第四十話 挨拶
応永三十四年(一四二七)正月 伊予国 怒和島 下怒和
年が明けた。松の内も過ぎぬうちに、橘修理亮からの使いの船が、下怒和の湊に姿を見せた。
冬の凪いだ海を、小さな船が一艘、ゆっくりと近づいてくる。館の物見から、その船影を見つけたのは、幸松だった。
「船が、参りました」
幸松の声に、館の者たちが、次々と、湊へ集まってきた。
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船から降りてきたのは、十五、六の若者だった。旅装の埃を払う仕草には、まだ、あどけなさが残っていたが、背筋の伸ばし方には、武家の子としての育ちが、確かに滲んでいた。
「橘小三郎にござります。此度は、お世話になりまする」
小三郎は、そう言って、深々と、頭を下げた。声は、まだ、変わりきっていない、少し高い響きだった。
弥九郎が、その前に、進み出た。
「よう参った。俺が、荒瀬弥九郎だ」
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「御高名は、かねがね伺うており申す」
小三郎は、そう言って、緊張した面持ちで、弥九郎を見上げた。その目には、怖れと、憧れとが、入り混じったような色があった。
弥九郎は、少し笑って、その肩に、軽く手を置いた。
「かたい挨拶は、それくらいにしておけ。長旅で、疲れておろう」
その一言に、小三郎は、少し、表情を緩めた。ここまでの道中、よほど、気を張り詰めていたのだろう。
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わたしは、少し離れた場所から、その様子を見つめていた。
「千代殿にも、御挨拶を」
弥九郎が、そう促すと、小三郎は、あらためて、こちらへ向き直り、丁寧に頭を下げた。
「殿の奥方様と、伺うており申す。父より、くれぐれも、粗相のなきようにと、言い含められてまいりました」
その言葉に、わたしは、微かに笑った。
「粗相など、案じずともよい。ここは、そうかたく構える場所ではない」
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湊から館へ向かう道すがら、小三郎は、幾度も、周囲の景色に、目を向けていた。冬枯れの畑、修繕を終えたばかりの土手、行き交う島の者たちの、活気のある顔つき。その一つ一つを、確かめるように、見つめていた。
館へ案内する道すがら、幸松が、小三郎の隣に、自然と並んだ。
「それがしは、幸松と申す。同じ齢頃ゆえ、これから、よしなに」
小三郎は、少し驚いた顔をしたが、すぐに、頷いた。
「幸松殿も、こちらへ来られたのは」
「三年ほど前にて。流れ着いた孤児にござる」
その答えに、小三郎は、しばらく、何も言えなかった。孤児として拾われた者と、武家の子として送られてきた自分とでは、境遇は、まるで違う。だが、寄る辺のない不安という一点では、確かに、通じるものがあるのだろう。二人の並んで歩く背中を、わたしは、後ろから、静かに見つめていた。
「幸松殿は、剣は、お強いのか」
小三郎が、そう訊ねた。
「まだまだ、修行の身にて。ですが、弥助様に、みっちりと、鍛えていただいており申す」
「それがしも、父の館では、日々、剣の稽古ばかりを、命じられており申した」
その一言に、幸松は、少し、間を置いてから、そう訊ねた。
「稽古が、お嫌いにござったか」
小三郎は、しばらく、答えを選ぶように、黙っていた。
「嫌いではござらぬ。ただ、剣以外に、認めていただける道が、なかったゆえ」
その答えに、幸松は、深く頷いた。
「それがしも、似たようなものにて。字と算えを覚えるまでは、ただの飯を食うだけの者と、そう見られており申した」
二人は、それきり、しばらく、黙って、並んで歩いた。言葉にせずとも、通じ合うものが、確かに、その沈黙の中にあるようだった。
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その夜、館で、簡素な宴が開かれた。小三郎の歓迎の席だった。
「これより、しばらくは、この島で過ごしてもらう。剣の稽古は、弥助が見よう。字と算えは、千代が見る」
弥九郎が、そう告げると、小三郎は、あらためて、深く頭を下げた。
「よろしく、御指南のほど、お願い申し上げまする」
その場には、鶴丸も、綾も、幸松も、揃っていた。松吉や六郎太、伊佐次といった、古参の顔ぶれも、久方ぶりに、一つ座敷に集まっていた。
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「橘家との縁が、こうして、確かな形になった」
