第四話 陸はまだ
応永三十四年(一四二七)六月 伊予国 怒和島 下怒和
新居郡からの報せが、ふいに途絶えた。伊佐次の手の者が、幾度か、境目まで通いを試みたが、いずれも、途中で足止めを食らい、戻されたという。よほどの騒ぎが、境目で起きているに違いなかった。そう気づいてから、半月ほどが過ぎたころ、今度は、河野方から、直に使者が来た。
館の板間に通されたのは、通春方の家臣で、名を、桑原采女といった。歳の頃、四十がらみ。腰の据わった、いかにも武家らしい物腰の男だった。旅装のまま急いで渡ってきたのか、袴の裾に、まだ潮の跡が乾ききらずに残っていた。
女子の身で、他家の家臣の前に、正面から顔を出すことは、これまでも、していなかった。それは、いまの腹の内とは、関わりのないことだった。わたしは、茶を運ぶ折にだけ、一言二言、言葉を交わすに留め、あとは、次の間に控えて、板間の遣り取りに、耳を澄ませることにした。
「弥九郎殿には、日ごろより、通春様への忠勤、まことにご苦労にござる」
「かたじけのう存じます」
弥九郎が、そう応じる声が、板戸越しに聞こえた。
型通りの挨拶を交わしたあと、桑原は、少し声を落として、本題に入った。
「本日参ったは、他でもない。新居郡・金子氏の一件にござる」
その言葉に、わたしは、次の間で、静かに耳を澄ませた。
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「金子氏より、通春様のもとへ、加勢を求める使いが参り申した」
桑原は、そう切り出した。
その言葉に、わたしは、次の間で、静かに、頭の中の帳を検めた。金子氏の頼みを受け、こちらから、それとのう、河野方へ、この一件を伝えたのは、ひと月ほど前のことだった。その報せが、ようやく、通春様のもとへ届き、こうして、正式な下知という形で、返ってきたのだろう。
「境目にて、細川方の兵が、いよいよ、実際に踏み込んでまいったとの由。もはや、金子氏の手勢だけでは、支えきれぬ様子にござる」
「踏み込んだ、とは、いかほどの規模にござりますか」
わたしが、そう訊ねると、桑原は、懐から書付を取り出した。
「二百余りの兵が、境の尾根を越え、金子氏の在所近くまで、迫っておるとの由。金子氏の手勢は、精々、百に届くかどうか。数の上でも、既に、押されておる形にござる」
その数字に、わたしは、頭の中で、あらためて算段を組み直した。二対一に近い数の差は、決して小さくない。金子氏が、これまでの均衡を保てなくなったのも、無理からぬことだった。このまま手をこまねいていれば、遠からず、金子氏の在所そのものが、危うくなりかねなかった。
「して、通春様は」
弥九郎が、そう訊ねると、桑原は、わずかに苦い顔をした。
「お助けしたいのは、山々にござる。だが、いま、通春様の御手勢は、教通方との睨み合いに、ほとんど割かれておる。新居郡くんだりまで、正規の兵を割く余裕は、正直、ござらぬ」
その言い分に、わたしは、頭の中で、これまでの見立てを、あらためて確かめた。河野氏の家督争いが、伊予国内の在地武家への目配りを、確かに薄くしている。それが、まさに、いま、この場で、現実の話として表れていた。先だって、新左衛門から報せを聞いたときに感じた懸念が、思っていたより早く、こうして現実のものとして目の前に現れていた。
「それゆえ」
桑原は、そう続けて、こちらへ、まっすぐに目を向けた。
「弥九郎殿に、加勢をお願いいたしたい。金子氏との縁は、既に、いくらか築いておられると聞き及んでおる。通春様よりの、正式な下知として、お伝えいたす」
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その申し出に、弥九郎は、しばらく、黙り込んだ。
次の間で、わたしも、すぐには、考えがまとまらなかった。金子氏の境目の話は、これまで、様子を見るに留めてきた。だが、河野方から、正式な下知という形で、直に加勢を求められるとなれば、話は、また違ってくる。
