第五話 後方を衝く
応永三十四年(一四二七)六月 伊予国 新居郡 沖合
夜明け前の海は、まだ、墨を流したように暗かった。星の光さえ、雲に遮られ、ほとんど見えなかった。
五艘の船が、灯りをすっかり絞り、静かに、新居郡の沖へと進んでいた。船縁に立つと、潮の匂いに混じって、微かに、陸のほうから、焦げた木の匂いが漂ってくる気がした。気のせいかもしれない。それでも、その匂いに、胸の奥が、いやな具合に騒いだ。
松吉が放った物見の報せでは、細川方の兵站は、境目からほど近い、小さな入り江に集められているという。兵糧、矢玉、そして、幾つかの舟。そこを衝けば、境目で睨み合う兵たちの足を、確かに止められるはずだった。
船縁の木が、波に揺られて、小さく軋んでいた。
「潮は、どうか」
弥九郎が、舵を取る手下に、そう訊ねた。
「あと半刻もすれば、満ちてまいります。いまのうちに、入り江の入り口まで、寄せておきとうござります」
弥九郎は、頷いて、船団に、進めの合図を出した。
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わたしは、この五艘には乗らなかった。腹の子のことを思えば、戦の場に近づくべきではない。それは、弥九郎自身が、最後まで譲らなかった一線だった。
「船に乗るなとは、申さぬ。だが、この戦だけは、後方の船で控えておれ」
その言葉に、わたしは、素直に従った。数を組むことはできても、この身では、いざというときに、自分の足で動けない。足手まといになるだけなら、初めから、間合いを取っておくほうがよい。
控えの船の上、遠く、五艘の船影が、闇の中へ紛れていくのを、じっと見つめていた。潮の音だけが、やけに大きく聞こえた。
供に乗り込んでいた新左衛門が、隣で、同じように、闇を見つめていた。
「姐さんは、いつも、こうして、戦の行方を、遠くから見守っておられるのですか」
「いつもではない。だが、身重の折には、こうするしかない」
「案じられませぬか」
「案じておる。ただ、案じたところで、あの船団の腕を、これ以上、確かなものにはできぬ。ならば、ここで、静かに待つほかない」
新左衛門は、それを聞いて、深く頷いた。この男もまた、故郷の土地を戦火に晒されている身として、じっと待つことの辛さを、誰よりもよく分かっているようだった。
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半刻ほどが過ぎたころ、遠くの空が、ふいに、赤く染まった。
火矢が、入り江に集められた小屋に、放たれたのだろう。続けて、幾つもの叫び声と、物の焼ける音とが、風に乗って、こちらまで届いてきた。
弥九郎の船団は、手筈どおり、入り江の兵站を焼き、集められていた舟を、幾つか奪い、あるいは沈めた。警護の兵は、二十に満たなかったという。細川方は、まさか、海からこのような形で衝かれるとは思っていなかったのだろう、初めのうちは、ほとんど、まともな反撃もできぬ様子だった。こちらの手勢五艘・三十人あまりに、深手を負う者は、一人も出なかった。
後になって聞いたところでは、松吉たちの船が、真っ先に、入り江の見張り小屋へ火矢を放ち、その混乱に乗じて、弥九郎自らが率いる本船が、舟着き場へ乗りつけ、繋がれていた舟の綱を、片端から断ち切っていったという。潮の流れを読み、風上から火矢を放つ。海の戦であれば、幾度となく使ってきた、慣れた手筈だった。守りについていた兵たちは、逃げ場を失った舟とともに、なす術もなく、右往左往するばかりだったという。
その最中、松吉の船が一艘、逃げ惑う舟に舷側を擦られ、板の合わせ目から、水が入りはじめたという。これまでであれば、桶で汲み出す者を幾人も割かねばならぬところだったが、この船には、少し前から、試しに、あの螺旋の道具を、船底に仕込ませてあった。手回しの柄を回し続けるだけで、入り込む水を、外へ吐き出し続けられる。おかげで、汲み出しに人手を割かれることなく、そのまま、戦を続けられたのだという。
「あれは、使えるな」
戻ってから、弥九郎が、そう言って、少し感心した顔をした。まだ、絵図から起こしたばかりの道具だったが、思いのほか、早く、役に立つ場が来ていた。
だが、事は、そこで終わらなかった。
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夜が明けきったころ、境目の方角から、早馬の使いが、金子氏の陣へ駆け込んでくるのが、遠目にも見えた。その報せが、こちらの控えの船にまで届いたのは、日が高く昇ってからのことだった。
伝えに来たのは、新左衛門だった。顔は、蒼白を通り越して、灰色に近かった。
「千代様……」
その声が、震えていた。
「いかがした」
「金子の殿……ご一族が……」
新左衛門は、そこで、言葉を継げなくなった。わたしは、頭の中で、瞬時に、幾つもの可能性を数えた。だが、どれも、この男の様子から察するに、望ましいものではなさそうだった。
「はきと申せ」
「昨夜のうちに、細川方の別手が、金子の在所を、直に衝き申した。殿以下、ご一族の方々、ことごとく……」