弥九郎が、盃を傾けながら、そう言った。
「二神の娘を娶らせるという、あの縁組の策から、既に幾年もの歳月が流れておりまする」
わたしは、そう答えた。頭の中で、これまでの道のりを、あらためて数え直さずにはいられなかった。
「あのころは、こんな日が来るとは、思うてもみなかった」
弥九郎が、そう続けた。
「はい。ですが、数を積み重ねれば、いずれ、形になりまする」
その答えに、弥九郎は、少し笑った。
「お前らしい言い草だ」
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宴の途中、綾が、小三郎に、声を掛けているのが見えた。
「小三郎殿、遠いところ、よう参られました」
「かたじけのう存じます」
「わたくしも、猶子として、この地へ来た身にて。分からぬこと、辛いことがあれば、いつでも、申されませ」
綾の、その優しい物言いに、小三郎は、少し、驚いた顔をした。ここまでの道中で覚悟してきた、堅苦しい応対とは、違うものだったのだろう。その驚きの奥に、確かな安堵が、滲んでいるのが見て取れた。
「綾様は、この島に来られて、幾年に、なられまするか」
小三郎が、そう訊ねた。
「もう、七年ほどに、なりましょうか」
綾が、そう答えると、小三郎は、少し、驚いた顔をした。
「そのように長う」
「初めは、ここが、我が家になるとは、思うてもみませなんだ。ですが、いまとなっては、この島が、我が家にござります」
その言葉に、小三郎は、しばらく、何かを考えているようだった。
「それがしにも、いずれ、そのように、思える日が、来るのでしょうか」
「来ましょう。ここには、そういう場所にする者たちが、大勢おりますゆえ」
綾は、そう言って、微笑んだ。その微笑みに、小三郎は、ようやく、心から、安堵したような顔を見せた。
その遣り取りを、わたしは、少し離れた場所から、見守っていた。綾の言葉には、こちらが数として組み立てる縁組の策とは、まるで違う温かさがあった。策の上では、この若者は、確かに、駒の一つだった。だが、綾の手にかかれば、その駒は、もう、この島の一員として、確かな居場所を得ていた。
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宴が終わり、皆が、それぞれの部屋へ下がったあと、わたしは、独りで、外の空気を吸いに、庭へ出た。
弥九郎が、後から、追ってきた。
「疲れたか」
「いえ。少し、頭の中を、整えとうござりました」
わたしは、そう答えた。弥九郎は、隣に立ち、しばらく、共に、夜空を見上げていた。
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「六島を治め、因島を固め、河野内訌にも、確かな根を張った。そして、いま、こうして、若者一人を迎えるところまで来た」
弥九郎が、静かに、そう言った。
「振り返れば、随分と、遠くまで来たものにござります」
わたしは、頭の中で、これまでの数を、一つ一つ、数え直した。だが、いつものように、その数え上げが、すっきりと、胸に収まることはなかった。数えれば数えるほど、まだ足りぬものの多さが、同時に、浮かび上がってくるのだった。
「まだ、忽那諸島全体を、掌中に収めたわけではござりませぬ。教通方も、又五郎様も、いまだ、健在にて」
わたしが、そう続けると、弥九郎は、深く頷いた。
「道半ばだな」
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「はい。道半ばにござります」
わたしは、そう答えた。だが、その「道半ば」という言葉に、これまでとは違う、確かな重みを感じている自分がいた。かつては、道半ばであることを、ただ、足りぬ数として、勘定していた。いまは、その道のりの先に、鶴丸の行く末、綾の子の行く末、幸松や小三郎のような若者たちの行く末が、確かに、繋がっていることを、実感していた。
「殿は、瀬戸内の中でも、これほど幾つもの島を治める者は、そうはおりますまい。それでも、まだ、全域の支配者ではござりませぬ」
わたしが、そう言うと、弥九郎は、静かに、笑った。
「それでよい。強すぎる者は、いずれ、周りから、狙われる。道半ばのまま、じっくりと、根を張っていけばよい」
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その言葉に、わたしは、深く頷いた。弥九郎のその考え方は、これまでの一党の歩みそのものだった。急がず、根を張り、少しずつ、確かなものを積み上げていく。その姿勢が、いまの、この立場を作り上げてきた。
