第三十八話 惹かれていた、と気づく
応永三十三年(一四二六)十一月 伊予国 怒和島 下怒和
その日、弥九郎は、久方ぶりに、二晩続けて、渡ってきた。
理由は、特にはなかった。境目のこと、能島・来島のこと、話すべき用件は、いつもどおり、いくつもあった。だが、その用件が済んだあとも、弥九郎は、すぐには帰らず、しばらく、板間で、他愛もない話を続けていた。
鶴丸の稽古のこと、綾の子の成長のこと、そして、幸松が、近ごろ、島の子らのあいだで、随分と頼りにされているという噂。政とは、何の関わりもない、ただの世間話だった。そうした話を、こうして、二人きりで、のんびりと交わす時間は、思えば、随分と、久しぶりのことだった。
その、何でもない時間の中で、わたしは、ふと、自分の胸の内にある、小さな変化に気づいた。
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「近ごろ、鶴丸のことで、随分と、心を砕いておるようだな」
弥九郎が、そう言った。
「はい。まだ、幼い御方にござりますゆえ」
「お前が、そこまで、誰かのために、心を砕くのは、珍しいことだ」
その言葉に、わたしは、少し考えた。珍しいこと、なのだろうか。数えてみれば、綾のため、幸松のため、鶴丸のため、この島の者たちのため、自分は、いつのまにか、随分と、多くのことに、心を砕くようになっていた。
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「そう言われれば、確かに、鶴丸のためだけとも、言い切れぬな」
弥九郎が、そう続けた。
「他に、何がある」
わたしが、そう訊ねると、弥九郎は、少し考えてから、答えた。
「幸松のため、綾のため、そして、あるいは……お前のためかもしれぬ」
その一言に、わたしは、思わず、弥九郎の顔を見た。
「わたくしのため、とは」
「お前が、あの子らのために心を砕く姿を見ておると、俺も、何か、支えてやらねばという気になる。それだけのことだ」
弥九郎は、そう言って、少し照れたように、目を逸らした。
「殿こそ、近ごろ、渡りが、多うござりますね」
わたしは、そう言った。ふと、口をついて出た言葉だった。
弥九郎は、少し、驚いたような顔をした。
「そうか。気づいておらなんだ」
その答えに、わたしは、内心、少し、意外に思った。渡りの数は、これまで、こちらが、ずっと、頭の中で数え続けてきたものだった。それを、弥九郎自身は、意識すらしていなかったらしい。
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「気づいておらぬのに、増えておるとは、面白いことにござりますね」
わたしは、そう言って、微かに笑った。
弥九郎は、しばらく、こちらを見つめていた。その目には、これまで、あまり見たことのない、何か、探るような色があった。
「お前は、渡りの数を、いつも、数えておるのか」
その問いに、わたしは、一瞬、答えに詰まった。
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「……数えており申す」
正直に、そう答えた。誤魔化す理由が、思いつかなかった。
「なぜ、数える」
「殿の御動きを、把握しておくことは、政の一環にござりますゆえ」
その答えに、弥九郎は、少し、笑った。
「政の一環、か。お前らしい」
その笑い方に、わたしは、少し、胸の奥が、ざわつくのを感じた。政の一環。そう答えたはずなのに、その答えが、なぜか、自分自身の耳には、どこか、空々しく響いた。
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弥九郎が帰ったあと、わたしは、独りで、灯を見つめていた。
政の一環。その言葉を、頭の中で、もう一度、繰り返した。渡りの数を数えることは、確かに、これまで、策のための手掛かりだった。だが、いま、この胸の内にある感情は、本当に、それだけだろうか。
渡りが減ったとき、感じた、あの小さな苛立ち。渡りが増えたいま、感じている、この、何とも言えない、温かい落ち着き。その両方を、頭の中で、あらためて、数として、並べ直そうとした。
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だが、どうしても、その数が、正しく組み上がらなかった。
苛立ちも、落ち着きも、損得の勘定では、説明できないものだった。損をしたわけでもなく、得をしたわけでもない。ただ、弥九郎が、傍にいることそのものに、心が、静かに動いていた。
