第二話 銅の山、育つ
応永三十四年(一四二七)四月 伊予国 新居郡 別子山中
海を渡り、川を遡って、別子の谷へ入ると、いつも、空気の匂いが変わるのを感じた。潮の香りに代わって、土と、木と、鉱石の焼けるような匂いが、鼻を突く。四年前、初めてこの谷を訪れたときには、ただの獣道と、赤く濁った水の流れがあるだけの場所だった。
いまは、違う。
索道の滑車が、規則正しい音を立てて回っていた。
木箱に詰めた鉱石が、谷の上から下へ、次々と滑り下りてくる。四年前、初めて綱を張ったころには、荷を一つ吊るすたびに、皆が固唾を呑んで見守ったものだった。いまでは、その光景も、すっかり見慣れたものになっている。
伊佐次が、山道の途中で、こちらを出迎えた。
「姐さん、よう、お越しくださいました。この身重の折に」
「まだ、歩くくらいは障りない。医者にも、そう言われておる」
「くれぐれも、ご無理のなきよう」
そう案じながらも、伊佐次の顔には、隠しきれぬ誇らしさが浮かんでいた。索道の下、鉱石を積んだ荷車が、幾台も並んでいる。トロッコ道のつづら折りを、牛が、慣れた足取りで荷を曳いていく。
「この一月の産出は」
わたしが、そう訊ねると、伊佐次は、懐から帳面を取り出した。
「先だっての倍近くにござります。新しい坑道が、思うたよりも、よい鉱脈に当たり申した」
その数字に、わたしは、小さく頷いた。四年前、この谷の赤い水に気づいたときには、これほどの産出になるとは、正直、思ってもいなかった。
「索道の具合は、どうか」
「あれからも、幾度か綱を替え申した。切れることも、以前ほどはござりませぬ。ようやく、この谷の風と重さに、綱の綯い方が、馴染んでまいったようで」
「牛は、幾頭になった」
「三頭にござります。荷車も、五台に増やし申した。牛の飼葉のほうも、思うたより手間が掛かりまするが、人足で担ぎ上げるよりは、よほど早うござります」
伊佐次は、そう言いながら、道の脇に積まれた木箱を、一つ一つ数えるように見渡した。四年前、ただの獣道しかなかった谷に、いまでは、荷車の通える道と、幾つもの小屋と、絶え間なく動く索道とが、確かに根を張っていた。
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坑道の入り口まで進むと、久蔵の一族の男たちが、幾人か、休憩を取っていた。皆、顔や手が、鉱石の粉で黒く汚れている。
「千代様」
年嵩の一人が、こちらに気づいて、頭を下げた。
「精が出るな」
「精を出さねば、なりませぬ。この技を使わせていただいておる恩を、返さねば」
その言葉に、わたしは、少し複雑な思いを抱いた。日の当たる場所で技を使わせてほしい、それだけを望んで、この一党に加わった一族だった。その願いが、こうして日々の働きとして実を結んでいるのを見るのは、喜ばしいことだった。だが、それと引き換えに、この男たちが背負っている労苦の重さも、また、確かなものだった。
「新しい坑道の様子は、どうか」
「順調にござります。ただ」
男が、そう言って、少し眉を寄せた。
「先だって、坑の奥で、水が出申した」
「出水か」
「はい。幸い、大事には至りませなんだが、水を汲み出す手間が、また一つ、増え申した」
わたしは、頭の中で、数を組み直した。産出が増えれば増えるほど、坑道は深く、長くなる。深くなれば、出水も、崩落の危うさも、それだけ増していく。木材を惜しんで支柱を減らせば、坑が持たない。かといって、支柱に木を使いすぎれば、いずれ、木そのものが尽きる。この谷もまた、怒和島と同じ壁に、いつか行き当たるのかもしれなかった。
「支柱の木は、足りておるか」
「いまのところは。ですが、この先、坑がさらに深うなれば、いずれ、心許のうなりましょう」
「分かった。その分は、これからの手当てを、あらためて考える」
男は、深く頭を下げた。解決したわけではない。だが、いま、この場で、無理な約束をするよりは、正直に、まだ答えを持たぬことを伝えるほうが、後々の信を損なわずに済む。それも、この四年で学んだことの一つだった。
