第六話 新居郡、任される
応永三十四年(一四二七)七月 伊予国 新居郡
金子氏の在所を訪ねたのは、痛み分けの手打ちが成ってから、十日ほどが過ぎたころだった。夏の日差しが、容赦なく照りつけていた。
焼け跡は、まだ生々しく残っていた。かつて館があった場所には、黒く焦げた柱が幾本か、折れたまま突き立っている。焼け残った瓦の欠片が、あちこちに散らばり、夏の日差しを、鈍く跳ね返していた。周りの田畑は、踏み荒らされたまま、手入れもされずに放置されていた。案内に立った村の年寄りが、その光景を前に、ただ、黙って頭を垂れていた。
「殿も、御一族の方々も、みな」
年寄りは、そこまで言って、あとが続かなかった。
「分かっておる。もう、よい」
わたしは、そう答えた。それ以上、この老人に、辛い言葉を継がせたくなかった。
「この村は、これから、どうなりましょうか」
年寄りが、震える声で、そう訊ねた。その目には、隠しきれない恐れが浮かんでいた。新たに来た者に、田畑を奪われるのではないか、追い出されるのではないか。そういう恐れが、皺だらけの顔に、はっきりと刻まれていた。
「案ずるな。田畑は、そのままに、これまでどおり耕してよい。それに、此度は、戦で、田も畑も、ろくに手入れができなんだであろう。今年の年貢は、免じる」
年寄りは、耳を疑うような顔をした。
「免じる、とは」
「それだけでは、まだ、足りぬやもしれぬ。米が足りぬようなら、周りの島から、買い付けてでも、こちらで、埋め合わせる。ひもじい思いは、させぬ」
わたしは、そう答えた。年寄りは、しばらく、こちらの顔を、探るように見ていたが、やがて、深く頭を下げた。
「かたじけのう、存じます」
その声には、まだ、拭いきれない不安が残っていた。無理もなかった。一夜にして、仕える相手が変わる。そういう不条理を、この老人は、いま、身をもって、静かに味わっている最中だった。
「金子の殿は、どういう御方にござりましたか」
わたしが、そう訊ねると、年寄りは、少し驚いた顔をした。これまで、そういうことを、わざわざ訊ねてくる者はいなかったのだろう。
「よい殿にござりました。年貢に無理を仰せになることもなく、日照りの年には、蔵を開けて、村の者を助けてくださいました」
「そうか」
「まだ、若い殿にござりました。これから、まだまだ、御活躍なさるはずの御方が」
年寄りは、そこで、声を詰まらせた。わたしは、それ以上、何も訊ねなかった。この老人の、亡き主への思いを、これ以上、暴くべきではないと思った。
「その殿の御心を、忘れぬようにいたす。年貢のことも、日照りの助けのことも、これまでどおりに続けよう」
その言葉に、年寄りは、深く、深く頭を下げた。
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弥九郎と二人、焼け跡を、しばらく歩いた。
「跡を継ぐ者は、本当に、おらぬのか」
弥九郎が、そう訊ねた。
「新左衛門殿によれば、殿、ご嫡男、次男の方まで、ことごとく討たれたとのこと。女子供の方々の幾人かは、辛うじて逃れられたと聞いておりますが、家督を継げる立場の者は、もう、おりませぬ」
「分家筋は」
「新居郡には、金子の分家筋も、幾つかあったはずにござります。ですが、いずれも、此度の戦で、力を失っております。家を立て直せるだけの力を持つ者は、もう、おりますまい」
弥九郎は、それを聞いて、深く、長い息を吐いた。
「一つの家が、こうも、あっけなく消えるものか」
「あっけなくは、ござりませぬ。金子氏は、代々、この地を守り続けてきた家にござります。その重みは、この焼け跡の広さが、何よりも物語っておりましょう」
わたしは、そう答えながら、頭の中で、金子氏という家の歩みを、あらためて思い描いた。会ったこともない、代々の当主たち。両属という危うい均衡を、幾世代にもわたって保ち続けてきた家。その最後が、こうして、焼け跡と、黙りこくった年寄り一人という形で終わる。数えることに慣れたはずのわたしにも、この重みを、正しく数える術はなかった。
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その日の夕刻、河野方から、正式な使いが届いた。桑原采女、あの日、加勢を求めに来た男だった。わたしは、板間には出ず、次の間に控えて、遣り取りに、耳を澄ませた。
「此度の一件、手打ちに骨を折られた功、通春様も、しかと聞き及んでおられる」
