第十一話 代償
応永三十四年(一四二七)十一月 伊予国 怒和島 下怒和
その夜も、嵐だった。
十一月に入り、時化は、いよいよ荒々しさを増していた。山頂に立てた鋼の棒も、二年目の冬を迎えていた。嵐の折には、なるべく人を近づけぬ——その約束どおり、見張りは、山を下りた麓の小屋から、稲光の方角と、音の近さだけを、じっと窺う役目に留めていた。待つ者たちの顔には、慣れというより、諦めに近いものが浮かぶようになっていた。
「今宵も、風が強うござります」
伊佐次が、蓑を叩きながら、そう報せに来た。
「見張りは、麓に」
「はい。いつもどおり、山頂には、誰も上げてはおり申さぬ。三人、麓の小屋で、稲光を数えており申す」
わたしは、頷いた。腹の子は、もう、いつ生まれてもおかしくない大きさになっていた。動きにくい体を、それでも押して、板間の隅に座り、耳を澄ませていた。
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夜半、雷鳴が、これまでとは違う近さで轟いた。
一度、二度。空全体が、白く裂けるように光った。板戸の隙間から、その光が、幾度も差し込んだ。
「殿」
わたしは、隣の部屋にいた弥九郎に、声をかけた。
「分かっておる。今宵は、これまでとは、様子が違う」
弥九郎も、既に身を起こしていた。
三度目の稲光が走った、その直後だった。山のほうから、地を揺るがすような、これまで聞いたことのない音が響いた。まるで、天そのものが割れたかのような音だった。
「落ちましたな」
伊佐次が、そう呟いた。声が、微かに震えていた。
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夜が明けるのを待ちきれず、麓の小屋にいた三人は、空が白みはじめると同時に、様子を検めに、先んじて、山頂へと向かった。まだ、雷が完全に去ったとは言い切れぬ薄明かりの中でのことだった。わたしと弥九郎が、そのあとを追う形で、山頂へ向かったのは、それから、いくらも経たぬころだった。腹の重みを抱えながらの道行きを、弥九郎は、幾度も止めようとしたが、わたしは、聞かなかった。
「この目で、確かめとうござります」
「無理をするな。転べば、子に障る」
「殿の腕に、摑まっておりますゆえ、大事ござりませぬ」
山頂に着くと、鋼の棒の周りに、既に、幾人かの見張りが集まっていた。棒の先端が、黒く焦げ、いくらか曲がっていた。
「触れても、大事ないか」
弥九郎が、そう訊ねた。
「先ほど、少し様子を見ましたが、いまは、ただの鉄の棒にござります」
見張りの一人が、そう答えた。太郎丸と次郎丸が、慎重な手つきで、棒を岩から外し、布に包んだ。
「これが、あの磁石になるのですか」
次郎丸が、半信半疑の顔で、そう訊ねた。
「試してみねば、分からぬ。だが、これまでの二年、待ち続けた甲斐は、あったやもしれぬ」
わたしは、そう答えながら、頭の中で、ようやく一つの数が埋まったことを、静かに数えた。だが、その数の裏に、まだ気づいていない別の数が潜んでいることを、このときは、知らなかった。
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「又八の姿が、見えませぬ」
見張りの一人が、そう言い出したのは、棒を包み終えたころだった。
「又八は、確か、岩の向こう側で、風向きを見ておったはずでは」
その言葉に、わたしの胸の奥で、何かが、冷たく凍りついた。又八——ひと月前、まだ雷が完全に去ったとは言い切れぬうちに山を上がる先駆けの役目を、自ら買って出て、「姐さんが、疑いながらも続けておられるものを、それがしだけが、途中で投げ出すわけには、まいりませぬ」と、あの晩、そう言った若者だった。
皆で、岩場を、手分けして探した。稲光の落ちた岩の裏手、少し離れた斜面の下で、又八は、倒れていた。
駆け寄った太郎丸が、その体を抱き起こし、すぐに、顔を強張らせた。
「……もう、事切れており申す」
その一言に、その場にいた誰もが、動きを止めた。
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「風向きを見ようと、岩の陰から出たところで、足を滑らせたものと思われまする」
伊佐次が、震える声で、そう報告した。
「滑らせた、とは」
「雨に濡れた岩場にて、しかも、まだ薄暗いうちのこと。稲光に気を取られたか、あるいは、単に、踏み外しただけか。……はきとは、分かりませぬ。ただ、斜面の下まで、幾間も、転げ落ちた様子にて」
わたしは、しばらく、何も言えなかった。頭の中で、いつもなら、すぐに数を組み立てるはずの部分が、まったく動かなかった。
弥九郎が、又八の亡骸の前に、静かに膝をついた。
「よう、辛抱してくれた」
その一言だけを、弥九郎は、口にした。それ以上、何も言わなかった。
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三郎次が、遅れて、山頂に駆け上がってきた。息を切らせながら、又八の亡骸を見て、その場に立ち尽くした。