その先の言葉は、聞かずとも、分かった。
「詳しゅう、話せるか」
わたしは、なんとか、声を絞り出した。新左衛門は、震える声で、続けた。
「境目に、殿の目が向いておるあいだに、細川方は、別に、手勢を割いておったようにござります。夜のうちに、間道を抜け、在所を、直に囲み申した。金子の殿は、寡兵で、よう防がれましたが、多勢に無勢、ついに、力尽き申した」
「一族の方々は」
「殿、ご嫡男、次男の方まで、ことごとく、討たれ申した。女子供の方々の幾人かは、辛うじて、逃れられたと聞いており申すが……それも、まだ、確かなことは」
その報せに、船縁を握る手に、力がこもった。
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しばらく、言葉が出なかった。
海からの助勢は、確かに、境目の兵站を焼くという役目を果たした。だが、その裏で、細川方は、別の手勢を割いて、金子氏の在所そのものを、直に衝いていた。境目に気を取られているあいだに、本丸を突かれる。それは、こちらが、これまで幾度も使ってきた手だった。その同じ手を、今度は、こちらの側が、食らう格好になっていた。
海の助勢に留めたことが、正しかったのか、間違っていたのか。いまとなっては、分からなかった。陸に出ていれば、金子氏の在所を、直に守れていたかもしれない。だが、その備えのないまま陸に出ていれば、それこそ、味方もろとも、飲み込まれていたかもしれなかった。
どちらの道を選んでも、たどり着いた先が、この結末より、確かによかったと言い切れる自信はなかった。それでも、目の前で、一つの家が、ことごとく途絶えたという事実だけは、動かなかった。
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弥九郎の船団が、控えの船まで戻ってきたのは、その日の夕刻だった。
弥九郎は、既に、金子氏の一件を、途中の早船から聞き知っていた。その顔には、これまで見たことのない、重い翳りが差していた。
「兵站は、焼いた。舟も、幾つか奪った」
「はい」
「だが、それだけでは、済まなんだな」
「はい」
二人とも、それ以上は、しばらく、何も言えなかった。
「これは、こちらの落ち度か」
弥九郎が、そう呟いた。
「分かりませぬ。ですが、陸を固辞したことが、この結末に、まったく関わりないとは、申せますまい」
その言葉に、弥九郎は、深く、長い息を吐いた。
「陸はまだ、という判断は、間違うてはおらなんだはずだ。だが」
「はい。間違うてはおらぬはずのことが、それでも、こういう結末を招くことが、ござります」
数を組み、正しいと思う道を選んでも、それでも、届かぬことがある。この四年、幾度も思い知らされてきたはずのことを、また、ここで、思い知らされていた。
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それでも、湊での戦は、続いていた。
兵站を焼かれ、舟を奪われた細川方は、この日の夜襲を境に、それ以上の深追いを控えるようになった。金子氏の在所を落としたことで、一応の目的は果たしたと見たのか、あるいは、こちらの海からの脅威を、無視できぬものと見たのか。おそらく、その両方だったのだろう。
数日の睨み合いのあと、双方のあいだで、これ以上の戦を控えるという、事実上の申し合わせが成った。細川方も、これ以上、伊予国内に深く踏み込む構えは見せず、境目は、ひとまず、小競り合いが起きる前の状態へと、静かに戻っていった。
その申し合わせの場に、わたしも、弥九郎とともに立ち会った。細川方から来た使者は、こちらの船団の数と、焼け落ちた兵站の跡を、一瞥するなり、それ以上、深追いする気を、あっさりと収めた。
「此度のことは、これにて、痛み分けということで」
使者は、そう言って、そそくさと、話を切り上げた。金子氏の在所を落としたことで、既に、十分な戦果を得たと踏んでいるのだろう。あるいは、これ以上、海からの脅威に晒され続けることを、避けたいのかもしれなかった。いずれにせよ、これ以上の戦を、双方とも望んでいないことだけは、はっきりしていた。
痛み分けだった。金子氏という家が、一つ、この世から消えたという事実の重さに比べれば、その痛み分けは、あまりに軽く、そして、遅すぎた。境目の岩場は、以前と変わらぬ姿で、そこにあった。だが、その岩場を治めていたはずの家は、もう、どこにもなかった。
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新居郡には、もはや、この地を治める者がいなくなっていた。
その報せが、河野方から、弥九郎のもとへ届いたのは、それから半月ほどが過ぎたころだった。手打ちに骨を折った功に対し、新居郡周辺——別子山中を含む——を、弥九郎の一党が治めるよう、河野の名で、正式な下知が下される。その報せを聞いたとき、わたしは、喜びよりも先に、重い痛みを覚えた。
これは、望んで得たものではなかった。