弥九郎が、茶の代わりを所望するふりをして、廊下へ、一度、出てきた。わたしは、そこで、手早く、耳打ちした。
「陸には出ぬと、はっきり申されませ。海であれば、いくらでも引き受けると。ただし、生半な備えで陸の大戦に乗り込むのは、金子氏をかえって危うくいたしまする、と」
弥九郎は、深く頷き、また板間へと戻っていった。
「桑原殿」
弥九郎が、そう切り出すのが、板戸越しに聞こえた。
「率直に申し上げる。海の戦であれば、いくらでも、お引き受けいたそう。船を出し、潮を読み、敵の湊を衝く。そういう戦は、この一党の、いわば本業にて」
「ならば」
「ですが、陸の戦は、まだだ」
その一言に、桑原が、わずかに眉を寄せる気配が伝わってきた。
「まだ、とは」
「この一党は、これまで、海の戦しか知らなんだ。近ごろ、浪人の教官を招き、俺以下、皆で、陣立ての稽古を積んではおるが、実戦に耐えるだけの備えが、まだ、整うておらぬ。生半な備えのまま、陸の大戦に乗り込めば、味方の足を引っ張るばかりか、金子氏をかえって危うくしかねぬ」
正直な物言いだった。それこそが、いま、伝えるべきことだと、わたしも思っていた。できぬことをできると請け合って、あとで取り返しのつかぬ失態を晒すよりは、初めから、できることとできぬことを、はっきりと分けておくほうがよい。
「それでは、此度のことは、お引き受けいただけぬと」
桑原の声に、いくらか、険しさが混じった。
「陸の戦にはお応えできぬ、と申しておる」
「陸も海も、要りようは同じにて。金子氏は、いま、まさに危うい。此度ばかりは、何とか、お力添えを願いたい」
「ですが」
「弥九郎殿の一党は、いまや、六島・因島・能島・別子と、伊予国内に確かな根を張っておられる。その一党が、通春様の求めに応じられぬとなれば、通春様の御立場に、傷がつき申す。それは、ひいては、弥九郎殿の御立場にも、跳ね返ってまいりましょう」
その言葉には、脅しにも似た響きがあった。だが、正しくもあった。次の間で、わたしは、そう思った。河野方の下知を、真っ向から撥ねつければ、これまで積み上げてきた通春方との縁そのものが、危うくなりかねない。
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桑原は、しばらく、弥九郎の顔を見つめていた。
「正直な物言い、かえって、こちらも助かる。だが」
桑原は、そこで、声を一段、低くした。
「通春様の御立場も、お汲み取りいただきたい。金子氏は、これまで、河野・細川、両属の構えを取ってきた家にござる。此度、通春様が、その求めに応じられなんだとなれば、金子氏は、細川方へ、完全に傾きかねませぬ。伊予国内の在地武家に、示しがつかぬことにもなり申す」
次の間で、わたしは、頭の中で、あらためて数を組み直した。金子氏一つの去就が、河野方全体の求心力に関わってくる。桑原の言い分は、こちらの都合とは、また別の理屈で、確かに筋が通っていた。この筋を、弥九郎に、どう伝えるべきか。わたしは、また、廊下へ出てくる機を、静かに待った。
「弥九郎殿。何とか、お力添えを、お願いいたす」
桑原は、そう言って、深く頭を下げた。武家の男が、これほどまでに頭を下げるのは、容易なことではないはずだった。それだけ、通春方にとって、この一件が、切実な話なのだろう。
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弥九郎は、しばらく、腕を組んで、黙っていた。それから、「少し、考えさせていただきたい」とだけ断り、再び、廊下へ出てきた。
「桑原殿の申しよう、断り切ることも、できませぬな」
わたしが、そう耳打ちすると、弥九郎は、頷いた。
「かといって、陸に出るわけにもいかぬ」
「陸には、まだ、応じかねまする、と、はっきり申されませ。ですが、海であれば、お力添えできましょう、と。細川方の兵站、あるいは、湊の集積地。そういう場所を、海から衝くことなら、この一党の腕が、確かに活きましょう。陸の戦は、金子氏、あるいは他の在地衆にお任せいただき、こちらは、海から、その戦を支える形を取る、とお伝えなさいませ」