「又八は……儂が、目をかけておった若い衆だ」
三郎次は、そう呟いた。声に、いつもの荒々しさはなかった。
「三郎次殿が」
「五年前、鵜の子で拾った孤児の一人だ。手先が器用でな。いずれ、船大工にでもしてやろうと思うておった」
その言葉に、わたしは、又八という一人の若者の、これまで知らなかった歩みの一端を、初めて知った。数として見ていたつもりはなかった。それでも、その生の厚みを、こうして、後から一つずつ、思い知らされる度に、胸の奥が、重く沈んだ。
「儂が、あいつを、見張りに回した。棟梁の頼みだったからな」
三郎次は、そう言って、拳を握りしめた。
「三郎次殿の落ち度ではござらぬ」
わたしが、そう言うと、三郎次は、首を振った。
「分かっておる。分かっておるが、それでも、儂が回さねば、あいつは、今日、ここにはおらなんだ」
その言葉に、わたしは、何も返せなかった。誰の落ち度でもない、と口では言えても、それぞれの胸の内では、それぞれの形の重みが、静かに積み重なっていく。それを、無理に軽くしてやることは、誰にもできなかった。
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又八の亡骸を、島まで運び、その日のうちに、弔いの支度が整えられた。
年老いた母が一人、島に残されていた。わたしは、その母のもとへ、自ら足を運んだ。
「又八殿は、この一党のために、大事な役目を、最後まで、立派に果たしてくださいました」
母は、しばらく、何も言わず、こちらを見つめていた。
「あの子は、姐さんの仰ることを、いつも、深う信じておりました。姐さんの仰ることなら、間違いなかろうと」
その言葉に、わたしは、胸を、鋭く突かれた。信じられたことが、こうして、命を奪う結果に繋がった。その事実を、どう受け止めればよいのか、わたしには、まだ、分からなかった。
「詫びても、詫びきれませぬ」
「詫びは、要りませぬ」
母は、そう言って、静かに首を振った。
「あの子は、姐さんに拾われて、初めて、己の手で、何かを成した気になれたと、そう申しておりました。あの子にとっては、それが、生きた証だったのやもしれませぬ」
その言葉を、わたしは、しばらく、飲み込めずにいた。
「せめて、何か、お望みのものがあれば」
わたしが、そう申し出ると、母は、少し考えてから、口を開いた。
「望みというほどのものは、ござりませぬ。ただ、一つだけ。あの子が見張りに立っておった、あの山頂の棒が、この先、確かに、何かの役に立ったと、いつか、それがしにも、聞かせていただきとうござります」
「必ず、お伝えいたします」
「それだけで、十分にござります。あの子の死んだ意味を、遠くからでも、聞き届けられれば」
その言葉に、わたしは、深く頭を下げた。数えることに慣れた自分が、この母の前では、ただ、一人の女として、頭を垂れるほかなかった。
家を辞したあと、わたしは、しばらく、浜辺に一人で佇んでいた。腹の子が、また、大きく動いた。この子を産み終えたら、必ず、又八の死を、確かな形にしなければならない。そう、胸の内で、静かに誓った。
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弔いのあと、館の一室で、わたしは、弥九郎と、静かに向き合っていた。
「この磁石は、又八の命の上に、成り立っておりまする」
わたしは、そう切り出した。
「はい。技術の獲得を、無償の幸運だとは、思いませぬ。この重さを、忘れてはならぬと存じまする」
「お前が、そう思うなら、それでよい。だが、又八の死を、無駄にはするな」
「無駄にせぬためには」
「この磁石を、確かに、この先の何かに、活かすことだ。焼き物でも、他の何でもよい。又八の死が、何かの役に立ったと、皆が思えるようにすることだ」
その言葉に、わたしは、深く頷いた。数えることに慣れた自分が、この犠牲を、ただの数として片づけてはならない。そのことだけは、はっきりと胸に刻んだ。
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太郎丸と次郎丸は、その夜、窯場の隅で、包んだままの鋼の棒を、じっと見つめていた。
「これを使うて、白磁を焼き上げねば、又八殿に、申し訳が立ちませぬ」
太郎丸が、そう呟いた。
「儂も、同じ思いじゃ。この磁石は、ただの道具ではのうなった」
次郎丸が、そう答えた。
その言葉を聞きながら、わたしは、この二人の中で、又八の死が、既に、次の仕事への確かな力に変わりはじめていることを感じた。悲しみを、そのまま悲しみとして留め置くのではなく、次への糧に変えていく。それもまた、この島で幾度も見てきた、生きる者たちの知恵だった。
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翌日、松吉が、又八の弔いに使う品々を、丁寧に取り揃えて届けてきた。
