第十話 外れる年
応永三十四年(一四二七)十月 伊予国 怒和島 下怒和
秋も深まり、嵐が来るたびに、山頂の棒のことが、頭から離れなくなっていた。
棒を立ててから、既に、ひと月あまりが過ぎている。そのあいだ、秋の嵐が、幾度か、島の近くを通り過ぎたが、棒に雷が落ちたという報せは、まだ、一度も届いていなかった。
「今日も、外れましたな」
伊佐次が、雨に濡れた蓑を脱ぎながら、そう報告した。
「見張りの者に、変わりはないか」
「はい。皆、無事にござります。雨の中の見張りは、辛い仕事にござりますが、いまのところ、大きな怪我人も出ており申さぬ。皆、よう辛抱してくれており申す」
「それは、何よりじゃ」
「ただ」
伊佐次は、そこで、少し言葉を濁した。
「ただ、なんじゃ」
「見張りの者たちのあいだで、この試みそのものを、疑う声が、少しずつ、出はじめており申す」
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その声が、はっきりとした形を取ったのは、それから、さらに数日が過ぎたころのことだった。
窯場に立ち寄ると、いつもは黙々と働いている職人の一人が、珍しく、思い詰めたような顔で、手を止め、こちらに声をかけてきた。
「姐さん、お伺いしとうござります」
「なんじゃ」
「あの棒に、本当に、雷が落ちる日が来るのでござりましょうか。もう、一月あまり、見張りの者を出し続けており申す。嵐のたびに人を張り付かせるその手間も、決して、小さくはござりませぬ」
その問いには、これまでにない、切実な響きがあった。わたしは、しばらく、言葉を選んだ。
「正直に申そう。いつ落ちるかは、わたくしにも分からぬ。もしかすると、この先、何年も落ちぬかもしれぬ」
その答えに、職人は、明らかに、落胆の色を浮かべた。
「何年も、にござりますか」
「ああ。だが、それでも、この仕掛けを解く気はない。落ちる日が来るまで、待ち続けるつもりじゃ」
「いつまで、にござりますか」
その問いに、わたしは、しばらく、答えに詰まった。
「はきとは、申せぬ。だが、一つだけ、確かなことがある」
「何にござりますか」
「何もせず、ただ運を待つより、狙って仕掛けを打ったほうが、まだ、望みがある。それだけは、これまでの日々で、幾度も確かめてきたことじゃ」
職人は、それを聞いて、しばらく黙っていた。それから、深く、頭を下げた。
「出過ぎたことを、申しました」
「出過ぎてはおらぬ。疑うのは、当たり前のことじゃと、先ほども申したはずじゃ」
その遣り取りを、少し離れた場所で、太郎丸と次郎丸が、黙って見ていた。二人とも、何も言わなかったが、その目には、こちらの言葉を、静かに受け止めている色があった。
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その夜、弥九郎と、この一件を話し合った。
「職人たちのあいだで、疑いの声が出ておるそうだな」
「はい。見張りの手間を、いつまで続けさせるのか、そう問われれば、返す言葉に、正直、詰まりまする」
「お前らしくないな。いつもなら、もっと、はっきりと言い切るところだろう」
その指摘に、わたしは、少し苦笑した。
「言い切ることと、根拠のないことを言うこととは、違いまする。この一件だけは、いつ実るとも分からぬ、正直な不確かさが残っておりまする」
弥九郎は、それを聞いて、しばらく黙っていた。
「見張りの手当てを、増やしてはどうだ」
「手当て、にござりますか」
「見張りに立つ者に、いくらか多めの手当てを払う。手間に見合うだけの実入りがあれば、不満も、いくらかは和らごう」
その提案に、わたしは、深く頷いた。実入りが伴えば、不満の色も、いくらかは薄れよう。
「殿は、時折、こういう、数のことでも、的を射た策を仰いますね」
「手下を束ねておれば、嫌でも分かる。人は、理屈だけでは、動かぬ」
「わたくしは、いつも、まず理屈から入ってしまいまする」
「それは、それでよい。理屈で組み、情で仕上げる。二人合わせて、ようやく、一つの策になる」
その言葉に、わたしは、少し、胸の内が温かくなるのを感じた。この一年、様々な試みを、幾つも同時に進めてきた。銅山の出水、境目の戦、屯田兵の差配、そして、この雷を待つ試み。一つ一つが、それぞれに、答えの出ない重さを抱えていた。そのすべてを、独りで抱え込まずに済んでいるのは、隣に、こうして、支えてくれる者がいるからだった。
「これほど、幾つもの試みを、同時に抱えたことは、これまで、なかったように思いまする」
わたしは、そう続けた。
「銅山の水、境目の戦、屯田兵の差配、そして、この雷のこと。どれも、まだ、答えの出ぬままにござります」
「一つずつ片づければよかろうに」
「片づけたいのは、山々にござります。ですが、この島に流れる時は、こちらの都合を、待ってはくれませぬ」