坑道の中を、実際に覗きに行った。松明の灯りが、湿った岩肌を、ぼんやりと照らしている。奥へ進むほど、空気が重くなり、頭上から、絶え間なく水の滴る音が聞こえてきた。支柱に使われた木材が、あちこちで、既に黒ずんでいる。まだ折れてはいないが、いつまで持つかは、誰にも分からなかった。
「この支柱、そろそろ替え時か」
「あと半年は、持ちましょう。ですが、それより先は、正直、読みきれませぬ」
案内してきた男が、そう答えた。頭の中で、また一つ、数を書き足した。木材、坑道の支柱、あと半年。次の手当てを、それまでに、必ず用意せねばならない。
頭上から、絶え間なく滴り落ちる水の音を聞いているうちに、頭の隅で、何かが、微かに動いた。
水を汲み出す手間。桶で汲み、綱で引き上げ、また汲む。その繰り返しに、幾人もの手が取られている。前の生で、そういう手間を、まるごと省く道具があったはずだった。軸に螺旋の羽根を巻きつけ、それを回すだけで、下から上へ、水が絶え間なく上がっていくという仕掛け。名までは、はっきりと思い出せない。ただ、その仕組みの形だけは、頭の隅に、確かに残っていた。
「桶職人と、船大工を、幾人か、この谷へ呼べるか」
わたしが、そう訊ねると、伊佐次は、怪訝な顔をした。
「桶職人と、船大工にござりますか。坑道の普請には、あまり縁のなさそうな者たちにござりますが」
「縁を作る。軸に、螺旋に巻いた板を取りつけた道具を、思案しておる。うまくいけば、桶で汲むより、よほど楽に、水を上げられるようになろう」
「螺旋、にござりますか」
伊佐次は、なお、腑に落ちぬ顔をしていたが、こちらの思いつきが、これまで幾度も、思わぬ形で実を結んできたことを、この四年で、よく知っている男でもあった。
「委細は、また、絵図に描いて渡す。できるかどうかは、作ってみねば分からぬ。だが、試す値打ちはあろう」
「承知いたしました。呼び寄せてみましょう」
まだ、絵図の上の思いつきにすぎなかった。うまくいく保証は、どこにもない。それでも、坑道の奥で、絶え間なく滴り続ける水の音を、ただ聞き流しておくよりは、よほどよかった。
外へ出ると、日の光が、思いのほか眩しく感じられた。坑道の中の湿った暗さと、外の乾いた明るさとの落差に、しばらく目が慣れなかった。
その帰り道、ふと、別の思案が、頭の隅で動いた。螺旋の羽根を軸に巻きつける、あの仕掛け。同じ、螺旋を刻む技を、水を汲み上げる以外にも、使える先があるはずだった。
「伊佐次。もう一つ、頼みたきことが」
「なんにござりましょう」
「椿の実から、油を搾る道具を、思案しておる。いまは、実を石でつぶし、蒸して、絞り布で締め上げるだけの、手間のかかる遣り方じゃ。螺旋の力を使えば、もっと、強う、確かに、絞れるはずじゃ」
伊佐次は、少し、驚いた顔をした。
「あの、坑道の水汲みの道具と、同じ仕掛けにござりますか」
「同じ理屈じゃ。軸に螺旋を刻み、それを回せば、じわりと、下へ、力がかかる。水を上げるのも、油を絞り出すのも、根は、同じことよ」
「なるほど。螺旋の刻み方さえ覚えれば、使い道は、一つに限らぬのですね」
「さよう。この技を、しかと、この島の職人の手に、覚え込ませておきたい」
わたしは、そう答えながら、頭の中で、椿だけでなく、いずれ、菜種からも、同じ道具で、油が絞れるはずだと、静かに思い描いた。灯火にも、機の滑りをよくする油にも、使い道は幾らでもあった。
それに、螺旋を正しく、狂いなく刻む技そのものが、この島に根付くことにも、意味があった。いまは、水を汲み、油を絞るだけの技にすぎない。だが、この手の、細かく、確かな細工を、幾人もの職人が、当たり前にこなせるようになれば、その先に、また別の何かが、いつか、形になる日が来るかもしれない。何になるかは、いまは、まだ、はきとは見えなかった。それでも、技を、いまのうちに、この島の手に、しかと、蓄えておく。それだけは、確かなことだった。
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坑道から戻る道すがら、伊佐次が、また別の話を切り出した。