桑原の、そう切り出す声が、板戸越しに聞こえた。
「新居郡周辺——別子山中を含む——を、治める者を失ったいま、弥九郎殿の一党に、河野の名にて、治めるよう、正式に下知いたす」
その言葉に、次の間で、わたしは、しばらく、息を詰めた。
「桑原殿。これは」
弥九郎の声が、いくらか、硬くなった。あらかじめ、次の間から、この一言だけは、しかと申し上げるようにと、耳打ちしておいた台詞だった。
「これは、功に報いる下知にござる。何を、迷われる」
「望んで、得たものではござりませぬ」
弥九郎が、そう答える声に、桑原は、少し虚を突かれたような、間を置いた。
「金子氏という家が、一つ、この世から消えたその跡に、こちらが収まる。それを、素直に、功と呼べる心持ちには、なれませぬ」
桑原は、しばらく、黙っていたが、やがて、静かな声で応じた。
「その心持ち、通春様にも、そのままお伝えいたそう。だが、治める者のいない土地を、いつまでも放っておくわけにもいかぬ。誰かが、担わねばならぬ。それが、いま、弥九郎殿の一党であるというだけのこと」
その言葉に、次の間で、わたしは、深く頷いた。桑原の言うことは、正しかった。感傷だけでは、土地は治まらない。
「新居郡の民には、どのように、この下知を伝えればよろしゅうござりましょうか」
弥九郎が、そう訊ねると、桑原は、少し考えてから答えた。
「河野の名で下知が下った、それだけで、十分にござろう。事の詳しい経緯まで、民に語る要はない」
「詳しい経緯を、隠す、と」
「隠すのではのうて、語らぬだけのこと。金子の家が、いかにして絶えたか、いかにして弥九郎殿がそれを引き継ぐに至ったか。そういう込み入った話は、民の暮らしには、何の益ももたらさぬ。ただ、新しい治め手が誰であるか、それだけが分かれば、民は、それに従って日々を営むだけのこと」
その言葉に、次の間で、わたしは、少し複雑な思いを抱いた。桑原の言うことは、実務としては正しい。だが、その正しさの裏で、金子氏という家の最期が、誰にも語られぬまま、静かに歴史の隅へ追いやられていくのだと思うと、胸の奥に、小さな痛みが残った。
「委細、承知いたしました」
弥九郎が、そう答える声を聞きながら、わたしは、せめて、この一件を、自分の帳にだけは、正しく書き残しておこうと、あらためて心に決めた。
「もう一つ、申し伝えねばならぬことが」
桑原は、そう続けた。
「新居郡ほどの広さの土地となれば、書状のみでは、事が足りませぬ。弥九郎殿御自身に、御一度、松山まで、御足労いただきたい。正式な御目通りの場を、設けとうござる」
「御目通り、とは」
弥九郎が、そう訊ねると、桑原は、少し、言いにくそうな顔をした。
「通春様は、無論のこと。此度は、教通様にも、御一同いただくことになろう」
その名に、次の間で、わたしは、思わず、身構えた。
「教通様が、なにゆえ」
弥九郎が、そう訊ねる声には、こちらが耳打ちした問いが、そのまま、乗っていた。
「新居郡は、河野の分国のうち。たとえ家督争いの最中でも、御分国の差配に関わる大事は、両家、揃うて、名を残す慣いにござる。形だけのこと、と申せば、それまでなれど」
その言葉に、次の間で、わたしは、頭の中で、静かに数えた。両家が、なおも表向きは一つの河野の家として振る舞わねばならぬ場面が、こうして、まだ、残っていた。
桑原が去ったあと、わたしは、板間へ戻り、弥九郎と、あらためて、この件を検めた。
「殿御一人で、参られますか」
わたしが、そう訊ねると、弥九郎は、少し考えてから、頷いた。
「お前を連れて行っても、向こうは、良い顔をせぬだろう。俺一人で、行ってくる」
その答えに、わたしは、深く頷いた。ここでもまた、わたくしには、席がなかった。それが、当然のことのように、すんなりと胸に落ちる自分に、少し、驚いた。
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数日後、松山から、弥九郎が戻ってきた。旅の疲れを、まだ、その顔に、はっきりと残していた。
「首尾は、いかに」
わたしが、そう訊ねると、弥九郎は、しばらく、黙っていた。
「妙な席だったぞ」
「妙、とは」
「通春様は、上機嫌でな。新居郡の一件、まことによう働いてくれたと、幾度も、そう仰せになった。だが、その口ぶりの端々に、次は何をしてくれるのか、という色が、透けて見えた」
