第四十一話 潮の砦
応永三十四年(一四二七)三月 伊予国 因島・能島
橘小三郎を迎えてから、二月ほどが過ぎた。館の暮らしが、ようやく、新しい顔ぶれにも馴染みはじめたころ、因島から、村上孫六が、みずから、船を寄せてきた。
「約束の、一年にござる」
孫六は、そう言って、深く頭を下げた。その顔には、これまでにない、確かな意気込みが滲んでいた。
「能島、いよいよ、動かれるか」
弥九郎が、そう訊ねた。
「はい。支度は、既に整うており申す。あとは、弥九郎殿の御下知一つにて」
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その夜、館の板間で、あらためて、この一件を詰めることになった。
「能島の、いまの様子は」
わたしが、そう訊ねると、孫六は、地図代わりの絵図を広げながら、答えた。
「相変わらず、まとまった力を持つ者はおり申さぬ。ただ、この一年で、幾つかの小さな一党が、寄り合うて、砦のようなものを築いておるとの由。寄せ集めて、人にして四、五十というところにて」
「砦、とは」
「島の中央、潮の複雑な水道を見下ろす岩山に、柵と物見台を組んだだけの、粗末なものにござる。ですが、あの潮の中では、粗末な砦でも、攻めあぐねましょう」
その言葉に、わたしは、頭の中で、能島の地形を、あらためて思い描いた。
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「潮の流れが、四方から絡み合う地だと、以前、伺いました」
わたしは、そう続けた。
「さよう。地の者でなければ、船を操ることすら難儀にござる。まして、余所者が、大勢で押し寄せれば、潮に呑まれ、岩に乗り上げ、まともに戦う前に、半数を失いかねませぬ」
「では、どう攻める」
弥九郎が、そう訊ねた。
孫六は、少し考えてから、答えた。
「それがしの一党の中に、あの潮を、幼い頃から知り尽くした者が、幾人かおり申す。その者たちに、まず、先導させとうござる」
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「六島の水先案内の仕組みと、同じにござりますね」
わたしが、そう言うと、孫六は、頷いた。
「まさしく。ただ、能島の潮は、六島の比ではござらぬ。一日のうちでも、刻限によって、流れの向きが、幾度も変わり申す」
「刻限を、正しく見極める要がある、ということか」
弥九郎が、そう確かめた。
「はい。潮が、こちらに向いて流れる、わずかな刻限を狙わねば、攻め込むどころか、こちらの船が、まともに動けませぬ」
その説明に、わたしは、頭の中で、これまで書き溜めてきた潮の表を、静かに思い返した。だが、能島の潮は、怒和島周辺のものとは、まるで別の顔を持っているはずだった。手元の帳だけでは、到底、足りなかった。
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「その刻限を、正しく数えられる者は」
わたしが、そう訊ねると、孫六は、少し誇らしげな顔をした。
「甥の孫太郎に、任せとうござる。あの子は、幼い頃から、能島の潮を、幾度も見て育ち申した」
孫太郎。以前、元服の折、弥九郎から「定」の一字を授けられた、あの若者だった。
「孫太郎殿は、いまや、幾つに」
「十七になり申した。もう、一人前の船乗りにて」
弥九郎は、それを聞いて、深く頷いた。
「よかろう。孫太郎に、水先を任せる」
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「その者たちは、いかなる素性か」
わたしは、そう訊ねた。
「様々にござる。地の漁師の生き残り、他所から流れてきた食い詰め者、あるいは、かつて、どこぞの一党に属しておった者。寄り合うた理由も、まちまちにて」
「まとまりは、あるのか」
「頭らしき者は、幾人かおり申すが、皆を束ねる、確かな一人はおらぬ様子にて」
その話に、わたしは、頭の中で、これまで相対してきた者たちの気質を、あらためて並べてみた。中島の宗兵衛のような、確かな頭を持つ相手なら、差をつけて崩す道がある。だが、頭のいない寄り合い所帯は、また、別の難しさを持っていた。
「頭がおらぬということは」
わたしは、そう続けた。
「攻め落としても、また、別の寄り合いが、すぐに湧いて出るやもしれませぬ。根そのものを、断たねばなりますまい」
弥九郎は、それを聞いて、深く頷いた。
「根とは、何だ」
「あの島に住み着く理由そのものにござります。攻め落としたあと、しかと治める者を、すぐに立てねば、同じことの繰り返しになりましょう」
支度は、それから、ひと月ほどかけて、丁寧に進められた。
孫六の一党と、弥九郎の本隊、そして、六島から徴した陸兵の一部。三つの力を、どう組み合わせるか。わたしは、頭の中で、幾度も、算段を組み直した。
「郷田十兵衛殿にも、御同行いただきとうござります」
わたしが、そう進言すると、弥九郎は、頷いた。
「陸に上がる場面もあろうからな」
十兵衛は、その申し出に、久方ぶりに、目を輝かせた。
