家に残っておる七人の武士の行き場がのうなる。あの者どもは、四代この家に仕えてきた。扶持を失えば、どこへも参れぬ。


芦屋の申し出を断ったのも、同じ理由じゃ。


扶持をもらう身になれば、七人は要らのうなる。要らのうなった者は、追われる。


筋を通したのではない。


追える者が、おらなんだだけじゃ。


そのことを、千代には申さなんだ。


申せば、あの子は「では、七人を追えばよいのです」と申すであろう。


そう申されたら、わしは返す言葉がない。


数の上では、あの子が正しい。七人を追えば、この家は保つ。


保った家に、誰が残るのか。


それを、わしはあの子に説き聞かせることができなんだ。


---


あの日、わしは千代を叩いた。


あの子は、こう申した。


「島門が豊前で潰れましたあと、芦屋の御屋形は大内に付かれます。そのとき、この家の四代の御恩は、どなたが覚えておいででしょうか」


手が出た。


出てから、下ろせのうなった。


震えておったのが、自分でも分かった。


叩いたのは、あの子が誤っておったからではない。


正しかったからじゃ。


わしが夜ごと考えて、考えて、それでも口に出せずにおったことを、十二の娘が半刻で並べた。


並べて、目の前に置いた。


そのとき、わしは自分が何もできぬということを、はっきり見せられた。


見せられとうなかった。


じゃから、叩いた。


——お前の申すことは。


そう言いかけて、やめた。


続きは、これであった。


お前の申すことは、いつも、わしより一年早い。


申せば、あの子は喜んだであろうか。


いや。


あの子はきっと、こう思う。


——では、なぜ一年早く動いてくださらぬのか。


答えられぬ。


じゃから、申さなんだ。


---


千代が白水衆との約定をまとめたと聞いたとき、わしは湊を見下ろして動けのうなった。


船が、十艘を超えておった。


二月ぶりに帰った家の下で、荷揚げの声がしておった。


「誰が考えた」


弥太郎が「千代にござります」と申した。


得意そうであった。


千代は袖を引いておった。引かせておいて、弥太郎は申した。あれはあれで、妹に手柄を立てさせようとしたのであろう。


わしは、しばし何も申せなんだ。


嬉しいのか、恐ろしいのか、分からなんだ。


その夜、帳を四冊読んだ。


読んで、あの子に返した。


「これは、お前が持て」


そう申した。


任せたのではない。


わしには、もう扱えなんだ。


十二の娘が三年で作ったものを、四十を過ぎた当主が読み解けぬ。


そういうことが、この世にはある。


「頬は、治ったか」


そう訊いた。


詫びるかわりであった。詫びれば、叩いたことが誤りであったと認めることになる。認めれば、あの子はまた同じことを申しに参る。


申しに参られると、困る。


——臆病な父じゃ。


自分でそう思う。


---


弥太郎の骸を検めたとき、わしはことごとくを知った。


傷は前から入っておった。背中ではない。


賊が人を斬るときに、正面から斬ることはあまりない。銭を取るなら背中から突く。斬るのは、逃げる者を追うたときじゃ。


弥太郎は、逃げておらなんだ。


そして、弓の弦が外してあった。


舟に乗るときに外して、張り直す間もなかったのであろう。つまり、船着き場じゃ。つまり、待っておったのじゃ。つまり、待っておるところへ、誰かが参ったのじゃ。


芦屋の湊で、麻生の跡取りが待っておるところへ。


——盛久じゃ。


そう思うた。


思うて、口を閉じた。


証がない。傷の向きと、弦の張り具合。それだけである。


そして、この家には兵が七人しかおらぬ。


---


千代が二十二艘の話を持って参ったのは、その次の月であった。


芦屋から北へ上った船が二十二艘。積み荷は米。北へ米を運ぶのは、そこに兵がおるときだけ。


——ああ、と思うた。


この子は、また一年早い。


いや、今度は早うない。同じであった。わしはもう知っておった。


「証は」


そう訊いた。


「船の数にござります」


「船の数は、証にならぬ」


そう申しながら、わしは別のことを考えておった。


