幕間 十三 面 行然
応永三十四年(一四二七)九月 伊予国 怒和島 北の入江
名を捨てて、二十年あまりになる。行然という名も、借り物じゃ。
借り物の名で呼ばれることには、慣れた。慣れぬのは、もとの名を呼ぶ者が、もはや、この世のどこにもおらぬということのほうじゃ。
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入江の朝は、早い。
老いた者が、先に起きる。鍬を担いで畑へ出る。続いて、女と子が、井戸へ降りる。三年前、それがしが初めてこの島を訪ねた日には、ここには、岩と流木しかなかった。いまは、屋根が十幾つ、並んでおる。
久蔵殿の背中が、畑の向こうに見える。北条の血を引く老人が、楠木の流れを汲む老人の隣で、黙って土を打っておる。百年前なら、互いの喉笛を狙うた家の者どもじゃ。
この眺めを、あの女子が、拵えた。
拵えた、と言えば、あの女子は嫌がろう。数えただけにござります、と言うじゃろう。あの女子は、自分の仕事を、いつも、数えただけ、と言う。
数えただけで、これが拵えられるのなら、それがしどもが百年かけて拵えられなんだものは、何であったのか。
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最初の夜のことは、いまも、よう覚えておる。
断られる覚悟で、館の戸を叩いた。金子の無心ではござらぬ、と、まず言うた。老いた者、戦えぬ女子供を、匿うていただきたい、と。
あの言い方に、偽りはなかった。じゃが、あの順序は、拵えたものじゃった。
金子を先に口にすれば、帳場を握る者は、まず、金子を数える。数えられれば、断られる。命を先に口にすれば、断る側は、断る理由を、自分で探さねばならぬ。人を匿うてほしい、という軽い頼みから入って、聞いてもろうたのちに、少しずつ、重い頼みへ移る。それは、それがしどもが、百年、生き延びるために覚えた、頼み方じゃった。
重い頼み、というのは、山の奥に匿うておられる御方のことじゃ。いまは、まだ、言えぬ。
あの席で、棟梁は、それがしを、三度、睨んだ。睨むのは、棟梁の仕事じゃ。じゃが、棟梁が口を開く前に、必ず、脇に座った女子の顔を、ちらと見た。それがしは、その一瞬を、見逃さなんだ。
この家の主は、棟梁ではない。決めるのは、あの女子じゃ。
それで、頼みの向きを、変えた。
あの女子は、案の定、施しを、施しのままにはせなんだ。子らに、学びと体の動かし方を教えてくれ、見込みのある子は引き取ってもよい、と言うた。
それがしは、あのとき、腹の底から、驚いた。
楠木党は、戦えぬ者ばかりが、残った。老いた者、病の者、幼い者。血は、細る一方じゃ。育つ者がおらねば、百年の務めも、次の代で終わる。それがしが、いちばん恐れていたことを、あの女子は、口にする前に、言い当てた。
育つ命もまた、同じだけ大切にござりましょう、と、あの女子は言うた。
言い当てたのではない。数えたのじゃ。老いた者ばかりが集まる里の、十年先を、数えたのじゃ。それが、いちばん恐ろしかった。
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隠れ里を開いた日、千代様は、指を三本立てて、条件を数えた。
匿う者の数と素性は、こちらで把握する。場所も、こちらが定める。その代わり、防諜と、堺や京の探りと、牛の骨の調達を、そちらが受け持て、と。
それがしは、飲んだ。飲んだ上で、言うた。
一党のためではござらぬ。それがしどもが、生き延びるためにござる、と。
あれは、本心じゃった。じゃが、あの言い方を選んだのは、逃げ道を残すためじゃ。忠義と切り分けておけば、あの女子の勘定の中で、それがしどもは、家臣ではのうて、取引の相手のままでおれる。取引の相手には、帳に載らぬ一線を、持たせてもらえる。山の奥の御方は、その一線の向こうにおられる。
あの女子は、それを、見抜いたような顔で、頷いた。見抜いたのか、見抜かぬふりをしたのか。いまも、分からぬ。
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詮議の使いが渡ってきた日、それがしは、島におらなんだ。
後から、久蔵殿に聞いた。使いが荷を怪しんだとき、あの女子が、隠れ里の老人や子らではのうて、真っ先に、自分を、詮議の矢面に立たせたと。
楠木公の面影を見た、と、久蔵殿は言うた。
久蔵殿は、北条の血の者じゃ。楠木党にとって、北条は、討つべき家であった。その末が、楠木の祖の面影を、他ならぬ、あの女子に見た。
それがしは、その夜、千代様と呼んだ。初めて、様を付けた。