「殿がおられなんだら、わたくしは、とうに、押し潰されておりましたでしょう」
「大袈裟な。お前は、俺がおらずとも、勝手に、道を切り開いていく質だ」
「切り開くだけの力があっても、支えがなければ、いずれ、折れましょう」
弥九郎は、それを聞いて、しばらく、黙っていた。それから、静かに、こちらの肩に、手を置いた。
「折れそうになったら、いつでも、言え。俺は、いつも、隣におる」
その一言に、わたしは、しばらく、何も言えなかった。数えることでは測れない重みが、その短い言葉には、確かに宿っていた。
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見張りの手当てを増やしたことで、表向きの不満は、思っていたより、いくらか収まった。だが、根本の疑いは、なお、島の者たちのあいだに、静かにくすぶり続けていた。
「本当にこれで、何かが変わるのでしょうか」
ある日、見張りの一人が、そう漏らすのを、わたしは、たまたま、耳にしてしまった。
その言葉に、わたしは、しばらく、その場に立ち尽くした。正面から、問いただすべきかどうか、迷った。だが、この疑いは、もっともなものだった。無理に黙らせるより、正直に、その疑いと向き合うほうがよい。そう心を決め、声をかけることにした。
「疑うておるようじゃな」
わたしは、そう声をかけた。見張りの男は、慌てて、頭を下げた。
「申し訳ござりませぬ。つい、口が」
「詫びる要はない。疑うのは、当たり前のことじゃ。わたくし自身、幾度も、同じことを、自分に問い続けておる」
その言葉に、男は、少し驚いた顔をした。
「姐さんでも、疑われることが」
「ある。だが、疑いながらも、仕掛けを解かぬ。それが、わたくしのやり方じゃ」
見張りの男は、それを聞いて、しばらく、こちらの顔を見つめていた。
「姐さんが、そこまで仰るなら、それがしも、もう少し、辛抱いたしまする」
「無理はせずともよい。辛くなれば、いつでも申し出よ。代わりの者を、探す」
「いえ。辛抱いたしまする。姐さんが、疑いながらも続けておられるものを、それがしだけが、途中で投げ出すわけには、まいりませぬ」
その言葉に、わたしは、少し胸を突かれた。数と勘定だけで人を動かしてきたつもりだったが、こういう場面では、正直な弱みを見せることのほうが、かえって、人の心を動かすこともあるのだと、あらためて気づかされた。
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太郎丸と次郎丸も、この長引く待ち時間に、いくらか、焦れているようだった。
「白磁に届く日を、心待ちにしておったのですが」
太郎丸が、窯の火を落としながら、そう漏らした。
「待たせて、すまぬな」
「いえ、姐さんが謝ることではござりませぬ。ただ、正直、少し、気が急いてしまい申した」
「気が急くのは、当たり前のことじゃ。だが、雷ばかりは、こちらの都合には、合わせてくれぬ」
次郎丸が、それを聞いて、静かに口を開いた。
「儂らは、宋の世から伝わる技を、幾代にもわたって、じっと守り続けてきた一族にござる。この程度の待ち時間、慣れており申す」
その言葉に、太郎丸も、頷いた。二人の、その辛抱強さに、わたしは、あらためて、頭が下がる思いがした。
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その日の午後、綾が、産み月の近い腹を気遣って、わざわざ、こちらの部屋を訪ねてきた。
「顔色が、優れませぬね」
綾は、そう言って、隣に腰を下ろした。
「雷のことで、いくらか、思い悩んでおり申した」
「まだ、落ちませぬか」
「はい。職人たちのあいだにも、疑いの声が出はじめており申す」
綾は、それを聞いて、少し考えてから、口を開いた。
「わたくしには、雷のことは、よう分かりませぬ。ですが、千代殿が、これまで、幾つもの気の長い試みを、諦めずに続けてこられたことは、よう存じております。溜池も、椿も、茶の木も、皆、幾年もかけて、実を結んでまいりました」
「此度も、同じだと」
「同じかどうかは、分かりませぬ。ですが、これまでの千代殿の歩みを見ておれば、案じるより、信じるほうが、よほど楽にござります」
その言葉に、わたしは、深く頷いた。数えることに慣れた自分よりも、綾のこういう、素朴な信の置き方のほうが、時として、よほど確かな支えになった。理屈だけでは、埋まらぬ部分を、綾は、いつも、静かに埋めてくれていた。
「産み月も、近うございますね」
わたしが、話を変えると、綾は、微かに笑った。
「はい。この子が生まれるころには、少しは、落ち着いた話ができるようになっておりましょうか」
「なっておればよいのですが」
二人で、そう言って、しばらく、静かに笑い合った。
