第十六話 渡りの数、また
正長二年(一四二九)五月 伊予国 怒和島 下怒和
弥太郎が、初めて、寝返りから、腹這いで、少しばかり前へ進めるようになった。その様子を見て、綾が、手を叩いて喜んだ。
「もう、そんなに、大きくなられましたか」
その綾の腹も、既に、大きく膨らみはじめていた。三人目の子だった。
「今度は、いつ頃に」
わたしが、そう訊ねると、綾は、腹に手を当てながら、答えた。
「秋の初めごろかと。子を育てながら、また、身重の日々というのは、なかなか、忙しいものにござりますね」
その言葉に、わたしは、微かに笑った。
わたしは、その光景を、少し離れた場所から見ていた。喜びは、確かにあった。だが、頭の中では、既に、別子の銅山の産出高、熊野三山からの新たな報せ、そして、河野氏内訌の兆しについての算段が、休みなく回り続けていた。
「千代殿。今日は、その帳を、少し、お閉じになってはいかがです」
綾が、そう声をかけてきた。
「はい。すぐに」
そう答えながらも、わたしの目は、既に、次の紙面へと、動いていた。
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その夜、弥九郎の渡りがあった。だが、灯を消したあとも、わたしの頭は、なかなか鎮まらなかった。
「まだ、何か、考えておるのか」
弥九郎が、そう訊ねた。
「申し訳ござりませぬ。癖にござります」
「癖、か」
弥九郎は、それきり、何も言わなかった。だが、その沈黙には、いつもとは、微かに違う何かが、含まれている気がした。
翌朝、目を覚ますと、わたしは、帳を広げたまま、机に突っ伏して眠り込んでいたことに気づいた。弥九郎が、その姿を、黙って見ていたのだろう。傍らに、いつのまにか、羽織が掛けられていた。
「殿が」
近くにいた下女に訊ねると、そう頷いた。何も言わずに、羽織だけを掛けて去っていった、という。
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その羽織の重みを感じながら、わたしは、以前にも、こうして、渡りの数が減っていった、あの日々を、あらためて思った。あの頃も、こうして、いつのまにか、弥九郎との間に、言葉にならない距離が生まれていた。
いまは、あの頃ほど、切実な距離ではない。だが、種は、確かに、まだ、そこにあった。政務・技術・外交、幾つもの筋を、同時に動かし続けるほど、わたしの頭は、弥九郎と過ごす、何気ない時のためには、使われなくなっていく。
「決定的な亀裂ではない」
わたしは、頭の中で、そう自分に言い聞かせた。だが、決定的でないからこそ、かえって、気づかぬうちに、静かに深まっていくものもある。そのことを、わたしは、これまでの人生で、幾度も、思い知らされてきたはずだった。
その朝、蚕室から、幸松が、興奮した面持ちで、駆けてきた。
「姐さん、繭が、幾つも、できはじめており申す」
その報せに、わたしは、頭の中の重い算段を、一度、脇へ置いた。蚕室を覗くと、藁を編んだ小さな仕切りの中に、白く、丸みを帯びた繭が、幾つも、並びはじめていた。
「これほど、白う、育つとは」
幸松が、その繭の一つを、そっと手に取りながら、そう漏らした。
「明の蚕は、糸の色も、この国のものとは、まるで違うと聞いており申した。この白さが、それにござりましょう」
わたしは、そう答えながら、頭の中で、次の段取りを組み立てた。繭から糸を引くには、まず、繭を、熱い湯で煮て、糸口を探さねばならなかった。その工程を、この島の誰に、どう覚え込ませるか。
「これを、糸に、できましょうか」
幸松が、そう訊ねた。
「できる。だが、まだ、この島の誰も、やったことのない仕事じゃ。幾度も、しくじりながら、覚えていくしかない」
「窯と、同じにござりますな」
「同じじゃ。気の長い話は、この島の、いつもの遣り方よ」
その言葉に、幸松は、深く頷いた。数匹の蚕が、まだ、桑の葉を、旺盛に食んでいた。この小さな虫たちが、いずれ、この島の、もう一つの実りになる。その道筋を、わたしは、静かに、思い描いた。
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その日の夕方、松吉が、報せを携えてやってきた。
「河野教通方の動き、いくらか、きな臭うなってまいりました」
その報せに、わたしは、すぐさま、頭を切り替えた。羽織の重みも、弥九郎の沈黙も、頭の隅に押しやられ、また、いつもの勘定の顔が、前面に出てきた。
