↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮を編む――滅んだ小領主の娘、唐土に売られ、海賊の妻となる  作者: ハタ星人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
135/165

第十八話 花を持たせる

永享二年(一四三〇)十一月 伊予国 怒和島 下怒和


範久様と大祝家との許婚を、正式な形に仕上げる儀は、あの夜の話し合いから、ひと月と経たぬうちに、執り行われた。


大祝家への使いは、伊佐次が務めた。大三島の宮司家には、ちょうど、範久様と歳の近い姫君が一人おり、先方も、この縁組を、悪い話とは受け取らなかったという。瀬戸内の武家との縁は、大祝家にとっても、決して損のない話だった。


披露の儀は、義重の館で、丁重に執り行われた。元服の折、通春様御自らの御出座しを得た、あの慶事に続く、二度目の大きな慶事だった。姫の名は、まだ幼く、実際の輿入れは、幾年か先になるという。それでも、正式な許婚として、確かな形になったことを、家中の者たちの前で、はっきりと披露した。


「これで、範久様は、もはや、ただの担がれるだけの幼子ではのうなった」


古参の家老の一人が、そう漏らすのを、わたしは、離れた場所から、伝え聞いた。教通方の血の濃さという一点だけでは、もはや、押し切れぬだけの重みが、範久様の御立場に、確かに加わっていた。


---


その同じ祝いの席で、もう一つ、別の話が、静かに進められていた。


鶴丸様の小姓として、身近にお仕えしていた幸松だったが、範久様と改まり、当主としての体裁が整いはじめると、その役目は、より年若い小姓たちに譲り、代わって、六郎太に付き従う形で、新居郡の差配に、幾度も足を運ぶようになっていた。人手の要る場所へ、育った者から、順に、移していく。それも、この島の、当たり前のやり方だった。金子氏の族滅から生き延びた女子供のうち、行方の知れなんだ数名が、ようやく、宇摩郡の親戚筋に匿われていたと判明したのは、この年の夏のことだった。その中に、金子掃部助の姪にあたる、年頃の娘が一人、含まれていた。


「金子の血を、絶やしとうはござりませぬ」


娘の親戚筋が、そう申し出てきたという。新居郡の民のあいだにも、金子の名を惜しむ声が、なお、根強く残っていた。


わたしは、その報せを聞いて、頭の中で、素早く算段を組んだ。


「幸松に、娶らせとうござります」


弥九郎に、そう進言すると、弥九郎は、少し驚いた顔をした。


「幸松に、金子の名を継がせる、ということか」


「はい。幸松は、この数年、新居郡の差配に、しかと励んでまいりました。土地の者たちにも、既に、信を得ております。金子の血を継ぐ娘を娶らせれば、名跡は絶えず、幸松自身も、名実ともに、武士として立てましょう」


弥九郎は、それを聞いて、深く頷いた。


「幸松には、伝えたのか」


「まだにござります。まずは、殿の御了解を、いただきとうござりました」


「異存はない。むしろ、遅すぎたくらいだ」


その言葉に、わたしは、深く頭を下げた。


数日後、幸松に、この話を告げると、幸松は、しばらく、言葉を失っていた。


「それがしのような、流れ者の孤児が、武家の名跡を」


「流れ者だったからこそ、いまの立場を、みずからの手で築いてきた。それを、誰よりもよく知っておるのは、この島の者たちにござります」


わたしが、そう言うと、幸松は、深く、深く、頭を下げた。


婚礼は、範久様の許婚の披露と、同じ日に、あわせて執り行われた。二つの慶事を、一度に重ねることで、この一党の勢いを、家中にも、新居郡の民にも、しかと示す機とした。


その席で、弥九郎が、みずから、幸松に、名の一字を授けた。


「定」


かつて、村上孫太郎に授けたのと、同じ字だった。


「金子の名跡を継ぐ以上、金子幸松定行、と名乗るがよい」


弥九郎が、そう告げると、幸松——いまは定行は、震える声で、答えた。


「かたじけのう存じまする。この御恩、生涯、忘れませぬ」


その様子を、わたしは、少し離れた場所から、見守っていた。孤児として拾われた子が、いま、武家の名跡を継ぎ、殿から名の一字まで授けられている。この巡り合わせの重さを、あらためて、噛みしめずにはいられなかった。