弥九郎は、深く頷き、また板間へと戻っていった。
「桑原殿」
弥九郎が、そう切り出す声が、板戸越しに聞こえた。
「陸の戦には、まだ、応じかねる。ですが、海であれば、お力添えできよう。細川方の兵站、あるいは、湊の集積地。そういう場所を、海から衝くことなら、この一党の腕が、確かに活きよう。陸の戦は、金子氏、あるいは他の在地衆にお任せいただき、こちらは、海から、その戦を支える形を取らせていただきたい」
桑原は、しばらく、考え込む気配だったが、やがて、頷いた。
「それで、十分にござる。海からの助勢だけでも、金子氏にとっては、大きな支えになりましょう」
「かたじけない」
桑原は、そう言って、深く頭を下げた。その声には、来たときにはなかった、確かな安堵の色が滲んでいた。
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桑原を見送ったあと、弥九郎と二人、あらためて、この一件を検めた。
「陸には出ぬと、はっきり申したな」
「はい。できぬことを、できると申し上げるわけには、まいりませぬ」
「十兵衛の稽古は、まだ、そこまで届いておらぬということか」
「陣立ての基は、確かに、身についてまいりました。ですが、実戦の場で、生きるか死ぬかの駆け引きに耐えられるかどうかは、また別の話にござります。まだ、その線までは、越えておりませぬ」
弥九郎は、それを聞いて、少し悔しそうな顔をした。
「早う、越えたいものだな」
「いずれ、必ず。ですが、いまは、まだ、その時ではござりませぬ」
その言葉に、弥九郎は、深く頷いた。それから、少し口調を変えて、こちらに訊ねた。
「お前は、この腹の子のことも、考えておったのではないか」
その問いに、わたしは、少し虚を突かれた。
「なぜ、そう思われます」
「陸に出れば、戦場が近うなる。お前も、船には乗るつもりであろう。腹の子を抱えたまま、陸の乱戦の近くにまで、身を置きとうはあるまい」
図星だった。だが、それを、正直に頭の中で数えていたことを、弥九郎に見抜かれるとは、思っていなかった。
「殿の仰るとおりにござります。ですが、それだけが理由ではござりませぬ。腹の子がおらずとも、いまの備えで陸に出るのは、無謀にござりました」
「分かっておる。両方、本当のことなのだろう」
弥九郎は、そう言って、小さく笑った。
「お前が、いつも、一つの理由だけで動いたことなど、ござらぬからな」
その言い草に、わたしは、思わず苦笑した。見透かされていることに、悔しさよりも、むしろ、安堵に近いものを感じた。
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その夜、郷田十兵衛にも、この一件を伝えた。十兵衛は、しばらく、黙って聞いていたが、やがて、静かに口を開いた。
「陸には出ぬと決められたこと、正しゅうござる」
「十兵衛殿も、そう思われるか」
「生半な備えで戦場に出れば、味方の足手まといになるだけにて。それより、いま、こうして、身の丈を正しく見極められたことのほうが、よほど値打ちがござる。いずれ、その線を越えるときが来ましょう。そのときのために、いまは、しかと稽古を積んでおかれよ」
その言葉に、わたしは、深く頷いた。
「して、稽古のほうは、どこまで進んでおる」
わたしが、そう訊ねると、十兵衛は、少し思案する顔をした。
「殿の陣立ての読みは、めきめきと確かになっておられる。幸松や亀吉たちも、石を並べての図上の稽古には、よう食らいついてまいる。じゃが、絵図の上と、実際の戦場とでは、恐ろしさが桁違いにござる。矢が飛び、人が倒れ、血の臭いが立ち込める中で、なお冷静に石を動かせるかどうか。それは、実地で叩き込むしかござらぬ」
「その実地を、いま、無理にさせるわけにはまいりませぬ」