その話に、わたしは、深く頷いた。恩を売り、恩を返させる。この一党が、これまで、幾度も使ってきた手を、いま、通春様のほうから、こちらに仕掛けられている。そういうことだった。
「教通様は」
わたしが、そう続けて訊ねると、弥九郎は、一瞬、口をつぐんだ。
「あちらは、終始、こちらに、目も合わせなんだ。形だけの挨拶を、一言、二言。それだけだった」
「二神の一件を、まだ、恨んでおられるのでしょうか」
「恨む、というより……あの御方にとっては、俺は、御自分が担ぎ立てておられた、二神本家の御孫を、退けた張本人に、見えておるのだろう。無理もない」
その言葉に、わたしは、深く息を吐いた。二神本家の一件で、教通方の担いだ孫は、退けられた。こちらは、いまの範久様を後ろから支えていたにすぎず、教通様御自身に、何かを申し入れたことは、一度もない。だが、遠くから見れば、そういう理屈は、通じないのだろう。
「御二方が、同じ席に、揃うておられたのですか」
わたしが、そう訊ねると、弥九郎は、頷いた。
「揃うておった。だが、互いに、一言も、口を利かなんだ。それどころか」
弥九郎は、そこで、少し、言いよどんだ。
「それどころか」
「御二方の、御付きの者同士が、些細なことで、言い合いをはじめてな。座の順が、どちらが上か、というような、くだらぬ話だ。当のご両人は、素知らぬ顔をしておられたが、あれは、明らかに、日頃から、そういう小競り合いが、絶えぬのだろうと、見て取れた」
その話に、わたしは、しばらく、何も言えなかった。
「河野氏という家そのものが、いま、いったい、誰の手で、動いておるのでしょうか」
わたしは、独り言のように、そう呟いた。
「さてな。ただ、まるで動いておらぬわけではなさそうだ。こちらの流れを、引っくり返そうとする手が、御家中のどこかで、確かに動いておる。だが、それも、思うようには、運んでおらぬように、俺には見えた」
弥九郎は、そう言って、微かに、皮肉げに笑った。
その話を聞きながら、わたしは、頭の中で、これまで積み上げてきた河野氏との縁を、あらためて、数え直した。教通様、通春様、御二方とも、家そのものを、しかと束ねる器には、まだ、遠いのかもしれなかった。だが、それは、家中がただ無為に漂っているという意味ではない。むしろ、こちらの築いてきた流れを押し戻そうとする手が、御家中の内に、確かにある。それが、いまのところ、うまく運んでおらぬというだけのこと。この一党が、これほどまで、伊予国内で確かな地歩を築けたのも、あるいは、その手が、まだ、思うように動けずにいるからこそ、なのかもしれなかった。
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松山からの帰還を、あらためて、弥九郎と二人、検めた。
「これで、六島、因島・能島、別子に加えて、新居郡までもが、こちらの手に入ることになる」
弥九郎が、そう呟いた。その声には、喜びよりも、重さのほうが、はっきりと滲んでいた。
「はい。ですが、これまでの六島・因島の得方とは、まったく違う経緯にござります」
「どう違う」
「六島は、理と利で、時をかけて服させた。因島は、村上一党という、確かな盟友を得る形で広がった。ですが、新居郡は——」
わたしは、そこで、言葉を選んだ。
「新居郡は、一つの家が滅んだ、その空いた場所に、なし崩しに収まった土地にござります。得たというより、拾ったに近い」
弥九郎は、それを聞いて、しばらく黙っていた。
「悼むべき土地、と、先だって、俺は言うたな」
「はい。殿の、その言葉を、正しく胸に留めており申す。わたくし自身は、悼むというより、この一件を、正しく数え、伝え続けねばならぬという、勘定の話にござりますが」
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「これまで、忽那の家名も、河野の家名も、こちらが乗っ取るような真似は、一度もしてこなんだな」
弥九郎が、そう続けて訊ねた。
「はい。ですが、それは、何か立派な志があってのことでは、ござりませぬ。成り上がりが、名まで奪えば、周りの顰蹙を買い、要らぬ恨みを、そこかしこに、蒔くことになりましょう。『手下を、そんなことで、無駄に死なせとうはない』と、殿御自身が、以前、そう仰せになった。その理屈に、わたくしも、しかと、従うてまいったまでにござります」
「今度は、それが、崩れたということか」