「殿は、変わりませぬね」
わたしが、そう言うと、弥九郎は、少し、こちらを見た。
「お前もだ」
「わたくしも、にござりますか」
「数えることを、やめぬ。だが、近ごろは、その数え方が、少し、変わってきたように見える」
その一言に、わたしは、はっとした。弥九郎もまた、あの夜以来の自分の変化に、気づいているのかもしれなかった。
「殿には、いつから、そう見えており申したか」
わたしが、そう訊ねると、弥九郎は、少し考え込んだ。
「はっきりとは、言えぬ。だが、ここ最近のことだ。鶴丸のことで心を砕く姿、綾の子を気に掛ける様子、幸松の育ちを案じる物言い。そうした端々に、以前とは違う何かが、見えるようになった」
その言葉に、わたしは、しばらく、答えられなかった。自分では、まだ、はっきりと名付けられずにいるものを、弥九郎は、既に、外から、確かに見て取っていたらしかった。
「殿の目には、敵いませぬな」
わたしが、そう言うと、弥九郎は、微かに笑った。
「敵う敵わぬの話ではない。ただ、傍で、長う見てきただけのことだ」
その一言に、わたしは、しばらく、夜空を見上げたまま、何も言えなかった。長う見てきた、という、その、何でもない一言が、これまでの幾年もの歳月の重みを、静かに、物語っていた。
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「変わった、とは」
わたしが、そう訊ねると、弥九郎は、少し考えてから、答えた。
「以前は、損得だけを数えておった。いまは、人の心の重みまで、数に入れようとしておる」
その言葉に、わたしは、しばらく、何も言えなかった。綾の言葉、幸松の言葉、そして、あの夜の、自分自身の気づき。それらすべてが、確かに、自分の数え方を、少しずつ、変えつつあった。
「まだ、正しく数えられておるとは、言い切れませぬ」
わたしは、正直に、そう答えた。
「それでよい。数え終えることなど、誰にもできぬ」
弥九郎は、そう言って、夜空を見上げた。星が、いつになく、澄んで見える夜だった。
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館の中では、小三郎が、幸松や鶴丸と、既に、何やら、親しげに話し込んでいる声が、微かに聞こえてきた。寄る辺のない者たちが、一つ、また一つと、この島に集まり、互いに支え合う場所を、少しずつ、築き上げていた。松吉や六郎太、伊佐次といった古参たちも、まだ、座敷で、酒を酌み交わしているようだった。その笑い声が、夜の静けさの中に、時折、朗らかに響いていた。
「あの子らが、これから、この島を、担っていくのでしょうね」
わたしが、そう言うと、弥九郎は、深く頷いた。
「俺たちは、まだ、道半ばだ。だが、あの子らのために、この道を、しっかりと、切り拓いておかねばならぬ」
その言葉に、わたしは、静かに、頷いた。
「殿は、この先、どこまで、進むおつもりにござりますか」
わたしが、そう訊ねると、弥九郎は、しばらく、夜空を見上げたまま、黙っていた。
「分からぬ。だが、進める限りは、進むしかあるまい。立ち止まれば、これまで積み上げてきたものが、崩れかねぬ」
「わたくしも、同じ思いにござります」
「お前は、どこまで、進みたい」
その問いに、わたしは、しばらく、答えに詰まった。六島を治め、河野内訌に根を張り、いま、若者を一人迎えた。この先、どこまで進むのか、正直、自分でも、はっきりとは見通せていなかった。ただ、頭の隅には、まだ言葉にできない、ある種の望みが、確かに、燻っていた。
「まだ、正しく、数えきれておりませぬ」
わたしは、正直に、そう答えた。
「それでよい。数えきれぬまま、進めばよい」
弥九郎は、そう言って、静かに、笑った。その笑い方に、わたしは、少し、心が、軽くなるのを感じた。
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館の中へ戻る前、わたしは、もう一度、庭先で、夜空を見上げた。星々は、いつになく、澄んで見えた。この島に流れ着いてから、随分と、長い月日が過ぎていた。荷として売られた小娘が、いまでは、幾つもの島を、事実上、治める立場にまで来ていた。それでも、まだ、道の半ばにすぎなかった。
外では、正月の澄んだ夜風が、静かに吹いていた。館の中の灯りが、暖かく、庭先まで、漏れ出していた。数えきれぬほどの道のりを歩んできた末に、いま、確かに、ここに、一つの居場所があった。まだ、道半ばの強者にすぎない。それでも、その道半ばの先に、確かな未来が、続いていくはずだった。