---


祝いの支度が一段落したところで、わたしは、弥九郎に、新居郡の兵の備えについて、あらためて進言した。


「新居郡は、まだ、定行殿一人の差配に、頼り切りにござります。あの土地を、確かに守り切るだけの兵の厚みを、いま少し、築いておきとうござります」


「屯田兵だけでは、足りぬか」


「屯田兵は、あくまで、田を守る兵にござります。境目の細川方との揉め事、あるいは、もっと大きな戦の折には、田を離れられぬ屯田兵だけでは、心許のうござります」


弥九郎は、しばらく、考え込んだ。


「銭は、あるのか」


「白磁と、別子の銅、両方の商いが、これまでにない実を結んでおり申す。いまなら、傭兵を、二百ほど、雇い入れるだけの銭は、確かにござります」


「傭兵、か。銭で雇うた兵は、いざというとき、あてにならぬこともある」


「その懸念には、既に、当てがござります。傭兵の束ねは、彦次に、任せとうござります」


弥九郎は、少し、意外そうな顔をした。


「彦次にか」


「彦次自身、かつては、銭と得だけで動く、根無し草の頭にござりました。銭で雇われる者たちの、腹の内も、逃げ足の速さも、誰よりも、よう分かっておりましょう。あの男が束ねれば、傭兵たちも、易々とは、離反いたしますまい」


「なるほど。あの男に、あの男らしい役目を、与えるわけか」


弥九郎は、そう言って、微かに笑った。


「承知しており申す。ですが、細川方が、いつ、再び、境を越えてくるとも限りませぬ。傭兵は、当座の穴埋めとして、まずは、厚めに雇い入れとうござります。その傍らで、この島で育て、この一党への忠義を、しかと、身につけた常備兵を、二年ほどかけて、少しずつ、増やしとうござります。二年のうちに、常備兵を、三百ほどまで、育て上げとうござります。ただ、傭兵も、百ほどは、そのまま、いつ何が起こるとも知れぬ土地の備えとして、常に、残しておきとうござります。合わせて、新居郡だけで、四百ほどの、確かな厚みを、持たせとうござります」


その数字に、弥九郎は、少し、目を見張った。


「常備兵三百に、傭兵百を残す、というわけか。四百か。いまの、三十を超える程度の常備兵から見れば、途方もない数だな」


「途方もない数にござります。ですが、田を耕す力とは切り離した、この一党だけの兵を、確かな厚みで持っておくことは、この先、避けては通れぬ道にござります。雑兵は、田を耕す民でもござります。戦で失えば、その分、領地そのものが、痩せましょう。ですが、田から切り離した常備兵であれば、たとえ戦で失うても、田畑には、傷が及びませぬ」


その理屈に、弥九郎は、深く頷いた。


「分かった。伊佐次に、傭兵集めを、まず、任せよう」


「はい。並行して、十兵衛殿には、常備兵の稽古に、これまで以上に、力を入れていただきとうござります」


「二年、か」


弥九郎は、そう呟いた。


「二年で、すべてが、思うたとおりに運ぶとは、限りませぬ。ですが、いま、種を蒔いておかねば、二年後には、なおのこと、遠のきましょう」


その言葉に、弥九郎は、深く頷いた。


---


大野氏を除けば、通春方に付く在地武家は、この二月のあいだに、目に見えて増えていた。


「河野本家の勢い、既に、通春方に、大きく傾いており申す」


松吉が、そう報告した。


「教通方に残るは、大野氏と、その周りの、幾つかの小さな家のみにて」


その報せに、わたしは、頭の中で、これまで積み重ねてきた数を、あらためて数え直した。熊野三山の縁、六島・因島・能島・来島の海上戦力、常備兵と屯田兵、そして、通春方への肩入れ。一つ一つの手が、いま、確かな実を結びはじめていた。


