↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮を編む――滅んだ小領主の娘、唐土に売られ、海賊の妻となる  作者: ハタ星人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
127/129

第十話 外れる年

応永三十四年(一四二七)十月 伊予国 怒和島 下怒和


秋も深まり、嵐が来るたびに、山頂の棒のことが、頭から離れなくなっていた。


棒を立ててから、既に、ひと月あまりが過ぎている。そのあいだ、秋の嵐が、幾度か、島の近くを通り過ぎたが、棒に雷が落ちたという報せは、まだ、一度も届いていなかった。


「今日も、外れましたな」


伊佐次が、雨に濡れた蓑を脱ぎながら、そう報告した。


「見張りの者に、変わりはないか」


「はい。皆、無事にござります。雨の中の見張りは、辛い仕事にござりますが、いまのところ、大きな怪我人も出ており申さぬ。皆、よう辛抱してくれており申す」


「それは、何よりじゃ」


「ただ」


伊佐次は、そこで、少し言葉を濁した。


「ただ、なんじゃ」


「見張りの者たちのあいだで、この試みそのものを、疑う声が、少しずつ、出はじめており申す」


---


その声が、はっきりとした形を取ったのは、それから、さらに数日が過ぎたころのことだった。


窯場に立ち寄ると、いつもは黙々と働いている職人の一人が、珍しく、思い詰めたような顔で、手を止め、こちらに声をかけてきた。


「姐さん、お伺いしとうござります」


「なんじゃ」


「あの棒に、本当に、雷が落ちる日が来るのでござりましょうか。もう、一月あまり、見張りの者を出し続けており申す。嵐のたびに人を張り付かせるその手間も、決して、小さくはござりませぬ」


その問いには、これまでにない、切実な響きがあった。わたしは、しばらく、言葉を選んだ。


「正直に申そう。いつ落ちるかは、わたくしにも分からぬ。もしかすると、この先、何年も落ちぬかもしれぬ」


その答えに、職人は、明らかに、落胆の色を浮かべた。


「何年も、にござりますか」


「ああ。だが、それでも、この仕掛けを解く気はない。落ちる日が来るまで、待ち続けるつもりじゃ」


「いつまで、にござりますか」


その問いに、わたしは、しばらく、答えに詰まった。


「はきとは、申せぬ。だが、一つだけ、確かなことがある」


「何にござりますか」


「何もせず、ただ運を待つより、狙って仕掛けを打ったほうが、まだ、望みがある。それだけは、これまでの日々で、幾度も確かめてきたことじゃ」


職人は、それを聞いて、しばらく黙っていた。それから、深く、頭を下げた。


「出過ぎたことを、申しました」


「出過ぎてはおらぬ。疑うのは、当たり前のことじゃと、先ほども申したはずじゃ」


その遣り取りを、少し離れた場所で、太郎丸と次郎丸が、黙って見ていた。二人とも、何も言わなかったが、その目には、こちらの言葉を、静かに受け止めている色があった。


---


その夜、弥九郎と、この一件を話し合った。


「職人たちのあいだで、疑いの声が出ておるそうだな」


「はい。見張りの手間を、いつまで続けさせるのか、そう問われれば、返す言葉に、正直、詰まりまする」


「お前らしくないな。いつもなら、もっと、はっきりと言い切るところだろう」


その指摘に、わたしは、少し苦笑した。


「言い切ることと、根拠のないことを言うこととは、違いまする。この一件だけは、いつ実るとも分からぬ、正直な不確かさが残っておりまする」


弥九郎は、それを聞いて、しばらく黙っていた。


「見張りの手当てを、増やしてはどうだ」


「手当て、にござりますか」


「見張りに立つ者に、いくらか多めの手当てを払う。手間に見合うだけの実入りがあれば、不満も、いくらかは和らごう」


その提案に、わたしは、深く頷いた。実入りが伴えば、不満の色も、いくらかは薄れよう。


「殿は、時折、こういう、数のことでも、的を射た策を仰いますね」


「手下を束ねておれば、嫌でも分かる。人は、理屈だけでは、動かぬ」


「わたくしは、いつも、まず理屈から入ってしまいまする」


「それは、それでよい。理屈で組み、情で仕上げる。二人合わせて、ようやく、一つの策になる」


その言葉に、わたしは、少し、胸の内が温かくなるのを感じた。この一年、様々な試みを、幾つも同時に進めてきた。銅山の出水、境目の戦、屯田兵の差配、そして、この雷を待つ試み。一つ一つが、それぞれに、答えの出ない重さを抱えていた。そのすべてを、独りで抱え込まずに済んでいるのは、隣に、こうして、支えてくれる者がいるからだった。