「久しゅう、実の戦場から、遠ざかっておった。存分に、腕を振るわせていただこう」
「常備兵の何人かも、連れて行かれますか」
わたしが、そう訊ねると、十兵衛は、少し考えてから、答えた。
「まだ、早うござろう。あの者たちは、まだ、稽古の段にて。実の戦場に出せば、かえって、足手まといになりかねませぬ。此度は、我らだけで、片づけましょう」
その慎重さに、わたしは、深く頷いた。焦って、まだ育ちきらぬ兵を戦場に出せば、又八のときのような犠牲を、また、繰り返しかねなかった。
「郷田殿の、その見立て、大事にいたしとうござります」
「承知しており申す。この一党が、犠牲をいかに重く見るか、これまでの日々で、しかと学び申した」
その答えに、わたしは、深く頭を下げた。楠木党残党の縁から来たこの浪人もまた、この島の理を、確かに我が物にしはじめていた。
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出立の前夜、わたしは、弥九郎と、最後の詰めを行った。
「一つ、案じておることが」
わたしは、そう切り出した。
「何だ」
「能島の砦の者たちにござります。まとまった力を持たぬとはいえ、寄り合うて砦を築くほどの者たち。ただの烏合の衆ではござりますまい」
弥九郎は、腕を組んで、しばらく考え込んだ。
「侮るな、ということだな」
「はい。何度も、痛い目を見てから、ようやく、確かな形が見える。これまでの、この一党の歩みが、そうでござりました」
その言葉に、弥九郎は、微かに笑った。
「お前が、そう言うときは、大抵、当たる」
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出陣の朝、湊には、孫六の船団と、弥九郎の本隊とが、揃って並んでいた。船の数、合わせて三十艘あまり。これまでの外征の中でも、指折りの大きさだった。
「行ってくる」
弥九郎が、そう言って、船に乗り込んだ。
「どうか、御無事で」
わたしは、深く頭を下げた。此度も、この身は、島に残るほかなかった。策を組むところまでが、わたくしの役目だった。
船団が、湊を離れていく。その姿が、水平線の向こうに消えるまで、わたしは、舳先の方角を、じっと見つめ続けていた。
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戦の報せが届いたのは、それから、五日後のことだった。使いに立った若い水手が、疲れきった顔で、こう報告した。
「一度目の攻め口、しくじり申した」
その報せに、わたしは、思わず、息を呑んだ。
「詳しゅう、聞かせよ」
「孫太郎殿の見立てた刻限より、潮の変わりが、わずかに早うござった。先陣の船が、三艘、岩場に乗り上げ申した。命に別状はござらぬが、船足を、大きく損ない申した」
その報せに、わたしは、頭の中で、静かに、数を組み直した。何度も失敗を重ねて、ようやく、道が見える。これまでの、この一党の歩みと、同じだった。
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「殿は、いかに」
わたしが、そう訊ねると、水手は、答えた。
「一度、退かれ申した。孫太郎殿と、あらためて、潮の見立てを、詰め直しておられるとの由」
その答えに、わたしは、少し安堵した。無理を押して、さらに損を重ねるより、退いて、見立てを正す。それこそが、これまで、この一党が、幾度も選んできた道だった。
数日後、湊の方から、これまでとは調子の違う声が、館まで届いた。切迫した響きではなく、むしろ、弾んだ響きだった。
姿を見せたのは、先と同じ、あの水手だった。疲れきっていた顔つきが、別人のように、明るく輝いていた。
「二度目の攻め口、うまく運び申した」
わたしは、思わず、肩の力が抜けるのを感じた。館じゅうも、その一言で、静かに沸き立った。
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「そのまま、続けよ」
わたしが、そう促すと、水手は、身振りを交えながら、語り続けた。
「孫太郎殿、こたびは、刻限を、寸分違わず見極められ申した。潮がこちらに向いて流れるあいだ、船足は、まるで、川を下るがごとく、速うござった。砦の者たちは、そのあまりの速さに、対応が間に合わなんだ様子にて」
「砦は」
「郷田十兵衛殿の陸兵が、背後から回り込み、火矢を放ち申した。柵は、あっという間に、燃え落ち申した」
その報告に、わたしは、深く息を吐いた。
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「砦の者たちは、どうなった」
わたしが、そう訊ねると、水手は、少し表情を和らげた。
「多くは、降伏いたし申した。弥九郎様は、抗わぬ者は、命まで奪わぬようにと、しかと下知を出しておられ申した」
その答えに、わたしは、深く頷いた。力で押しても、根まで刈り取らない。これまで、この一党が、幾度も守ってきた戒めだった。
「孫六殿は」