---


この二月のあいだ、通春方に付いた家々の顔ぶれを、わたしは、一つ一つ、帳に書き出していった。


「和気郡の某、風早郡の某、久米郡の某……」


書き並べるほどに、河野本家をめぐる勢力図が、大きく塗り替わりつつあることが、はっきりと見えてきた。


「これほど早う、なびくとは、正直、思うており申さなんだ」


義重が、その帳を覗き込みながら、そう漏らした。


先だって、松吉に命じ、大内方の船が、幾度か、通春方の湊近くに姿を見せた、という噂を、それとなく、在地の武家のあいだに流させておいた。実のところは、九州の陣に向かう、まったく別の船団にすぎなかった。だが、その船影を見た者たちの口から口へ、「大内様が、通春方に、既に、加勢しておられる」という話が、実より大きく育っていった。


「大内様の後ろ盾があると見せかけただけで、これほどまでに、なびくものにござりますか」


「なびくというより、既に、なびく理由が、揃うておったのでしょう。こちらの武名、六島・因島・能島・来島の海上戦力、熊野三山の縁。それらが、一つ一つ、伊予国内にも、噂として伝わっており申した」


「噂が、こうして、実の力に変わる」


「はい。噂もまた、この一党にとっては、確かな武器にござります」


その遣り取りを聞きながら、わたしは、頭の中で、静かに、この先の絵図を描き直していた。


「これは、独力で、片づけられそうにござりますね」


わたしが、そう漏らすと、弥九郎は、少し意外そうな顔をした。


「独力で、片づけたいのではないのか」


「片づけられることと、片づけるべきこととは、また、別の話にござります」


「どういうことだ」


わたしは、少し考えを整理してから、口を開いた。


「独力で、この争いを収めれば、確かに、こちらの実力は、際立ちましょう。ですが、それは、同時に、大内様の目に、こちらの力が、必要以上に大きく映るということでもござります」


「軽んじられる、というのとは、逆の話だな」


「はい。軽んじられるのも困りますが、警戒されすぎるのも、また困りもの。ちょうどよい塩梅というものが、こういう話には、ござります」


---


「では、どうする」


弥九郎が、そう訊ねた。


「勝ち戦の、仕上げの部分にだけ、大内様の御手を、お借りしとうござります」


「仕上げの部分、とは」


「大野氏を除く、ほとんどの家は、既に、こちらの勢いに、なびいており申す。あとは、大野氏さえ、片づけば、河野氏一本化は、成し遂げられましょう。その、最後の一手にだけ、大内様に、御参陣いただく」


弥九郎は、しばらく、黙って、その話を聞いていた。


「それは、救援を頼むのとは、違うのか」


「違いまする。これは、救援ではのうて、勝ち戦への、御招待にござります」


その言い方に、弥九郎は、少し呆れたような顔をした。


「持って回った言い方をするものだな」


「持って回らねば、伝わらぬ機微が、こういう話には、ござります。『独力で片づけた』という形にすれば、大内様の御力添えを、端から要らぬと、そう突きつける形になり、大内様の御顔を、潰しかねませぬ。かといって、真に助けを求めれば、こちらの弱みを見せることになる。勝ち戦の仕上げにだけ、大内様の手を借りれば、大内様の面目を立てつつ、こちらの実力を隠しすぎず、なおかつ『借りを作らせた』実を取れまする」


---


「借りを作らせる、か」


弥九郎は、そう呟いて、しばらく、考え込んでいた。


「その借りは、いずれ、どう返ってくる」


「はきとは、分かりませぬ。ですが、大内様は、いま、北九州で、少弐氏との抗争に、手一杯のはず。こちらが、いくらかでも、大内様の顔を立てておけば、いずれ、何かの折に、その恩を、返していただける機会が、巡ってくるやもしれませぬ」


「読みが、いつも、先へ先へと、進んでおるな」


「それが、わたくしの、性分にござります」


弥九郎は、それを聞いて、微かに笑った。


「分かった。お前の策に、乗ろう」


「ただし、通春様に、この策を、お伝えになる折には」


わたしは、少し、続けた。


「借りを作らせる、という話し方は、なさいませぬよう。通春様に申し上げるのは、あくまで、『大内様を、いま一つ、こちら側の味方として、確かに引き込んでおきとうござります。大野氏を退けたあと、なお、味方は、多いに越したことはございませぬ』とだけ。腹の内は、殿とわたくしだけの、勘定にござります」


