第三話 境目の噂
応永三十四年(一四二七)五月 伊予国 怒和島 下怒和
腹が、少しずつ、目立ちはじめていた。
まだ、着物の上からは分からぬほどだったが、帯を締める段になると、以前とは違う膨らみを、指先が確かに感じ取るようになっていた。悪阻も、ようやく落ち着いてきたところだった。
朝のうちに、綾が、腹帯の具合を見に来てくれた。
「もう、そろそろ、締めはじめてもよろしいころかと」
「まだ、少し早いのではござりませぬか」
「早すぎるということは、ござりませぬ。慣らしておくほうが、後々、楽にござります」
綾は、そう言って、手際よく、帯の巻き方を教えてくれた。二人分の子を産んだ女の手つきには、迷いがなかった。締め方一つにも、力の入れどころ、緩めどころがあるらしい。教わりながら、わたしは、こういうことまで数えて覚えねばならぬのかと、少し可笑しくなった。
「あまり、きつう締めすぎては」
「はい。腹を締めるためではのうて、支えるためのものにござります。その違いを、忘れませぬよう」
綾の言葉には、いつも、実の伴った重みがあった。書物や伝聞では得られぬ、身をもって知った者だけの言い回しだった。
「五月というても、こうも忙しゅうては、ゆるりと休む間もござりませぬね」
綾が、そう言って、少し苦笑した。
「金子氏からの文が、また来ておりましょう」
「よう、ご存じで」
「湊の様子を見れば、分かります。使いの船が、いつもと違う慌ただしさで着いておりましたゆえ」
綾の目は、こういうところで、いつも、こちらの思う以上に、多くのことを見て取っていた。
その日、館の縁側で、金子氏から届いた進物の礼状を検めていると、弥九郎が、少し難しい顔をして、こちらへやってきた。
「新居郡から、また使いが来ておる」
「金子氏から」
「ああ。今度は、進物ではのうて、報せを持ってきておる」
わたしは、帳面を閉じて、弥九郎のあとについて、板間へ向かった。
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使者は、金子氏の家臣で、名を、新左衛門といった。歳の頃、三十半ば。旅塵にまみれた身なりで、疲れの色を、隠しきれずにいた。
「わざわざのお運び、ご苦労にござります」
わたしが、そう声を掛けると、使者は、深く頭を下げた。
「弥九郎様、千代様には、日ごろよりのお心配り、まことにかたじけのう存じます」
「して、報せとは」
弥九郎が、そう促すと、使者は、少し声を落とした。
「伊予・讃岐の境目にて、近ごろ、不穏な動きがござります」
「不穏な動きとは」
「細川方の兵が、こちらの領分に、幾度か踏み込みかけておるとの由。国境の些細な諍いといえば、それまでにござりますが、近ごろ、その頻度が、いささか増しておりまする」
その言葉に、わたしは、頭の中で、地図を思い描いた。新居郡は、伊予国の東の端、讃岐との境に近い。金子氏は、その境目を差配する在地の武家として、これまで、河野・細川、双方に、それぞれ相応の誼を通じてきた家だった。四国という土地そのものが、讃岐・阿波・土佐を細川一門が押さえ、伊予一国だけが、その色に染まっていない、という構図になっていることを、わたしは、以前、六郎太に調べさせて、既に頭に入れていた。伊予は、いわば、細川の勢力に囲まれた、一つの孤島のような立場にあった。
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「金子氏は、どちらの肩を持つでもなく、これまで、うまく渡ってこられたと聞いておる」
弥九郎が、そう言うと、使者は、力なく頷いた。
「さようにござります。ですが、その均衡が、近ごろ、崩れかけております」
「なぜ、崩れる」
「はきとしたことは、それがしにも分かりかねまするが……近ごろ、河野の御家中の争いが、伊予国内の隅々にまで、色を及ぼしはじめておるように見受けられます。両属の立場を保つことが、以前よりも、難しゅうなってまいりました」