面影、と言うたのは、半分は、まことじゃ。もう半分は、勘定じゃ。
あの女子は、遠からず、担がれる。棟梁という一本の糸だけでは、この一党は、もう繋ぎきれぬ。いずれ、棟梁の頭の上を越えて、あの女子に直に縋る者が、出てくる。担がれた者の末路を、それがしどもは、嫌というほど知っておる。楠木公は、湊川で、一人で全てを背負うて、死なれた。
だから、先に、それがしの手の者を、あの女子の傍に置いた。守るためじゃ。担ぐ者が出る前に、それがしの目の届く者で、周りを固める。
そして、もう一つ。山の奥の御方を守るには、あの女子の手が、要る。船と、金と、隠れ里。それを借りる道を、面影という、美しい言葉で包んだ。
包んだことを、それがしは、恥じておらぬ。包むのも、務めじゃ。
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千代様が、それがしを裏庭に呼んだ夜のことも、覚えておる。
銀箸の一件じゃ。毒そのものは、要りませぬ、と、あの女子は言うた。筋書きと、未然に防いだという事実だけが、要りまする、と。
それがしは、委細承知、と答えた。
言葉は、そのとおりに受けた。じゃが、受けたのは、言葉の外にある注文のほうじゃ。
銀の箸は、真の毒に触れねば、黒うならぬ。その理屈を、最初に口にしたのは、あの女子自身じゃ。筋書きだけでは、箸は黒うならぬ。箸が黒うならねば、薦田様の前で、銀の値打ちは立たぬ。それを知らぬ女子ではない。知っていて、毒は要らぬ、と言うた。言わずに頼んだのじゃ。頼んだ手を、汚さぬために。
それがしは、その注文を、読んだ。
教通方の間者が、金で小者を買うて、薦田様の酒に毒を入れさせる。そこまでは、それがしの手の者が、仕向けた。仕向けた上で、小者の手を、押さえなんだ。
箸が黒うなる、その一瞬のために、薦田様の盃に、毒を届かせた。箸が間に合わねば、薦田様は死んでおった。間に合うたのは、六郎太殿が、塵を払う手を出したからじゃ。手を出させるところまで、手はずを整えた。それでも、盃が唇に届くまでの、あの一呼吸だけは、それがしにも、数えきれなんだ。
千代様は、その一呼吸の危うさを、知らぬ。
あの女子は、首尾よう運びましたか、と訊いた。毒は、とは、訊かなんだ。訊かぬことで、頼んだ。それがしは、上々にござる、と答えた。答えぬことで、引き受けた。それ以上は、互いに、口にせなんだ。
小者は、その日のうちに、斬られた。
名は、それがしの手の者が、知っておる。千代様は、聞かれなんだ。聞かれぬ名を、それがしは、胸に仕舞うておる。
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あの夜、それがしは、もう一つ、あの女子に、問うた。
弥九郎殿には、お伝えになりますか、と。
試したのじゃ。伝える、と答えたなら、それがしは、あの女子の底を、そこで測り終えたと思うたじゃろう。隠し事のできぬ者は、一党を預けるには、危うい。
あの女子は、しばらく、考えて、答えた。
いや。伝えぬ。
灯を持つ手は、揺れなんだ。じゃが、背が、ほんの一寸、縮んだように見えた。
あの背中を、それがしは、知っておる。楠木公と、同じ背中じゃ。主のために、全てを一人で背負うて、誰にも、背負うたことを告げぬ背中。
そのとき、決めた。
あの女子の隠し事を、知る者を、一人は、残しておかねばならぬ。一人にだけ、全てを語れる相手が、要る。それがしが、それになろう、と。
じゃが、それがしは、あの女子に、そうは、告げておらぬ。告げれば、あの女子は、それがしの顔を、数えはじめる。数えられた顔は、もう、顔ではのうなる。
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昼になった。
入江の底の石が、潮の引くにつれて、白う出はじめた。久蔵殿が、鍬を置いて、腰を伸ばしておる。
あの女子の腹には、いま、子がおる。担がれる者の背に、子の重みが、加わった。守る数が、一つ、増えた。
あの女子は、いずれ、気づく。数える人じゃ。数えずに済ませた数を、いつか、数え直す日が来る。そのとき、それがしの顔を、どう数えるか。
面影とは、面を重ねることじゃ。
千代様の面の下の顔を、それがしは、まだ、見ておらぬ。それがしの面の下も、あの女子は、見ておらぬ。それでよい。面を被った者同士は、面を被ったまま、同じ畑を、耕せる。
山の奥の御方のことを、話さねばならぬ日が来る。あの女子が先に気づくか、それがしが先に口を開くか。どちらでもよい。どちらにせよ、そのときまで、それがしは、この入江で、土を打つ。
潮の匂いに混じって、山の風が、降りてきた。