「大内様への使いは、誰が立てる」


弥九郎が、そう訊ねた。


「その役目は、こちらで、お引き受けいたしとうござります。通春様御自身が、わざわざ、大内様に、頭を下げに参られる形は、避けとうござります。名代は、こちらが立てまする」


弥九郎は、深く頷いた。


数日後、弥九郎は、通春の館へ赴き、この策を、直に、申し入れた。


「大内様を、いま一つ、こちら側の味方として、確かに引き込んでおきとうござる。大野氏を退けたあとも、味方は、多いに越したことはござりますまい」


弥九郎は、そう、こちらの言葉どおりに、切り出した。


「なるほど。して、その使いは」


通春が、そう訊ねた。


「それがしの一党にて、お引き受けいたしとうござる。通春様に、御足労いただくには及びませぬ」


その申し出に、通春は、いくらか、安堵した顔を見せたという。


「頼もしい限りだ。委細、任せる」


その報せを、館に戻った弥九郎から聞き、わたしは、深く頷いた。


「うまく、運びましたか」


「うまく運んだ。お前の言うたとおりの言葉で、事は足りた」


「借りを作らせるという腹の内までは」


「無論、申しておらぬ。あちらは、ただ、味方が増える話だと、そう思うておられよう」


その言葉に、わたしは、静かに、頷いた。


---


「使者は、誰を立てましょうか」


わたしが、そう訊ねると、弥九郎は、少し考えてから、答えた。


「俺が、みずから、赴こう」


「殿が、御自身で」


「これは、こちらの一党の格を、大内様に、しかと示す機でもある。名代を立てるより、俺が行くほうが、意味を持とう」


その決断に、わたしは、深く頷いた。弥九郎という男は、こういう肝心な場面で、いつも、こちらの計算を、一段、上回る覚悟を見せる。それが、この男の、確かな器量だった。


「供の者は、どれほど連れて行かれますか」


「三十ほどでよかろう。あまり大仰にすれば、へつらいに見える。かといって、少なすぎれば、軽んじられる。ちょうどよい数だ」


「その塩梅、殿は、いつのまにか、よう心得ておられますね」


「お前と、幾年も、一緒にやってきたのだ。多少は、身につくさ」


その言葉に、わたしは、少し胸が温かくなった。数を数えることに長けたわたしと、人の呼吸を読むことに長けたこの男とが、幾年もかけて、互いの技を、少しずつ、分け合ってきた。その積み重ねが、いま、こうして、形になっていた。


贈り物には、白磁の器と、正俊の鍛えた一振りを、選んだ。


「刀を、贈り物にするのですか」


「大内様は、武の家柄にござります。器だけでは、いささか、物足りますまい」


正俊は、その話を聞いて、鍛冶場に籠り、幾日もかけて、一振りを、丁寧に仕上げた。銘は、まだ、切らなかった。


「まだ、恥じぬ出来だとは、言い切れませぬゆえ」


正俊は、そう言って、頭を下げた。その謙虚さもまた、この男の職人としての、確かな矜持だった。


---


出立の支度を整えながら、弥九郎は、ふと、こう漏らした。


「大内殿に会うのは、これで、二度目になるな」


「一度目は、いつにござりましたか」


「まだ、根無し草で、瀬戸内を流れ歩いておった頃、大内方の船団が、周防の湊に、居並んでおるのを、遠目に見ただけだ。言葉を交わしたことは、一度もない」


その言葉に、わたしは、少し驚いた。弥九郎の、まだこの一党を興す前の、遠い過去の一端を、こうして、ふと知る瞬間が、いまも、時折あった。


「殿にとって、大内様は、どのような御方に見えましたか」


「遠くから見ただけだ。よくは分からぬ。ただ、大きな家というものが、どういうものかを、初めて、目の当たりにした気がした」


「いまや、殿御自身が、その大きな家の一角に、名を連ねようとしておられます」


その言葉に、弥九郎は、少し複雑な顔をした。


「そう言われると、妙な心持ちがするな」


---


出立の朝、綾が、見送りに出てきた。


「大内様への御挨拶、どうか、粗相のなきように」


「案ずるな。千代の入れ知恵を、しかと携えていく」


弥九郎は、そう言って、微かに笑った。


綾は、その様子を見ながら、静かに、こちらへ視線を向けた。


「千代殿は、御一緒には」


「此度は、殿御自身が、表に立つ場にござります。わたくしは、島で、留守を預かりまする」


「それも、また、千代殿らしい、御判断にござりますね」


その言葉に、わたしは、深く頷いた。策を組むのはわたくしだが、それを世に出すのは、いつも、弥九郎の口を通してのことだった。その一線を、これまで、崩したことは、一度もなかった。