その事実に、わたしは、ゆっくりと、気づきはじめていた。
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頭の中に、ふと、以前の夜のことが、蘇った。渡りが目に見えて減っていたころ、綾のもとを訪ねる回数が増え、政の話ばかりを続けていた弥九郎の姿を、ただ、手札が薄くなった証として、頭の帳に書き留めていた、あの夜のことだった。
あのとき感じていた、あの、名づけようのなかった苛立ちを、いま、あらためて思い出す。手札を失ったことへの苛立ちだと、そう自分に言い聞かせていた。だが、いま振り返ってみれば、あの苛立ちの底には、もっと、単純な、子供じみた感情が、静かに潜んでいたのかもしれなかった。会えないことが、ただ、寂しかった。それだけのことだったのかもしれない。
わたしは、あれを、武器だと思っていた。武器だと思って使っているうちに、いつのまにか、武器ではないものが、そこに混じっていた。混じった時期を、わたしは、どこにも書き留めていない。
初めのころ、渡りは、確かに、手札の一つだった。頼み事を通すための、確かな道具だった。それを、はっきりと、そう使っていた。効いていることに気づいてからは、それを、成果として、頭の帳に数えるようにもなった。そして、いつのころからか、意識すらせずに、当たり前のように、その手札を使うようになっていた。
だが、いま、こうして、独りで、灯を見つめながら、あらためて、振り返ってみると、その「当たり前」の中に、いつのまにか、別の何かが、静かに、紛れ込んでいたのだと、ようやく、気づいた。渡りが減ったとき感じた、あの苛立ちは、手札を一枚失ったことへの苛立ちではなかった。あの男が、来なくなったこと、それ自体への、寂しさだった。
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いつから、こうなったのだろうか。頭の中で、幾度も、時を遡ろうとした。だが、記録にも、日付にも、どこにも、その始まりは、書かれていなかった。記録のないものが、自分の中で、静かに育っていた。その事実そのものが、これまでにない、確かな衝撃だった。
好き、という言葉を、頭の中に、思い浮かべてみた。だが、その言葉は、どこか、自分には、しっくりと馴染まなかった。それは、もっと、勘定し忘れていた項目のようなものだった。
わたしは、自分の気持ちだけを、一度も数えたことがなかった。
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その気づきは、わたしを、優しくはしなかった。むしろ、これまで以上に、心が、落ち着かなくなった。
弥九郎への策を組むとき、これまでは、ただ、島の利益だけを考えていればよかった。だが、いまは、その策の裏に、自分自身の、まだ名づけようのない感情が、静かに、忍び込んでいるのではないかという疑いが、常に、頭の隅にあった。
その疑いを、振り払うように、わたしは、いつも以上に、成果を出すことに、力を注ぐようになった。眠りが浅くなった。策を出す手が、いつのまにか、速くなっていた。
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翌朝、綾のもとを訪ねた。
「近ごろ、千代殿は、いつにも増して、お忙しそうにござりますね」
綾が、そう言った。
「はい。鶴丸様のこと、教通方との対立、なすべきことが、山積みにて」
わたしは、そう答えた。だが、その答えが、正確な理由ではないことを、自分でも、うすうす、気づいていた。
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綾は、しばらく、こちらの顔を、じっと見つめていた。
「本当に、それだけにござりますか」
その一言に、わたしは、少し、身構えた。
「それだけ、とは」
綾は、少し微笑んで、それ以上は、深く問わなかった。ただ、その微笑みの奥に、何か、こちらの内側を、既に見透かしているような、静かな確かさがあった。
「千代殿は、いつも、御自分のことを、後回しになさいます」
綾が、ふと、そう続けた。
「島のこと、鶴丸様のこと、皆のことばかり、数えておられる。御自分の胸の内を、数えたことは、おありにござりますか」
その問いに、わたしは、すぐには、答えられなかった。自分の胸の内を数える。そんなことを、これまで、一度でも、まともに、試みたことがあっただろうか。
「……ござりませぬ。数える術すら、持ち合わせておりませぬ」
正直に、そう答えた。綾は、それを聞いて、静かに、頷いた。