金子氏という、確かに存在した一つの家が、途絶えた。その空いた場所に、こちらが、いわば、なし崩しに収まる格好になった。手を汚したわけではない。だが、この土地を得たことの裏に、一つの家の断絶があるという事実だけは、どれほど数えても、消えなかった。
その日の午後、綾が、この一件を聞きつけて、こちらを訪ねてきた。
「新居郡のこと、聞き及びました。お労しいことにござります」
「望んで得た土地では、ござりませぬ」
「それは、分かっております。ですが、千代殿が、そのことを、ご自分に言い聞かせておられるのも、また、分かります」
綾の言葉に、わたしは、少し驚いた。
「なぜ、それを」
「千代殿は、いつも、得たものの裏にある痛みを、数え忘れぬ御方にござります。だからこそ、これまで、この一党は、ここまで来られたのでござりましょう。此度のことも、忘れずに、抱えていかれればよろしいかと」
その言葉に、わたしは、深く頷いた。慰めというよりも、これから先、どう歩めばよいかを、静かに指し示してくれる言葉だった。綾の手が、そっと、こちらの肩に触れた。その温もりに、しばらく、身を委ねていた。
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館へ戻ってから、郷田十兵衛に、あらためて、この一件の顛末を話した。十兵衛は、しばらく、黙って聞いていたが、やがて、重い口を開いた。
「それは、こちらの落ち度ではござらぬ。ですが、学ぶべきことは、確かにござる」
「学ぶべきこと、とは」
「敵は、境目という、目につきやすい場所に、こちらの目を引きつけておいた。その裏で、本当の狙いを、静かに仕掛けておった。陣立ての基でも、最初に教えることにござる。目につく場所に構えを厚くすれば、目につかぬ場所が、手薄になる」
その言葉に、わたしは、はっとした。境目の兵站を衝くという判断そのものは、間違ってはいなかった。だが、その裏で、金子氏の在所そのものの守りが、どれほど手薄になっていたかを、こちらは、正しく数えられていなかった。
「陸に出ておれば、その手薄を、あるいは、埋められたやもしれませぬ」
「あるいは、な。じゃが、生半な備えで陸に出ておれば、在所の守りどころか、境目の海の助勢すらも、中途半端に終わっておったやもしれませぬ。いずれにせよ、たらればを数えても、詮無きことにござる」
十兵衛の言葉は、慰めではなかった。ただ、事実を、淡々と述べているだけだった。それが、かえって、いまのわたしには、ありがたかった。下手な労りの言葉より、よほど、心が落ち着いた。
「この教え、忘れませぬ。次に同じ形の戦に臨むときは、目につく場所と、目につかぬ場所と、両方を、しかと数えまする」
「それでよろしゅうござる」
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その夜、館に戻ってから、わたしは、独り、帳を広げた。
新居郡の境目の戦、決着。金子氏、一族ことごとく途絶える。細川方との痛み分け成り、境目、元の状態に戻る。新居郡、河野方より正式に治めるよう下命。喜べぬ形での、確かな足場。
書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。数えることには、自信があった。だが、この結末だけは、どれほど数え直しても、割り切れる答えが出てこなかった。数字の上では、確かに、この一党の版図が、また一つ広がった。だが、その広がりの裏にあるものを、忘れてよい理由には、決してならなかった。
弥九郎が、隣の部屋から、静かに渡ってきた。何も言わず、ただ、こちらの隣に座った。しばらく、二人とも、何も言わなかった。灯芯の燃える音だけが、部屋に静かに響いていた。
「悼むべき土地、ということだな」
やがて、弥九郎が、そう呟いた。その声には、殿らしい、確かな労りがあった。
「殿は、そう、お感じになりますか」
わたしは、そう答えた。悼む、という言葉が、自分の中に、すんなりとは、収まらなかった。
「お前は、そうは思わぬのか」
「思わぬ、というより……この身は、金子の家に、これといった思い入れがござりませぬ。悼むというより、この一件を、正しく数え、しかと、記しておかねばならぬ。いま、感じているのは、そういう、勘定に近いものにござります」
弥九郎は、それを聞いて、少し、こちらの顔を見つめた。
「お前らしいな」
「殿の労りとは、少し、違う形にござりましょう。ですが、この一件を、忘れず、正しく次の代へ伝えることでは、行き着く先は、同じにござります」
その言葉に、弥九郎は、深く頷いた。
腹に、そっと手を当てた。この子が、いつか、この新居郡の土を踏むことがあるとすれば、その日には、この土地に、どういう経緯で足場を得たのかを、必ず、正しく伝えねばならない。そう、静かに心に決めた。
美しい話にして、語り継ぐつもりはなかった。手柄として誇るつもりも、なかった。ただ、確かに一つの家が途絶え、その跡に、この一党が立っているという事実だけを、正しく、次の代にも伝えていく。情に基づく弔いではのうて、数を扱う者の、確かな責めとして。それが、いま、この場で、わたしにできる、せめてものことだった。
外では、夏の夜風が、板戸を、静かに揺らしていた。




