幕間 十四 結 荒瀬弥九郎
応永三十四年(一四二七)九月 伊予国 怒和島 下怒和
俺は、字が読めん。
読めんが、数は、数えられる。十までは、指で足りる。足りん数は、縄に結ぶ。船乗りの、昔からのやり方だ。結び目一つが、一日。三つ並べて、三日。
船箱の底に、一本、縄がある。千代には、見せたことがない。
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その縄には、結び目が、二種類ある。
固く結んだのと、緩く結んだの。固いのは、千代のもとへ渡った夜。緩いのは、渡らなんだ夜。
いつから結びはじめたか、はっきりしない。千代が、閨で話を切り出すのを、手札として使っていると気づいた夜だったか。気づいておった。気づいておって、乗った。乗った夜を、数えはじめた。
あいつが数えるなら、俺も数えようと思うた。指では足りんから、縄にした。
お前は、俺を、うまく使うな、と言うた夜がある。気づいておらんと思うておるか、四年前から気づいておる、気づいておって、乗っておる、そのほうが面白い、と。
あれは、本心の半分でしかなかった。
面白いから乗っておったのではない。乗っておらねば、あいつは、手札を使う理由を失う。理由を失えば、俺の傍に来る理由も、失う。手札でも、理由でも、よかった。傍にいるなら、使われる側で、構わなんだ。
あいつは、答えなんだ。答える言葉を、持たなんだのだろう。俺は、それ以上、問わなんだ。
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一昨年の冬、六郎太が、薦田殿の一件を持ち帰った夜のことを、覚えておる。
板間は、一瞬、静まり返った。やがて、沸いた。俺も、よき機転であった、と言うた。六郎太の顔は、大役を果たした男の顔だった。あの顔を、曇らせたくはなかった。
出来すぎた話だった。
それより、千代の顔だ。報せを聞くあいだ、あいつは、一度も、驚かなんだ。驚かぬ顔は、驚く顔より、よう見える。しかも、皆が下がったあと、厠へ立った帰りに、裏の木戸から出ていく、墨染めの背を見た。行然だ。
聞けば、あいつは答える。答えて、嘘を吐く。吐けんほど、下手な女ではない。ただ、俺に吐く嘘は、顔に出る。顔に出る嘘を吐かせるのは、嫌じゃった。
それに、あの策は、俺が聞いて、俺が決めた。銀の箸の策だ。毒が偽でも、真でも、決めたのは、俺だ。小者がどうなったか、箸の先に何が塗られておったのか。聞けば知る。知れば、決めた者として背負う。背負う用意は、ある。ただ、あいつの口から、いつか、聞きたかった。
聞いた上で、最後に決めるのは、俺だ。だが、聞く前に、決めてしまうこともある。あれは、そういう夜だった。
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渡りを減らしたのは、俺だ。いや、千代だ。
婚礼のあと、あいつは言うた。島の者に婿と認めさせるには、正室のもとへ通え、と。俺は、腹が立った。喉まで出かかった言葉を、飲んだ。飲んだ代わりに、言われたとおりにした。
綾のもとが、苦役だったわけではない。綾は、良い女房だ。それが、厄介だった。通うたびに、縄に、緩い結び目が増えた。
千代は、一度も、来い、とは言わなんだ。
言わぬ女だと思うた。言わぬことで、俺を試しておるのかとも思うた。違う。あいつは、言い方を、知らんのだ。数えることは知っておる。頼むことは知っておる。だが、来てくれ、と、ただそれだけを言う口を、あいつは、持っておらん。
あいつの理屈を、あいつ自身が破れんように、俺が守った。守りすぎた。
板間で、能島の話をした夜。あいつは、あっさり引いた。珍しいな、お前が、あっさり引くとは、と俺は言うた。殿の御判断が正しかろうと思うたまでにて、と、あいつは答えた。
あのとき、背筋が冷えた。引かぬ女が、引いた。あれは、預けたのではない。諦めたのだ。そう思うた。その夜、廊下の途中で、足を止めた。止めて、戻った。戻って、何もせなんだ。板間で、独り、縄を握っておった。