「姐さん。こういうときにこそ、きちんとした弔いを出しておくべきかと存じます」
「なにゆえ、そう思う」
「見張りに立つ者たちが、皆、見ておりますゆえ。又八の死が、どう扱われるかを。ぞんざいに扱えば、この先、誰も、危うい役目を、進んで引き受けはせぬようになりましょう」
その言葉に、わたしは、少し驚いた。松吉の口から出た言葉は、情としてではなく、この一党を保つための、確かな勘定だった。だが、その勘定の底には、又八という一人の若者への、静かな敬いも、確かに滲んでいた。
「よう、気づいてくれた。頼む」
「お任せくださいませ」
弔いは、島の乙名格の者に準ずる、丁重なものとして、執り行われた。棺には、島で焼いた塩と、幾つかの干し魚が、供えられた。見張りに立っていた者たちも、皆、その場に集まり、深く頭を垂れた。
その様子を見ながら、わたしは、数と情とを、どちらも欠かさずに扱うことの難しさを、あらためて、噛みしめていた。
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夜、灯芯を整えながら、帳に、この日のことを書き留めた。
雷、ついに落つ。磁石の棒、得る。だが、見張りの又八、暗闇の岩場で足を滑らせ、落命。技術の獲得、無償にあらず。
書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。数の上では、これは、確かな前進だった。だが、その前進の裏に、一つの命があったことを、この帳は、これから先、幾度も、わたしに思い出させるだろう。
腹の子が、また、大きく動いた。この子が生まれ落ちる世は、又八のような者たちの、名も残らぬ犠牲の上に、少しずつ、築かれていく。そのことを、この子に、いつか、正しく伝えられる日が来るだろうか。
数えることに慣れた頭は、又八の死を、いずれ、一つの数として、帳の中に収めてしまうだろう。だが、その数の裏に、確かに、一人の若者の生と、その母の悲しみとがあったことだけは、決して、忘れてはならない。そう、わたしは、自分自身に、幾度も言い聞かせた。
弥九郎が、部屋の外から、声を掛けてきた。
「まだ、起きておるのか」
「はい。少し、考え事を」
「又八のことか」
「はい。あの母の言葉が、まだ、耳の奥に残っており申す」
弥九郎は、しばらく、黙って、こちらの傍らに座った。
「俺も、幾人も、そうやって、失うてきた。弟のときも、そうだった。理由を、いくら並べても、失ったものは、戻らぬ」
「殿は、それを、どうやって、乗り越えてこられたのですか」
「乗り越えてなど、おらぬ。ただ、抱えたまま、前へ進むしかない。忘れることと、抱えて進むことは、違う」
その言葉に、わたしは、深く頷いた。
「わたくしも、抱えて進みまする」
「それでよい。それが、この一党の生き方だ」
翌朝、綾が、産み月の近い腹をかばいながら、こちらの部屋を訪れた。
「又八殿のこと、伺いました。お辛うござりましたでしょう」
「辛いというより、まだ、うまく飲み込めずにおりまする」
「飲み込めぬなら、無理に飲み込まずともよろしゅうござります。時が経てば、少しずつ、形になっていくものにござります」
綾は、そう言って、静かに、こちらの手を取った。
「千代殿は、いつも、数えることで、物事を、確かなものにしようとなさいます。ですが、命は、数えきれぬものにござります。数えきれぬまま、抱えていくしかないものも、この世には、ござります」
その言葉に、わたしは、深く頷いた。綾の、この静かな知恵は、いつも、こちらの勘定の届かぬところを、正しく埋めてくれた。
「綾殿がおられなんだら、わたくしは、幾度も、道を誤っておりましたでしょう」
「買いかぶりにござります。ただ、わたくしにできることを、しておるだけにて」
その言葉を最後に、綾は、静かに部屋を辞していった。
数日後、又八の墓標が、島の小高い場所に、静かに建てられた。太郎丸と次郎丸が、余った耐火の煉瓦の欠片を使い、朽ちぬよう、丁寧に、その根元を固めた。
「これで、雨風にも、そう簡単には、負けますまい」
太郎丸が、そう言って、額の汗を拭った。
「窯を作る技が、こうして、墓標を守る技にも、なるのですね」
「技というのは、どこにでも、姿を変えて、使えるものにござります」
その言葉に、わたしは、深く頷いた。技術の連環は、器を焼くことにも、命を弔うことにも、同じように、静かに働いていた。
墓標の前に立つと、又八の母が、既に、そこにいた。手には、島で摘んだ、名も知らぬ野の花が、一束、握られていた。
「姐さん」
「参られましたか」
「あの子が眠る場所に、花の一つも、供えとうござりまして」
母は、そう言って、花を、墓標の根元に、そっと置いた。わたしは、その傍らに、しばらく、無言で立っていた。言葉を掛けることが、かえって、この静けさを乱すように思えた。
「あの子は、ここで、この海を、いつまでも、見ていられまするな」
母が、そう呟いた。
「はい。この島の海を、いつまでも」
外では、嵐の去ったあとの、静かな夜風が、いつまでも、冷たく吹き続けていた。




