第十五話 頭を下げるとき
正長二年(一四二九)三月 紀伊国 熊野
年が明け、熊野三山との縁は、いよいよ、抜き差しならぬところまで、深まっていた。
参詣路の普請、井戸の掘り直し、そして、日々の暮らしを支える塩と米の融通。そのすべてを、こちらが担うようになって、既に、一年近くが経とうとしていた。
「此度、御相談したきことが」
熊野水軍の頭・鈴木重家が、みずから、怒和島まで、船を寄せてきた。珍しいことだった。
「参詣路の御方々にとって、こちらの融通は、もはや、なくてはならぬものになっており申す。ですが、それゆえに、いま一つ、案じておられることがござる」
「案じておられること、とは」
「もし、こちらの融通が、何かの拍子に、途絶えたなら。そうなれば、熊野三山は、たちどころに、立ち行かなくなり申す。その恐れが、いま、山伏衆のあいだに、静かに広まっており申す」
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その言葉に、わたしは、頭の中で、静かに数を組んだ。これは、まさに、待ち望んでいた瞬間だった。恩を売り続けるだけでは、いずれ、こちらの側にも、負担が積み重なる。恩を、確かな約束の形に変えるべき頃合いが、来ていた。
「頭。正直に、お尋ねいたします。熊野の御方々は、こののち、こちらとの間柄を、どのようにお望みでしょうか」
頭は、しばらく、言葉を選ぶように、黙っていた。
「歯向かえば、共倒れになると、皆、悟っており申す。ならば、いっそ、確かな形で、手を結びたいと、そう望む声が、日増しに強うなっており申す。塩と米と、普請の御恩の見返りに、水軍は、求めあらば、この一党の船と共に、海へ出る。そのことを、はっきりと、約したいのでござる」
その一言に、わたしは、静かに頷いた。熊野は遠い。命じて動かせる距離ではない。だからこそ、命じる形は取らず、見返りを受ける身として、自ら、出る約束をしてもらう。それが、いちばん、長持ちする結び方だった。武力で押し込んだのではない。ただ、利だけで、向こうから、手を差し出させる。この一党が、これまで幾度も体現してきた原則が、ここでも、確かに実を結んでいた。
この盟約の儀は、弥九郎の館の広間で、静かに執り行われた。熊野三山の代表と、熊野水軍の頭とが、揃って、深く頭を垂れた。熊野水軍の船は、二十艘あまり、人にして三百近く。決して小さくはない戦力が、求めがあれば、この一党と共に海へ出る。そう約されたのである。見返りは、これまでの塩と米の融通と、船の手入れ、そして、海へ出ている水夫の留守の家への手当てだった。
「求めあらば、この一党の船と並んで、力を尽くしとうござる」
その言葉を聞きながら、わたしは、少し離れた場所から、その様子を見守っていた。武力ではなく、利と情とを積み重ねた末の、静かな約束だった。声高な祝いの言葉も、大仰な儀式もない、この一党らしい、地味な、しかし確かな一幕だった。
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儀が終わり、居並んでいた家中の者たちも、それぞれの持ち場へ散っていった。広間に人気が絶えたころを見計らい、わたしは、鈴木重家に、あらためて声をかけた。ここまでの一年、幾度も言葉を交わしてきた相手であれば、この程度の水入らずの遣り取りを咎める者は、この一党の中には、誰もいなかった。
「頭ご自身は、この間柄を、どう思うておられますか」
わたしが、そう訊ねると、頭は、しばらく、考え込んでから、答えた。
「正直に申さば、初めは、いずれ、こちらが呑み込まれるのではないかと、案じており申した。だが、この一年、弥九郎殿の側から、無理を強いられたことは、ただの一度もござらぬ。それどころか、こちらの難儀に、幾度も、手を差し伸べていただいた」
「それゆえに、いまの心持ちに」
「左様。呑み込まれるのではのうて、大きな船の脇に、船を並べさせていただく。そういう心持ちに、いつのまにか、変わっており申した」
その言葉に、わたしは、頭の中で、静かに数を組んだ。恐れが、いつのまにか、安堵に変わる。その転換こそが、この一党が、これまで幾度も、繰り返し積み重ねてきた、確かな道理だった。
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数日後、熊野三山の主だった山伏衆が、正式に、弥九郎のもとを訪れた。
「これまでの御厚志、まことに、身に染みて、ありがたく存じており申す」