「阿蓮殿から、文が届いており申す」
「読んでみよ」
伊佐次が広げた文には、明への銅の取引が、これまでとは比べものにならない規模に育ちつつあることが、細かな数字とともに記されていた。船の数、貫高、値の動き。かつては、細々とした量を、いわば伝手のよしみで運んでもらっていた取引が、いまでは、阿蓮の一存では抱えきれぬほどの量になっているという。
「阿蓮殿は、なんと申しておる」
「向こうでも、もう一艘、船を増やしたいと。ただし、それには、こちらからの銅を、もっと確かな量で、決まった時期に届けられる目算が要ると」
「船を増やすとなれば、水手も増やさねばならぬな」
「はい。泉州を窓口とする道は、もう幾年も続いておりますが、これほどの規模になるとは、阿蓮殿自身も、驚いておられる様子で」
伊佐次は、そう言って、文の続きに目を落とした。
わたしは、しばらく考えた。産出が増え、取引が育つのは、喜ばしいことだった。だが、量が増えるほど、それを支える段取りも、より確かなものにせねばならない。船の手配、坑道の安全、木材の手当て。喜びの裏に、次から次へと、新しい算段が積み重なっていく。この四年、幾度となく繰り返してきたことだった。
「阿蓮殿には、いま少し、こちらの目算が固まるまで、待っていただくよう伝えよ」
「承知いたしました」
「それと、文には、他に何か」
「唐物の値のことも、少し。近ごろ、明のほうでも、銅の値が上がっておるとか。こちらの銅が、思うたより高う売れるようになっておるそうにござります」
その報せに、わたしは、少し考え込んだ。値が上がっているのなら、いまのうちに、できるだけ確かな量を、確かな時期に届けられる仕組みを整えておくべきだった。値というものは、いつまでも高いままではいない。上がったものは、いずれ、また下がる。その波を読み違えず、上がっているうちに、できるだけの実を刈り取っておく。それも、数を扱う者の務めだった。
「船をもう一艘という話、こちらからも、前向きに進めるよう伝えよ。ただし、無理な量を約束はせぬ。届けられる分だけを、確かに届ける」
「承知いたしました」
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山を下りる道すがら、権七が、荷を運ぶ牛の手綱を引きながら、こちらに声を掛けてきた。
「千代様、この山も、ずいぶんと様変わりいたしましたな」
「そうさな。初めてここへ来たときとは、まるで別の山じゃ」
「祖父が、この谷で命を落としたと聞いたときには、二度と足を向けとうない場所だと思うており申した。それが、いまでは、この一党を支える山になっておる」
権七は、そう言って、少し感慨深げに、山肌を見上げた。祟りではなく、ただの足の踏み外しだったという、あの祖父の死の真相を知らされてから、権七のこの山への向き合い方も、幾らか変わったようだった。
「祖父が生きておれば、この様変わりを、どう見たであろうな」
「案じたか、あるいは、喜んだか。それは、わたくしにも、分かりかねまする」
「両方、かもしれぬな」
権七は、そう言って、小さく笑った。牛の手綱を握る手つきに、迷いはなかった。かつて、この谷を恐れていた男が、いまでは、誰よりも慣れた足取りで、山道を歩いている。その姿もまた、この四年の積み重ねが確かに残した跡の一つだった。
「まだ、この山には、掴みきれぬ危うさが残っておる。出水も、崩落も、まだ、根から絶やしたわけではない」
「それでも、山は、確かに育っており申す」
その言葉に、わたしは、頷いた。育つということは、同時に、新しい危うさを幾つも抱え込むということでもあった。それでも、育たぬよりは、よほどよい。
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湊で船を待つあいだ、わたしは、頭の中で、この山のこれからを、あらためて数え直していた。