---


弥九郎の船団が、大内領へと向けて、出立していった。その姿が、水平線の向こうに消えるまで、わたしは、浜辺に立ち、目を離さずにいた。


「うまく、いきましょうか」


傍らにいた六郎太が、そう訊ねた。


「うまくいく。殿は、こういう場面で、しくじったことは、これまで、一度もござらぬ」


その言葉に、六郎太は、深く頷いた。


「姐さんは、殿を、ずいぶんと、信じておられますね」


「信じておる。数の上での見通しは、わたくしのほうが、確かかもしれぬ。だが、人を動かす場面では、殿には、かなわぬ」


「それは、意外なお言葉にござります」


「意外ではない。この一党が、ここまで大きゅうなれたのは、殿の器量あってのこと。わたくしの策など、殿という器がなければ、ただの絵空事に終わっておったであろう」


六郎太は、その言葉を、しばらく、噛みしめるように、黙って聞いていた。


「姐さんが、そこまで仰るとは、思うており申さなんだ」


「口には、あまり出さぬからな。だが、思うてはおる」


浜辺には、いつのまにか、綾も、姿を見せていた。腕には、まだ乳飲み子の竹丸を、抱いていた。傍らには、幸松に連れられた弥太郎も、駆けてきていた。


「父上を、見送りましょうね」


わたしが、そう声をかけると、弥太郎は、小さな手を、船のほうへ、懸命に振った。その姿を見て、わたしと綾は、思わず、顔を見合わせて笑った。


---


夜、館の一室で、帳を広げた。


大内方への招待、弥九郎自ら赴く。独力で片づけず、勝ち戦の仕上げにだけ手を借りる策、弥九郎、承知す。この借り、いずれ、どう返ってくるか、いまは、まだ、見えず。


書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。この一手が、この先、どれほどの重みを持つことになるのか、いまのわたしには、まだ、はきとは、分からなかった。ただ、一つだけ、確かなことがあった。この一党は、もはや、島一つの話では、収まらぬところまで、来ていた。


弥太郎が、隣の間で、寝返りを打つ音がした。この子が、この一党の行く末を、いつか、その目で見る日が来るだろう。その日が、どのような景色になっているのか、いまは、まだ、誰にも分からなかった。ただ、確かなことが一つだけあった。この帳を、これからも、書き続けていくこと。それだけは、いつまでも、変わらぬはずだった。


弥九郎の帰島を、浜辺で待つあいだ、わたしは、これまでの道のりを、あらためて、頭の中で振り返った。島門で荷として売られたあの日から、幾つの海を渡り、幾つの決断を重ねてきただろうか。数えることに慣れたはずの自分でも、その総てを、正しく数え切ることは、もはや、できなかった。


「船が、見えました」


見張りの一人が、そう声を上げた。水平線の向こうに、小さな帆影が、幾つも、現れはじめていた。


弥太郎を抱いた綾が、こちらの隣に、静かに並んだ。


「お帰りに、なられますね」


「はい。お帰りになります」


その一言を口にしながら、わたしは、胸の奥に、確かな安堵が広がるのを感じた。数の勘定の外側にある、ただの安堵だった。


留守を預かる日々、わたしは、いつも以上に、島の隅々にまで、目を配った。太郎丸と次郎丸の窯、正俊と清光の鍛冶場、円秀の薬草畑。弥九郎が留守のあいだこそ、この島の営みを、一つも滞らせてはならなかった。


だが、それだけでは、なかった。殿の目のないあいだにこそ、片づけておきたい仕事が、もう一つ、あった。


「松吉。行然殿の伝手を使い、教通方の家中に、一つ、噂を流しておきたい」


わたしは、そう命じた。


「どのような噂にござりましょう」


「大野氏が、他の在地武家を見捨て、独り、自分の所領だけを守ろうとしておる、という筋にて。事実である要はない。ただ、教通方の中で、大野氏への不審が、静かに、育てばよい」