山伏衆を代表する、老いた僧が、深く頭を下げた。
「その御厚志に、すがるばかりで、恥ずかしゅうござるが。いま一つ、お頼み申したきことがござる」
「伺おう」
弥九郎が、静かに促した。老僧は、膝の上で、数珠を握り直した。
「山奥に、椎ノ谷と申す里がござる。代々、峰入りの先達と、薬草採りを務めてきた者ばかり。里の者、およそ百。子らが、四十」
六郎太が、報せてきた里だった。
「この不作で、里の田畑は、ほとんど実らなんだ。三山の施しだけで、この先の冬を越すのは、もはや、むずかしゅうござる。里の者は、散って乞食になるか、里もろとも、飢えるか。長老衆は、そこまで、思い詰めており申す」
「里ごと、預かってほしい、と」
「左様。里の者を、そちらの好きに、お使いくだされ。山を歩く足も、薬草を見分ける目も、遠国へ使いに出る口も。その代わり、飢えさせぬ、という約束を、いただきたい」
弥九郎は、しばらく、何も言わなかった。老僧の指の中で、数珠が、かすかに鳴った。
わたしは、横で、頭の中の数を、静かに組んだ。里ごと、預かる。薬草も、山歩きも、遠国への使いも、一つの里が、まるごと、こちらの手の内に入る。三山の側は、養いきれぬ里を、飢えさせずに手放せて、身軽になる。こちらは、確かな根を、山に一つ得る。どちらも、損をしない。
そう数えて、数え終えたあとで、六郎太の声が、耳の奥に残っているのに気づいた。子供らが、既に、痩せはじめておりました。
「里の者は、それで、よいのか」
弥九郎が、口を開いた。
「長老衆も、承知しており申す。ただ、一つだけ。里の者が、これまでどおり、熊野の神を拝むことを、お許し願いたい」
「信仰そのものには、俺は、一切、口を出さぬ。熊野三山の御威光は、これまでどおり、熊野三山のものだ。里に、熊野の神を迎える社を、建てよう。三山とのあいだの行き来も、断たせはせぬ。ただ、里の者が、いかなる実務に就くかは、こちらで決めさせてもらう」
「無論にござる。信仰の道は、我らの道。実務の道は、弥九郎殿の道。その分けを、しかと、心得ており申す」
「移し先は、伊予の、石鎚の麓の山間だ」
弥九郎が、続けた。
「あの山は、伊予の山伏が、昔から、行をする山と聞く。土地は、空いておる。別子にも近い。屯田の兵も、すでに、近くに入れてある」
「石鎚の行者衆には、前もって、筋を通しておきとうござります。挨拶なしに、里ごと入れば、角が立ちましょう」
わたしがそう添えると、老僧は、深く頷いた。
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この盟約と、里の預かりによって、こちらが得たものは、二つあった。
一つは、薬草と毒物の知識だった。熊野の山伏衆は、古くから、山中に自生する薬草の知恵を、幾代にもわたって蓄えていた。銀箸で毒を見抜く技を、既にこの島でも用いてきたが、実際に、毒を癒し、あるいは、毒そのものを操る知恵を持つ者は、まだ、いなかった。
「これは、値千金の縁にござります」
わたしが、そう言うと、弥九郎は、頷いた。
「戦の折にも、傷を癒す薬があれば、失わずに済む命が、幾つも増えよう」
椎ノ谷の里の長老衆から、薬草の知恵を持つ、年老いた行者が一人、里に先立って、島へ遣わされることになった。名を、円秀といった。
「毒にも薬にもなる草は、この山に、数え切れぬほどござる。見極めを誤らねば、これほど、頼りになるものはござらぬ」
円秀は、そう言って、持参した薬草の束を、丁寧に並べて見せた。
「銀箸で毒を見抜く技は、既に、この島にもござります。その技と、円秀殿の知恵とを、合わせられれば」
「銀箸は、毒があるかどうかを、見抜くのみ。それがしの技は、その毒を、いかに癒すか、あるいは、いかに使うかにござる」
その言葉に、わたしは、深く頷いた。見抜く技と、癒す技、そして、いざというときに使う技。三つが揃って、初めて、確かな備えになる。
「又八のような事故も、この知恵があれば、あるいは、救えたやもしれませぬ」
わたしが、そう漏らすと、円秀は、静かに首を振った。
「高い場所からの落ち方によっては、それがしの手にも、余りましょう。ですが、この先、救える命は、必ず増え申す」
その言葉を、わたしは、深く胸に刻んだ。
もう一つは、関所を気にせず動ける、広い情報網だった。熊野の山伏は、諸国を巡る修行の身として、関所を、ほとんど咎められることなく行き来できた。その山伏の里が、そっくり、こちらの手の内に入った。この網を、里ごと使えるのなら、これまで届かなかった、遠国の噂までも、こちらの耳に入るようになる。