その説明に、わたしは、静かに頷いた。河野氏の家督争いが、二神本家の一件から発して、伊予一国を巻き込む形に育ちつつある。その余波が、遠く離れた新居郡の境目にまで及んでいるのだとすれば、それは、決して他人事ではなかった。
「金子氏の当主は、いま、どのようにお考えか」
「殿は、まだ、様子を見ておられます。境目の諍いは、これまでにも、幾度かござりました。此度も、そのうちの一つで収まればよいがと」
その言い方には、どこか、自らに言い聞かせるような響きがあった。使者自身も、これが、これまでの小競り合いと同じ規模で収まるとは、心のどこかで、思い切れていないのかもしれなかった。
「境目の、どのあたりで、揉め事が起きておる」
わたしが、そう訊ねると、新左衛門は、懐から、粗末な絵図を取り出した。
「このあたりにござります。山の尾根を境に、これまで、両家、暗黙のうちに、手を出さぬ取り決めがござりました。それが、近ごろ、細川方の兵が、その尾根を、幾度か越えかけております」
「越えたのか、越えかけただけか」
「いまのところは、越えかけただけにて。ですが、これが、いつ、実際に越えてくるか、分かりませぬ」
わたしは、その絵図を、しばらく見つめた。境目の尾根一つを巡る話は、六島の漁場を巡って中島の宗兵衛と揉めた、あの一件を思い出させた。小さな境目の諍いは、双方の言い分次第で、いくらでも大きくなり得る。あのときは、境の瀬戸一つを巡る漁場争いだった。此度は、国と国とを跨ぐ境目の話であり、規模が違う。だが、綻びの育ち方そのものは、驚くほど、よく似ていた。
「金子氏は、この絵図を、河野方にも、既にお見せになったか」
「まだにござります。河野方までは、道が遠く、また、金子には、確かな早船を持ち合わせておりませぬ。弥九郎様の一党であれば、船の便がよいゆえ、まずは、こちらから、河野方へ、それとのう、この一件をお伝え願えぬかと、殿が、そう仰せになりまして」
その答えに、わたしは、少し考え込んだ。金子氏が、自らの足では河野方に届けきれず、こちらの船の便を頼って、仲立ちを申し入れてきたという事実には、それなりの意味があった。両属の立場にある家が、どちらの手を借りて動くかという選び方は、その家の本音を、ある程度、映し出す。
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使者を下がらせたあと、弥九郎と二人、あらためて、この話を検めた。
「金子氏の縁は、これまで、進物と交易の付き合いに留めてきた」
弥九郎が、そう切り出した。
「はい。あちらの境目の話にまで、こちらが深く踏み込む筋ではござりませぬ」
「だが、放っておいてよい話でもなさそうだ」
「さようにござります」
わたしは、頭の中で、これまでの経緯を、あらためて数え直した。金子氏との縁は、これまで幾年もかけて、緩やかに育ててきたものだった。挨拶の使者を送り、唐物を融通し、少しずつ、互いに顔の見える間柄になってきた。その縁が、ここへ来て、境目の諍いという形で、初めて、こちらの算段に絡んでくることになる。
「金子氏は、両属の立場にあると申したな」
「はい。河野・細川、双方に誼を通じておりまする」
「なぜ、両属などという、危うい綱渡りを、続けねばならぬ」
弥九郎が、そう訊ねた。
「筋だけで申せば、金子氏の領分は伊予国内、河野氏の分国のうち。細川方は、あくまで境目を接する隣国の勢力にすぎませぬ。本来なら、己が国の守護——河野方一本に、しかと、頼ればよいだけの話にござります」
「本来なら、と申したな」
「はい。河野氏が、家中の内訌を、幾年も、収められずにおるからこそ、境目の武家は、いざというときに、河野方だけでは、守り切ってもらえぬかもしれぬと、そう見切っており申す。だからこそ、隣国の細川にも、誼を通じ、両属という危うい綱渡りを、続けざるを得ぬのでござります」