「術など、要りませぬ。ただ、感じたままを、そのまま、認めればよろしゅうござります」
その一言は、これまで、誰からも、掛けられたことのない言葉だった。数えることでしか、物事を捉える術を知らない自分にとって、その言葉は、あまりにも、単純で、それゆえに、どう受け止めればよいか、分からなかった。
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綾の部屋を辞したあと、幸松の様子を見に行った。庭先で、鶴丸と共に、木刀の稽古をしているところだった。
「千代様」
幸松が、こちらに気づいて、駆け寄ってきた。
「近ごろ、殿の渡りが、増えておるようですね」
その一言に、わたしは、少し、驚いた。幸松にまで、その変化が、既に知れ渡っているとは、思ってもみなかった。
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「気づいておったのか」
「はい。館の者たちのあいだでも、少し、話題になっており申す。千代様が、以前より、お顔の色が、よろしゅうなられたと」
その言葉に、わたしは、思わず、頬に、手を当てた。自分では、気づかぬうちに、顔つきまで、変わっていたのだろうか。
「幸松には、どう見える」
わたしは、ふと、そう訊ねてみた。幸松は、少し考えてから、答えた。
「よう分かりませぬが……千代様が、少し、楽しそうに見えまする。以前は、いつも、何かを、こう、頭の中で数えておられるような、そういう顔つきでござりましたが」
その言葉に、わたしは、微かに、驚いた。自分の顔つきの変化にまで、幸松が気づいていたとは、思ってもみなかった。
その素朴な答えに、わたしは、しばらく、何も言えなかった。楽しそう。その言葉が、これほどまでに、自分の胸に刺さるとは、思っていなかった。
「幸松は、楽しい、というのは、どういうものだと思う」
わたしは、ふと、そう問い返してみた。幸松は、木刀を下ろし、少し考え込んだ。
「よう分かりませぬが……鶴丸様と、剣の稽古をしておるとき、他のことを、何も考えずに済むこと、にござりましょうか。数えずとも、済むというか」
数えずとも済む。その言葉に、わたしは、思わず、はっとした。自分は、これまで、生きていくために、常に、何かを数え続けてきた。数えることをやめれば、たちまち、足元が崩れると、そう信じ込んでいた。だが、いま、弥九郎と過ごすあの時間の中で、自分は、確かに、何も数えずに、ただ、その場に、いられていたのかもしれなかった。
幸松は、そう言ったあと、また、鶴丸のもとへ、駆け戻っていった。その小さな背中を見送りながら、わたしは、しばらく、その場に、立ち尽くしていた。
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その夜、独り、灯りの下で、帳を広げた。
殿の渡り、近ごろ、増える。理由は、不明。政の一環と、自分に言い聞かせるが、どうも、しっくりとこぬ。
書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。帳には、それ以上、何も書けなかった。この胸の内にある感情を、どう名付ければよいのか、いまだに、答えは出なかった。
綾の言葉を、もう一度、思い出した。感じたままを、そのまま、認めればよい。その単純な言葉が、これほどまでに、自分には難しいのだと、あらためて思い知らされた。数えることでしか、これまで、世の中を渡ってこなかった。その数える力が、いま、自分自身の胸の内には、まるで通用しなかった。
幸松の、あの、素朴な一言も、頭の中に残っていた。楽しそう。その一言を、頭の中で、何度も、繰り返した。楽しい、という感情もまた、これまで、正しく数えたことのないものだった。島門を失ってから、ずっと、生き延びることだけを、数え続けてきた。楽しさというものが、自分の日々の中に、確かに混じっていたことに、いまさらながら、気づかされた。
弥九郎の、あの、少し照れたような顔を、もう一度、思い浮かべた。「あるいは……お前のためかもしれぬ」その一言を、頭の中で、繰り返すたびに、胸の奥が、静かに、温かくなった。政の一環では、決して説明のつかない、この温かさの正体を、いまだに、はっきりと名付けることはできなかった。だが、名付けられずとも、それが確かに、そこにあるという事実だけは、もう、疑いようがなかった。
外では、十一月の冷たい風が、静かに吹いていた。冬が、また一つ、近づいていた。その冷たさの中で、胸の内にある、この名づけようのない温かさだけが、いつまでも、消えずに、残っていた。