「さよう。此度は、あくまで海の助勢に留め、陸の実地は、もう少し先に取っておかれるがよろしゅうござる。焦って敗れれば、積み上げてきたものが、一度に崩れ申す」
十兵衛の言葉には、幾つもの戦場をくぐり抜けてきた者だけが持つ、重みがあった。
「十兵衛殿御自身は、いくさで、幾度、生きるか死ぬかの境を、くぐり抜けてこられましたか」
わたしが、そう訊ねると、十兵衛は、少し遠い目をした。
「数えたことは、ござらぬ。数えれば、恐ろしゅうなって、次の戦に出られなくなり申す。数えぬから、いまも、こうして立っておられるのやもしれませぬ」
その答えに、わたしは、少し考え込んだ。数えることを、あえて避ける。それもまた、一つの生き延び方なのだろう。数えることに慣れきった自分には、なかなか、真似のできぬ生き方だった。
「儂は、数の代わりに、勘を頼りにしてまいり申した。姐さんは、勘の代わりに、数を頼りにしておられる。どちらも、同じ場所へ辿り着くための、別の道にすぎませぬ」
その言葉に、わたしは、深く頷いた。
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翌朝、伊佐次と松吉を呼び、海からの助勢に向けた段取りを、あらためて話し合った。
「船は、幾艘、出せる」
「五艘は、すぐに動かせましょう。腕の立つ水手も、揃えられます」
伊佐次が、そう答えた。
「新居郡の湊まで、まずは物見を送っておきたい。細川方の兵站がどこにあるか、湊の様子はどうか、それを確かめてからでなければ、動きようがない」
「承知いたしました。松吉、頼めるか」
「お任せを」
松吉は、そう言って、胸を叩いた。四年のあいだ、幾度となく、こうした物見の役を任せてきた男だった。その顔つきには、慣れた者だけが持つ、落ち着きがあった。
「金子氏の手勢とも、話を通しておかねばな」
「はい。此度は、あくまで海からの助勢。陸の動きとの息を合わせねば、かえって仇となりましょう」
そう答えながら、わたしは、頭の中で、これから幾日かの段取りを、一つ一つ、組み立てていった。船の手配、水手の割り振り、金子氏との連携。数え上げるべきことは、いくらでもあった。それでも、陸には出ぬという一線を引いたことで、頭の中の算段は、いくらか、すっきりと見通せるようになっていた。できることと、できぬことを、正しく分ける。その一事だけで、これほどまでに、物事の輪郭が変わるのかと、あらためて思い知らされた。
灯を消す前に、帳に、その日のことを、書き記した。
金子氏への加勢、河野方より正式に下命。陸は固辞、海のみ引き受ける。桑原殿、得心。十兵衛殿、この判断を是とす。いずれ陸の線も越えねばならぬが、いまはまだ、その時にあらず。
書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。できることと、できぬことを、正しく分ける。それもまた、数を扱う者の、大事な務めの一つだった。
窓の外は、既に、すっかり夜が更けていた。虫の声が、遠くから、途切れることなく、静かに聞こえ続けていた。明日からは、また、忙しい日々が始まる。腹の子は、まだ、大きな動きも見せず、静かに、こちらの内側で育っている。この子が生まれるころ、この一党は、どこまで、その足場を確かなものにできているだろうか。そんなことを思いながら、わたしは、灯りを吹き消した。
床に就いてからも、しばらく、眠りは訪れなかった。陸の戦を固辞したという判断が、本当に正しかったのかどうか、頭の中で、幾度も、その道筋を辿り直していた。海の戦だけでも、確かに助けにはなろう。だが、それだけで、金子氏を守り切れるのかどうか、正直、確信は持てなかった。
隣の部屋から、弥九郎の寝息が、微かに聞こえてきた。この男もまた、同じ迷いを抱えながら、それでも、眠りに就く強さを持っている。その強さを、わたしは、いつも、少し羨ましく思っていた。数えることをやめられぬ自分の性分と、数えずとも眠りに就ける弥九郎の性分と。どちらが、この一党にとって、より確かな支えになるのか、まだ、答えは出ていなかった。




