幕間 十五 潮 村上孫六
応永三十四年(一四二七)九月 伊予国 来島
潮は、嘘をつかん。
人は嘘をつくが、潮は、つかん。満ちるときに満ち、引くときに引く。わしは、それだけを信じて、三十余年、海で生きてきた。
じゃが、潮を、数で知っておる者が、この世におるということは、六年前の五月に、初めて知った。
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瀬戸の狭まったところで、二神の船団と行き合うた日のことじゃ。
わしは、弥九郎殿の船を見るより先に、船の並べ方を見た。
妙な並べ方じゃった。海で育った者は、潮に逆らわん。流れに乗せて、船を置く。ところが、あの船団は、潮の変わり目を、逆から数えて置いておった。申の刻を、あの組み方の終わりに据えて、そこへ向けて、わしらを押し込む形じゃった。
潮を知らん者の組み方ではない。かというて、海で生まれた者の組み方でもない。潮を、表で知っておる者の組み方じゃった。
艫に、女が立っておった。
遠目に、背の細い女が、弥九郎殿の船の艫近くに、立っておる。誰も、その女に指図せなんだ。女も、誰にも指図せなんだ。ただ、わしらの船が動くたびに、その目が動いた。潮の変わる刻限を、目で数えておる顔じゃった。
わしは、申の刻の前に、退いた。
あとで聞いたところでは、弥九郎殿は、あれは深追いせぬ男じゃ、と言うたそうな。そうじゃろう。深追いはせん。じゃが、あの日の退き方は、深追いせぬ男の退き方ではなかった。罠が閉じる刻限を、先に読んだ者の退き方じゃった。
向こうは、わしを、勘で動く男と見たらしい。勘で退いたのではない。あの女の罠を、読んで退いたのじゃ。
読まれたことを、あの女は、知らん。
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あの女房殿が、千代様と呼ばれる人じゃと知ったのは、それからしばらくあとのことになる。
三年前の秋、因島が焼かれかけた夜のことは、忘れん。
名も知れぬ在地の一党が、船十数艘で押し寄せてきた。湊が燃えた。わしは、舳先に立って、膝を屈するか、死ぬかを、数えておった。
夜明け前に、横合いから六艘が割って入った。
弥九郎殿は、約定もないのに、来た。恩を着せる言葉を、一言も言わなんだ。あれが、いちばん、わしを縛った。
じゃが、わしは、あの夜、別のことにも気づいておった。あの六艘は、夜の潮の最短の道を取って、来た。夜の潮の、最短を。あんな道は、海で生まれた者でも、昼でなければ選べん。あの女房殿が、潮を引いたのじゃ。島に残って、帳の上で、夜の海に線を引いた。
その線の上を、六艘が走ってきて、わしの島を、救うた。
救われたことを、恥じてはおらん。ただ、あの線を引いた手は、遠い島の板間にあって、海の上のわしらの命を、数えておった。そのことが、有り難くもあり、恐ろしくもあった。
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代官の任を授かった日、千代様は、案じておられることがあるか、とわしに訊いた。
わしは、思うがままには動けぬ身になり申した、と答えた。自由を手放す重みを噛みしめておる、と。
半分は、まことじゃった。
あとの半分は、言うておらん。
安堵じゃった。わしは、疲れておった。流れ着いた島で、地の者と揉め、潮と戦い、一党を食わせ、独りで背負うてきた二年と、そのあとの歳月に、疲れておった。
初めに建てた小屋は、地の者に、二度焼かれた。船の上で死んだ若いのの名を、わしは、全部、覚えておる。覚えておる名の数が、増えるたび、夜の潮が、重うなった。
後ろ盾ができる、と聞いて、わしの肩から、重いものが落ちた。落ちたと感じた自分が、恥ずかしゅうて、自由を手放す覚悟、という言葉に、包んだのじゃ。
千代様は、重みを独りで背負わずともよろしゅうござります、と言うた。船を出す折には、必ず、こちらからも支えまする、と。
あの言葉は、わしの言うた半分に向けられたものではなかった。言わなんだ半分に向けられておった。見抜かれたのは、翳りの理由ではなく、翳りがあるということじゃった。それだけで、足りた。