松吉は、少し、驚いた顔をした。


「殿には」


「殿には、伝えておらぬ。伝える要もない。殿のお手を、直に、汚す話ではないゆえ」


その答えに、わたしは、口の端を、微かに持ち上げた。誰の手も汚さず、誰の血も流さず、ただ、言葉だけで、敵の足元を、そっと、崩していく。その冷たさを、隠す要は、もはや、なかった。


松吉は、その笑みを、束の間、見つめてから、静かに、目を伏せた。


「承知いたしました。姐さんの仰ることに、間違いは、ござりますまい」


松吉は、深く頭を下げ、静かに、館を出ていった。


さらに、伊佐次にも、密かに、命じておいた。


「行然殿の伝手の者を、一人か二人、大野氏の城下に、忍ばせておきたい。表向きは、行商の姿にて。城の構え、兵の数、家中の様子を、それとなく、探らせよ」


「承知いたしました」


伊佐次も、また、それ以上、何も訊ねずに、頭を下げた。この一党の者たちは、こうした頼みごとの裏に、何があるのかを、深くは、詮索しなかった。それが、こちらにとって、いつも、都合がよかった。


こうした裏の仕事は、弥九郎の口を通さず、わたし独りの判断で進めるべき類のものだった。表の策は、殿の言葉として、世に出る。だが、こうした、名も残らぬ手管は、わたし一人の帳の中にだけ、そっと、書き留めておけばよかった。


独り、板間に残されると、事実でもない噂が、教通方の家中に、静かに根を張り、いずれ、大野氏という男の孤立を、一段、深める様子を、あらためて、思い描いた。この遣り口の冷たさに、いつのころからか、慄くよりも先に、腹の底が、静かに、熱くなるようになっていた。それが、いつからのことだったか、はきとは思い出せなかった。


「殿がおられぬあいだ、姐さんが、いつも以上に、目を光らせておられますな」


伊佐次が、そう言って、微かに笑った。


「殿がおられねば、わたくしが、しかと、この島を守らねばなりませぬ」


「姐さんなら、案ずることは、ござりますまい」


「案ずることがない、と言い切れるほど、この一党は、まだ、盤石ではない。だからこそ、わたくしが、目を配らねばならぬのじゃ」


伊佐次は、それを聞いて、深く頷いた。


「別子のほうは、いかがにござりますか」


「産出は、変わらず、順調にござります。ですが、油断はできませぬ。金子氏の残された土地の民との間柄も、まだ、しかと固まったとは、言い難きところがござります」


「その方は」


「六郎太に、頻繁に、様子を見に行かせております。何か動きがあれば、すぐに、報せが届く手筈にて」


その答えに、伊佐次は、安堵した顔を見せた。


その言葉に、わたしは、少し安堵した。留守を預かるという役目もまた、この一党の中で、いつのまにか、わたしにとって、確かな居場所の一つになっていた。


留守のあいだ、綾は、幾度も、こちらの部屋を訪れ、政の話とは別の、何気ない世間話に、付き合ってくれた。


「殿が留守の折は、いつもより、少し、島全体が、静かに感じられますね」


綾が、そう言った。


「殿の声が、いかに、この島の空気を、動かしておられるか、あらためて、思い知らされまする」


「千代殿も、声を上げれば、皆、よう聞き入りましょうに」


「わたくしの声は、数を並べる声にござります。殿の声は、人を動かす声。同じ声でも、質が違いまする」


その答えに、綾は、微笑んだ。


「そう仰るところも、また、千代殿らしゅうござります」


弥太郎は、この留守のあいだも、日に日に、言葉を覚えていった。


「たあ、たあ」


弥太郎が、そう声を上げると、綾が、目を細めた。


「父上と、呼びたいのでしょうか」


「まだ、はきとした言葉には、なっておりませぬが」


「それでも、いずれ、しかと、呼べるようになりましょう」


その言葉どおり、弥九郎が帰島する頃には、弥太郎は、たどたどしいながらも、「ちちうえ」と、確かに、呼べるようになっていた。


外では、十一月の海風が、いくらか、冷たく吹きはじめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。