この谷は、いまや、この一党にとって、六島に劣らぬ実りをもたらす場所になっていた。だが、その実りを支える権原は、いまだ、はっきりとしたものではなかった。金子氏との縁のよしみで、事実上の差配は許されている。だが、それは、あくまで、なし崩しの黙認にすぎない。いつか、誰かが、この谷の実りに目をつけ、権原を盾に、横槍を入れてくるかもしれなかった。
その壁を、いつか、正式な形で越えねばならない。新居郡そのものを、名実ともに、この一党が差配する立場を得られれば、この谷も、別子の実りも、ようやく確かな足場の上に立つことになる。金子氏との縁を、どう、その先へと育てていくか。まだ、はっきりとした道筋は見えていなかった。それでも、その日が、そう遠くない先に来るだろうという予感だけは、確かにあった。
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館へ戻る船の上、揺れる甲板に座りながら、わたしは、今日見聞きしたことを、頭の中の帳に書き足していった。
産出、倍近くに育つ。新しい坑道、よい鉱脈に当たる。だが、出水、新たに一つ。明への銅の道、阿蓮殿の手に余るほどの規模に育つ。船をもう一艘、増やす話。木材の手当て、いずれ、また課題になろう。
書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。この谷は、確かに、豊かに育ちつつあった。だが、豊かさは、いつも新しい危うさと、対になってやってくる。数を数えることに慣れた頭でも、その両方を同時に見据えることは、簡単ではなかった。
腹に、そっと手を当てた。この子が生まれ、育つころには、この山は、どれほどの姿になっているのだろうか。豊かに実った銅の山を、見せてやれるだろうか。それとも、また別の壁に、行き当たっているだろうか。
答えは、まだ、誰にも分からなかった。ただ、育て続けるしかない。山も、この腹の子も、同じことだった。
船縁に打ち寄せる波の音を聞きながら、わたしは、しばらく、その揺れに身を任せていた。
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館に戻ると、弥九郎が、板間で、六島からの報せを検めていた。わたしの姿を見ると、すぐに、帳面を置いた。
「別子は、どうだった」
「思うたより、よう育っており申す。ただ、出水が一つ、新たに出申した。木材のこともある。手放しでは喜べませぬ」
「相変わらず、喜びと案じ事が、いつも一緒くたに来るな」
弥九郎は、そう言って、苦笑した。
「船に乗って、腹に障りはせなんだか」
「揺れは、いつもどおりにござります。医者にも、船くらいは案ずるなと言われており申す」
「無理はするな」
「しており申しませぬ。ただ、目で確かめねば、数はまとまりませぬゆえ」
弥九郎は、それを聞いて、しばらく黙っていた。それから、少し声を落として続けた。
「新居郡のことも、考えておるのか」
その問いに、わたしは、少し驚いた。同じことを、船の上で考えていたばかりだった。
「なぜ、それを」
「お前の顔を見れば、分かる。何か、まだ手にしておらぬものを、数えておる顔だ」
「金子氏との縁だけでは、いずれ、心許のうなりましょう。あの谷の実りを、確かな足場の上に置きとうござります」
「急ぐことか」
「急ぎはいたしませぬ。ですが、忘れずに、頭の隅に置いておきたい話にござります」
弥九郎は、それを聞いて、深く頷いた。
「お前が忘れぬというなら、忘れぬのだろうな」
「忘れませぬ。忘れたことなど、これまで、ござりませぬ」
その言い草に、弥九郎は、声を立てて笑った。
「頼もしいことだ」
「頼もしいだけでは、山は育ちませぬ。日々の手当てがあってこそにござります」
「分かっておる。お前の手当ての細かさには、いつも、驚かされておる」
夜の帳が下りるころ、わたしは、その日の数々を、あらためて頭の中で数え直しながら、静かに帳を広げた。産出、倍近くに育つ。出水、木材の心配、変わらず。明への銅の道、船を一艘増やす話。新居郡の権原、いずれ確かにせねばならぬ。書き記す一行一行に、この四年で積み上げてきた重みが、確かに宿っていた。