椎ノ谷の里の者が、船に乗って、石鎚の麓へ移ったのは、それから、ふた月ののちだった。老いも若きも、少ない荷を背負い、子らは、初めて見る海に、息を呑んでいた。熊野の山の神を祀る小さな社は、里の者が着くより先に、屯田の兵たちの手で、麓の斜面に建てられていた。
「ここが、新しい里にござるか」
先頭に立った長老が、杉の香の混じる風を、深く吸い込んだ。
「谷は、浅うござるが、水は、よう湧いておりまする」
迎えに出た伊佐次が、そう答えた。長老は、返事の代わりに、社の前で、長い間、手を合わせていた。その後ろで、痩せた子らが、母の袖を握ったまま、山の緑を、見上げていた。
石鎚の行者衆への挨拶は、先に、弥九郎の名で済ませてあった。山伏同士の筋は、思うたよりも、あっさりと、通ったという。
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「この縁、松吉の耳目とも、繋いでおきとうござります」
わたしが、そう進言すると、弥九郎は、少し考えてから、頷いた。
「松吉には、あとで、俺から話しておく。お前の名は、ここでも、表には出すな」
「もとより、そのつもりにござります」
熊野三山の一件は、こうして、表向きは、弥九郎の器量と、山伏衆自身の見極めによる、自然な帰依という形で、世に伝えられることになった。千代という名は、この一件でも、どこにも残らなかった。
「お前の名が、どこにも残らぬことを、俺は、時折、惜しいと思う」
弥九郎が、そう漏らしたことがあった。
「名が残らずとも、成したことは、確かに残りまする。それで、十分にござります」
「本当に、それで、十分なのか」
その問いに、わたしは、少し考えてから、答えた。
「十分だと、自分に言い聞かせておりまする。名を求めて動けば、いずれ、判断が曇りましょう。名を求めぬからこそ、いつも、真っ直ぐに、利だけを見極められるのだと」
弥九郎は、それを聞いて、しばらく、黙っていた。
「その真っ直ぐさが、お前を、時に、恐ろしくもする」
「存じており申す」
その短い遣り取りの中に、これまでの幾年もの間柄が、静かに凝縮されている気がした。
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里の移住に先立つ、ある日、阿蓮の使いの船が、思いがけず、湊に姿を見せた。船には、いつもどおりの反物や香料も積まれていた。空荷で乗り付ければ、かえって、どこぞの目に留まりかねない。禁制の品を運ぶからこそ、普段どおりの商いの荷に紛れさせる。それもまた、阿蓮の差配だった。
「阿蓮様より、預かりものにござります」
使いの若い水手が、そう言って、竹筒を一本、大事そうに差し出した。中には、幾重にも紙で包まれた、薄い和紙の束が収まっていた。紙の表には、粒のような、小さな染みが、幾つも並んでいた。
「これが、あの、明の蚕の卵にござりますか」
わたしは、思わず、声を落として、そう訊ねた。
「さようにござります。阿蓮様より、くれぐれも、涼しい場所に置き、暖めぬようにと、言付かって参りました。道中、船底の、いちばん冷える場所に、ずっと据えておいたとのこと」
使いは、そう答えながら、額の汗を拭った。禁制品を運んできた、その道中の緊張が、いまも、体に残っているようだった。
「危うい橋を、渡らせてしもうたな」
わたしが、そう労うと、使いは、首を振った。
「こちら様より、たってのお頼みがあったとのことで、阿蓮様御自らが、それがしどもに、固くお申し付けになり申した。それに、これほど小さきものが、これほどの値打ちを持つとは、それがしも、初めて知り申した」
その言葉に、わたしは、深く頷いた。竹筒を受け取り、しばらく、掌の中で、その軽さを確かめた。これほど軽いものが、幾月もの潮風と、幾人もの気遣いとを、経て、ここまで届いた。その重さは、目方では、決して測れないものだった。
紙の束は、ひとまず、館の、いちばん涼しい奥の間に、そっと安置しておいた。孵らせる支度が整うまで、桑の若葉が、島に、十分な量、育つのを待たねばならなかった。
「桑は、まだ、若木ばかりにて」
伊佐次が、そう案じた。
「今年は、まだ、ほんの試しにて構わぬ。孵った蚕が、幾匹か、無事に、繭を作れれば、それで、十分な手応えにござります」
わたしは、そう答えながら、頭の中で、この先の段取りを、あらためて組み立てた。桑を、まず、育てる。蚕が、それを食んで育つ。繭になり、糸になる。どの一段も、飛ばすことはできなかった。