「詳しゅう聞かせよ」
松吉の報告を、一つ一つ、丁寧に書き留めながら、わたしは、自分自身のこの切り替えの速さに、ふと、寒々しいものを感じた。弥九郎への申し訳なさより先に、政務への集中が、いつも、勝ってしまう。それが、わたしという人間の、変わらぬ性分だった。
松吉が帰ったあと、わたしは、しばらく、灯りを見つめたまま、動けずにいた。羽織の重みだけが、まだ、肩に残っていた。
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そんな折、六郎太が、かねてより声をかけていた客を連れて、館へ現れた。
「備前長船から、鍛冶師が、一人、参っており申す」
「ようやく、腰を上げてくれたか」
「はい。幾度も、文を送った甲斐があり申した」
案内された男は、三十半ば、がっしりとした体つきに、無骨な顔つきをしていた。
「長船の清光と申す」
「怒和島の千代にござります。よう、参られました」
清光は、深く頭を下げた。その所作には、長船という一大産地で鍛えられた者らしい、堂々とした構えがあった。
「遠路、はるばる、ご苦労にござりました。船旅は、いかがでしたか」
「潮の荒い日もござったが、大事ござらぬ。それより、この島の評判、道中、幾度も耳にいたし申した」
「どのような評判にござりましょう」
「唐物にも劣らぬ白磁を焼く島がある、と。半信半疑にて参り申したが、なるほど、噂に違わぬようで」
清光は、そう言って、遠くに見える窯場のほうへ、目をやった。その目には、確かな好奇心が宿っていた。
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「長船の一門を、出られたと伺いました」
わたしが、そう切り出すと、清光は、少し苦い顔をした。
「一人の鍛冶が、初めから終わりまで、すべてを手掛けるのが、一門の教えでしてな。それがしは、鍛える者、研ぐ者、拵えを整える者と、手を分ければ、いまの倍は、腕のよい刀を、世に出せると申し上げたのです。ですが、年寄り衆からは、刀は、一人の魂が通ってこそのもの、それを、値の付く品としか見ておらぬのか、と、こっぴどう、疎まれ申した」
「分業、という考えにござりますね」
「さよう。それがしは、質を落とさず、数を増やす道を、探りたいだけにて。ここに、その工夫を、存分に試せる場が、あると聞き申した」
わたしは、その言葉に、頷いた。
「実は、既に、伊勢から迎えた刀鍛冶が、一人、おり申す」
「伊勢、と申すと」
「千子正俊殿。楠木公の血を引くという伝承をお持ちにて」
その名を聞いた清光の顔に、明らかな緊張が走った。
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「南朝方の血筋、にござるか」
「それが、何か」
「いや……それがしは、幕府の御用も務める、長船の生まれにて。南朝方とは、いわば、水と油の間柄。うまく、いきましょうか」
わたしは、少し考えてから、答えた。
「同じ島の中で、同じ鎚を振るう仲間にござります。流儀の違いは、いずれ、力に変わりましょう。もっとも、それは、正俊殿御自身も、同じ懸念を口にしておられました」
その言葉に、清光は、複雑な顔をしながらも、深く頷いた。
「やってみるより、道はござりますまい」
その夜、清光のための、ささやかな歓迎の席が、館の板間で、静かに設けられた。太郎丸と次郎丸、伊佐次、そして幸松も、その席に加わった。
「白磁を焼く土地に、刀鍛冶までおるとは、思うており申さなんだ」
清光は、酒を口にしながら、そう漏らした。
「この島は、次から次へと、新しいことが起こる場所にござります」
幸松が、そう応じた。もう、二十になり、島の外から来た者にも、堂々と口を利けるようになっていた。
「若いのに、しっかりしておるな」
「姐さんに、育てていただき申した」
その遣り取りを聞きながら、わたしは、この島に流れ着いた者たちが、それぞれの形で、確かに根を張っていく様子を、あらためて、噛みしめていた。
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数日後、正俊と清光とを、初めて、同じ鍛冶場に、引き合わせた。幸松も、新居郡から戻っていた折で、この日は、傍らで、その様子を見届けさせることにした。
「長船の清光にござる」
「千子の正俊にござる」