「これほど、幾つもの試みを、同時に抱えたことは、これまで、なかったように思いまする」


わたしは、そう続けた。


「銅山の水、境目の戦、屯田兵の差配、そして、この雷のこと。どれも、まだ、答えの出ぬままにござります」


「一つずつ片づければよかろうに」


「片づけたいのは、山々にござります。ですが、この島に流れる時は、こちらの都合を、待ってはくれませぬ」


「殿がおられなんだら、わたくしは、とうに、押し潰されておりましたでしょう」


「大袈裟な。お前は、俺がおらずとも、勝手に、道を切り開いていく質だ」


「切り開くだけの力があっても、支えがなければ、いずれ、折れましょう」


弥九郎は、それを聞いて、しばらく、黙っていた。それから、静かに、こちらの肩に、手を置いた。


「折れそうになったら、いつでも、言え。俺は、いつも、隣におる」


その一言に、わたしは、しばらく、何も言えなかった。数えることでは測れない重みが、その短い言葉には、確かに宿っていた。


---


見張りの手当てを増やしたことで、表向きの不満は、思っていたより、いくらか収まった。だが、根本の疑いは、なお、島の者たちのあいだに、静かにくすぶり続けていた。


「本当にこれで、何かが変わるのでしょうか」


ある日、見張りの一人が、そう漏らすのを、わたしは、たまたま、耳にしてしまった。


その言葉に、わたしは、しばらく、その場に立ち尽くした。正面から、問いただすべきかどうか、迷った。だが、この疑いは、もっともなものだった。無理に黙らせるより、正直に、その疑いと向き合うほうがよい。そう心を決め、声をかけることにした。


「疑うておるようじゃな」


わたしは、そう声をかけた。見張りの男は、慌てて、頭を下げた。


「申し訳ござりませぬ。つい、口が」


「詫びる要はない。疑うのは、当たり前のことじゃ。わたくし自身、幾度も、同じことを、自分に問い続けておる」


その言葉に、男は、少し驚いた顔をした。


「姐さんでも、疑われることが」


「ある。だが、疑いながらも、仕掛けを解かぬ。それが、わたくしのやり方じゃ」


見張りの男は、それを聞いて、しばらく、こちらの顔を見つめていた。


「姐さんが、そこまで仰るなら、それがしも、もう少し、辛抱いたしまする」


「無理はせずともよい。辛くなれば、いつでも申し出よ。代わりの者を、探す」


「いえ。辛抱いたしまする。姐さんが、疑いながらも続けておられるものを、それがしだけが、途中で投げ出すわけには、まいりませぬ」


その言葉に、わたしは、少し胸を突かれた。数と勘定だけで人を動かしてきたつもりだったが、こういう場面では、正直な弱みを見せることのほうが、かえって、人の心を動かすこともあるのだと、あらためて気づかされた。


---


太郎丸と次郎丸も、この長引く待ち時間に、いくらか、焦れているようだった。


「白磁に届く日を、心待ちにしておったのですが」


太郎丸が、窯の火を落としながら、そう漏らした。


「待たせて、すまぬな」


「いえ、姐さんが謝ることではござりませぬ。ただ、正直、少し、気が急いてしまい申した」


「気が急くのは、当たり前のことじゃ。だが、雷ばかりは、こちらの都合には、合わせてくれぬ」


次郎丸が、それを聞いて、静かに口を開いた。


「儂らは、宋の世から伝わる技を、幾代にもわたって、じっと守り続けてきた一族にござる。この程度の待ち時間、慣れており申す」


その言葉に、太郎丸も、頷いた。二人の、その辛抱強さに、わたしは、あらためて、頭が下がる思いがした。


---


その日の午後、綾が、産み月の近い腹を気遣って、わざわざ、こちらの部屋を訪ねてきた。


「顔色が、優れませぬね」


綾は、そう言って、隣に腰を下ろした。


「雷のことで、いくらか、思い悩んでおり申した」


「まだ、落ちませぬか」


「はい。職人たちのあいだにも、疑いの声が出はじめており申す」


綾は、それを聞いて、少し考えてから、口を開いた。


「わたくしには、雷のことは、よう分かりませぬ。ですが、千代殿が、これまで、幾つもの気の長い試みを、諦めずに続けてこられたことは、よう存じております。溜池も、椿も、茶の木も、皆、幾年もかけて、実を結んでまいりました」


「此度も、同じだと」


「同じかどうかは、分かりませぬ。ですが、これまでの千代殿の歩みを見ておれば、案じるより、信じるほうが、よほど楽にござります」


その言葉に、わたしは、深く頷いた。数えることに慣れた自分よりも、綾のこういう、素朴な信の置き方のほうが、時として、よほど確かな支えになった。理屈だけでは、埋まらぬ部分を、綾は、いつも、静かに埋めてくれていた。