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「金子氏が、いざ河野方に頼るとして、河野方は、応じられるか」
弥九郎が、そう重ねて訊ねた。
その問いに、わたしは、すぐには答えられなかった。河野氏はいま、教通方と通春方との内訌の渦中にある。伊予国内の在地武家への目配りに、以前ほどの余裕はないはずだった。金子氏が助けを求めても、河野方が、それに十分に応じられるかどうかは、まだ分からなかった。
「分かりませぬ。恐らくは、それゆえの両属にござりましょう。ですが、筋から申せば、金子氏が、まず動くとすれば、河野方の側にござりましょう」
「こちらは、どう動く」
「金子氏の頼みは、この一件を、河野方へお伝えするだけのこと。それくらいは、お引き受けいたしとうござります。断れば、これまで育ててきた縁を、みずから、無駄にするようなもの。ただ、それより先——兵を割く、あるいは、こちらが深く関わるところまでは、金子氏の求めが、こちらに直に向くまで、いまは、様子を見るに留めとうござります」
「河野の御家中の争いが、こんなところにまで、余波を及ぼしておるとはな」
弥九郎が、そう呟いた。
「二神本家の一件から始まった話が、伊予国内の隅々にまで、色を及ぼしはじめておりまする。新居郡の境目も、その一つにすぎませぬ。おそらく、他にも、似たような綻びが、あちこちに出ておりましょう。表には出てこぬだけで」
「厄介な話だ」
「厄介ではござりますが、こちらにとって、悪い話ばかりでもござりませぬ」
「どういうことだ」
「河野方が、伊予国内の隅々にまで目が届かなくなっておるということは、裏を返せば、こちらのような者が、動きやすうなるということでもござります。金子氏が、いずれ、こちらを頼らざるを得なくなる日が来るとすれば、それは、こちらにとって、悪い巡り合わせではござりませぬ」
弥九郎は、それを聞いて、少し驚いた顔をした。
「お前は、他人の困り事からも、種を見つけ出すのだな」
「困り事は、いずれ誰かの手を借りねば、収まりませぬ。その手が、こちらの手であれば、それだけ、こちらの縁が深うなりましょう」
弥九郎は、それを聞いて、声を立てて笑った。
「相変わらず、抜け目がないな」
「抜け目をなくせば、この一党は、とうに立ち行かなくなっており申しましょう」
弥九郎は、それを聞いて、深く頷いた。
「お前らしい、慎重な物言いだ」
「境目のことは、火種になりやすうござります。急いて手を出せば、こちらまで、その火に巻かれかねませぬ」
「では、いましばらくは、待つということだな」
「はい。ただ、金子氏の動きだけは、しかと見ておきとうござります」
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新左衛門が帰る前、もう一度だけ、言葉を交わした。
「殿には、いかがお伝えすればよろしゅうござりましょう」
「いまは、河野方の出方を、まず確かめられるよう、伝えてほしい。こちらも、動きは、しかと見ておく。何かあれば、いつでも報せてくだされ」
「かたじけのう存じます。正直、こちらへ参るまで、どう伝えたものか、思い悩んでおり申した。ですが、お二方の落ち着いたご様子に、いくらか、気が楽になり申した」
新左衛門は、そう言って、深く頭を下げた。旅の疲れの色は、まだ顔に残っていたが、来たときよりは、いくらか、肩の力が抜けているように見えた。
「殿にも、よしなに」
「はっ。委細、承知いたしました」
新左衛門を乗せた船が、湊を離れていく。その背を見送りながら、わたしは、松吉に、いくつか、指図を与えた。
「新居郡と讃岐の境目のこと、これからも、細かく報せを集めておいてほしい。河野方の動き、細川方の動き、両方じゃ」
「承知いたしました」
「急ぎではない。だが、途切れさせるな」
松吉は、そう言われることに、もう慣れた様子で、深く頷いた。