「崩れましてござります。金子の家名は、もう、どこにも残りませぬ。これは、こちらが望んで崩したのではなく、外の力、細川方との戦によって、たまたま、そうなったにすぎませぬ。ですが、崩れたという事実そのものは、動きませぬ」
弥九郎は、それを聞いて、深く息を吐いた。
「お前が、そうまで、こだわる理由が、俺には、まだ、正しくは分からぬ。だが、お前がそう思うなら、俺も、同じように、心に留めておこう」
その言葉に、わたしは、深く頭を下げた。
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数日のうちに、新居郡の差配の段取りを、伊佐次と共に組み立てはじめた。
「まずは、残された民の暮らしを、立て直さねばなりませぬ。田畑を耕せる者には、種と道具を貸し与え、家を失うた者には、当座の住まいを用意する。それが、先決にござります」
「金子の名は、どういたしましょう」
伊佐次が、そう訊ねた。
「金子の家そのものは、もう、継ぐ者がおらぬ。だが、金子の名で、この地を治めてきたという事実まで、消してしまう必要はない。祠を一つ、建てさせよ。民の心を、無用に、逆撫でせぬためにも、要ることじゃ」
伊佐次は、それを聞いて、深く頷いた。
「承知いたしました」
「祠を建てる場所は、村の者たちに、選ばせてやってほしい。こちらが勝手に決めれば、また一つ、押し付けになろう」
「かしこまりました」
「もう一つ、頼みたきことが」
わたしは、そう続けた。
「金子の血筋を引く者が、どこかに、生き延びておらぬか、それとなく、探らせておきたい。女子供が、幾人か、落ち延びたと聞く」
伊佐次は、少し、意外そうな顔をした。
「金子の血筋を、探し出して、いかがなさるおつもりで」
「まだ、はきとは決めておらぬ。だが、もし、しかるべき娘が見つかれば、いずれ、この島で育てておる者の一人に、婿入りさせる。血筋は絶えても、金子の名跡そのものは、絶やさず、誰かに継がせる。その者を、正式な武士として、こちらの家中に、しかと取り込む。そういう先の絵図が、描けるやもしれぬ」
「なるほど。名跡を、こちらの手駒に、継がせるわけにござりますな」
「さよう。祠だけでは、いずれ、ただの古い言い伝えになる。名を、実際に継ぐ者がおれば、この土地の民にとっても、金子の血が、確かに、いまも生きておるという、何よりの証になろう」
伊佐次は、それを聞いて、深く頷いた。
「承知いたしました。宇摩郡・新居郡の在地の者たちに、それとなく、探りを入れさせましょう」
伊佐次は、そう言って、館を出ていった。その背を見送りながら、わたしは、この一件の後始末が、これから幾月もかけて、少しずつ形になっていくのだろうと、頭の中で、その道筋を思い描いていた。金子の血筋が見つかるかどうかも、見つかったとして、誰に継がせるかも、いまは、まだ、何一つ、決まってはいなかった。それでも、種は、いま、蒔いておくべきだった。
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その足で、館へ戻ると、綾が、赤子をあやしながら、こちらを待っていた。新居郡のことは、既に、耳に入っているようだった。
「金子の御一族のこと、聞き及びました」
綾は、そう切り出した。その声には、深い労りの色があった。
「跡を継ぐ者が、一人もおらぬとか」
「はい」
「家が絶えるということが、どれほどのことか、わたくしにも、いくらか分かる気がいたします」
その言葉に、わたしは、綾の顔を見た。忽那の家に生まれ、猶子として本家へ立てられ、いまは弥九郎の正室として、この一党に嫁いでいる女。血の繋がりと、家の続き方について、綾は、誰よりも、複雑な思いを抱いてきたはずだった。
「綾様は、御実家のことを、思い出されましたか」
「少し。ですが、金子の御一族の話は、それとは、また違う重さがございます。あちらは、家そのものが、跡形もなく消えてしもうたのですから」
綾は、そう言って、腕の中の赤子に、そっと目を落とした。
「この子が、こうして無事に育っておること、あらためて、ありがたく思います」
その言葉に、わたしは、深く頷いた。数えることでは測れない重みが、綾のその一言には、確かに宿っていた。
「それに」
綾は、少し、頬を染めながら、続けた。
「もう一人、増えそうにござります」
「まことにござりますか」
「はい。まだ、月のものが遅れておるだけにて、確かとは申せませぬが」