二人は、しばらく、互いを、値踏みするように見つめ合っていた。
「聞くところによれば、貴殿は、一振りに、幾月もかけると聞き申したが」
清光が、そう切り出した。
「そのとおりにござる。一振りに、魂を込める。それが、それがしの技にて」
「そのようなことをしておっては、いざ戦のとき、間に合いませぬぞ。数が要るときには、数を鍛える技が要る」
「数ばかり鍛えて、質を落とせば、それこそ、いざというときに、役に立ちませぬ」
二人のやり取りは、次第に、険しさを増していった。
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「まあ、待たれよ」
弥九郎が、間に入った。
「両方、要るのだ。数を鍛える技も、一振りに手間をかける技も。どちらか一方だけでは、この先の戦には、足りぬ」
その言葉に、二人は、しばらく、黙り込んだ。
「まずは、互いの仕事を、しばらく、間近で見てみるのは、いかがか」
わたしが、そう提案すると、二人は、渋々ながらも、頷いた。
その後も、二人の間には、幾度も、小さな衝突が続いた。焼き入れの温度、炭の焚き方、鋼の折り方。何もかもが、流儀の違いから、ぶつかり合った。
わたしは、その険しさを、あえて、収めようとはしなかった。
「正俊殿の一振りには、楠木公以来の血が、清光殿の技には、長船の何百年もの蓄えが、それぞれ、宿っており申す。互いに、負けとうはござりますまい」
わたしが、そう水を向けると、二人は、揃って、こちらを睨むように見た。
「負ける気は、毛頭ござらぬ」
正俊が、そう言い返した。
「それがしとて、同じにて」
清光も、負けじと応じた。
その意地の張り合いこそが、狙いだった。技を競わせれば、互いに、相手の粗を探すために、これまで以上に、自らの技を、丁寧に見つめ直すようになる。それは、島の武具の質そのものを、静かに底上げする、確かな仕掛けでもあった。
その様子を見届けながら、わたしは、口の端を、微かに持ち上げた。二人には、決して悟られぬように。
傍らで見ていた幸松だけが、その笑みに、気づいていた。
「姐さんは、初めから、こうなることを、見越しておられたのですね」
幸松が、そう、小さく、囁いた。
「見越していた、というより、そう仕向けた、というほうが、正しかろう」
わたしが、そう答えると、幸松は、目を輝かせた。咎めるでも、恐れるでもなく、むしろ、この手管そのものに、強く惹かれている顔だった。
「それがしにも、いつか、そういう仕掛け方を、教えていただきとうござります」
「新居郡の差配にも、いずれ、要る技じゃ。民をまとめるのも、鍛冶を競わせるのも、根は、同じことよ」
その言葉に、幸松は、深く頷いた。孤児として拾われたこの子は、この数年で、字も算えも、そして、こうした冷えた手管の匂いまでも、確かに、この身から、吸い上げつつあった。それを、危ういと思うよりも先に、わたしは、いくらか、誇らしいような、奇妙な感情を覚えていた。
だが、その衝突の合間、正俊が、耐火煉瓦の窯を使った均一な熱の当て方を、清光に見せると、清光は、しばらく、無言で、その仕組みを見つめていた。
「これは……使える」
その一言が、二人の間柄が、変わりはじめる、最初の兆しだった。
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その日の夜、わたしは、帳を広げ、この一年あまりを、ざっと数え直した。
別子の銅山は、いまや、確かな実りを見せている。新居郡の統治は、落ち着きを見せ、熊野水軍とは、確かな盟約を結び、山伏衆の一つの里は、そっくり、こちらの手の内に入った。真の白磁も、ついに、この手で焼き上げた。そして、いま、南朝方と幕府方、二つの異なる流儀を持つ刀鍛冶が、この島で、肩を並べはじめている。
四つの筋が、それぞれ、一段落した。それでも、この帳は、いつまで経っても、書き終わることがなかった。
鶴丸様のことも、忘れてはいなかった。義重からの文には、元服このかた、当主としての振る舞いが、着実に身についてきている、とあった。教通方の残党は、いまだ燻っているものの、いまのところ、目立った動きはない。小三郎も、この島の暮らしに、すっかり馴染んでいた。幸松に懐き、共に新居郡の見廻りに出る姿を、近ごろ、よく見かけるようになったという。直に会う機会こそ少なかったが、この帳には、二人の育ちも、確かに、書き留められていた。