この子は、いま自分の見つけた証を持って参った。三月かけて数を並べ、賊にまで訊いて、理屈を組んで持って参った。


そして、わしは去年の暮れから知っておった。


知っておって、何もせなんだ。


それを、あの子には申せなんだ。


申せば、この子はどうする。


父が知っておって動かなんだと知れば、この子は自ら動く。


動けば、死ぬ。


「わしにはどうにもならぬ」


そう申した。


あの子は「疑うのがお嫌なのでござります」と申した。


——そうかもしれぬ。


そう答えた。


答えながら、わしは娘に嘘をついておった。


生涯で、いちばん重い嘘であった。


---


その夜から、湊の者に暇を出しはじめた。


一軒ずつ、夜に呼んだ。


「博多へ行け」と申した。「宗徳という商人がおる。この文を持って参れ」と。


多くの者は、驚かなんだ。


長く海で食うてきた者は、風の変わり目が分かる。分かっておって、言い出せずにおっただけじゃ。


文を書くと、みな、頭を下げて出ていった。


四十二軒のうち、二十三軒。


残ったのは、行く先のない者と、老いた者と、それから——「殿を置いては参れませぬ」と申した者どもである。


その者どもには、何も申さなんだ。


申せることが、何もなかった。


千代には、知らせなんだ。


与三次が一度、進言した。


「姫様にも、お知らせなされませ」


わしは、首を振った。


「千代に申せば、算えはじめる」


「……」


「算えれば、間に合うか間に合わぬかが分かってしまう」


あの子は、家が減ってゆくのを数えておった。


知っておる。番屋で、湊の家の数を書きつけておるのを見た。


四十二軒が、十九軒。


あの子は、それを「見放された」という数として読んだであろう。


同じ数を、わしは「二十三軒は逃がした」という数として作っておった。


申せば、楽になったであろうか。


申せば、あの子は「では、あと十九軒をどう逃がすか」と算えはじめたであろう。


算えて、間に合わぬと知る。


知れば、あの子は自らを責める。


——それだけは、させとうなかった。


---


宗徳に、文を出しておった。


娘を頼む、と書いた。もしものときは、預かってはもらえまいか、と。


返事は、二月の末に参った。


承知した、と書いてあった。


五月に人をやる、船を仕立てる、それまで待たれよ、と。


その文を三度読んで、燃やした。


五月である。


あと一月。


---


一月が、待てなんだ。


四月の四日目の夜、犬が鳴いた。


わしは起きておった。近ごろは、ほとんど眠っておらぬ。


搦手の木戸が開くのを、板の音で聞いた。


——やはり、内からか。


そう思うただけじゃ。驚きはせなんだ。


七人のうち、弓を引ける者が五人。相手は十を下るまい。


数えるまでもない。


わしは、櫓の下へ出た。


そこは屋敷の西の端で、納戸からはいちばん遠い。


火は、西から出したほうがよい。風は北から東へ回っておる。西で火が出れば、東へは回りにくい。


そして、人が集まる。


集まれば、東は手薄になる。


——これは、算えたのじゃ。


千代よ。


わしにも、算えられることが一つはあった。


わしは、そこに立って、名乗った。


大声で名乗った。この生涯で、これほど大きな声を出したことはない。


「島門の麻生家繁である」


足音が、寄ってきた。


——来い。


そう思うた。


——こちらへ参れ。ことごとく、こちらへ参れ。


刃が来た。


痛みは、思うたほどではなかった。


倒れたとき、最後に見たのは、屋敷の東の隅であった。


そこは、まだ暗かった。


---


千代よ。


お前の申すことは、みな正しかった。


一つも誤っておらなんだ。


わしはそれを、みな聞いておった。


聞いておって、動けなんだ。


筋を選んだのではない。ほかに選べるものが、なかっただけじゃ。


——お前は、賢い。


一度でよいから、そう申してやればよかった。


申せば、あの子は困った顔をしたであろう。


困った顔を、見とうもあった。


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