同じ日に、孫太郎の元服の烏帽子親を、弥九郎殿に頼んだ。後ろ盾の証にするためじゃ、と皆は思うたじゃろう。それもある。じゃが、わしが頼みたかったのは、損得の外から手を差し出す男に、あの子を預けることじゃった。
弥九郎殿は、一字を授けた。定、の字じゃ。授けたあとで、少し照れて、盃を傾けた。あの男は、自分が名を授けられたことのない人間じゃと、聞いた。授けられたことのない名を、授ける側に回った自分に、まだ、気づいておらん。
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能島の約束の一年が来て、孫太郎に、潮の見立てを任せた。
一度目は、三艘が岩に乗り上げた。
あの失敗は、わしには、分かっておった。
出る朝、船の上から、潮の色を見て、半刻のうちに変わる、と思うた。孫太郎は、四半刻、早う読んでおる。わしの目と、あの子の目とが、四半刻、ずれておった。
言わなんだ。
言えば、あの子は、わしの目で、潮を読むようになる。わしの目は、わしが死んだら、なくなる。あの子には、あの子の目が要る。三艘の船と、岩と。死人の出ぬ場所で、あの子に、外させた。
外させるために、わしは、あの朝、舳先に、島でいちばん泳ぎの上手い者を、三人、置いた。
二度目は、あの子の目が、寸分違わなんだ。
弥九郎殿は、あとで、わしを見て、大層喜んでおったが、少し、寂しそうでもあった、と言うたそうな。寂しかったのではない。あの子に、四半刻の痛みを教えた自分を、少しだけ、疑うておっただけのことじゃ。その疑いは、千代様にも、弥九郎殿にも、見えておらん。
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来島では、余所者に水先を頼むのは腰抜けの証じゃ、と言う頭がおった。
わしは、単身、その頭の家を訪ねた。誇りを捨てよとは申さぬ、と言うた。独りで戦い続けるには、この歳月は、あまりに長い、とも言うた。
あれは、策ではない。千代様に言えなんだ半分を、初めて、他人の前で、口にしたのじゃ。口にして、わしは、初めて、楽になった。歩みが届いたのだと、思うた者もおるじゃろう。歩みではない。疲れじゃ。
疲れを隠さずに差し出した者の言葉は、誇りを守ろうとしておる者にこそ、届く。あの頭は、黙って、茶を淹れ直した。
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来島の頭たちを酒宴に招いた夜、一人の頭が、わしの耳元に、顔を寄せてきた。
「二神様の御内に、数で海を動かす女房殿がおられると聞く。この水先の仕組みも、その女房殿の入れ知恵と聞くが、まことか」
わしは、笑うた。
「台所の米俵を、数えておるだけの、数え好きな女房殿じゃ」
嘘じゃ。
あの女房殿のことは、わしの一党の者にも、口にさせておらん。命じたのではない。わしが、口にせんだけじゃ。口にせんわしを見て、わしの一党も、口にせん。
潮を数で読む女が、世に知れれば、潮を数で読む女を、潰しに来る者が出る。弥九郎殿の船団より、あの女房殿のほうが、よほど、潰しやすい。船は沈めねば潰せんが、女房殿は、噂一つで、潰せる。
千代様は、わしに、礼を言うた。この一年の働きあってのこと、と。わしは、少し、照れた顔をした。
照れたのは、半分じゃ。あとの半分は、嘘を吐いた顔を、隠すためじゃった。
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夕刻の来島の水道は、潮が、引きはじめておる。
三島の主、と呼ばれる。因島、能島、来島。わしの名は、これから、海の上で、遠くまで届くじゃろう。
あの女房殿の名は、届かん。届かせんのは、わしの仕事の一つじゃ。誰に命じられたのでもない。わしが、そう決めた。
申の刻が、近い。潮が、変わる。
わしは、舳先に立って、目で、数えた。海で生まれた者は、数えずとも分かる。じゃが、数えてみるのも、悪うない。
数えて、初めて、見えるものがある。六年前に、あの艫の上の女房殿が、教えてくれたことじゃ。