弥太郎の成長も、この帳の余白に、静かに書き留められていた。歩きはじめるまでには、まだ、いくらか時がかかりそうだった。だが、腹這いで動き回る力強さは、日に日に、増していた。
「この子が、河野氏一本化の頃には、どれほど、育っておりましょうか」
わたしが、そう漏らすと、弥九郎は、少し考えてから、答えた。
「歩き回って、皆の足を引っ張る頃だろうな」
「それも、また、賑やかで、よろしゅうござります」
そのやり取りに、傍らにいた綾も、微笑んだ。
そして、河野氏という、より大きな絵図が、その先に、静かに口を開けて待っていた。
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その夜、綾が、弥太郎を寝かしつけたあと、こちらの部屋を訪れた。
「近ごろ、殿の顔色が、少し優れぬように見えまする」
「殿の顔色が」
「はい。千代殿は、お気づきになりませなんだか」
その指摘に、わたしは、はっとした。政務に追われ、弥九郎自身の様子を、丁寧に見る余裕を、いつのまにか、失っていた。
「気づいており申さなんだ。教えていただき、かたじけのうござります」
「殿は、大きな重荷を、いつも、黙って背負われる御方にござります。千代殿が、その重荷に気づかねば、誰も、気づけますまい」
その言葉に、わたしは、深く頭を下げた。綾のこの静かな観察眼は、いつも、こちらの見落としを、正しく補ってくれた。
翌朝、わたしは、いつもより早く目を覚まし、弥九郎の様子を、あらためて、丁寧に見た。確かに、目の下に、薄っすらと、疲れの色があった。
「近ごろ、お疲れのようにござります」
「気づいたか」
「綾殿に、教えていただき申した」
弥九郎は、それを聞いて、微かに笑った。
「敵わぬな、あの女子には」
「わたくしも、同じことを、思うており申す」
「お前も、少しは、休め。弥太郎の顔を、もっと、見てやれ」
その言葉に、わたしは、少し胸を突かれた。
翌日から、わたしは、政務の合間に、意識して、弥太郎と過ごす時を作るようにした。共に、砂浜を歩き、貝殻を拾い、他愛のない遊びに、しばらく、付き合った。
「たあ、たあ」
弥太郎が、拾った貝殻を、得意げに、こちらへ差し出した。
「よう見つけたな」
「たあ」
言葉にならぬ会話が、それでも、確かな温もりを、こちらの胸に残した。数えることに慣れた頭では、決して測れぬ豊かさが、こういう時にこそ、確かにあった。
「気をつけまする」
「気をつける、だけで、終わらせるなよ」
弥九郎は、そう言って、少し笑った。その笑い方には、こちらへの、確かな気遣いが、滲んでいた。
夜、灯芯を整えながら、この日のことを、書き留めた。
正俊と清光、初めて顔を合わせる。当初、激しく反発し合うも、耐火煉瓦の技を機に、僅かに歩み寄りの兆し。綾の指摘で、殿の疲れに、ようやく気づく。己の見落としを、また一つ、思い知らされる。この一年あまり、幾つもの筋が、一段落を迎える。次なる絵図は、河野氏一本化。
書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。羽織の重みが、まだ、肩に残っていた。弥九郎が、何も言わずに、それだけを、そっと掛けていったこと。数えることに慣れた自分には、その静かな行いの重みを、まだ、正しく量りきれずにいた。
円秀の薬草畑も、この頃には、既に、幾つかの苗が、青々と育ちはじめていた。
「傷薬の効き目、既に、幾人かの手当てで、確かめられ申した」
円秀が、そう報告に来た。
「怪我人が、出たのですか」
「窯場で、小さな火傷を負った者が一人。この薬を塗ったところ、いつもより、早う、治まったとのこと」
その報せに、わたしは、深く頷いた。又八の死という、大きな代償の記憶が、まだ、胸の奥に残っていた。この薬草の知恵が、この先、少しでも多くの命を、救う助けになればと、切に願わずにはいられなかった。
正俊と清光の鍛冶場からは、相変わらず、時折、鎚を打ち合う音と、二人の言い争う声とが、聞こえてきた。だが、その声の調子は、当初の険しさから、いくらか、和らぎつつあるように、わたしには感じられた。
「あの二人も、いずれ、良き組にござりましょう」
伊佐次が、そう漏らすと、わたしは、頷いた。
「良き組になるまで、まだ、しばらくは、かかりましょう。だが、その道のりも、また、この島らしい歩みにござります」
外では、五月の夜風が、穏やかに吹いていた。弥太郎の寝息が、隣の間から、規則正しく聞こえてきた。