「産み月も、近うございますね」


わたしが、話を変えると、綾は、微かに笑った。


「はい。この子が生まれるころには、少しは、落ち着いた話ができるようになっておりましょうか」


「なっておればよいのですが」


二人で、そう言って、しばらく、静かに笑い合った。


---


嵐が、また一つ、島を通り過ぎていった。


棒に雷が落ちたという報せは、この嵐でも、ついに届かなかった。仕掛けを立て直し、待ち、また外れる。その繰り返しが、この秋だけで、既に、幾度目になるか、数えるのも億劫になるほど続いていた。


「この分では、まだ、しばらく、外れが続きましょうか」


伊佐次が、そう訊ねた。


「続くやもしれぬ。それでも、待ち続ける。他に、道はない」


「見張りの者たちの、士気は」


「落ちておろう。だが、士気が落ちたからといって、仕掛けを解けば、これまでの手間が、すべて無駄になる」


わたしは、そう答えながら、頭の中で、あらためて、この試みの重さを、数え直していた。故意に誘えても、いつ、何本目に当たるかは、なお、運である。その一線は、どうしても、崩せなかった。技術と呼べるほどの確かさは、まだ、この試みには、備わっていなかった。


---


夜、灯を消す前に、帳を広げた。


雷、なお落ちず。見張りをはじめて、既に、一月あまり。見張りの手当て、増やす。職人・見張りの者たちの疑い、なお消えず。だが、仕掛けを解く気はなし。


書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。技術というより、根気そのものが試される試みだった。数を数えることに慣れたはずの自分が、この試みに限っては、いつまで待てばよいのか、その見当すら、まだ、正しく立てられずにいた。


腹は、既に、目立って大きくなっていた。産み月も、そう遠くない。この子が生まれ、初めて歩きはじめるころには、あの山頂の棒に、雷が落ちているだろうか。それとも、なお、外れたままだろうか。


答えは、まだ、誰にも分からなかった。ただ、待ち続けることだけが、いまのわたしにできる、唯一の仕事だった。


弥九郎が、隣の部屋から、静かに渡ってきた。


「まだ、帳を睨んでおるのか」


「はい。書いたところで、答えが出るわけではないと、分かっておりながら」


「書かねば、落ち着かぬのだろう」


「はい。数えることが、わたくしにとっての、心の鎮め方にござります」


弥九郎は、それを聞いて、こちらの隣に、静かに腰を下ろした。


「腹の子は、どうだ」


「よう動いており申す。産み月も、もう、間もなくにござります」


「無事に、生まれてくれればよいが」


「はい。それだけは、雷とは違い、案じても詮無きこと。ただ、無事を祈るしかござりませぬ」


「見張りの者たちも、そのうち、根負けして、疑うことすら忘れましょうか」


「忘れることは、ござりますまい。ただ、慣れていくことは、あろうかと存じます。疑いながらも、体が、日々の勤めを、当たり前のようにこなすようになる。そういう慣れ方も、この世には、確かにござります」


「お前も、そうやって、慣れてきたのか」


「はい。数えられぬことに、幾度も向き合ってまいりました。慣れずに、いちいち心を乱しておっては、身が持ちませぬ」


「祈るしかないことも、この世には、確かにあるのだな」


「はい。数えられぬこと、祈るしかないこと。この一年で、そういうことが、いくつも増えてまいりました。それでも、数えられることだけを数え、祈るべきことは、しかと祈る。それでよいのだと、いまは、そう思うており申す」


弥九郎は、それを聞いて、深く頷いた。灯りの揺れる音だけが、しばらく、部屋に静かに響いていた。


「見張りの者たちの疑いは、どうなった」


「まだ、完全には消えており申さぬ。ですが、手当てを増やしたこともあり、表向きは、落ち着いてまいりました」


「表向きは、な」


「はい。腹の底では、まだ、半信半疑のままの者が、多うござりましょう。それでも、いまは、それで十分にござります。無理に信じ込ませようとすれば、かえって、反発を招きましょう」


弥九郎は、それを聞いて、しばらく、考え込んでいた。


「お前は、いつも、無理に押し通そうとはせぬな」


「押し通せば、その場は収まりましょう。ですが、いずれ、どこかで、綻びとなって表れまする。急がず、しかし、着実に。それが、これまでの、この一党のやり方にござります」


その言葉に、弥九郎は、深く頷いた。


弥九郎は、それを聞いて、深く頷いた。しばらく、二人とも、何も言わずに、灯りの揺れる様子を、黙って見つめていた。


「雷のことも、子のことも、こちらの思うようにはならぬことばかりだな」


「はい。ですが、思うようにならぬことのほうが、この世には、多うござります。それでも、できることを、一つずつ、積み重ねていくしかござりませぬ」


その言葉に、弥九郎は、静かに頷いた。


外では、秋の終わりの雨が、いつまでも、静かに降り続いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。