数日後、館の裏庭の一角に、急ごしらえの蚕室が設けられた。日当たりと風通しを見計らい、湿り気を避けた造りにした。
「暖かくなりすぎても、まいらぬのですね」
幸松が、そう訊ねると、わたしは、頷いた。
「暖かさを、少しずつ、上げていく。急に、暖めすぎれば、かえって、弱る」
紙に産みつけられた卵は、それから、ひと月ほど、涼しい場所に置かれたのち、いよいよ、蚕室へ移された。日を追うごとに、少しずつ、暖かさを上げていく。その按配を誤らぬよう、わたしは、朝夕、自らの手で、蚕室の温もりを確かめた。
やがて、紙の上の染みの一つ一つから、黒く、小さな毛虫が、幾匹も、這い出してきた。
「孵り申した」
その報せに、館じゅうが、静かに、沸き立った。這い出したばかりの毛蚕を、羽箒で、そっと、若い桑の葉の上へと移し替える。その作業を、幸松や、他の子らも、息を詰めて、手伝った。
「これが、あの、白い糸を吐く虫にござりますか」
亀吉が、そう、半信半疑の顔で、そう訊ねた。
「いまは、まだ、ただの黒い虫にすぎぬ。だが、幾度も、脱皮を重ね、やがて、繭を作る。気の長い話じゃ」
わたしが、そう答えると、亀吉は、深く頷いた。
「気の長い話には、慣れており申す。窯の火も、そうにござりましたゆえ」
その言葉に、わたしは、微かに笑った。この島に集った者たちは、いつのまにか、気の長い試みに、辛抱強く向き合う質を、身につけていた。
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正俊の鍛冶場も、この頃には、既に島の暮らしに、いくらか馴染みはじめていた。
「里におった頃より、よほど、腕が振るいやすうござる」
正俊は、そう言って、鍛えたばかりの刃を、光にかざした。
「日の当たる場所というのは、これほど、心持ちを変えるものかと、あらためて思い知らされており申す」
「これからは、さらに、腕を振るう機会も、増えましょう」
わたしは、そう告げてから、次の話を切り出した。
「長船の技、そろそろ、こちらの島にも、迎える頃合いかと存じます」
正俊は、少し複雑な顔をした。
「いよいよにござるか」
「不服がおありか」
「不服、というほどではござらぬ。ただ、流儀の違う者と、同じ鎚を振るうことが、まことに、うまくいくものか、いまだ、正直、案じており申す」
その言葉に、わたしは、深く頷いた。技術の融合というものは、いつも、こうした不安を、まず、通らねばならぬものだった。
「案ずるより、まず、会うてみることにござります。会わねば、何も始まりませぬ」
「それは、そのとおりにござる」
正俊は、そう言って、鍛冶場の隅を、片付けはじめた。新しい仲間を迎える支度を、既に、自分なりに始めているようだった。
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熊野水軍の頭は、その後、幾度か、怒和島を訪れるようになった。
「これほど、こまめに、様子を見にお越しになるとは」
わたしが、そう言うと、頭は、少し照れたような顔をした。
「約したからには、御恩を受けるばかりでは、居心地が悪うござる。見返りに見合うだけの働きを、早う、お見せしたいと思うており申す」
「働きとは、何をお望みですか」
「熊野水軍の船を、瀬戸内の海戦にも、使うていただきたい。潮の荒い海を渡る腕には、いささか、自負がござる」
その申し出に、わたしは、頭の中で、素早く算段を組んだ。熊野水軍の荒海に慣れた腕は、確かに、この先の戦いに、大きな力となるはずだった。
「その儀、必ず、殿にお伝えいたします」
「よしなに、お願い申す」
熊野との盟約が固まり、山伏衆の里も手の内に入ったことで、瀬戸内から紀伊水道にかけての海筋は、こちらにとって、確かな厚みを持つようになった。熊野水軍は、命じて動かす相手ではない。けれど、約した見返りが続くかぎり、求めに応じて出てくる。その距離の置きかたを、わたしは、心に留めた。
「これで、河野氏一本化に向けての、外堀は、また一つ、埋まりましたね」
わたしが、そう言うと、弥九郎は、しばらく、黙って、海を見つめていた。
「一本化、か。お前は、いつから、そこまで見据えておった」
「二神本家の一件が、教通方の巻き返しを誘い、河野の内訌そのものに火をつけた、あのときから。あれは、もう、こちらが望む望まぬに拘わらず、後戻りのできぬ道にござります」
「後戻りができぬ、というのは」