「御無事にて。此度の手柄、まことに、大きゅうござった」
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弥九郎の一行が、怒和島へ戻ってきたのは、それから、さらに十日ほど後のことだった。
「お帰りなさいませ」
わたしが、そう出迎えると、弥九郎は、疲れた顔をしながらも、確かな手応えを滲ませていた。
「一度、しくじったがな」
「しくじりを経てこその、この一党にござります」
「そのとおりだ」
弥九郎は、そう言って、微かに笑った。
「能島は、いまや、孫六殿の手に」
わたしが、そう続けると、弥九郎は、頷いた。
「孫太郎に、任せることにした。孫六の跡目だ。因島とはまた別に、能島の代官として、立てる」
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「孫太郎殿は、いかがな御様子で」
わたしが、そう訊ねると、弥九郎は、少し愉快そうな顔をした。
「元服の折、俺から一字を貰った男だ。今度は、自分の手で、島を一つ、確かに得た。感慨深げな顔をしておったぞ」
その話に、わたしは、深く頷いた。名を授けた縁が、こうして、また一つ、確かな形になって返ってきていた。
「因島、能島。孫六殿の一党は、これで、二つの島を治めることになりましょう」
「残るは、来島だけだな」
弥九郎の一言に、わたしは、頭の中で、静かに、次の算段を組みはじめた。
「孫六殿御自身は、何と」
わたしが、そう訊ねると、弥九郎は、少し笑った。
「大層、喜んでおったぞ。だが、同時に、少し、寂しそうでもあった」
「寂しそう、とは」
「因島も能島も、いまや、甥に任せる形になった。孫六自身の手柄というより、跡目を育てる側に回った、ということだろう」
その話に、わたしは、少し胸を突かれた。頭として立つことと、次を育てることとは、また別の重みを持つものなのだろう。孫六という男の、これまで見えていなかった一面を、また一つ、知った気がした。
「孫六殿には、いずれ、御自身の手柄も、また、しかと立てていただきとうござります」
「来島のことか」
「はい。来島は、能島とは、また違う攻め方をせねばなりますまい。そこでは、孫六殿御自身に、存分に、腕を振るっていただきとうござります」
その言葉に、弥九郎は、深く頷いた。
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その夜、綾のもとを訪ねた。能島攻略の首尾を、かいつまんで伝えると、綾は、静かに、耳を傾けていた。
「一度、しくじられたと」
「はい。ですが、それゆえに、二度目が、確かなものになりました」
「千代殿らしい見方にござりますね」
綾は、そう言って、微かに笑った。
「孫太郎殿という若者にも、良き機になりましたでしょう。元服の折の御恩を、こうして、御自分の手柄で、お返しになった」
その言葉に、わたしは、深く頷いた。数として見れば、島を一つ得たというだけの話だった。だが、綾の目には、その裏にある、人と人との縁の巡り合わせが、はっきりと見えているようだった。
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夜、灯芯を整えながら、帳に、この日のことを書き留めた。
能島、村上一党の手に落つ。一度目の攻め口、潮の見立て誤り、しくじる。二度目、孫太郎殿の見立てにて成功す。砦の者たち、多くは降伏。孫太郎殿、能島の代官として立つ。因島に続き、二つ目の島。残るは、来島のみ。
書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。一年前、能島か来島かと、孫六殿と語り合ったあの日から、随分と、遠くまで来た。だが、この一党の歩みは、いつも、こうして、一つの区切りの先に、また次の区切りを見せてくる。来島という、最後の一島が、まだ、その先に残っていた。
弥九郎が、部屋の外から、声を掛けてきた。
「まだ、書いておるのか」
「はい。来島のこと、少し、思案しており申した」
「気の長い話に、また、なりそうか」
「はい。ですが、来島は、能島とは違い、力ずくでは、うまくいきますまい。商いの道が開けておる分、地の者たちも、余所者との駆け引きに、慣れておりましょう」
「では、どう攻める」
わたしは、少し考えてから、答えた。
「水先案内の仕組みを、使いとうござります。六島で試みた、あの手を」
弥九郎は、それを聞いて、深く頷いた。
「奪うのではのうて、通す側に回る、というわけか」
「はい。孫六殿の一党が、これまで培ってきた、地の潮を読む力。それを、商いの安全を守る力に変える。来島の者たちにとっても、悪い話ではござりますまい」
弥九郎は、しばらく、考え込んでいたが、やがて、微かに笑った。
「お前の頭の中には、いつも、次の絵図が、既に描かれておるのだな」
「描かねば、進めませぬゆえ」
その遣り取りに、二人とも、しばらく、静かに笑い合った。
外では、三月の潮風が、まだ、いくらか肌寒く吹いていた。