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十一月に、二晩続けて渡った。
理由は、本当に、無かった。綾の産後が落ち着いて、婿の体裁を、言い訳にせんでもよくなった。それで、足が向いた。
その夜、あいつに訊いた。お前は、渡りの数を、いつも数えておるのか、と。
訊いてから、後悔した。あいつの顔が、凍ったからだ。数えており申す、と、あいつは言うた。殿の御動きを把握しておくのは、政の一環にござります、と。
政の一環、か。お前らしい、と、俺は笑うた。
笑うたのは、嘲ったからではない。空々しい答えを聞いて、胸が、軽うなったからだ。数えておった。あいつは、俺の来ぬ夜を、数えておった。俺が縄に結んだ夜を、あいつは、帳に書いておった。同じ夜を、別の紙に、数えておったのだ。
それを、笑いに紛らせた。恥をかかせとうなかった。
渡りが増えておると言われて、気づいておらなんだ、と俺は答えた。あれは、嘘だ。気づいておった。一晩、二晩、三晩。結び目の固さまで、覚えておった。覚えておると言えば、あいつは、また数える。数えて、手札にする。手札にされるのは、構わん。だが、あの夜だけは、手札にされとうなかった。
あるいは、お前のためかもしれぬ、と、口が先に動いた。目を逸らしたのは、照れたからではない。顔を見られては、困ったからだ。
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三月の朝のことは、いまも、はっきり覚えておる。
朝餉の席だった。他の者が下がったあと、あいつが、あらたまって、殿に申し上げたきことが、と言うた。
懐妊にござります、と。
箸が、止まった。何を言うべきか、分からなんだ。そうか、と、三度言うた。それしか、出てこなんだ。あいつの手を取った。手が、震えておった。どちらの手が震えておったのか、俺には、分からん。
よう生きて、報せてくれた、と言うた。
あの一言には、わけがある。
四年前の冬、台所の裏で、老いた乳母が、千代に、石女、と言うのを、聞いた。悪気のない、世間話だった。千代は、顔色一つ変えず、左様にござりますか、と答えておった。
俺は、その場では、何も言わなんだ。言えば、あいつは、構いませぬ、と答える。その答えを、聞きとうなかった。乳母には、翌月、里へ帰る金を渡した。年寄りは里で休め、と。千代は、乳母は年じゃと思うておる。
四年のあいだ、俺は、一度も、子の話をしなんだ。欲しゅうなかったからではない。あいつが、勘定のために、子を欲しがっておると、察しておったからだ。勘定で産まれる子は、勘定で背負わされる。そんな子を、あいつに産ませとうなかった。あいつが、勘定の外で、欲しいと言うまで、待つつもりじゃった。
待っておったら、四年、経った。
よう生きて、というのは、その四年だ。誰にも言わず、独りで数えておった夜の数を、俺は、縄で知っておった。その夜を、よう生きて、ここまで来た。そう言うたつもりじゃった。あいつは、産むまで、という意味に受け取ったかもしれん。それでよい。
その夜、あいつが眠ってから、船箱を開けて、縄を出した。固い結びも、緩い結びも、ありったけ、手の中で撫でた。四年と三月。全部は、数えなんだ。数えると、泣く気がした。
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いま、あいつの腹は、六月目に入った。
来島の首尾を、昨日、あいつが板間で告げた。力ずくでは、一戦もせなんだ、と俺が言うと、あいつは、腹を庇いながら、頷いた。庇う手が、もう、癖になっておる。
隣の部屋から、寝息が聞こえる。数を組んでおらぬ寝息だ。
船箱から、縄を出した。二種類の結び目が、手の中で、鳴った。
縄の端に、結び目を、一つだけ、足した。固くも、緩くもない。ただ、結んだだけの結び目だ。夜の数でも、日の数でもない。腹の子が生まれる日を、数えるためでもない。ただ、結んでおきたかった。
字は読めんが、結び目は、読める。数えられんものも、縄には、結べる。