「二神本家の行く末は、既に、この一党の行く末と、切り離せぬものになっており申す。教通方が勝てば、綾殿の弟君も、この一党の立場も、共に潰されましょう。ならば、中途半端に手を引くより、確かに決着をつけてしまうほうが、危うさは、むしろ、少のうございます」
弥九郎は、しばらく、腕を組んで、考え込んでいた。
「通春方だけで、本当に、勝ちきれるのか」
「地の勢いは、既に、こちらにござります。ですが、勝ちきる最後の一押しには、大内方の御力を、あらためて借りるべきかと、考えており申す」
「大内は、既に、通春方に肩入れすると、決めておるはずだが」
「決めておられるのと、実際に、こちらから、都合のよい形でお招きするのとは、また別の話にござります。独力で片づければ、いずれ、こちらが、軽んじられぬ相手として、煙たがられましょう。勝ち戦の仕上げにだけ、大内の手をお借りする。花を持たせつつ、借りを作っていただく。そのほうが、この先の身の振り方には、よほど都合がようございます」
その算段に、弥九郎は、微かに、苦笑した。
「相変わらず、抜け目のないことだ」
「抜け目なく振る舞わねば、この一党の誰も、守れませぬゆえ」
弥九郎は、それきり、しばらく、黙っていた。やがて、ぽつりと、そう漏らした。
「大きくなったな、俺たちも」
「はい。ですが、大きくなるほど、狙われる。忘れてはおりませぬ」
「その台詞、もう何度目だ」
「幾度でも、申しまする。慢心こそが、最も恐ろしい敵にござります」
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夜、船倉で、紙を広げた。
熊野水軍と、盟約の儀を執り行う。山伏衆の椎ノ谷の里、里ごと預かり、石鎚の麓へ移す。薬草・毒物の知恵、円秀を通じて得る。関所を気にせぬ情報網、松吉の耳目と繋ぐ算段を立てる。熊野水軍、海戦への参陣を自ら望む。千代の名、表に出さず。長船の鍛冶師、まもなく来島の見込み。正俊、なお、不安を隠せず。
盟約の儀のあと、円秀は、島に留まり、薬草畑を、館の裏手に、新たに開いた。
「この島の土は、存外、良き薬草が育ちましょう。潮風に鍛えられた草には、力強い薬効が宿ることが、多うござる」
円秀は、そう言って、幾つかの種を、丁寧に土に埋めていった。その様子を、幸松や、他の子らが、興味深げに見守っていた。
「それがしにも、教えていただけましょうか」
幸松が、そう申し出ると、円秀は、微笑んだ。
「よかろう。覚える気のある者には、いくらでも教えよう」
その遣り取りを見ながら、わたしは、また一つ、この島に、新しい技の種が蒔かれたことを、静かに感じ取っていた。
書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。武力ではなく、利だけで、向こうから頭を下げさせる。この一党の原則を、また一つ、確かめられた。だが、この先、その原則だけでは、片づかぬ相手が、必ず現れる。河野氏一本化という、より大きな絵図の中には、力でしか動かぬ者も、必ず混じっているはずだった。
弥太郎が、乳母の腕の中で、小さく笑い声を上げた。まだ、意味のある笑いではないだろう。それでも、その声を聞くたび、わたしは、この島に積み上げてきたものすべてに、確かな重みを感じずにはいられなかった。
その夜、円秀が、島の職人たちを集め、初めての薬草の講義を開いた。
「この葉は、傷の膿を吸い出す。この根は、熱を下げる。だが、使う量を誤れば、逆に、命を縮める」
円秀は、そう言って、幾つもの薬草を、一つ一つ、丁寧に並べて見せた。太郎丸や次郎丸、幾人かの若い衆が、真剣な面持ちで、その説明に耳を傾けていた。
「これほど多くを、一度に覚えられましょうか」
太郎丸が、そう不安げに漏らした。
「一度には、覚えられぬ。だが、幾年もかけて、少しずつ、覚えていけばよい。それがしも、そうして、覚えて参った」
その言葉に、太郎丸は、深く頷いた。
わたしは、その様子を、少し離れた場所から見ていた。技を継ぐ者を育てるという営みが、また一つ、この島に根付きはじめていた。呉徳全から太郎丸・次郎丸へ、正俊から島の子らへ、そして、円秀から、この場に集う者たちへ。技の連環は、こうして、幾重にも、重なり合っていく。
熊野三山との縁が、確かな形を成した、この日の帳を、わたしは、いつもより、丁寧に書き記した。この縁が、この先、河野氏一本化という、より大きな絵図の中で、どのような役割を果たすことになるのか。いまは、まだ、その全貌は、見えていなかった。
外では、三月の海風が、まだ、いくらか肌寒く吹いていた。