その報せに、わたしは、深く、頷いた。虎王丸に続く、二人目の子。この島の血筋が、また一つ、確かに増えようとしていた。
「大事になさいませ」
「はい。此度も、無事に、産みとうござります」
綾の、その柔らかな笑みに、わたしは、少し、胸が温かくなった。
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数日後、伊佐次を伴い、あらためて新居郡の各村を回った。年寄りたちの不安を、一つ一つ、直に確かめて回るためだった。
「田畑は、そのままか」
「年貢は、変わらぬか」
「戦で失うた者への手当ては」
村ごとに、似たような問いが、幾度も繰り返された。わたしは、その一つ一つに、丁寧に答えていった。急がず、脅さず、これまでの六島や因島で積み上げてきたやり方を、そのまま、この土地にも当てはめていく。
「新しい殿の衆は、優しいのう」
ある村の年寄りが、そう漏らした。
「優しいのではのうて、急いても、良いことは何もないと、知っておるだけのこと」
わたしは、そう答えた。年寄りは、それを聞いて、少し安堵したように、頬を緩めた。
こうして、村を一つ一つ回るうちに、民の目の色も、少しずつ、変わっていった。最初の、怯えるような目つきが、日を追うごとに、様子を見る目つきへ、そして、いくらか安堵した目つきへと、緩やかに移り変わっていく。その変化を、わたしは、帳にではなく、自分自身の目で、確かめ続けた。
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こうした細やかな積み重ねが、いずれ、この土地への確かな信につながっていく。これにより、別子銅山の経営も、初めて、正式な統治の裏付けを得ることになった。これまで、金子氏との緩やかな縁のよしみで、なし崩しに続けてきた坑道の普請も、これからは、堂々と、河野の名の下で進められる。
その事実を、帳に書き留めながら、わたしは、確かな足場を得たことへの安堵と、それが誰かの家の断絶の上に成り立っていることへの重さと、両方を、静かに、繰り返し噛みしめていた。
その夜、更けてから、灯を消す前に、もう一度、その日の帳を見返した。
新居郡、河野方より正式に治めるよう下命。金子氏の祠、建立を指図。別子銅山、統治の裏付け得る。この一件の経緯、正しく数え、忘れず、次の代にも伝えること。
書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。数えるものは、また一つ増えた。だが、この数は、単純に喜べる種類の数ではなかった。
外では、夏の夜風が、まだ焼け跡の匂いを、微かに運んでくる気がした。気のせいかもしれない。それでも、その匂いを、わたしは、しばらくのあいだ、忘れずにいようと思った。
弥九郎が、隣の部屋から、静かに渡ってきた。
「今日は、村を回っておったそうだな」
「はい。民の目の色が、少しずつ、変わってまいりました」
「お前らしいやり方だ」
「急いては、事を仕損じまする。これまでも、そうしてまいりました」
弥九郎は、それを聞いて、深く頷いた。それから、少し声を落として、続けた。
「金子の家のことを、いつまでも、そう気に病んでおるように見えるが」
「気に病んでは、おり申さぬ。ただ、この一件を、正しく数えておかねば、この一党もまた、いずれ、同じ道を辿りかねぬと、そう見立てておるだけにござります。忘れることは、勘定の材料を、みずから捨てるに等しゅうござります」
その言葉に、弥九郎は、しばらく黙っていたが、やがて、静かに頷いた。
「お前がそう決めたなら、それでよい」
灯りを消したあとも、しばらくのあいだ、焼け跡の匂いの記憶が、頭の隅から離れずにいた。窓の外では、虫の声が、途切れることなく、静かに鳴り続けていた。
あの年寄りの言葉が、繰り返し、頭に浮かんだ。よい殿だった、若い殿だった、これから活躍するはずの御方だった。会ったこともない男の像が、こうして、生き残った者の言葉を通して、少しずつ、輪郭を帯びていく。数字だけでは決して伝わらない、その男の人となりを、わたしは、せめて、この帳の中にだけは、書き留めておこうと思った。
いつか、この新居郡が、確かな実りを取り戻したとき、その実りの土台に、金子という家の記憶が、確かに息づいていることを、忘れずにいたい。それだけが、いま、わたしにできる、ささやかな弔いだった。