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嵐が、また一つ、島を通り過ぎていった。
棒に雷が落ちたという報せは、この嵐でも、ついに届かなかった。仕掛けを立て直し、待ち、また外れる。その繰り返しが、この秋だけで、既に、幾度目になるか、数えるのも億劫になるほど続いていた。
「この分では、まだ、しばらく、外れが続きましょうか」
伊佐次が、そう訊ねた。
「続くやもしれぬ。それでも、待ち続ける。他に、道はない」
「見張りの者たちの、士気は」
「落ちておろう。だが、士気が落ちたからといって、仕掛けを解けば、これまでの手間が、すべて無駄になる」
わたしは、そう答えながら、頭の中で、あらためて、この試みの重さを、数え直していた。故意に誘えても、いつ、何本目に当たるかは、なお、運である。その一線は、どうしても、崩せなかった。技術と呼べるほどの確かさは、まだ、この試みには、備わっていなかった。
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夜、灯を消す前に、帳を広げた。
雷、なお落ちず。見張りをはじめて、既に、一月あまり。見張りの手当て、増やす。職人・見張りの者たちの疑い、なお消えず。だが、仕掛けを解く気はなし。
書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。技術というより、根気そのものが試される試みだった。数を数えることに慣れたはずの自分が、この試みに限っては、いつまで待てばよいのか、その見当すら、まだ、正しく立てられずにいた。
腹は、既に、目立って大きくなっていた。産み月も、そう遠くない。この子が生まれ、初めて歩きはじめるころには、あの山頂の棒に、雷が落ちているだろうか。それとも、なお、外れたままだろうか。
答えは、まだ、誰にも分からなかった。ただ、待ち続けることだけが、いまのわたしにできる、唯一の仕事だった。
弥九郎が、隣の部屋から、静かに渡ってきた。
「まだ、帳を睨んでおるのか」
「はい。書いたところで、答えが出るわけではないと、分かっておりながら」
「書かねば、落ち着かぬのだろう」
「はい。数えることが、わたくしにとっての、心の鎮め方にござります」
弥九郎は、それを聞いて、こちらの隣に、静かに腰を下ろした。
「腹の子は、どうだ」
「よう動いており申す。産み月も、もう、間もなくにござります」
「無事に、生まれてくれればよいが」
「はい。それだけは、雷とは違い、案じても詮無きこと。ただ、無事を祈るしかござりませぬ」
「見張りの者たちも、そのうち、根負けして、疑うことすら忘れましょうか」
「忘れることは、ござりますまい。ただ、慣れていくことは、あろうかと存じます。疑いながらも、体が、日々の勤めを、当たり前のようにこなすようになる。そういう慣れ方も、この世には、確かにござります」
「お前も、そうやって、慣れてきたのか」
「はい。数えられぬことに、幾度も向き合ってまいりました。慣れずに、いちいち心を乱しておっては、身が持ちませぬ」
「祈るしかないことも、この世には、確かにあるのだな」
「はい。数えられぬこと、祈るしかないこと。この一年で、そういうことが、いくつも増えてまいりました。それでも、数えられることだけを数え、祈るべきことは、しかと祈る。それでよいのだと、いまは、そう思うており申す」
弥九郎は、それを聞いて、深く頷いた。灯りの揺れる音だけが、しばらく、部屋に静かに響いていた。
「見張りの者たちの疑いは、どうなった」
「まだ、完全には消えており申さぬ。ですが、手当てを増やしたこともあり、表向きは、落ち着いてまいりました」
「表向きは、な」
「はい。腹の底では、まだ、半信半疑のままの者が、多うござりましょう。それでも、いまは、それで十分にござります。無理に信じ込ませようとすれば、かえって、反発を招きましょう」
弥九郎は、それを聞いて、しばらく、考え込んでいた。
「お前は、いつも、無理に押し通そうとはせぬな」
「押し通せば、その場は収まりましょう。ですが、いずれ、どこかで、綻びとなって表れまする。急がず、しかし、着実に。それが、これまでの、この一党のやり方にござります」
その言葉に、弥九郎は、深く頷いた。
弥九郎は、それを聞いて、深く頷いた。しばらく、二人とも、何も言わずに、灯りの揺れる様子を、黙って見つめていた。
「雷のことも、子のことも、こちらの思うようにはならぬことばかりだな」
「はい。ですが、思うようにならぬことのほうが、この世には、多うござります。それでも、できることを、一つずつ、積み重ねていくしかござりませぬ」
その言葉に、弥九郎は、静かに頷いた。
外では、秋の終わりの雨が、いつまでも、静かに降り続いていた。