新左衛門の船が見えなくなったころ、郷田十兵衛が、稽古を終えたばかりの様子で、湊に姿を見せた。
「境目の話、少し、小耳に挟み申した」
「十兵衛殿にも、御意見を伺いとうござります。境目の兵の動かし方について」
わたしが、そう頼むと、十兵衛は、少し考える顔をした。
「国境の小競り合いというものは、たいがい、当人たちが思うておるより、根が深うござる。尾根一つを巡る話でも、双方の言い分が、幾世代にもわたって積み重なっておることが、珍しゅうござらぬ」
「今度の一件も、そうだと」
「まだ、断じるには早うござる。ですが、河野の御家中が乱れておるいまは、隣国が、それに乗じて、境目を試してくることは、大いにあり得申す。用心なさるがよろしい」
その言葉に、わたしは、深く頷いた。海の戦の勘とはまた違う、陸の政の機微を、十兵衛は、いつも、的確に言い当てた。
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湊に立って、遠ざかっていく船を、しばらく見送った。
境目の諍いというものは、いつも、こういう小さな綻びから始まる。怒和島に流れ着いたばかりのころにも、似たような小競り合いを、幾つも見てきた。小さな綻びが、放っておかれるうちに、いつしか、大きな裂け目に育っていく。それを、幾度も、この目で見てきた。
新居郡の境目もまた、その一つになるのかどうか。いまはまだ、はっきりとは見えなかった。ただ、金子氏との縁が、これまでの進物と交易の付き合いから、また一段、違う重みを帯びはじめていることだけは、確かだった。
腹に、そっと手を当てた。この子が生まれるころには、新居郡の境目は、どうなっているのだろうか。穏やかに収まっているのか、それとも、もっと大きな火種に育っているのか。
館へ戻る道すがら、風が、少し冷たく感じられた。五月とはいえ、海からの風は、まだ肌寒さを残していた。わたしは、頭の中の帳に、その日のことを、静かに書き足していった。
新居郡の境目、細川方との小競り合い、近ごろ頻度増す。金子氏、両属の均衡、崩れかけておる由。金子氏の頼み、河野方へ伝える手筋のみ、お引き受けする。兵を割くところまでは、まだ動かず、様子見。深追いせず、されど、見過ごさず。
書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。この綻びが、この先、どう育っていくのか。答えは、まだ、誰も知らなかった。
その夜、弥九郎が、渡りに来た。灯りを落とした部屋で、しばらく、他愛のない話をしたあと、弥九郎が、ふと、こちらの腹に手を当てた。
「近ごろ、大きゅうなってきたな」
「まだ、それほどでは。これから、もっと大きゅうなり申す」
「そのころには、新居郡の話も、片がついておろうか」
「片がつくどころか、まだ始まってすらおりませぬ。この先、どう転ぶかは、まだ誰にも見えませぬ」
「見えぬなら、見えぬなりに、備えるしかないな」
「はい。備えて、待ちまする。十兵衛殿も、隣国が、河野の乱れに乗じてくることは、大いにあり得ると仰せでした」
「十兵衛にも、既に話したのか」
「湊で、たまたま行き会いました。陸の政の機微は、あの御方の言葉のほうが、よほど的を射ておりまする」
弥九郎は、それを聞いて、少し苦笑した。
「近ごろは、十兵衛のほうが、俺よりも、お前の相談相手になっておるのではないか」
「殿は、殿にしかできぬことを、しかとなさっておられます。相談する相手が増えるのは、悪いことではござりませぬ」
その答えに、弥九郎は、それ以上、何も言わなかった。
弥九郎は、それを聞いて、小さく頷いた。手のひらの温もりが、腹の上に、しばらく、静かに残っていた。外では、夜風が、板戸を、かたかたと鳴らしていた。境目の向こうで、何が起きつつあるのか、いまはまだ、誰にも分からなかった。ただ、その静けさの裏に、確かに何かが、ゆっくりと動きはじめている気配だけは、拭いきれずにいた。




